デストピアの鉄拳
のぎふ。
プロローグ 『金の代紋』
北国の春は遅い。
4月に入ってもなお、街には雪の姿が残っていた。国内有数の豪雪地帯ということもあり、車道の隅には押し積まれた雪が未だ山と高い。気温も低く、夜ともなれば氷点下を下まわることも珍しくなかった。
その夜もまた寒かった。
防寒着姿で歩く者も目立ちはしない。むしろ普通だった。この時期、地元に住む者なら冬着の外出が多数派を占める。黒革のトレンチコートを身につけた壮年の男が夜道を歩いても、とくに人目を引くものではない。
とはいえ、男は
前時代のマフィア映画で見たような黒い
中折れ帽の男は裏路地を歩く。
ガラスの裂け目を気にするでもなく、男は重い扉を押し開けて通る。
狭い通路には複数の姿があった。いずれも若者である。カップルの姿もあり、
男にとっては意外でもなかったのか、若者たちに視線を移すでもなく通路を進んでいく。空間に余裕がないために、壁にもたれる青年の顎をトレンチコートの肩がかすめる。
青年はダウンジャケットを着崩して厳つい印象の筋肉質。
首元を広く開いたシャツから膨らんだ大胸筋が自己主張していた。金ネックレスの鎖ひとつひとつが肩凝りを想像させて大きい。いかにも勝ち気で、路上での喧嘩経験を誇りそうな人種だった。
だが、その風体に反して青年が声を発することはなかった。
顔を上げてはみたものの、色のついた細眼鏡の奥を覗く気概まではなかったらしい。すぐに
黒ずくめの男は無造作に歩を進め、やがて看板も掲げていないドアの前に立つ。ノックをひとつするも、中からの返事はない。さらにひとつ。ふたつ。みっつ。繰り返すごとに音が大きくなっていく。
「なんだよ、うるせえな」
声は返ってきたが、扉は開かれない。
中央に設置されたドアスコープから覗いているのだろう。ドスの効いた声が近かった。
男は答えない。さらにノックを重ねた。さらに強く。さらに強く。
「おい! 何のつもりだ! 警察を呼ぶぞ」
男は答えない。さらにノックを重ねた。さらに強く。さらに強く。
もはや殴りつけているのと同じだった。
金属扉を叩きつける轟音がビルのフロアを支配している。外にまで漏れ響きそうだ。通路にたむろっていた若者たちも逃げるように去って行く。
「よ、よせ! もう、やめろ!」
慌ただしくロックを解除する音が聞こえ、ようやく中折れ帽の男は拳を下ろした。
ノックが止んでから数秒後、ゆっくりと扉が開かれる。
中から長身の男が現れ、扉の外を睨みつけるように見回す。ほかに連れがいないことを確認したのだろう。やがて手招きをしながら奥へ戻っていった。黒革のトレンチコートが後へ続く。
室内は変わった造りになっていた。
入り口から数歩の位置に、いかにも売買を行うようなカウンターが据えられている。
それだけだった。
カウンター越しに来客者の応対をする構造なのだろうが、商品らしきものは見当たらない。台の上には何も置かれておらず、カウンターの左右にも棚ひとつなかった。内側には人ひとり動けるスペースがあるだけ。背の高いパネルパーティションが後ろを
「アンタ、何者だよ。いったい何の用なんだ?」
目を泳がせつつ長身の男が訊ねる。
不審な客を前に動揺を隠せない。
明らかに黒ずくめの男が周囲に向ける視線を気にしていた。悪ぶった口調だが、まだ若いのだろう。派手なロゴの入った厚地のパーカーにも違和感がない。頬にはニキビが広く残っていた。
「
「な、なんだと、てめえ」
三下という言葉の意味は理解できなくとも、侮辱されたことだけは伝わったのだろう。ニキビ
中折れ帽はというと、なされるがままだった。
長身の若者を挑発するように、頬から口へと皺を寄せている。つくり笑いにしても不自然な表情だった。
薄気味悪く感じたのか、パーカーの右手が跳ねることはなかった。
代わりに身長差を活かし、見下ろすかたちで細眼鏡の奥を睨みつける。威圧するつもりだったのだろうが、まるで相手にされずに
「……あ?」
苛立ちながらもニキビ顔が視線を追う。
目に入ったのは小さな
はだけたトレンチコートの内側で、丸い
「あんた、
黒革のトレンチコートから手を離しつつ、長身が問う。
黒い帽子の
「は、はは、はははは!
