03 『無職と極道』
そよ風が気持ちのいい日だった。
陽射しもやさしい。空はあざやかに青く、空気が澄んでいる。本格的な夏に入る前の、実に心地よい
川近くの公園では、木々にとまる小鳥の鳴き声が響いている。
行き交う人の数も多い。健康のための散策にはちょうどいい陽気なのだろう。やはり高齢者の割合が多いが、壮年の姿も少なくない。中には若年層もちらほら見られる。10年も前なら考えられない光景だった。老若男女が平日の昼間、公園の歩道をぶらついている。
「はあ……」
麗らかな風景に水を差すような深い溜め息だった。
景気の悪い溜め息の主は、人目を引いて太い男である。
公園の端に置かれたベンチは太い金属製のパイプが使われており、ゆうに3人は座れるサイズだった。なのに、男ひとりで人数制限を満たしてしまっているように見える。それほど男は太かった。短躯ではあるが体型はまるでダルマである。幅も奥行きも、尋常でなく分厚い。頑丈なベンチが壊れるのではないか。通りすぎる人に好奇を抱かせるものがあった。
「はあ……」
何度も溜め息をつくだけあって、男の表情は暗いものだった。
目深に被ったハンチング帽の下で、その眼は風景の何も捉えてはいない。虚ろな瞳に道行く人の姿が写りはしても、認識はしていない。当然、
色褪せたハンチング帽に着古した
いくら北国でも薄着や半袖での外出が当然の季節である。
注目を集めるほどではないが、時期に
だが、胴真の頬は汗ばんですらいない。
まったく暑さを感じていないのか、革ジャケットのフロントジッパーも完全に閉じたままだ。滅多に見ない体型と鬱屈した態度もあいまって、薄気味悪い印象を与えるのかもしれない。公園を歩く人びとは胴真の座るベンチを遠回りに避けていく。
「こんなところに居たんですか、胴真さん」
誰も彼もが胴真を避けていく中、近寄って話しかける者がある。
こちらも別の意味で人目を引く男だった。
ベリーショートの銀髪にブラウンカラーの細眼鏡。薄灰色のドレスシャツに、下と揃えたストライプの濃紺ベストの羽織りがよく似合う。一見して
「探しましたよ」
独特の色気を含む低い声は、抑揚に乏しかった。
落ち着いた口調は高い知性を想像させるもので、同時に冷酷な印象を与える。
ふーっ、と胴真は不機嫌な吐息で応じる。
目線こそ向けたものの、顎はぴくりとも動かさない。伊達男を横目にするだけだった。
細眼鏡は口もとだけで笑みをつくり、肩をすくめてみせる。いかにも演技じみた動作だったが、それが映画の主演俳優のごとく様になっている。
頬が細い。
遠目にも端正な顔立ちであることがわかる。
若いころはさぞ異性に騒がれたことだろう。
いや、むしろ年齢を重ねた現在のほうが魅力は上かもしれない。
「また、退職されたそうですね」
声音に嫌味を感じさせる響きはなかったが、胴真は露骨に顔をしかめた。伊達男から視線を逸らすと、やがて不本意といった表情で口を開く。
「……
細眼鏡が
所作にも顔にも憐れみを感じさせるものはない。
「
「だからって、おれは
睨みつける胴真の眼光が鋭い。
いつの間にか胸の前で組んでいた腕は解かれ、野球グローブを思わせて厚い手が
「
伊達男――
「1本、もらえるかい」
「おや、珍しい。
目の前で薄型のシガーケースが開かれると、胴真は軽く頭を下げて紙巻き煙草を一本取り出す。咥えて間もなく、火の点いたライターが差し出された。ちりちりと紙巻きが焼ける音とともに、丸く厳つい顔から険が薄れていく。
「頭がな、ずっと痛むんだ」
納得したというように朔田は無言で肯いた。
胴真伸宜は慢性的な頭痛持ちである。
