第9話 傷と心と鉄の味


 どこでもいいから鍵を差し込んで回せばいい。シャルがそう言っていたことを思い出して鍵穴を探す。どこでもいいと言われても、そもそもこんな古臭い鍵が入る穴があるのだろうか。


 光輝と別れて暫く歩いたが、今これ以上こちら側に留まっていても意味がないと思い、元の世界へ帰ろうと青波は首から吊るしていた鍵を手にしていた。ひとまず帰って、次はどうすればいいかを考える必要がある。


「この鍵って、鍵穴ならなんでもいいのか? 本当に」


 日頃鍵穴なんか意識して生活していないが、この鍵が恐らくどの扉の穴にも入らないことはわかる。だがワールドルーラーが言うのだから、入るという言葉を信じてみるしかない。


 青波はきょろきょろとあたりを見渡す。当てもなく歩いていつの間にか住宅街に来ていた。玄関には鍵穴なんか腐る程ついているが、問題は他人の家の玄関ということだ。下手すれば住居不法侵入で捕まりかねない。それを回避するには、留守の家を探すしかない。


「明かりがついていない家……」


 泥棒のような発言だと自嘲しながら、少しずつ住宅街を進む。すると、五分程度歩いた先で明かりの点いていない家を発見した。二階建てで、すぐ横に車庫があるが車はない。近寄ってよく見てみれば、玄関先には草木が多い茂り、どことなく人が生活している気配がしなかった。

 要するに、ここは恐らく空き家だ。

 空き家ならば通報されるリスクは低いかもしれない。


「……よし」


 青波は一度深呼吸して、門扉をそっと開ける。それからなるべく目立たないように身を低くしてから玄関の扉の前まで行き、勢いよく鍵穴に鍵を差し込んでみた。

 ガチ、という感覚が手に伝わる。入らない想像をしていたにも関わらず、鍵は吸い込まれるようにその穴に収まっていた。入った、と頭で理解し、間髪入れずに鍵を勢いよく回した。


 途端、扉がまるで自動ドアの様に勝手に開き、その向こう側に闇が広がる。

 あ、と思った瞬間にはものすごい風に吸い寄せられ、その向こう側へと落っこちた。

 目の前が一瞬暗くなったかと思えば、次の瞬間には眩しいくらいの光が瞳に刺さる。

 胃がひっくり返りそうな浮遊感が襲ってきた直後、ドスンと背中に強烈な衝撃が走った。


「~~~~~っ!! 痛ぁ……」


 背骨が砕けたのではないかと勘違いしそうな痛みに悶絶していれば、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。


「おや、おかえり」


 痛みで涙ぐんだ視界で見上げれば、尻もちをついた青波をシャルが見下ろしている。その向こうに見覚えのあるランプ達が輝いていた。どうやらちゃんと思い描いた通り……シャルの部屋に戻って来たらしい。彼に聞きたいことがあったがゆえ、出る先にこの部屋を思い描いたのだ。


「そんなに痛がって。ちゃんと着地をしないからだろう」

「簡単に言うなよ! 高いところから落ちて着地なんかできるか!」


 自分にしては声を荒げたな……と心のどこかで思いながら青波が抗議すれば、シャルは心底不思議そうな顔で首を傾げる。


「んん? そんなの、鍵を回して扉に入る時にちゃんと鍵にしておけばいいだろう?」

「……なんだって?」


 お願い? と繰り返せば、シャルがやれやれと言わんばかりに肩をすくめる。


「青波、君は適応能力が有るのか無いのかよくわからない人間だな。よく考えたまえよ。この部屋の存在そのものが人間からすれば不可思議なうえに、アカシックへ繋がる時計まであるんだ。君に与えた鍵が君の頼みを――ましてや着地させてほしいという至極簡単な希望すら叶えられないとでも思っているのか?」

「……いや、それ以前にこの鍵がそんな万能だとか聞いてないんだけど」

「万能さはアピールしたはずだが? 帰り先を想像したらその通りの場所に出られる……そう言わなかったか? これは願えばそれなりに希望を聞いてくれるという証明だろう?」


