04 『極道の本質』
ずるずると麺を
狭い店である。
カウンターに面した席が6つ。テーブル席が2つ。
埋まっているのはそのうち3つだけ。時刻は14時を過ぎていて、客が少ないのは不人気店という理由からではないだろう。いつもは気取った
隣に座る胴真はといえば、すでにどんぶりを空けている。
さすがは体重107キロである。食がはやい。
カウンターごしにどんぶりを返し、汗の浮いた額をテーブル備えつけのティッシュで
おかしな男だな、と胴真は思う。
年齢はたしか、44か45のはずだ。自分より8つ
現役の
役職は若頭補佐。
今日は金の
若頭補佐の肩書きが組内でどのくらいの力を持つのか、業界に
とはいえ、朔田という男は嫌いになれない。
小僧の時分から見知っていることもあり、憎めない存在であった。
反抗的な暴れ者だった若者の面影は失せて久しい。落ち着いたものだと思う。むかしの彼ときたら荒みきっていて、触れるどころか近寄るだけで噛みついてきそうな少年だった。
ひどく
あれから30年近くもの歳月が流れている。
信じられない思いだった。
「ふう。ご馳走さん」
食べ終わったようだ。
そうとうに美味かったのだろう。朔田はごくごくと音をたててコップの水を飲み干した。ひと息つくと細眼鏡を外し、ハンカチで顔の汗を拭う。その様子が胴真には可笑しかった。そこらの中年おやじと変わらない。
「どうだ、絶品だったろう。特にチャーシュー。ここのは成形肉じゃないからな。いまじゃ、ちゃんとしたブロック肉を使ってる店は本当に少ない。まして、こんなに安く食わせてくれるところは他にないだろうよ」
苦笑を浮かべながら朔田が
自分の手柄のように誇って語るのが
「しかし、さすがに食べるのが早いですね。足りなかったんじゃないですか? もう一杯、頼みましょうか」
「い、いや。もう満腹だよ。ご馳走さん」
朔田が首を傾げる。
「嘘じゃないぞ。おれもトシだ。胃も弱くなるさ」
半分は嘘である。実際には腹六分といったところで満腹にはほど遠い。若いころと違って胃がもたれやすいのは本当だ。限界近くまで食べるようなことはなくなった。食欲じたいが落ちている。
「それで、どうです? やってみませんか。治安維持活動」
「国連みたいな言い方をするなよ」
いきなり本題を切り出される。
虚をつかれたが、胴真も冗談じみた口調で返した。
「なら、世直しってのはどうです」
今度は
顔の筋肉が強ばるのを胴真は自覚していた。
「世直しなんて言葉を
店内であり、ほかの耳もある。
極道という単語が不穏に響くと判断したのだろう。朔田の声は抑えられて低い。
「おれが気に入らないのは」
胴真も声を声をひそめて答える。
「結局は朔田。おまえの組の利益になっちまうってとこだ。それじゃ極道のために働くことになる。表向きは
朔田は沈黙を守っている。
色のついた細眼鏡の奥が、先を促しているように見えた。
「準構成員。
その
本音で答えるのが礼儀というものだ。胴真はそう思った。
銀髪の伊達男が
ため息が漏れた。鬱屈を吐き出すように。
開かれた両手が自身の膝に置かれている。
「必要悪。かつて、極道はそう呼ばれていたじゃないですか」
抑揚に欠けた声のはずが、わずかに震えを帯びて聞こえる。
「いま、極道は誰からも必要とされていない。怖れられてもいない。……嫌われてすらいない! ……まるで認識されていない。それが、極道の現状です」
朔田の肩が小刻みに揺れる。
両膝を握りしめる手に力が入っていた。
「9年、だったか?」
「……ええ、はい」
胴真が訊いたのは、朔田が収監されていた期間である。
傷害と殺人未遂。
複数の罪で計9年の懲役刑に処され、2月に出所したばかりだった。
「驚きましたよ。
