第10話 冷却シートとお粥
季節は八月に入り、七月の時点で既に暑かった気温はさらに高くなった。
最初にあの部屋に辿り着いてからアカシックにはもう何度も足を運んでいた。基本的には平日の夜中……それこそバイトが終わった後、寝る間を惜しむようにして向こう側に渡ることが多かった。十二時間先を行くアカシックで光輝を捕まえるには、光輝が比較的自由に行動できる夕方を狙うのが効率が良かったからだ。
土日を避けていたのは、あちら側の光輝の休日の行動が予測できなかったというのもあるが、単に平日の睡眠不足を青波自身がそこで取り戻していたというのもある。
だが、八月一日からはいよいよ夏休みに突入した。ゆえに、今まで避けていた土日と同じ状況が強制的に訪れる。あちら側の光輝がどういう行動パターンを取って、どこにいるのかがわからない以上、タイミングをよく見計らう必要が出てくる。
「光輝のことだから……多分バスケの練習……だと思うけど」
自宅の床に座って扇風機の風にあたりながら独り言ちる。
エアコンはあるが、電気代節約のためにできる限りは扇風機で生活するようにしているゆえ、夏場の部屋着は必然的に黒のタンクトップにグレーの短パンという出で立ちになっていた。
光輝の行動に関しては確信はない。アカシックの光輝はこちら側の光輝と違ってバスケに対してハンデを抱えている。それを踏まえて考えれば、バスケ以外の事にも時間を使っているかもしれないとも思った。
いっそ、あっちに行った後、探し回る方が意外と早いかもしれないと思えてくる。どこか遠くに長期にわたって旅行なんかに行かれてしまうとお手上げだが、一応受験の年であることを考えてもその線は薄いかと思う。
「……はぁ」
無意識にため息が出た。
窓の向こうで懸命に鳴く蝉の声が聞こえる。夏特融の強い日差しが窓から差し込み、その下の畳を強く焦がす。今日は学校に十時半から補習を受けに行かなければならない。情けないことに学業以外の事に時間を使いすぎて、期末のテストで赤点を三つも取ってしまったのだ。
暑さでべたついた体をのっそりと動かして立ち上がる。体が怠いが、そろそろシャワーを浴びて制服に着替えないと遅刻してしまう。
扇風機を消して浴室に向かいながら、こっちの光輝は今日も学校でバスケの練習をしているんだろうな……とぼんやり考える。部屋の中でじっとしているだけでも暑いのに、体育館の中で運動をするのはさらに暑いだろうなと思った。
* * *
補習は昼休みを挟んで午後にまで及んだ。
十四時半頃に終了し、教員のいなくなった教室でグッと背伸びをする。同じように補習を受けていた生徒たちも、ようやく終わったと言わんばかりにさっさと教室を出て行った。夏休みだから何か予定でもあるのかもしれない。
「夏休みかぁ」
青波にとって夏休みはただの長い休みだ。やることはいつもと変わらない。起きてバイトして寝る、それの繰り返しだ。
しかし今日の夜は珍しくバイトが入っていない。夜は久しぶりにちゃんと自炊でもしようかと考えて、そういえば今日は昼休みに何も口にしなかったなと思い出す。なんとなくお腹がすかなくて、そのまま自動販売機でパックのりんごジュースを買って飲んだ。水分しか摂取していないのに、お腹がすかないのが不思議だ。
――暑さでバテてるな、これ。
年々地球の温度は上がっていき、今では真夏の最高気温は四十三度を超える日もある。エアコンなんかはそれに合わせて改良され、昔よりかなり威力が強くなっているということらしいが、社会科の教師曰く、その昔……日本が和暦で昭和と呼ばれていた時代は、夏の気温が三十度を超える日が少なく、エアコンが要らない日がほとんどだったらしい。
今のこの刺さるように暑い夏からは想像もつかないなと青波は思いつつ、そんなに涼しい夏ならば自宅にある扇風機だけで夏が越せるなと思った。電気代の心配が減るのはありがたい。
とりあえず帰ろうかと椅子から立ち上がった時、ふと強い目眩を感じた。立ち眩んだのだと思って咄嗟に机に手をつく。そのまま数秒の間ジッと目を閉じていると、ぐるぐるとした視界はすぐに収まった。
――疲れてるのかな、俺。