 現に君はちゃんとこの場所を望んで、希望通りに戻ってきたじゃないか。

 そう言って今一度首を傾げるシャルを見ていると、なんだかドッと疲れが押し寄せてくるような気がして、青波は大きくため息を吐いた。


「……わかった。ごめん、俺の認識不足でした。すみませんでした。次からは気を付けます」


 半ば投げやりに言えば、シャルは初めて少しだけむっとした表情を作った。


「どこか癇に障る物言いだな」

「悪かったって……。それより俺、シャルに聞きたいことが出来たからこの部屋にわざわざ戻ってきたんだよ」

「ふむ、まぁよかろう。言ってみろ」


 先ほどまでのむっとした表情はあっという間に消え失せ、シャルはいつの間にか呼び寄せた一人掛けのソファーにその場で腰かけた。青波は尻もちをついた体勢から胡坐に変え、床に座ったまま話し出す。


「あっちに行った時、七月十五日の十六時頃だった。俺がこっちから穴に入ったのが七月十五日の深夜四時だから……あっちの方が十二時間ほど早く時間が進んでるってことだよな?」

「おっしゃる通り。しかし時間はそんなに大切か?」

「大切だよ。こっちが朝でもあっちが夜ってことが起きかねない。ちゃんとタイミング見極めなきゃいけないだろ」


 今回はたまたま深夜のバイトの延長でこの部屋にたどり着いたがゆえ、あっちの世界にちょうど良い時間帯に行けたが、今度からはちゃんと意識して時間を狙っていく必要があると思う。平日ならば今日のような時間帯でいいかもしれないが、土日等の学校が休みの時はまた条件が変わってくるかもしれないからだ。


「時間に関してで言えば、ひとつ安心要素を教えておこうか。君がこっちに戻ってきた時の時刻は、あっちに行った時の時刻だ」

「え?」


 言われて反射的に部屋の中央の大きな時計台を見る。長針は、午前四時少し過ぎを指していた。青波がシャルと出会い、なんやかんや会話をして穴に飛び込んだ時がちょうどこのくらいの時間だったはずだ。


「……どういうこと?」

「難しい話じゃないさ。ただ単に、行った時と同じ時間軸に戻るというだけだ」

「何のために?」

「人間の分際で深く理由を知りたがるんじゃあない。まぁ言ってしまえばこの世界への影響を最小限に抑えるためのというやつだな。君があちらに行っている間、こちらに君は不在になる。本来はそれはあってはいけない。だからいない時間を失くすために時間軸は戻るんだ」


 つまらなさそうにソファーの肘あてに左肘を当てて頬杖をつく。端正な顔立ちゆえ、どんなポーズを取っても絵になるのが少し悔しい。

 時間に関しては、これ以上質問したところで回答が得られる気がしなくなったので、青波は次の質問に移る。


「じゃあもう一つ質問。あっちの世界には成功者の片割れが確かに存在していた……現に光輝もちゃんと居た」

「……ほぉ? ちゃんと会えたのか」

「うん。環境も境遇も何もかもこっちとは違って負の要素が確かに強かった。でも俺が気になったのはそこじゃないんだ」


 胡坐をかきなおして続ける。


「気になったのは……なんだ。光輝の周りにいたチームメイトはまだましだったけど、道すがらに出会ったり、コンビニの中にいた人たちはどことなく……なんて言うか感じがしたんだ。それで思ったんだよ。成功者以外の人って本当に生きてるのか?」


 青波の問いかけに、珍しくニタッとした笑みをシャルが浮かべた。


「へぇ……君は意外と観察力がある」


 それから面白そうにククッと喉の奥で笑う。頬杖をついていない右側の手で口元を覆って肩を震わせるその姿に、どことなくゾッとしてしまう。


「何がおかしいんだよ」

「いや、君はそういうところに目が行く余裕がないと思っていたものでな」

「……馬鹿にしてるだろ」

「いやいや、失敬。これに関しては説明していなかったからな」


 ようやく笑いが収まったシャルがコホンと咳ばらいをしてから足を組みなおす。


「本当に生きているのか? という質問に関してだが、答えはノーだな。あれは厳密にいえばこちらの人間の御霊を模した造物に過ぎない」

「造物ってことは……偽物ってこと?」

「青波、君も一度や二度やったことがあるだろう。ロールプレイングゲームと同じさ。ゲームの世界では主要人物以外は皆プログラムされたノンプレイヤーキャラクターだろう? アカシックというのはそもそもオブヴァースから弾いた片割れを収容するために生まれた世界だ。ゆえに、その世界の半分がこちらを似せた造物だ」


