第11話 佐伯青波という人間


 新庄光輝は、たまに怖くなる時がある。

 それがと聞かれると明確な答えは出せないかもしれない。

 ただ、強いて言えば、佐伯青波という人間の……在り方が怖かった。


 青波との出会いは小学生の時で、その時から気が付けばずっと近くにいる。遊びに行くときも一緒だったし、中学高校と進学先もずっと一緒だ。

 澄花と同じで、自分にとってはとても大切な存在だし、いることが当たり前。なんなら家族のように感じることもあった。


 青波は自分や澄花と違って家族がいない。いや……家族の代わりをしてくれた大人はいれど、それは血の繋がった親ではなかったし、住んでいるのも所謂施設というやつだった。小学生の時なんかは特にそのことに負い目を感じていたようで、他の生徒とどこか一線引こうとするその行動に、どことなく寂しさを感じていた。


 それが、高校になって彼は施設を出た。

 少し離れた場所の小さなアパートに居を構え、毎日バイトに明け暮れては独りでその部屋に帰っていく。光輝自身もバスケが忙しくて、放課後に澄花や青波と過ごす時間は幼い頃よりだいぶ減ったが、青波の忙しさは自分のそれと訳が違うのをよく理解している。

 彼のそれは、生きるための行動であり、やらなければならないこと。

 光輝自身の部活動とは違う。逃げることができない……ある意味宿命のようなものだ。


 それを重々承知しているつもりだが、それでも、青波のはわかってやれていないという気がしてしょうがない。


 最近、調子が悪そうじゃないか?

 最近、バイトを増やしすぎじゃないか? 生活が苦しいのか?

 最近、あんまりしっかり寝れてないんじゃないか?


 最近、どことなく俺や澄花と距離を取ろうとしているんじゃないか?




「……光輝? 聞いてる?」


 すぐそばで名を呼ばれて、ハッと我に返る。

 横で澄花が、不満そうな視線を向けていた。


「あ、ああ。ごめん、なんだ? 聞いてなかった」

「も~ちゃんと聞いてよ! 青ちゃんのこと! 私は泊まるわけにいかないから、光輝が今日は青ちゃんの家に泊まってくれるよね? って聞いてるの」

「澄花も泊まればいいじゃないか」

「馬鹿! 私一応女子なんだよ!? 女子が同級生の男子の家に泊まるなんて駄目だよ!」

 

 言いながら澄花が俺の肩をバシッと叩く。衝撃で俺の手に下げられた買い物袋がガサリと音を立てた。

 日中倒れた青波を自宅まで連れ帰って、おかゆを食べさせたところまではよかったが、冷蔵庫の中にはロクな食材が入っていなかった。おまけに青波自体がまだ発熱していてダウンしている。


「…………」


 青波のことだ。きっと一人にしておくとまともな食事はおろか、水分の摂取だって厳かにするだろう。彼はどこか自分自身を大切にできない節がある。


 とりあえず青波がもう一度寝入ったのを確認して、澄花と二人で近くのスーパーに買い出しに行き、最低限必要な食材を袋に詰め込んで帰路を歩く。そのさなか、うっかり物思いにふけったばかりに澄花にしばかれてしまったが、この際それはいいことにする。


「夕飯は作って帰ってくれよ。知っての通り、俺は何も作れない」

「わかってるよ。さっきうどんとか買ったし、鍋焼きうどん作って帰ってあげるよ。あれだったら野菜も入ってるし卵も入れられるし、栄養もいいと思う」


 指で材料を数えながら言う澄花の横をヘッドライトをつけた車が通り過ぎる。夏場とはいえ、時刻も夜に近づけばそれなりに薄暗くなる。光輝は荷物を反対の手に持ち帰ると、さりげなく澄花を歩道側へ押しやった。もっと早くこうしておくべきだったなと内心思う。


