08 『職場』
「あっ」
「なんだよ、
整った外見に
特に変わった様子はなかった。
外見と同じく、ぼろぼろのマンションである。金属製の集合郵便受けは長らく使用されていないらしい。投函物はひとつもなく、受け口のいくつかは錆びていた。
「いや……。胴真さん、今日は革ジャンじゃないんですね」
色つきの細眼鏡はダボシャツ姿の胴真を捉えて離れない。
合うサイズがなかったのだろう。本来の着こなしにはほど遠かった。
ゆったりとした風情どころか、身体のラインが浮き彫りになっている。胸から腹だけでなく、肩や腕にいたるまで綿の生地が張りに張っていた。さすがの
「いったい何の話だよ、いまさら。この暑いのに革ジャンなんか着てられるか」
「
表情も変えずに語る朔田の
ストライプ柄のベストはそのまま、ドレスシャツが暗色になって派手な柄がついたくらいか。
「
「これ、防刃ベストですよ」
端正な貌を不自然に歪めて、朔田は口もとだけで笑う。
二の句が継げなくなった胴真の表情に満足したのか、声もかけずに歩き出してしまう。
「こ、このやろう……」
後を追う短躯寸胴中年の顔は赤かった。
「ここですね」
一階通路の行き止まり。
最奥のドアの前で朔田が足を止める。
「ああ。たしかに中から声が聞こえるな。……しかし
「この部屋だけ、窓のブラインドが閉められてた」
「えっ?」
説明が面倒になったのか、銀髪は胴真の反応を無視してインターホンに手を伸ばした。
何度か押してみるも反応がない。
中からチャイムの音も聞こえてこなかった。
「壊れてるんじゃないか?」
胴真の指摘したように、ボタンの枠は半壊して欠けている。
すでに通電されていないか、電池切れのまま放置されているのかもしれない。
「すいません。どなたか、いらっしゃいませんか。
朔田はあいかわらず抑揚のない声で呼びかけ、金属製の扉をどんどんと叩く。拳の勢いはかなり強く、その振動音は屋内の人間が無視できるものではないだろう。
「だめだな。向こうも用心してるってことか?」
「すいません。お願いします。大変なんです」
朔田は呼びかけを続ける。
またも胴真は無視されてしまった。
「
ハギワラ、という人名を強調して呼びかけると、中から
「……だれだ、おまえ。ハギワラの馬鹿は
わずかに扉が開き、若い男の声が矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
猛った声ではあったが、身は引き気味で顔も見せなかった。
さすがにU字形状の
見知らぬ男に対する警戒は緩めていないようだ。10センチにも満たない隙間なら侵入を許すことはない。そう信じているのか、男の声は不審を含みつつも余裕があった。
「胴真さん」
振り向きもせずに朔田が呼びかける。
聞こえるかどうかの
「おお」
まさに
扉の端に両手をかけた胴真は、力任せに引っ張る。
中の男も
馬鹿が。指を挟んでやる。
悪意をのせて一気に扉を閉じようとするも、びくとも動かない。
動かないどころではなかった。
全体重をかけて踏ん張っていたというのに、一瞬で身体ごと持っていかれてしまう。
頼みの綱である
ばきん! 金属がはじける音がして、ロック箇所の部品が紙細工のごとく剥がれ飛ぶ。人ひとりと防犯機具の抵抗などなかったかのように、扉が勢いよく開かれた。
「い、いてて……」
若者もまた、金属扉とともに屋外へ引きずり出されている。
ドアノブから手を離さなかったためだ。
前腕に
「な、なんだ、これ」
青年の顔は驚愕とおびえに固まっていた。
定まらぬ視線は、破壊された
「……胴真さん。
「えっ? ……あ、ああ」
ばつの悪そうな顔で、胴真が
ブラウンカラーの細眼鏡が示す方向を見るまでもなかった。
指摘されたのは、いまだ
やけに重い。無造作に手放すと、傾いてコンクリートの床に触れてしまう。
強引に扉を開いたために破壊されたのは
重い金属扉を支える頑丈な部品である。開閉の軸である蝶番3箇所のうち、2つまでもが無残に引きちぎられていた。
「う、うそ、だろ……」
金色の短髪が呆然とつぶやく。
信じられないのも無理はなかった。
壊されたのは重い金属扉を支える頑丈な部品である。
乱暴な開閉動作をも想定された設計のため、きわめて強固に造られているはずだ。
経年劣化が進んでいたとはいえ、とても
「……まいったな。朔田よ。これ、やっぱり弁償しないとまずいかな?」
場違いで間の抜けた胴真の問いを、やはり銀髪の極道は無視した。
「
青い顔で胴真を見上げる金髪の若者に、朔田は低い声で語りかける。
「あ、あんたら、何なんだよ。ハギワラは……」
細眼鏡の奥から突き刺してくる視線が鋭い。
覗きこむように見下ろされ、金髪の背筋がぞくりと冷える。
「質問はこちらがする。おまえは答えるだけだ。……わかるな?」
若者の顎がこくこく上下する。
彼はいま、はっきりと恐怖を覚えていた。
なのに、なぜか目を逸らせない。
この銀髪の男はいったい何者なのか。
40代半ばに見えるが、汚らしい中年の印象はまったくない。
ドレスシャツもストライプ柄のベストも、
しかし、けして
眼光に底知れぬ迫力を感じる。
「どういうことなんだ、朔田。話が見えねえよ」
壊した扉に目を向けながら、胴真が横から口を挟む。
わずかな苛立ちが口調に出ていた。無視に無視を重ねられたせいだろう。
「特殊詐欺の
ようやく声を返した朔田の目は、やはり金髪の青年から離れない。
「特殊詐欺ってえと……。あの、振り込め詐欺とか、そういうやつか」
「見たほうが早い。奥に何人か、電話で詐欺を仕掛けるための、いわゆる
どすどすと重量級の音を床に響かせ、廊下終わりで扉を開く。やけに丁寧な手つきだった。
「お、おう。たしかに若いのが、4、5……6人もいる」
奥から放たれた相棒の声に、細眼鏡の奥が反応する。
見上げる金髪の眼には肯いたように見えた。
依然として視線は外れていない。互いに見合ったままだ。
なのに、予測もできなかった。
頬を張られたと気づいたのは、何秒も経ったあとである。
側頭部が床に触れて冷たかった。
ぶざまな格好で転がっていて、すぐには起き上がれない。頭がくらくらする。
「う、うう……」
強烈な一撃だったに違いない。
受け身どころか、まったく反応できなかった。叩かれた音すら聞こえなかったのだ。
そういえば片耳だけ音が遠い。鼓膜が破れているかもしれなかった。
打たれた頬にも手を触れてみるが、その痛みを実感する間も金髪には与えられなかった。
頭上から無慈悲な声が浴びせられる。
「立て。向こうで話を訊く」
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