 だから君の言う通り、生気というものが遠くになればなるほど感じられなくなるとシャルが言う。要するに近づいて話しかけたりするとフェードインしてそれなりに人間らしくなるが、フェードアウトすれば人間味は極端に感じられなくなる……本当にシャルの言う通りロールプレイングゲームのクエストに出てくるノンプレイヤーキャラクターのようだ。妙に納得してしまった自分がいる。


「なんとなく言いたいことはわかったけど……まさかシャルの口からロールプレイングゲームとかそういう単語が出てくるとは思わなかったよ」

「何を言っている。私はワールドルーラーだぞ? 知らないことなんかない」

「はぁ……まぁそうだよね」


 確かに愚問だったかなと思いなおして、ため息が出る。この男にとってはこの地球上のすべてのことは。掌の上の出来事程度なのだろう。そう考えれば、改めて恐ろしい。

 人の命も、運命も、何もかもを捻じ曲げられる力を目の前の男は持っているのだ。

 それはもう、青波からすると神となんら変わらない。


「聞きたいことは以上か?」

「……あと、最後にもう一つ」

「なんだね」

「あっち側にいる新庄光輝の母親って……こっちに存在する本当の母親と同じ姿かたちをしていたりする?」


 シャルにとっては意図しない質問だったのだろう。

 妙な物を見るような目で青波を見た。


「答えはイエスだ。ベースがあるならばそれを使用する。ノンプレイヤーキャラクターとは言え一から人物を創造するのは至極面倒だからな」

「そう、なんだ……」

「だが性格なんかは同じとは限らん。あくまで見た目だけ合わせている。中身は適当だ。ゆえにオブヴァースに存在しているオリジナルとはかなり違う点もあるだろうさ」


 青葉が抱えている心のしこりを見抜いたかのように、シャルは珍しく青波の欲しかった言葉を落とした。見た目だけならばいいのだ。魂まで似せたように作っていたとしたら、光輝が言っていた冷たい母親はこっちの母親の本性が繁栄されたものである可能性が出てくるのかと……いらぬ心配をしていた。他のノンプレイヤーキャラクターと同じなら、そもそもが何も恐れることはないのだ。所詮は虚像であり、似せて作られた人形にすぎない。


「よかった……光輝の母さんは、本当に優しい人だから」

「何を心配している。君が今心配すべきは、新庄光輝の魂を一つに戻せるかどうかだけだろう」

「うん、それはそうだね」


 大丈夫、そこはわかってるよと答える。

 シャルは長い脚を組みなおしてから短く鼻を鳴らした。


「説得にかかったところで、あっち側の魂からすれば自分が消えると同等の意味だ。うまく誘導できるか見ものだな」

「やってみせるさ。光輝には生きていて貰わなくちゃいけない。すみちゃんのためにも……友達のためにも」

「……なぜそうまでして他人のために尽力しようとする?」


 ソファから立ち上がったシャルが床に座ったままの青波のもとへ歩み寄り、上から見下ろしてくる。照明による逆光で、その表情はよく見えない。


「私からすれば、理由はともかく、君は自殺しようとしている風にしか見えないな」


 ただそこに光るアメジストの瞳から、冷たい声が染み出して来たようだった。

 自殺、という言葉がごとりと心臓の奥に落ちてきて、脈を乱したのが自分でわかる。

 その言葉を口の中で転がすように咀嚼すれば、妙に知った響きだと認識している自分がいる。


 自殺とは、すなわち自ら死を選ぶということだ。

 そんなことは、人間であれば誰でも認知している。

 青波自身も、わかっている。

 わかっているのだ。


「…………そっか」


 青波はそれ以上何も言わなかった。

 その代わり、肯定とも否定とも取られないほどに、少しだけ目を細めて微笑んだ。



* * *



「何やってんだ!! このノロマが!!」


 ズンと左頬に衝撃が走って、青波はその場にひっくり返った。厨房の床には、今さっき青波が誤って割ってしまった皿の破片があちらこちらに散らばっている。


「ぼーっとしやがって!! てめぇみたいなのがいるとこっちまでやる気失せるんだよ!!」


 店長の立場である男は、皿の破片を踏んづけながら青波の元までずんずんと歩み寄ってくると、尻もちをついたままの青波の胸倉を掴み上げた。


「皿割ったの何回目だ? あ? バイト掛け持ちしてるかなんか知らねぇが、役に立たねぇやつは要らねぇんだ!! やる気ねぇなら辞めちまえ!!」

「……すみません」


 殴られた時に口の中が切れたせいもあって、うまく口が動かせない。そのうえ胸倉を掴まれているから、気道が塞がってうまく発声出来ない。鉄の味が広がる口内が気持ち悪くて思わず顔をしかめれば、それ以上に不愉快そうな顔で店長がにらみつけた。