 ――きっと青波なら、最初から歩道側に澄花を歩かせてただろうな。


 誰よりも優しい友人の顔が思い浮かぶ。

 彼は他人が喜ぶと思ってそういうことをするのではない。

 自分自身よりも、他人が大切だから……無意識にそういう行動を取る。

 それを光輝は知っている。


「……なぁ、澄花」

「ん? 何?」


 どうしたの? と澄花が一歩前で立ち止まって光輝を見上げた。

 車のエンジン音がそばを流れていく。


「青波さ……最近、なんかおかしくないか」


 口から出たその言葉は、自然と疑問形にならなかった。

 妙に確信めいた言い方になってしまう。


「……おかしい? 青ちゃんが?」

「ああ。なんか……上手く言えないけど、俺達との間に何か……溝があるような気がしてしょうがねぇんだよ」

「溝……」


 前から来た車のヘッドライトが逆光になり、澄花の表情はよく見えない。

 ただ、呟いたその声色は、どことなく不安の色を含んでいた。


「光輝の言うこと……私もわかるかもしれない」


 一拍おいて、澄花が口を開く。


「青ちゃんさ、なんかあんまり笑ってくれなくなっちゃったんだよね。ううん、笑ってるんだけど……今までと違うというか、心から笑ってないって感じで……」


 どことなく、なんだか寂しそうな顔をするんだよね。

 澄花はそういうと、自分自身もまたどこか寂しそうに笑った。


「今日青ちゃんが倒れた時、本当にすっごく怖かった。なんだか最近の青ちゃん、元気ないのに私の前じゃ普通であろうとしてるのがわかってたし、きっと何か辛いことが沢山あるんだろうけど、私には本当のところは話してくれないし……話してって追い詰めるのも違うかなって、どうしたら本心で相談してくれるのかなって考えてた矢先だったから」

「澄花……」

「大げさだけどね、本当に……死んじゃったらどうしようって思って……馬鹿だね私も」

 

 目頭を押さえながら澄花が少し目を伏せる。

 泣くなよ、とはなんだか言えなかった。

 泣きたいのは、光輝も同じだったからだ。


 光輝はゆっくりとした足取りでガードレールに移動して腰を掛ける。

 背後を車が何台も通り過ぎて行く。

 澄花も光輝に倣うかたちで同じようにガードレールに腰かけた。


 二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。

 聞こえるのは、車のエンジン音だけだ。

 空が、いよいよ夜の色になる。


「ねぇ、光輝」

「うん」

「青ちゃんさ……いなくなったりしないよね?」


 それは、いつだったか。

 冬のあの日、青波へ光輝自身が投げかけた言葉だった。

 


 ――『……お前さ、遠くに行ったり、しないよな。俺や澄花の前からいなくなったり……しないよな?』



 雪の降る夜、二人で歩いた道すがら、光輝がそう青波に問いかければ、彼はそれを否定した。

 大丈夫だと、自分はいなくなったりなんかしないと。

 佐伯青波はあの時、そう言った。


 ――あの時青波、どんな顔してたっけ……?


 笑っていたような気がする。

 いや、今思えば、あれもどことなく寂しい笑顔だったのだ。


 ――青波、お前本当は……いつから独りなんだよ。


 過去を思い返して、思った。

 彼は、肉体は自分達と近くにいても、心が独りぼっちなのだろうと。

 いや、厳密に言ってしまえば……いつの間にか独りぼっちに戻ってしまったのだろう。


 そうさせたのは、自分か。

 

 青葉のそばにいてやりたいと思うのに、そばに寄れば寄るほど、青波は自分の境遇を思い知らされて苦しくなるのか。

 光輝からすれば、自分も澄花も青波も同じ人間だ。

 生い立ちが違えど、境遇が違えど、佐伯青波は佐伯青波という人間だし、自分は新庄光輝という人間だ。人間である以上、それ以外の何ものでもない。

 だから、心のどこかでと思っているであろう青波に、その部分だけは賛同できなかった。


 ――俺や澄花は、お前と一緒にいたいのに。


 それはきっと口で伝えることではないからと、行動で、態度で示し続けてきたつもりだった。

 だけど、それはある意味で青波を苦しめることになっていたのか。


「…………俺は、いなくなってほしくないよ」


 澄花の問いに答えようと絞り出した声は、自分が予想していたよりも随分と弱々しいものだった。


「ずっと一緒に生きてきたんだ。青波とも、お前とも、ずっと一緒がいい」

「……うん、私も同じだよ。ずっと一緒がいいよね」


 まるで祈るように呟いた澄花の表情は、どことなく悲しそうだった。

 何やってるんだよ青波、お前のせいで澄花が悲しそうだぞ、と……心のどこかで独り言ちる。


 次の冬を超えてしまえば、高校生活は終わってしまう。

 その先は今までと違い、選択肢が無限にある。勉学に励むために大学を選ぶ人間もいれば、自分のようにスポーツを続ける目的で大学に行く人間もいる。進学をせずに働く人間だっているだろうし、世の中を知るために旅に出るやつだっているかもしれない。


