第13話 名前を呼んでくれる人
何かが蠢く気配を感じて、光輝は目を開けた。
ぼやける視界を凝らしてみれば、今まさに布団の上で青波が上半身を起こしたところだった。
「光輝……?」
どことなく心配そうな声で、青波が光輝の名前を呼んだ。どうやら座ったまま眠り込んでいたらしい。手に収まったカップの中に紅茶は残っておらず、万一滑り落としていても平気だったなと心の隅で安堵する。
「青波、目ぇ覚めたのか」
「うん、今ね」
熱は? と言いながら手を伸ばし、青波の頬に触れる。幾分か体温は下がったようだが、顔色はまだあまり良いとは言えなかった。
「光輝、ずっと見ててくれたのか? こんな時間まで……」
言った青波がちらりと時計に目をやる。
つられて時間を確認すれば、時刻は深夜一時を回っていた。もう少しで世間は草木も眠る丑三つ時だ。耳を澄ませてみても、外からは車の音も人の声も聴こえはしない。
「お前ひとり放置して帰れないよ。めちゃくちゃ心配したんだからな」
「ごめん」
「……謝るところじゃないだろ、そこは」
青波の肩を軽く叩いて立ち上がる。使ったカップを持って台所へ行き、コンロに置かれていた土鍋の中に追加の出汁を入れて火をつけた。すっかり汁を吸ってお互いに引っ付き合ったうどんの麺が、新たな水分を得て少しずつ解れていくのを菜箸を使って手伝ってやれば、ものの数分で土鍋の中に美味しそうな鍋焼きうどんが蘇った。
ミトンのようなものは見当たらなかったので、近くにあった手拭き用のタオルで器用に土鍋を掴んで青波のいる和室へ戻る。
青波は布団の上で、先ほどと変わらない体勢でじっと待っていた。恐らく漂ってきた匂いで食事を用意してくれているとわかっていたのだろう。
戻って来た光輝の手のものを見て、表情をパッと明るくした。
「え、すごい! 光輝が作ったの?」
「なわけないだろ! 澄花が作り置きして帰ったんだよ」
畳の上に置いてから箸を持ってきていなかったことに気がついて、再び立ち上がる。そのまま台所に戻って箸を掴み、ついでに取り分けるためのお椀とレンゲも持って和室へ戻った。
改めて布団のそばに胡坐をかいて座り、鍋からお椀に少しうどんを取り分けてから青波に渡してやる。熱いから火傷するなよ、と言えば、青波は素直に頷いて両手を合わせた。
「いただきます」
「おう」
どうやら食欲はあるようだと内心安堵しつつ、まるで幼児のようにゆっくりと食べ進める青波の横顔を眺める。箸の持ち方が正しく綺麗で、自分とは違うなとぼんやり考えていた。
「光輝も、その鍋焼きうどんでよかったら食べてよ」
ぼーっとしていると、ふいに顔を向けて青波が言う。
言われて初めて、今日は自分も夕飯を口にしていない事に気がついた。だが不思議な事に空腹をあまり感じない。
「いいよ、青波が食えよ。俺はなんか適当にするから」
「適当にするからって言っても、俺の家食べるものそんなにないよ? 光輝が買って来てるなら話は別だけど」
「…………」
言われて、さっき紅茶を淹れた際に感じた事を思い出す。
どこか殺風景なこの部屋には、必要最低限のものしかない。
生活感のないこの部屋に対して覚えた恐怖が、胸の奥に蘇ってチクリと心臓を刺した。
「光輝?」
突然口を噤んだ光輝の顔を、青波が心配そうに覗き込んでくる。
「ああ、悪い。ちょっとぼーっとしてた」
誤魔化すように言えば、青波が少しばかり眉間に皺を寄せた。
それから土鍋をタオルで掴んで、ひっくり返さないようにそろりと光輝の方に押してくる。
「俺まだ食欲全開じゃないからさ。食べるの協力してよ」
ね? と後押しする青波に、光輝はゆっくりと頷いて見せた。
わかっている、これは青波の優しさなのだ。
青波は昔から、自分よりも他人を優先しようとする。
そういう姿を、もう数えきれないほど見てきた。
「……お前、本当優しいよな」
つい口から本音が零れ落ちる。
目の前でうどんを啜っていた青波が、手を止めて光輝を見た。
「突然、どうしたの」
問いかけると言うよりも、何かを確認するかのような色をしていた。
目を見つめ返すと、不安そうに青波の瞳が視線を逸らす。
その行動を受けて……やはり彼に今、自分や澄花に言えない何かが降りかかってるような気がしてならなかった。
――お前、そんな反応するやつじゃなかったじゃないか。
喉元までせり上がってきた言葉を、グッと飲み込む。
光輝の記憶にある青波は、いつも笑っていた。
それこそ「優しい」と、光輝や澄花が言おうものならば「ありがとう」と目を細めて笑うのだ。
それが、どうしたことか。
今の青波は、それが出来ないのだ。
「……なぁ、青波」
名前を呼ぶと、彼は素直に顔をあげた。
夜のように深い黒が、同じ色をした光輝の目を見つめる。
「お前は俺にとっては……何度も言ってるかもしれないけど、家族と同じくらい大切な存在なんだよ」
「……うん」
「だから、今日みたいにお前が苦しんでると俺も辛いし……それに、なんか怖いんだ」
不安になる、と付け加えれば、青波が驚いたような顔をする。
「上手く言えねぇけど、お前が不調になると何と言うかさ……お前が消えちまうような気がして、怖い」
「それは……」
「怖いんだよ、なんか。お前がいなくなりそうで」
一度染み出した言葉は止まらず、心の奥に生まれていた不安を綺麗に形容して吐き出した。
そうだ、自分は恐ろしかったのだ。
バイトに明け暮れる青波を見た時も、たまに傷を作って来る青波を見た時も、そして今日――この生活感のない部屋を見た時だって。
手が届くはずの青波が、次の瞬間にはいなくなるような気がして……そしてそれを、青波自身が望んでいるような気がして、怖かったのだ。
「もっと頼ってくれよ、青波」
「……光輝」
「俺は、お前の事大切なんだよ」
「……」
「お前にとって俺達は……どうでもいい存在か?」
つい責めるような口調になってしまったと後悔すれば、目の前の青波が「違うよ」と首をふるふると左右に振った。
手に持ったお椀に、青波の視線が落ちる。
突然こんな話をふられ、彼は今さぞ困惑しているだろう。
だけど、この胸のわだかまりと不安をどうにかするためには、いずれ青波と向き合わなければならないのだ。それが今か今じゃないか、ただ、それだけだと光輝は思う。
やがて、静寂の中、ぽつりと青波が声を漏らした。
「光輝やすみちゃんは……俺にとっては、名前を呼んでくれる人なんだ」
「……名前?」
斜め右上の答えについ首を傾げれば、目元を緩めた青波が静かに続けた。
「施設を出てから、家では一人が基本でしょ。それに、学校やバイト先で誰かと接しても、みんな表面上の付き合いというか……佐伯君って、俺の事を呼ぶんだ」
でも、と青波が顔をあげる。
「光輝とすみちゃんは、違う。二人だけなんだよ、俺のこと名前で呼んでくれるの」
「…………」
「二人が呼んでくれるから、俺は今日までずっと青波として生きてこられたんだ。自分を見失いそうになっても、二人が俺の名前を呼んでくれるから、俺は俺であることを忘れない」
「……青波」
「だから……俺にとって光輝は、宝物なんだ。
ありがとうね、と青波が笑った。
その笑顔を見た途端、自分でも信じられないくらいに目頭が熱くなって、涙が出た。
悲しいのではない。
ただ、切なく……苦しくなったのだ。
青波が今まで生きてきた人生と、彼の心の傷と、心の内側の柔らかい部分が見えた気がして、無性に切なくなった。
「…………っ」
名前を呼んでくれる。
そんなことに感謝をする青波が、酷く儚く、脆く見えてしまう。
そしてそんな彼を目の前に、光輝の心の中に妙な確信が生まれてしまった。
青波のような人間は、きっといつか、神様が連れて行ってしまう。
昔、誰かが言っていたのだ。
本当に優しい人は、神様がそばに置きたいから、早々に連れて行ってしまうと。
――……ああ、駄目だ。
泣き出した光輝に慌てふためく青波の気配を感じるも、光輝は下げた顔を上げることが出来なかった。
胡坐をかいた足を、両手が強く握りしめる。
小刻みに震えるそれは、一体なんの震えなのか……光輝自身もわからなかった。
――宝石は、きっと……お前の方だよ、青波……。
滲んだ目は、光輝の顔を覗き込んでくる青波の表情を捉えられない。
それがまるで、この先の未来を予言しているように感じて、光輝はまた肩を震わせた。
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