ただでさえ夏バテや熱中症というものが牙を剝く時期だ。そのさなかバイトをしたり、ましてや表と裏を行ったり来たりしていれば、それは疲れも来るだろうなと自分で思う。
気を取り直してゆっくりと歩き出し、廊下を進んで下駄箱で靴に履き替える。そのまま正門の方へ歩いていると、ふいに背後から聞きなれた声が飛んだ。
「青ちゃん!」
振りむけば、ちょうど下駄箱から澄花が小走りで近寄って来るのが目に入った。
「すみちゃん?」
なんで学校に? と言えば、澄花が首にかけたタオルで汗を拭いながら笑う。よく見れば、澄花は制服を着ておらず私服だった。可愛らしいピンクのノースリーブブラウスに白いショートパンツを着用し、足元は涼しそうなサンダルだった。
「えへへ、実は夏休みの宿題……持って帰るの忘れちゃったのがあって」
肩にかけたトートバックから、ちらりとプリントの束を見せながら言う。
「その束の量……数学だ」
「当たり」
私数学苦手なんだよねと言って笑いながらプリントを収める。青波と同じで澄花もどちらかと言えば文系なのだ。最も、青波の場合は文系がかろうじてまだマシであるというレベルなのだが。
「こんなに数学の宿題あると嫌になっちゃうなぁ。ただでさえ苦手だから問題解くのに時間がかかるんだもん」
「それ俺も一緒だなぁ。わからないことを考えて無駄に時間だけが過ぎていく感じ」
「青ちゃんもかぁ。光輝はいいよねぇ、理系に強いから数学とかの宿題で苦戦したことないって言ってたし」
光輝はどちらかと言えば理系でありながら、文系の方まで問題なくこなすのを二人は知っている。そもそも光輝の口から「この問題がわからない」という単語を聞いたことがない。
「いっそ光輝にこの数学の宿題手伝ってもらおっか?」
その方が早いかもと澄花が言う。
それに同意しようと頷きかけた時、ふいにまた視界がぐるっと回って体が大きく傾いたのが青波自身わかった。
――やばい、倒れる……
瞬間、目の前に澄花の細くて白い腕が伸びてきたのが視界に入った。必死で名前を呼ぶ声と共に、ピンクの布地が目の前にぼんやりと広がる。澄花が抱き留めてくれたんだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
――まずいって……女の子に……ましてやすみちゃん相手に、こんな……
すぐ離れなければと思うのに、体に全く力が入らない。横膝や太ももが地面に接している感覚があるところから考えると、どうやら澄花にもたれかかるようにして地面に崩れ落ちている。必然的に支えている澄花も地面に座り込んでしまっているだろう。洋服が汚れる前に早くどかないとと思うのに、体が全く言うことを聞いてくれない。
「青ちゃん!? ねぇ、青ちゃんってば!! 大丈夫!?」
耳元で澄花の必死な声が響く。返事をしたいのに声が出ない。目の前が霞んできて、頭もぼんやりしてきた。どうしようと心細そうにつぶやく澄花の声がシャワーの様に脳髄に流れてくる。困らせたくないのに、どうすることも出来ない。
「澄花!? 青波どうしたんだ!?」
そこに飛んだ声は、またしても青波にとっては酷く馴染みのある声だった。開いているはずの瞳に、その姿はぼんやりとしか映りこまない。
澄花が泣きそうな声で「光輝……どうしよう」と彼の名前を呼ぶのが微かに聞こえた。
青波の意識はそこで途絶えた。
* * *
額に何か冷たいものが触れている感覚に、青波の沈んでいた意識がふっと浮上する。重たい瞼を擡げると、ぼんやりとした視界のすぐ上……誰かの手が、青波の額の上に置かれているのが見える。
やがてぼやけた視界のピントが合うと、それが光輝の手だということがわかった。腕の向こう側で、珍しく眉毛を八の字にして心配そうな顔をする彼の顔が見えたからだ。
「光、輝……?」
「青波! よかった……目を覚まさなかったらどうしようかと思った」
「……俺、どうしたんだっけ?」
眩暈がして、それで……そうだ、確かその場に倒れたんだ。
脳内の靄が徐々に晴れていくのと同時に、学校での出来事を思い出す。
澄花がその場にいて支えになってくれたからいいようなもの、一人だったらきっと地面に倒れてどこか怪我をしていたに違いない。