「破片全部搔っ攫って裏口に出しとけ!! ついでに残飯処理もてめぇがやれ!! いいな!!」


 吐き捨てるように言って店長が胸倉から手を放す。解放された途端に空気が肺に一気に流れ込んできて思わず咳き込んだ。

 遠くで傍観していた他の店員たちが各々自分の仕事に戻っていく。店内は閉店直前ということもあって、幸いなことに客はいなかった。店長の暴行を目撃されなかったのがせめてもの救いだと思う。こんな個人経営の飲食店で暴行騒ぎなんかがあったと世間に知れ渡れば、それこそ営業出来なくなってしまう。

 殴られたとはいえ、悪いのは不注意で皿を割った自分自身だ。だから店長が怒ってしまうのも仕方ないことだと思うし、そのことが原因でこの店の評判が悪くなったりするのは嫌だった。


 青波はゆっくりと立ちあがって、箒と塵取りで丁寧に皿の破片を全て拾いきると、厚手のビニール袋にそれを入れて裏口に出し、もう一度店内に戻って今度は今日出た分の残飯の袋を抱えて裏口に出た。


 裏口から出ると、エアコンの室外機から出る熱風が流れてきて額に汗が浮かぶ。すぐ横にある残飯置き場に袋を全て置いて顔をあげれば、額から玉になった汗が滴ってきて顎から地面に落ちた。その跡をなんとなく眺めた後、振り返って今度は夜空に顔を向ける。


 先ほど殴られた左頬はまだジンジンと熱を持っていた。

 夜空にうっすらと輝く星の瞬きが、まるでそれに共鳴しているかのように感じる。

 口の中は鉄の味、左頬はきっと赤く腫れているだろう。

 そう思いながら左手で頬に触れれば、そこで初めて自分の手がぱっくりと切れていることに気がついた。左手を見た後右手も見れば、左手程酷くはないものの、やはり右手も所々破片で切れてしまっていた。


「…………」


 たらたらと血が流れている掌を、まるで隠すかのように……祈るかのように顔の前で合わせる。痛みと痛みが重なって、胸の奥から何とも言えない感情がこみ上げてきたかと思えば、それはやがて液状になって瞳の奥から溢れかえってきた。


「……っう、ひ、ぅ」


 誰のものでもない、自分の嗚咽がすぐ耳元で聞こえる。膝から力が抜けて、壁伝いにずるずると床に座り込めば、余計にでも嗚咽で上下する自分の体を近くに感じた。


 何が悲しくて泣いているのか。

 心の奥の隅っこで、まるで他人事のように傍観する自分がそう囁く。

 違う、悲しくて泣いているのではないと……また心の奥の別の場所で、違う自分が否定した。

 ぐちゃぐちゃになる感情はまるでバケツから溢れた水のように、ポタポタと青波の頬から落ちて消えていく。



 ――『なぜそうまでして他人のために尽力しようとする?』

 ――『君は自殺しようとしている風にしか見えないな』



 シャルに投げられた言葉が、ふいに思い起こされた。

 

 自分自身の人生を大切に出来ないのは、全て自分の心のせいなのだろうか。


 死にたいと思った事はない……本当だろうか。

 消えたいと思ったことは、多分あった。


 今日のようにバイト先で失敗したことなんか数えきれないほどあるくせに、上手く出来たことは数えるほどもない。

 何をやっても報われない。だけど報われたくて、息のできない水の中で懸命にもがき続ける人生を歩いてきた。

 報われて、自分という人間の命でも存在していた意味が……生まれた甲斐があったと思える心が欲しかった。ただ、それだけなのかもしれない。


 だけど、現実はうまくいかない。

 自分は、だ。光輝と違って、このまま生きていても自分はきっと何者にもなれない。


 だから……最期に何かの役に立って消えたいと思った。

 これも、自分のような人間には贅沢なことだろうか。


 自らが持っている一番重たいものを賭けることすら、許されないだろうか。

 

「…………っ」


 顔の前で合わせた両手からは、相変わらず鉄の臭い。

 やがてそこに夜風が吹き込んで、夜の匂いと混ざり合う。



 問いかけても聞こえない答えの代わりに、夏の夜の風だけが……まるで濡れた頬を撫でるかのように、優しく吹き抜けていた。



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