長く病院に通った時期もあったが、原因を突きとめるまでには至らなかった。薬で苦痛をやわらげることしかできない。それでも病院で処方される薬なら一時的とはいえ効果はあった。
しかし、現在の胴真には通院の余裕すらない。数年前の社会保障費増額で、健康保険の自己負担割合が急激に高くなったせいだ。いまは安価な市販薬頼りだが、やはり効き目は薄い。
一服する際、紫煙とともに頭痛が吐き出されていく気がするのだ。
もちろん錯覚である。
効果は長続きしないし、後でよりひどい痛みに襲われることもあった。
それでも。ほんの数分に過ぎない安楽でも、ときに胴真は求めたくなるのだ。身体がケムリを欲してしまうのだ。煙草はいまや高級
「良ければ一箱、お譲りしますが」
よほど表情から硬さがとれたのだろう。
朔田の声色は珍しく同情を含んだものだった。
「い、いや……。この1本だけ、ありがたく
それ以上無理に勧めることもなく、朔田もまた自分の煙草に火を点ける。
しばしの沈黙。
細眼鏡の男が手にする携帯灰皿に、紙巻きの灰を交互に落とす小さな音だけが響いた。
「前にも説明しましたが」
胴真が喫い終わるのを待って、朔田が話を切りだした。
「手前は胴真さんを
と、今度は一枚の名刺を片手に胴真へ差し出す。
「
名刺に記載されていた社名は『
代表に
「よくは知らんが……
一瞥した胴真は、半ば呆れたような顔を朔田へ向ける。一服が上手く効いたのか、声にも余裕があった。
「ええ。法律上は起業も許されないみたいですね。でも、関係ないですよ。どうでもいいことです」
「いや……。関係ないっておまえ」
疑問を口にする胴真の声が遮られる。
公園中に響き渡るほどの絶叫が、続く言葉をかき消していた。
老婦人らしき悲鳴である。不穏な事態が起きているのは間違いないだろう。
立ち上がろうとする胴真を、向けられた
「間に合いませんよ。ここから見えてもいない。追っても逃げられます」
「しかし……」
さらに悲鳴は聞こえてくるが、しだいにわめき散らすような金切り声に変わっていく。心配して駆けつけた者なのか、そばに誰かついているようだ。
「
次々と冷静に判断を下していく朔田に、胴真は何も言うことができない。ベンチから腰を浮かしかけた不自然な姿勢で、口を半開きにした間抜け顔を
しばし会話が途切れる。
胴真はまた煙草を提供され、今度は自身を落ち着ける目的でそれを喫った。いつの間にか頭痛が消え失せている。本人も忘れていた。
「
「あ、ああ……」
先ほどの事件を話題にされた胴真は肯くほかなかった。
「こんなに人通りが多い場所でも安心できない。
「そ、そうだな」
「警察は頼りにならない。そう思いませんか。治安は悪くなっていく一方だ」
それを極道が言うのか。
思いつつも、口に出すほどの反感を覚えないことに胴真は驚く。
「一緒にやりませんか。
「な、なに。なんだと?」
たしかに昔から顔は知っている男だ。親しくはないが、つきあいも古いといえば古い。だが、なにか勘違いしている。ひどい買いかぶりをしているらしい。
誤解を解こうと立ち上がったところで、胴真の腹がすごい音をたてた。
時刻はとうに正午を過ぎている。そういえば、朝からなにも口にしていなかった。胴真は顔を隠すため、さらに帽子を目深に朔田から顔を背ける。赤面しているに違いなかった。
堪えきれないといった様子で朔田が笑いくずれる。
引き締まった腹を押さえる伊達男の姿を目にして、胴真はますます恥ずかしくなった。この男が声を出して笑う場面など、いままで見たことがない。
「す、すみません。話の続きは
それから数分もの間、朔田は笑いの発作に身体を揺らし続けた。
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