「体育館で練習してたら澄花の叫び声が聞こえてさ、びっくりして駆けつけたらお前が倒れてるんだから驚いたよ。保健室に運んで先生に診てもらったら発熱してるし……夏風邪だろうってさ」
「夏風邪……って、馬鹿がひくやつじゃん……」
「何言ってんだよ、青波の場合は疲労から来てるんだろうぜ」
言いながら光輝は冷却シートを箱から一枚取り出して裏面の透明なシートをはがす。それから横になった青波の額に髪の毛を巻き込まないように丁寧に乗せた。
目の前に広がる染みのある天井を見れば、ここが青波自身の家だということはすぐに理解できる。ということは、光輝はここまで青波を背負ってきたのだろうか。
「光輝……俺の家まで、俺を背負ってきたの?」
「え? いやいや、さすがにタクシーだろそこは」
「マジか……タクシー代払うよ、いくらだった?」
無意識に体を起こそうとして、肩を光輝に抑え込まれる。
「馬鹿だな、いらないよそんなの。心配すんなって。それに澄花と割り勘だしな」
「え?」
そう言えば、さっきから台所の方に人影が見える気がする。首を伸ばしてよく目を凝らせば、そこに立っているのが澄花だというのがわかった。
「すみちゃんまで……二人とも、なんかごめん」
「俺だけだと、飯作れないからさ。保健室の先生がとりあえずお粥とか食べさせて、横にならせて、それでも熱が下がらなかったら明日病院連れて行った方が良いって言ったから」
まぁそんなに気にするなよ、と光輝が言う。
頭に貼られたシートがじんわりと熱を吸い取ってくれて気持ちがいい。布団の横に光輝がいてくれているのに、また眠ってしまいそうになる。
「……眠い? もう少し寝るか?」
「ん……大丈夫」
ゆるゆると首を振って返事をすれば、丁度そのタイミングで澄花が布団のそばにやってきた。
「ごめん、お待たせ。生米しかなかったからお粥にするのに時間かかっちゃった」
そう言って青波の顔の横に座ると、お盆に乗せて持ってきた小さな土鍋の蓋を開ける。もわっと湯気が立ち込めて、それと同時に出汁のなんとも良い香りが鼻腔をくすぐった。
「そうだ。青波お前、エアコン付けないようにしてるだろ。熱中症にもなりかけてるって先生言ってたぞ。節約のためなんだろうけど、今日は付けさせてもらったからな。電気代少しかさむのは申し訳ないけど、あとで少し俺も出すからさ」
言われて初めて、そういえば家の中が程よく涼しいことに気が付く。自分ひとりだと節約のためにつけないが、誰かお客でも訪ねてこようものならばエアコンはちゃんとつける。今日仮に自分が倒れていなくて、普通に二人が家に遊びに来ていたとしてもエアコンはちゃんとつけていただろう。だから電気代の心配なんか二人はしなくていい。光輝は本当に律儀だと思う。
「青ちゃん、お粥熱いうちに食べてほしいけど、食欲ある? 食べられそうかな」
土鍋から茶碗に一人前をよそいつつ澄花が言う。正直なところ食欲はあまりないが、澄花がせっかく作ってくれたのだから食べておきたいとは思う。肯定の意味を込めて布団から上体を起こそうとすれば、光輝が青波の背後にさっと回って背中を支えて手伝ってくれる。
「うん、食べる。せっかくだもん」
左手を差し出してお椀を受け取ろうとするのに、澄花がジッと青波の目を見たまま渡そうとしない。何か問題があるのかと青波が困惑すれば、澄花が少しだけ恥ずかしそうに「食べさせてあげるから!」と小さく叫ぶ。
「……え?」
「だから! 青ちゃん手震えてるし、私が食べさせるから! ほら、あーんして!」
青波に聞き返されたことが恥ずかしさに拍車をかけたのか、澄花は顔を赤くしながらも蓮華ですくったお粥を青波の口の前に突き出す。青波の背後で光輝が笑ったのがわかった。どうすればいいのか一瞬戸惑うが、ここで澄花の親切を無下にするのも何か違う気がする。
ごくりと喉が鳴った。
震える唇を一度ぎゅっと嚙み締めた後、ゆっくりと口を開ける。
一拍間が開いて、ようやくお粥の乗った蓮華が青波の唇に触れた。ゆっくりと口の中に招き入れて咀嚼する。その間澄花と目を合わせられなくて掛布団に落とした自分の手を見ていた。