代紋を見せつけられた若者の反応は、容赦のない嘲笑だった。
「極道なんて、まだ居たのかよ? 絶滅したかと思ってたぜ。おっさん、もしかして幹部ってやつ?」
目の前の男が取るに足らぬ存在だと認識したのだろう。
態度が一変していた。怖じ気も憤りも消え、
「で? 何の用よ」
いまやニキビ顔の若者は完全に
カウンター台の上に片肘をつき、パーカーの腰から背までをも預けている。向かい合う黒ずくめに手が届く位置だ。まるで注意を払っていない。
「扱ってるだろう。薬物を」
抑揚に欠けた低い声だった。
嘲りに動じた様子はまるでない。細眼鏡の奥から突き刺すような視線が迫ってくる。
「知らねえな。なんだそりゃ?」
まともに答えるつもりなどないのだろう。
ニキビ顔から薄ら笑いが消えない。向けられる鋭い眼光も、はったりだと信じ切っている。
「
「な、なんだと?」
「6条高架下、朝町ファインマート裏、東町無人駅。どの
長身が黙りこむ。
カウンターに置いた拳が握りこまれて硬い。余裕の態度が嘘のように消えていた。
「おぼえておけ。極道に証拠は
トレンチコートのポケットから、膨らんだ布切れが取り出される。
折りたたんだハンカチに何か包まれているらしい。なにやら
中折れ帽の男は、
カウンターの上に。
無造作に。若者が握る拳の、すぐ先に。
白い生地の中央が、赤黒く染まっている。
ごくり、と。
パーカー着の喉が鳴った。
台の上に置かれた肘から先が小刻みに揺れはじめる。すっかり青ざめた顔を動かすこともできなかった。視線をハンカチの上から逸らすことも。震えはしだいに全身へ広がって、自分の意思では止められない。
「……いらないのか?」
いったんは置かれたハンカチに、ふたたびトレンチコートから手が伸びる。
ニキビ顔は淡い期待を抱く。
ゆっくりではあったが、丁寧ではない。
雑ともいえる手つきでハンカチが広げられていく。
「…………ッ!」
ニキビだらけの顔が醜く歪む。
悲鳴を呑みこんだのではなかった。
息を呑むことしかできなかったのだ。
根性を見せるとか、
広げられた布の中央には、半ば想像どおり、そして想像より怖ろしいものが入っていた。
親指が、6本。
親指である。
ほかの指ではない。
ものを握れなくなる。ものを掴めなくなる。親指を失えば、手の働きの大部分が機能しなくなるのだ。もう普通の生活は、二度と望めない。
指の中でもっとも重要な、親指。
それが根もとから切断されていた。
どす黒い血に、まみれたままで。
6本の、親指が。
しかも。
連絡が途絶えた
3人、なのである。
「あ……あぅ……ああ……」
ようやく喉から声が出るも、言葉にはならない。
若者の目から、ぼろぼろと涙があふれ落ちている。
鼻汁まで垂れていた。
ニキビ顔は恐怖に憑かれていた。
脳裏にさまざまな未来を想像してしまう。
残酷な結末ばかりが頭に浮かんでは、消えない。
怖い。怖かった。
この場にいたくない。
逃げたい。走って逃げたかった。でも脚は震えて動かない。
いったいどうしたら。考えがまとまらない。
「いけないねえ。極道に断りもなく、こっち側の商売に手を出すのは。……いけないねえ」
やはり抑揚に欠けた声。
冷たい声。
だが憤りが混じった響きではない。
怒ってはいない。
それどころか。
そう。
そうだ謝れば。
土下座でもなんでもして謝れば。
仲間のことでも何でも正直に話して、心の底から謝れば。
ひょっとしたら。
「おい」
声をかけられた。
目が合う。
ブラウンカラーの細眼鏡。
その奥に訴えかければ。
「おまえは
ニキビ顔が目にしたのは、声よりもずっと、はるかに冷酷な瞳だった。
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