05 『無銭飲食』


「く、食い逃げだ!」


 店主の叫びに2人が立ち上がる。

 反応したのは同時だった。瞬時に互いが眼でうなずく。


 音はカウンターの後ろから響いた。

 テーブル席の椅子を蹴って駆け出したものらしい。ほかの客の存在も忘れていた2人だったが、事態を把握すると対応は速かった。


 食い逃げ犯の男はすでに出口の外に踏み出していた。

 逃げ切れる。そう思っていたはずだ。

 店に居たのは六十過ぎの店主と客がふたり。いずれも中年の男で、ひとりはかなりの肥満体デブに見えた。逃げきったも同然だと確信していたに違いない。だが。


「ウッ?」


 いきなり首に圧迫を感じ、男は後方に引っ張られる。

 着ていたパーカーのフードを背後から掴まれた。そう悟った瞬間、今度は足のすねに衝撃が走る。

 

「ウエッ……!」


 顎が石の床に衝突。

 眼の前に火花が散った。次いで涙が溢れてくる。

 男が客のふたりに捕まったと自覚できたのは、後ろ手に関節を極められた後のことだった。


「イテテ! イタイ、イタイ!」

「なにが痛いだ、このやろう」


 肉を打つ凄まじい音が響き、それきり食い逃げ男は口を開かなくなる。

 男の後ろ手を固める朔田さくたが苦笑を漏らした。


胴真どうまさん。気を失いかけてますよ、こいつ」

「えっ……? あ、ああ。地面に顎を打ちつけてたからか」


 どう考えても胴真が頬を張ったせいなのだが、とぼけているらしい。

 激情にかられて手が出ことを恥じていると見える。肉の厚い頬が少しばかり赤らんでいた。


「大将。捕まえたけど、どうする?」


 食い逃げ犯を半ば引きずるような形で、胴真が店内に立ち戻る。

 拘束する役目は朔田から引き継いだらしい。


 その必要も無さそうだった。

 いまだ脳震盪のうしんとうから回復できず、ひとりで立つことも覚束おぼつかない様子である。パーカーフードをひねりあげられていなければ、すぐにも座りこんでしまうだろう。まるで膝に力がなかった。


「お、おお。すごいな、あんたら……」


 出口から数歩の距離で行われた捕り物劇である。

 店主からも一部始終は見えていたが、具体的に何が起きたかまでは理解できなかっただろう。目視で確認できたのは追いかけるふたりの姿くらいのものか。いかにも鈍重そうな寸胴ドラム缶体型の男が、より出口に近い席にいたはずの銀髪よりも素早く駆ける姿を。


 そう。まず追いついたのは胴真だった。

 手を伸ばして食い逃げのパーカーフードを後ろから掴む。

 少し遅れて追いついた朔田は、回りこんだところで足を止めた。逃れようと男が前傾になったところで、すねに強烈な蹴りを入れてみせたのである。


 男が倒れこむ瞬間に胴真がフードから手を離したのは、ふたりの呼吸が合っていたからとしか説明しようがない。あわれ店の敷石に顎を強打した食い逃げ犯だが、その後は後ろ手に肩まで極められ、さらに痛めつけられることになる。挙げ句、強烈な張り手のおまけまでついた。


「外国人、だよな。こいつ」


 浅黒い肌。全体的に濃い顔貌。

 痛みを訴える言葉も片言カタコトだった。この国で生まれ育った者ではないだろう。外見から東南アジア出身者の青年と推測される。朔田も店主も肯いた。


「ああ。先週も外国人アジアンにやられた。差別するわけではないけど、無銭飲食……多いんだ」


 疲れた顔で店主がため息をつく。

 外国人による犯罪率は年を追うごとに増加している。凶悪犯罪も珍しいことではなく、小さな店舗を狙った強盗が頻繁に発生するようになっていた。連中にとっては無銭飲食など犯罪の内にも数えていないのかも知れない。


「せ、先週も? ……本当に物騒ぶっそうな世の中になっちまったんだなあ」


 食い逃げ犯を片手に吊り下げたまま、つられたように胴真もため息をつく。


「うちは安いだろ? 外国人アジアンの客も多いんだよ。気のいい奴らばかりで有り難いんだけど……。中には、こういう手合いもいる。……こうも頻繁に食い逃げが起こると、参っちゃうよなあ」


 年配の店主は白髪混じりの頭を掻いた。もう幾度めか、ため息がまない。


「おい。しっかりしろ」

 

 子猫のように首根っこを掴まれた青年の頬を、銀髪の伊達男が平手で張る。

 気つけに4発叩いたところで眼に光が戻った。

 ぐったりとしていた身体にも力が入ったらしい。胴真もパーカーの首から手を離し、椅子に座らせる。店主を含めた3人で取り囲むかたちとなった。


「おまえは逃げられない。わかるな?」


 ブラウンの細眼鏡が迫る。

 抑揚のない低い声が薄気味悪く、異邦の若者は顔を背けた。

 間髪入れず頬に衝撃が走り、あわてて何度も顎を上下に振る。革ジャケットを着た分厚い男に叩かれた一撃ほどではないが、二発目は喰らいたくない。そう思わせるほど鋭い平手打ちだった。

 

「さて、大将。どうします?」


 顔も向けずに朔田が訊ねた。

 監視の目を緩めない絶対意思を感じさせる。

 褐色の青年はうつむいて動かなくなった。よほど目の前の銀髪が怖ろしいのだろう。息すら殺している。蛇ににらまれたかえるであった。


「どうって言われてもなあ」


 応える店主も困り顔だった。


「警察を呼ぶのも、なんかしゃくなんだよな。あいつら、通報しても来ないくせに。手が足りないとか、後から追ってもまず捕まえられないから、とかぬかしやがって」


「えっ、110番しても来ないのか? 警察が? う、嘘だろ?」


 腕を組んで憤る店主の言に胴真が驚く。


「嘘じゃないよ。まあ、たしかに事件が多すぎて手が回らないんだろうさ。しかし警察官が言っていいことじゃねえだろう。どうせ捕まらない、なんてよ」


 怒りは胴真にも伝染したらしい。一緒になって警察を罵りだした。


「ふざけてるな。そりゃ、捕まらないんじゃなくて捕まえる気がないんだろう。ぼんくらが」


「そうともよ。けど、いま『食い逃げをとっ捕まえた』って電話したら、きっと喜んで馳せ参じるだろうよ。まず無駄足にはならないし、犯人逮捕ってことで、たぶん連中の手柄にもなる」


 怒りと怒りの相乗効果なのか、白髪頭の店主も胴真も腹立ちがおさまらない。拳を振り上げて当局の怠慢をぶつけあっている。互いの火に油を注ぎあっているようなものだった。


「ぼんくら警察に手柄なんかくれてやることはねえよ、大将。庶民を舐めやがって」


 胴真の顔は朱に染まり、湯気がたちのぼりそうな勢いだった。

 自身の熱気に耐えかねたのだろう。革製レザージャケットのフロントを開け、外したハンチング帽で顔をあおいでいる。首すじに浮いた血管は呆れるほどに太い。


「そ、それで、どうするんです?」


 銀髪の極道がふたたび訊ねる。

 食い逃げ犯から目を離さず、姿勢も変わってはいない。だが、ストライプ柄ベストの背が小刻みに揺れていた。意気投合して怒りに猛る店主と胴真のやりとりが可笑しかったのかもしれない。ふたりの位置から表情はうかがえないが、笑いを堪えているように見える。


「ううん、そうだなあ……」


 店主と胴真はあらためて無銭飲食を働いた異邦の若者を見おろした。


 褐色の青年はうなだれて身体を縮めている。

 薄いパーカーごしにも貧弱な体格が見てとれた。頬にも肉はついておらず、全体的に痩せすぎという印象を与える。


「おい。なんで食い逃げなんかしたんだ。金銭かねがないのか?」


 胴真が声をかけると、青年はこくりと肯いた。


「そうか。外国人労働者も苦労してる奴が多いからなあ」


 胴真の脳裏に馘首くびになった過去の職場が映し出される。

 あそこでも技能実習生の若者が虐められていた。金銭かねにも余裕がなかったのだろう。いつも沈んだ顔をしていた。こいつも似たようなものなのだろう。同情を覚えて店主の顔色を窺うと、やはりあわれんだ表情が浮かんでいた。