飲み込んで、ふぅと息を吐く。
「……美味しい。すみちゃん、お粥作るの上手だね」
「へへ、ありがとう。でもお粥なんて火にかけておくだけだもん。ちょっと覚えれば誰でもできるよ」
「それが出来ねぇんだよなぁ。俺や青波がやったら多分焦がす」
うんうんと背後で頷きながら光輝が言う。確かにシンプルな料理ではあるだろうけど、シンプルだからこそ難易度が高そうだ。無駄なことは全て省いて、ただひたすらお米を柔らかく煮込む。その程度や度合いは、一度や二度やったくらいじゃいい塩梅を覚えられそうにない。ずっと料理をし続けて、その積み重ねで覚えていくものな気がする。
そう考えれば、人間関係も同じことかもしれない。
一度や二度会った程度では相手のことは何もわからないし、相手のことを愛することも無理だろうと思う。日々の積み重ねがあって、初めてそこに目に見えない何かが生まれる。
そして、今青波の目の前にいるこの二人が発してくれているこの暖かさは……多分それなのだろう。
――出会った時からずっと……二人は俺のことを考えてくれてる。
となれば、積み重ねはあれど、過ごした時間は関係ないのか。
光輝と澄花の二人が一緒に過ごした時間は、そこに青波が加わった後の時間より長いけれど、その間に生まれるものに、差があるとは感じられなかった。
――俺が……俺だけが、二人から一線引こうとしているんだ。
初めてはっきりと自覚した瞬間だった。
二人からすれば、佐伯青波という存在は……やはりどこか種類の違う人間なのではないかと……そう思えて仕方がなかった。実際ずっとそう思ってきた。自分は両親がおらず施設で育った孤児だ。温かい家庭で家族と共に過ごしてきた二人とは、多分感性も違う。心だって自分の方が汚れている。この世の中のことだって、二人より憎んでいる。
だから違う世界で生きるべきだと……そう思っていた。
そしてそんな自分だから、やがて光輝たちとは違う道を行くことになると……必然的にそうなると信じていた。
だけど、
このままだと、多分二人は俺から離れてはくれない。
二人はどこまでも優しく、強く、そしてどこまでも佐伯青波という人間を大切にしようとしてくれている。
二人は……きっと離してくれない。
離しては、くれないだろう。
「……青波?」
光輝の声にハッと我に返る。彼の声が心配の色を乗せていた。
「どうした? やっぱり気分悪いか?」
「ううん、違う違う! お粥があまりに美味しいから、ちょっと驚いて黙り込んじゃった!」
慌てて明るく言えば、すぐ横でお茶碗を持ったまま澄花が言った。
「青ちゃん……泣いてるの?」
「……え?」
言われて顔に手を当てる。
青波の両目から零れた涙が、温い温度を持ったまま頬を伝っていた。
「……あれ……なんで、だろう」
慌てて両手で顔を隠そうとすれば、背後から回り込んできた光輝が青波の顔を覗き込んだ。
ただでさえ熱で潤んだ瞳が、涙によってぐっしょりと濡れているさまに、どこか心配そうな顔をした。滲んだ視界の向こうで、光輝が口を開く。
「…………青波、辛いんじゃないのか」
「……え?」
「だって……お前、最近なんか常に眠そうだったし……バイト増やしたって言ってたし……それに……たまに顔腫らして学校来たりしてただろ」
「…………」
「俺はお前と違ってのうのうと部活に明け暮れてる。だから青波の苦労なんかわかってやれないかもしれない。でもさ……お前がなんか辛そうなのはわかるんだよ。だって、」
ずっと見てきたんだから、青波のこと。
そう言った光輝の手が伸びてきて、青波の右手を甲からがっしりと握った。
「…………」
その光輝の手が小さく震えていることに気が付いて、青波は何も言えなくなる。
言葉が出ない代わりに、両目からぽろぽろとさらなる涙が零れてきた。
違う、違うよ光輝。
そんなに大切そうにしないでくれ。
青波は無意識に首を横に振る。
自らの嗚咽がすぐ耳のそばで聞こえた。
佐伯青波にとって大切なのは、自分自身ではない。
自分の命では、ないのだ。
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