09 『特殊詐欺犯たち』
「もう一度だ。名前と
低い声にはアクセントが乏しかった。
威圧するような語調でもないはずなのに、呼びかけられただけで身体が震えてしまう。
「い、イノセハルト、30歳。住所は……南町××、×丁目、コーポミナミ105号室……です」
目に入るのは自身の前腕に彫られた派手な柄の
とても顔を上げられなかった。横に居並ぶ彼の
金髪の若者――イノセハルト――を含めて7人。
特殊詐欺を働いていた者たち全員が床の上に正座を強要されている。
空気が重かった。
場所は古いマンションの一室である。
居間をオフィスとして用い、つい先ほどまで6人それぞれが個別の電話詐欺を行っていた。
それが、いまや更正施設の反省室めいた光景に様変わりしている。
ノートPCを乗せたデスクや
「身分証を持ち歩かないのは用心のためか? ……ああ、
とりあえず質問に答える必要はなくなったようだ。
銀髪の細眼鏡は携帯端末に向かって誰かと話している。
語った内容に嘘がないか、確認させているらしい。どうやって調査するつもりなのか。……一本の電話で指示に従う部下がいる。こちらに平然と名を聞かせるサクタという男、いったい何者なのだろう。イノセの背筋がぞわりと冷える。
「うん、そうか……先月
たった数分の間に丸裸にされていく。
イノセは泣きたくなった。
素性を調べあげて脅すのは自分たちの専売特許だと思っていたのに。
イノセはいわゆる半グレ集団、『
通話相手が銀髪に伝えたとおり、下っ端も下っ端。
幹部からは
強気に出ることのできる相手といえば内部の事情を知らない
とはいえ、イノセも当年30歳である。
いまさら真っ当に生きることはできない。
就職して真面目に働く自分の姿を想像するだけで吐き気がする。半端者とはいえ不良の道を歩んで行くしかない。最低賃金で年下の上司にこき使われる人生など真っ平だった。
転機になったのは先月である。
『
サクタは解散と表現したが、イノセにとっては消失だった。
不穏な気配しかなかったが、イノセはこれを
『
自分のものにしてしまおう。
特殊詐欺の
イノセが行動に移すと、呆気ないほど上手くいった。
使い捨ての人材には集団内部の情報を
特殊詐欺は実入りのいい
社会が不況だろうと関係ない。詐欺の種類によっては不況のほうが上手く
ここで
イノセは野望に燃えた。ここからだ。
だが、彼の小さな天下は
いま、張りぼての城は崩れようとしている。
「……そうだ。『
……なんの手配なのか。
イノセは落ち着かなかった。
不安でしかたがない。
なんのペナルティもなく解放されるはずもなかった。許される条件を知りたい。そのための材料なら、もとの仲間でもなんでも喜んで売り渡すつもりだった。
「おいおい。大学生がふたりもいるじゃねえか。……まったく、親が泣くぞ」
空気も読まずに説教じみた台詞を吐くのは、ドラム缶のような体型の
机の上に並べられた身分証を手にしては、いちいち
「……それから、
銀髪が携帯端末をベストの胸へ戻す。話は終わったらしい。
イノセは通話内容から自身の今後を予測しようと頭を高速回転させる。
落ち着け。かならず交渉材料はあるはずだ。よく考えろ。おれは馬鹿じゃない。短い期間とはいえ、伊達に
だが、思案の甲斐があるのかどうか。
少なくともダボシャツ着の寸胴体型は何も考えてなさそうだった。
「なあ朔田。ここに大将の息子はいなかった。こいつらも見たことがないって言ってる。なら、早いとこ次に行こうぜ」
先を急ごうとする
「そう
そう返されると反論もできない。
面白くなさそうな顔で、胴真は近くにあったパイプ椅子に腰を降ろした。
「で、どう始末をつけるんだ。警察に引き渡すのか?」
「どうしたらいいと思います?」
質問を質問で返され、胴真はますます不機嫌になった。
パイプ椅子の上で短い脚を組み、丸太みたいな腕まで組んで明後日の方向へ首を曲げてしまう。
さすがにまずいと思ったのか、苦笑顔の銀髪が銀色のシガーケースを差し出した。
ひったくるようにして胴真が紙巻き煙草を咥えると、即座に火が提供される。携帯灰皿を片手に一服を愉しむと、眉間の
「あ。ここ、禁煙じゃねえよな?」
並んで正座する7人の誰も答えない。
朔田の咳払いが室内に響き、胴真は紫煙をひと息に吹いて黙りこんだ。
「まず、整理させてもらう。イノセハルト。廃屋に近いこのマンションで、
イノセの顎が上下した。
上目づかいで様子を窺おうとしたところで、頬を張られて横に転げる。すぐ横で正座する
「返事」
恐怖と驚きでイノセは即座に対応できない。
追撃は蹴りだった。
「えぐっ……!」
無防備な腹に革靴の爪先が食いこむ。
にぶい音が響いて、金髪が身体をくの字に曲げて悶える。
蹴られた腹を押さえて
「ッが……! ア、ん、がァ……!」
鼻が潰れたのだろう。
のたうちまわるイノセは呼吸もままならない様子だった。
転げるたびに鼻血が飛び散り、床に広がっていく。尋常な量ではなかった。
膝も崩せず眺める6人の若者たちは声もない。
その顔は、みな一色の絵の具で染めたように蒼白だった。
オフィスチェアに座りなおした銀髪にはなんの表情も浮かんでいない。
まるで無感動である。
もっとも、この状況下で細眼鏡のブラウンカラー奥まで覗いてみようと思う者もいないだろう。空調が効いている室内とはいえ、息も乱さず、汗のひとつも浮かべず、態度に一片の変化もない。不気味に思わないほうがおかしい。
一方で胴真はというと、つまらなそうに煙草をふかしている。
転げては
「……次。ハギワラという男に関してだ。やつは君たちと同じく、ここの……つまり特殊詐欺の
じろり。
朔田が正座する6人を見回すと、やがて次々と返事の輪唱が巻き起こった。
「は、はい」「はい!」「はい!」「はいっ!」「はい!」「はい!」
従順な返事の嵐に満足したのか、珍しく朔田が頬を緩めて
「うん。これで状況は整理できた。ありがとう。感謝する」
ほっとした空気が室内に広がる。
文字どおり胸を撫で下ろしている若者もいた。涙を浮かべる者も。
床に倒れたままの特殊詐欺リーダーの存在は、もはや誰からも忘れられていた。苦痛に
「では、これから君たちの処分を決めようか」
6人の肩がびくりと揺れて固まる。
「しょ、処分?」
いったん安堵した油断からだろう。
口の軽くなったひとりが異議を含んだ語調で問い返した。
「その前に名乗っておこう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます