第12話 寂しい部屋

 家に戻ると、青波はまだすやすやと寝息を立てていた。

 そろりと台所に荷物を持っていき、なるべく音を立てないようにと配慮しながら、澄花が袋の中の物を取り出した。


「いつ起きるかわかんないけど、一応鍋焼きうどん作っておくね」

「おう」

「麺のびちゃうけど、のびたほうがくたくたになって消化が良くなるから結果オーライかも。汁がなくなっちゃうだろうから、別の容器に出汁置いとくね」


 食べる時はそれを追加して、火にかけて温めてから出してあげて。

 そういいながら澄花は手際よく野菜を切り始める。

 その後ろ姿を眺めつつ、ここに突っ立っていても何の役にもたたないと自負しているから、足音をさせないように青波の寝ている布団まで歩く。

 すやすやと寝息を立てている青波のすぐ横に胡坐をかいて座れば、寝がえりをうった時に捲れたであろう掛布団が目に入る。それにそっと手を伸ばして肩の位置まで引っ張ってやると、少しだけ青波がくすぐったそうに顔を動かした。

 起こしたかと思ったが、幸いにも目を覚ましてはいない。


「…………」


 無意識に息を止めていたことに気が付いて、少しばかり深く息を吐く。

 額に張った冷却シートの持続時間はまだ大丈夫だろうか。しかし剝がすと起きてしまうだろうから、どちらにせよ後で取り換えるほかない。


 顔色はだいぶ良くなったように見えるが、油断は出来ない。

 青波は自分の事に関してはひた隠しにしようとするきらいがある。特に具合が悪い時なんかにそれが顕著に出るのは、恐らく他者に迷惑をかけないように気を張っているからだろう。


 ――わかってんだよ、それは。わかってるのに……。


 いつも後手に回ってしまう。

 今回だってそうだ。一体いつから具合が悪かったのだろう。

 自分はともかく、自分より会う頻度が高かった澄花ですら体調が悪いことに関しては倒れる瞬間まで気が付かなかったのだ。


「…………馬鹿野郎」


 眠っているその額に手を持って行ってデコピンをかましてやりたくなった。

 しかし寸でのところで思い留まって手を引っ込めた。病人相手においたは良くない。元気になってから、後でいくらでもデコピンをしてやればいいだけの話だ。


 引っ込めた手をそのまま自身の頭に持って行って、ガシガシと頭を掻きむしった。どことなくスッとしない。喉の奥に骨が刺さったような、何とも言えない気持ち悪さが残る。


 ――『青ちゃんさ、なんかあんまり笑ってくれなくなっちゃったんだよね』


 先刻、帰り道で澄花が言った言葉が脳内でリフレインする。

 青波に対する違和感……それを確かに二人は感じ取っていた。ではそれが体調不良から来るものだったのかと聞かれると、恐らく違う。

 もっと何か、青波の心の奥に潜んでいる別のものが、最近の彼からにじみ出ている違和感と異変の元凶なのではないか。


 ――もう、よくわかんねぇよ。


 青波に今何が起こっているのか。

 働きすぎが祟っているのか、そうじゃないのか。

 はたまた何か別の問題に直面しているのか。

 情けない話、光輝には見当もつかない。

 こんなに長い間一緒にいるはずなのに、少し目を離せば自分は何も見えなくなるのか。


「光輝、」


 ハッとして顔を上げれば、台所から澄花が部屋に入ってきた。丁寧な動作で光輝の横に正座をしながら言う。ほのかな出汁の香りを連れてきた。


「うどん、とりあえず作っておいたよ。土鍋で作ってそのまま蓋してコンロに置いてあるから、あとはさっき説明した通りにしてね」

「了解、ありがとうな」

「ううん、当然だよ」


 なんてことないように言って、澄花が青波の顔を覗き込むように前かがみになる。冷却シートが張ってあるその上から手を当てて、「うーん」と唸った。


「熱、少しは下がったかな」

「シートの上からだとわかんないだろ」

「それもそっか」


 言いながらシートに当てていた手をそのまま滑らせて、青波の左頬に当てた。一瞬、青波が「ん」と唸った。恐らく今の今まで台所で水を触っていた澄花の手が冷たかったのだろう。起こしたかと危惧した澄花が「あっ」と慌てて手を離す。


「……起きちゃったかな?」


 そろりと言う。


「いや、俺もさっき布団掛けなおしてやった時起こしたかと思ったけど大丈夫だった。随分深く眠ってるよな」


 そう言ってやると、澄花は安堵したようで大きくため息をついた。


「相当疲れてたんだろうね」

「ああ」

「光輝、ちゃんとついててあげてね」


 心配そうな色を含んだ声に澄花を見れば、目が合った途端に「お願いね」と念を押される。


「わかってるよ、任せとけって」

「うん」


 心配なのは何も澄花だけではない。恐らく同じぐらい自分自身も目の前で眠るこの幼馴染を心配している。これがただのクラスメイトだったとしたら、きっとここまで過保護にはならないし、加担しようとも思わないのだろうと思う。


 そう考えれば、不思議な話だった。

 自分は、佐伯青波という人間を特別視しているのか。

 そしてそれは、恐らく澄花も同じだ。いや、ひょっとすると光輝のそれ以上かもしれない。

 仮に今光輝が風邪をひいて倒れたとしても、澄花はここまで不安の色を濃く出さないだろう。

 それは光輝に家族がいるというのもあるだろうが、それだけではない気もする。

 佐伯青波は、自分達にとっては守ってやりたい存在なのか。


「じゃあ光輝、私帰るね」

「おう」


 立ち上がった澄花が、荷物を持って玄関に向かう。


「送って行こうか」

「馬鹿、何のための看病役なのよ」

「……はは、だよな」


 「気を付けて」と言えば、澄花は「おやすみね」とだけ言ってそっと玄関を出て行った。

 バタンと音もせず閉まった玄関扉を念のため施錠して、そっと布団の横に戻る。

 いつ目を覚ますかわからない青波の顔を眺めていると、自分まで眠たくなってくるから困る。


 とりあえず眠気覚ましにコーヒーでも飲むか、と台所に行けば、なるほど確かにコンロに鍋が置かれたままになっていた。出汁のいい匂いが残ったままだ。

 台所の棚を何気なしに開けてみれば、インスタントコーヒーこそなかったが、代わりに紅茶のティーバッグが出てきた。そういえば青波はコーヒーより紅茶派だったと思い出す。

 ティーバッグをひとつ、食器棚からカップを取り出してその中に入れる。ポットというハイテクなものは青波の家にはない。やかんに水を入れ、コンロのもう片方に置いて火をつけた。強火でついたところを中火にし、ほのかにオレンジ色の火を眺めながらやかんの先から湯気が立つのをただじっと待つ。


「…………」


 ふと、台所の周りをぐるっと見渡してみる。

 本当に何もない。いや、必要最低限なものはちゃんとある。食器に冷蔵庫、やかんに鍋、お茶と言った飲み物。

 だけど、それ以外は何もない。冷蔵庫にはほとんど食材は入っていなかったし、高校生ならば好みの菓子のひとつやふたつ転がっていてもおかしくないが、それらも一切ない。


「…………」


 やかんからまだ湯気が立つ気配がないから、足を青波が寝ている和室へ戻す。台所と小さな和室、トイレと一緒になった小さな風呂。それが青波の家の構造だ。一人で済むには十分なのかもしれないが、広さがどうという以前に、やはりどこか殺風景だった。

 和室には布団とちゃぶ台、エアコンと扇風機が一台ずつ、そして洋服が入れてあるクローゼットと収納ケース。学校で使う必需品が部屋の隅のボックスに納められて置いてある。年頃の男子が持っていそうな嗜好品の類は何も見受けられない。テレビだってないし、ゲーム機もない。本だけは昔から好きなのもあってか数冊積まれている。だけどその程度。まるで誰かによって作り上げられた撮影用の部屋なのではないかと思うほどに、青波の気配が薄い。光輝自身や澄花の家とはまるで違う、他の誰かを招くことなんか以ての外で、ただその日を生きるためだけの部屋。そんな風にすら感じてしまう。

 それが、なんだかとても恐ろしかった。

 まるで、いついなくなっても誰も困らないように……佐伯青波という人間が、ような気さえして。


「…………っ」


 ゾクリと寒気が全身を駆け巡って、思わず唇を噛みしめた。

 足の裏から、この家の冷たい寂しさがにじみ伝わって来るような、そんな感覚が肌を泡立たせる。

 と、台所からやかんの蓋がカタカタと音をさせているのが聞こえてきて思わず振り返る。沸騰したお湯がやかんの中から蒸気を発して蓋を押し上げている。

 慌てて駆け寄って火を止める。持ち手が酷く熱されていて掴めないから、近くにあった布巾を持ち手に巻いてようやく持ち上げた。

 お湯を注げば台所に紅茶の良い香りが立ち込める。出汁の匂いは紅茶の香りにかき消されてどこかへ行ってしまった。

 数分蒸らしてからティーバックを三角コーナーに捨てる。ゴミの出し方は所在によって違うから、あとで青波に確認をしなければと思った。


 カップを持って青波の隣に戻る。

 友人の寝顔を拝みながら紅茶を啜るなんて変な状況だと思いながらも、心のどこかにそうしてやらねばと思う自分がいることも事実だった。

 青波は恐らく、両親にこんな風に看病してもらったことがない。

 施設にいたからそこの大人達はもちろん良くしてくれただろうし、看病もしてくれただろうと思う。だけど、きっとそれは、本人にとって何か違うものだったのではないか。


 いつだったか、小学校の参観日の時だ。

 その日の参観日は、授業終了後に担任と保護者と子供での三者面談を実施する予定になっていた。前の週にお知らせの手紙を親に渡すように担任が配り、そのおかげもあってか普段の参観日に比べると保護者の入りが良かった。

 光輝や澄花の親はもちろん、普段ならば青波が入所している施設の大人も授業参観に来るはずだった。

 だけど、この日の授業参観にだけ、なぜか青波の施設の人は来なかった。

 やがて青波に面談の順番が回ってきて、誰も来ていないと知った担任が青波にそれとなく質問すれば「手紙、渡せなくて。ごめんなさい」とだけ青波は言った。

 その日の帰り道、どことなく元気がなかった青波に何かあったのかと問えば、彼は暫くしてようやく口を開き、言った。


「今日はただの参観日じゃなかったでしょ。面談があるってわかってたから……手紙をあえて渡さなかったし、授業参観あるのも秘密にしたんだ。だって、親でもないのに……先生からおれの事を色々話されても、困っちゃうよね」

 

 だから、今日だけ言わなかった。

 青波はなんてことないように言って、困った顔で笑った。あの時の青波の寂しそうな雰囲気を何年経った今でも鮮明に思い出せるのは、当時の光輝自身にとって、青波のそのに恐怖を抱いたからかもしれなかった。

 きっと青波は言わなかったのではなく、言えなかったんだろう。今になって見れば青波の性格上そうだと断言できる。しかし当時まだ青波の性格の全貌を掴んでいなかった自分には、その姿がとても寂しそうに映ったし、得体のしれない不安を抱いた。


 ――それが、結局こうなるんだよな。


 誰も信用していない、というわけではないのだ恐らく。

 単純に……青波は自分の事で誰かに枷をかけたくないのだろう。

 誰にも迷惑をかけず、波風を立てず、ただそこに事象のように在って、そして気がついた時には――


「…………」


 カップを握る手に力が入る。紅茶の水面が揺れて、移りこんだ自分の顔が形を保てなくなって崩れていく。いや、このままだと崩れるのは……。


 ――それだけは、勘弁してくれよ。


「頼むから、青波……」


 口をついて出てしまった言葉にハッとして顔を上げるが、青波はまだ寝息を立てたままだった。聞かれていなかったことに安堵しつつカップに口を付ける。


 飲みなれていない紅茶はどこか渋く、寂しい味がした。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る