 人の良いふたりを尻目に、朔田は若者の身体をまさぐりはじめる。

 腰の後ろ、そして擦れたデニムパンツの左右ポケットに無遠慮な指が侵入していく。引き抜かれた手の中にあったのは、何枚かの硬貨だけだった。


「嘘じゃないみたいですね。小銭しか持ってない」


 胴真と店主は顔を見合わせ、同時にため息をついた。


「しかたねえな。今回は勘弁してやろうぜ」


 決定権は被害者にあるはずだが、白髪頭の店主はふたりに同意を求めた。

 犯人を捕らえた立役者だから、というだけの理由ではないだろう。やはり警察への不満を共有した胴真の存在が大きい。奇妙な仲間意識が働いている。


「無事に帰してくれるそうだ。よかったな。……帰るところは、あるのか?」


 まるで感情のこもっていない問いに、褐色の青年は何度も肯く。

 質問に対する答えの真偽は明らかではない。とにかく逃れたいのだろう。一刻もはやくこの場から、いや、銀髪のそばから離れたいに違いない。おびえきっていた。


「次はない。わかるな?」


 ふたたび顔近く迫る細眼鏡に、異邦の若者は身じろぎひとつとれない。

 今度は肯くこともできなかった。

 彼はブラウンカラーの奥を覗いてしまったのである。


 あまりにも怖ろしい。怖かった。

 目を逸らしたいのに逸らせない。まぶたを閉じることも許されないのではないか。解放を伝えられたというのに、死を宣言されたのではないかと錯覚する。蜘蛛の糸に囚われた蝶の気分だった。


「行け」


 さっき革ジャケットの分厚い男にされたように、首根っこを掴まれて引き起こされる。背中を押され、青年は我に返ったように出入り口を飛び出していった。


 後ろ姿を見送った後、朔田はベストの胸からたばねた高額紙幣を取り出す。そのうちの1枚を、頭を下げつつ店主へと差し出した。


「相手が無銭飲食とはいえ、お騒がせしました。やつの分もまとめてお支払いします。また美味いラーメンを食わせてください」


「おいおい。そいつは受け取れねえよ」


 と、白髪頭の店主はにやつきながら横にいる短躯で分厚い男に顎を向ける。


「な、なんだよ」


 胴真の顔がふたたび赤い。

 手の中に使い古した財布があった。

 革ジャケットの胸に戻そうとするも、あわてたのか床に落としてしまう。明らかに動転していた。こっちを見るなという表情で、ふたりを睨みつける。


「見ろよ、このお人好しを。盗っ人にせんする寸前ところだったんだぜ」


 図星を点かれたらしい。

 胴真が財布を隠すように胸を押さえるが、もう遅かった。

 実際にいくらか施すつもりだったのだろう。朔田におびえて一目散に逃げ去っていなければ、寒いふところから分け与えていたに違いない。ハンチング帽を目深まぶかにして照れを隠そうとする様子からして、もはや自白したも同じだった。


「あの外国人アジアンに同情しちまったんだろ。本当にいい男だな、おまえさん」


 すっかり胴真という男を気に入ったらしい。

 店主は着こまれた革ジャケットの背をばんばんと叩いて茶化す。やめろよ、という声もむなしく、銀髪の伊達男までも口もとを緩めてその肩を叩いてしまう。


「こんな気分のいい日は久しぶりだよ。ふたりの分も、店のおごりにしとく」


「いや、さすがにそれは」


 好意に甘えすぎてはいけない。

 それは胴真も朔田も同じ思いだったらしく、ふたりして顔を横に振った。


「その代わりっていうわけでも、ないんだけどよ」


 白髪頭がふたりに近づく。

 皺の多い顔が引き締まって厳しい。


「あんた、極道ヤクザなんだろ? さっき話してるの、悪いけど聞こえちまった。……頼みが、あるんだよ」


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