朔田が刑務所に送りこまれたのは『法改正』の前である。
法改正。通称『移民新法』施行から、この国は急激に墜ちていった。
その過程を目の当たりにせずに9年が経過する。釈放時にはさぞ驚いたことだろう。
「街は
朔田の声に熱が入る。
低音の内に情感がこめられ、いまや一本調子ではなかった。
「腹が立ちましたよ。極道は何をしてるんだって」
そう思っているはずなのに、胴真は肯いてしまっていた。まるで極道の惨状に同情を覚えているかのように。共感を示すように。深く、ゆっくりと。
『法改正』で衰退したのは国力だけではない。
極道社会もまた、凋落の一途をたどった。
動乱期にこそ権威を回復し、裏社会に君臨して然るべき立場であるはずなのに。
世が乱れれば乱れるほどに勢力を伸ばし得る。
それが極道という存在であり、その本質はやはり圧倒的な『暴力』にある。
秩序が保てなくなった世界を想像してみてほしい。
当局による治安維持が困難になれば、代わって
ならず者どもを放逐し、武装した暴徒をも排除、抹殺する力。
かつての極道にはその力があった。必要とされる力があった。官民問わず求められた歴史があったのだ。戦後混乱期と呼ばれ、極道が大躍進を遂げるきっかけとなった時代である。
『法改正』後、治安は目に見えて悪化した。
年寄りや身体的弱者は白昼の路上強盗におびえなければならなくなった。夜の街を女性ひとりで歩くなど
戦後の混乱期と比べればまだまだ
本来なら極道が登場する場面であった。
ここで活躍せず、いつ動くのか。
迷惑きわまりない存在に成り下がった極道が汚名返上する機会は、いまこの時しかない。さんざん強がって
一部の民衆はひそかに期待していたはずである。
暴れまわる狂犬を噛み殺しては喰らう狼の力を。
狩り
その
だが、極道は立ちあがらない。立てなかった。
狼はすでに牙を抜かれていたのだ。
「極道がすっかり腐っちまってたことは、認めます。任侠なんて綺麗なもんじゃない。ここ数十年の極道ときたら、
ふいに、朔田が色のついた細眼鏡ごしに胴真を見据える。
「だからこそ、極道を必要悪の座に戻したい。……せめて
しまった、と胴真が思ったときには遅かった。
目を合わせてしまったのだ。朔田市太郎と。
「情けないが、
胴真は自身の
忘れていたのだ。
「胴真さん。
どういうわけなのか。
彼に睨まれた相手もまた、目を逸らせなくなるのである。
顔を背けてみても目だけは離せない。なぜか思うようにならないのだ。朔田の眼光から逃れることはできない。胴真も同様だった。ブラウンカラーの細眼鏡から、どうしても視線を外すことができない。
「
せめて
胴真はケムリが恋しかった。
頭痛はすっかり鳴りをしずめていたが、いまは胸がざわついて落ち着かない。息がつまりそうだ。
「公園でも話しましたが、普通の仕事じゃない。多少は荒っぽい手段も使わなきゃならない。だから、胴真さん。あなたに向いてる。誰よりもね」
依然として目を離すことはできない。
胴真は本気で困っていた。
まずい。まずい。
屈服か、承諾。つまり朔田本人が交渉の結果に納得したときだけだ。このままでは承諾させられてしまう。まさか殴り倒して逃げるわけにもいかない。店の中だし、朔田に恨みがあるわけでもないのだ。
「い、
かろうじて返す。
銀髪の下で細眼鏡の奥が光った気がした。
ブラウンカラーごしに、増した眼光が刺すように鋭い。
「腕力です」
朔田が平然と言い放つ。
「な、なにをばかな……」
なんとか逃れようと胴真は
身体だけでもと椅子から腰を浮かしかけたとたん、大きな音が床に響いた。
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