 いずれにせよ、大人になっていくにつれて、一緒にいられる時間も確率も何もかも少なくなっていくだろう。

 それは理解しているはずなのに、佐伯青波という人間に対してだけは異様に執着してしまう自分がいる。


 なんだか……青波との別れが来るとしたら、もう二度と会えないかもしれないという予感がしてならない。


 そこに――あってはならないはずのを感じてしまうのだ。


「…………」


 車の騒音を背後に、目を閉じる。

 その予感は、絶対口に出したくなかった。



「光輝、そろそろ帰ろう。青ちゃん、起きちゃってるかもしれないし」


 沈黙したままの光輝に、先にガードレールから腰を上げた澄花が言う。うつむいていた顔をあげて澄花を見れば、どこか困ったように笑っていた。


 澄花も、きっと何か感じている。

 不安なのは何も、自分だけではないのだろうと思う。

 人の営みを、心を、死を、受け止められるほど、まだ自分達は生きていない。


「……そうだな。帰るか」

「うん」


 ガードレールから腰を上げて立ち上がれば、車に連れてこられた風が光輝の髪を揺らす。

 夏の夜のその風は、どこか青く、そして誰かの夕飯の香りを携えていた。

 

 どこの家にも暖かそうな灯りが浮かび、耳をすませば家族で談笑するような声が聞こえる家もある。

 この道を、青波はどんな気持ちで独り歩くのだろうか。

 辿り着く先に灯りはなく、暗く寂しい家の扉を開けて、青波は何を思うのだろう。

 たった独りで、生活用品も最低限しかない殺風景な部屋で、何を思って布団に潜るのだろうか。


 ――俺は、本当は青波にどうしてやりたいんだ。


 俺に出来ることは、一体何なんだろう。

 どうしてやればいい。

 何をすれば、青波自身が孤独じゃないと思えるようになるのだろう。


 下げた袋を持つ手に力が入る。

 このやり場のない気持ちは、光輝自身の強情の表れか。

 名前なんか見出せない。

 ただただ、心の底に泥の様に溜まっていく何かに、もやもやだけが募る。



「光輝は、いいよね」


 ふいに、横を歩く澄花がぽつりと言った。


「男の子同士だもん、青ちゃんと。私には話せない事とか、共有してる内緒事とかあったりするでしょう?」


 見下ろせば目が合う。

 少しだけ首を傾げて、澄花が見上げる。

 内緒事……と言われて思い浮かんだのは海岸沿い、堤防の風景。

 中学生の時、青波と二人きりでいろんな話に明け暮れた。

 日がだんだんと落ちていき、空がオレンジ色から茜色を得て、瑠璃色になっていく様子をずっと眺めていたあの頃。

 男同士の秘密基地という感じで、澄花には内緒にしていた二人だけの秘密の場所。

 それが、脳裏に鮮明に浮かび上がった。

 同時に、中学生の頃の青波の姿も蘇る。

 ああ、あの頃はまだ……ちゃんと笑っていたんだと。


「……はは、さぁな」


 それこそ内緒だと答えれば、澄花が「えー」と不満そうな声を出す。

 あの頃を思い出せば、少しだけ心が穏やかになった。


 オレンジ色の夕暮れも、瑠璃色の夜も、その下で話したことも。

 何もかも、確かにあの頃の二人のもとにあったものだ。

 大人になっても失くしたくないものだと思う。


 だから、青波にはずっとそばにいて欲しい。

 自分や澄花の目の届くところに、ずっと存在していて欲しい。

 一緒に過ごした時間を、日々を、にはしたくない。


「光輝、」


 歩道側を歩く澄花が、光輝の右腕の袖を掴んで名を呼んだ。


「青ちゃんのこと、お願いね」


 約束、と小指を立てて手を差し出す。

 その指に、光輝も自らの小指を絡めた。


「ああ、約束な」


 絡めた小指をゆっくりと上下に振って、指切りげんまんをする。

 なんだか小学生みたいだな、と言えば、澄花も頷いて笑う。


 いつの間にか、自分達も大きく成長してしまった。

 だけど、心はいつまでも子供のように素直であり続けられたらと願う。


 何もかも本心まで曝け出してくれとは言わない。

 ただ、孤独に還ろうとしている彼に、頼ってほしかった。


 それは、贅沢なことなのだろうか。


「馬鹿だな、俺も」


 誰に向けたわけでもなく呟けば、澄花は何も言わず少しだけ目を細めた。



 

 

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