第14話 どうしたらお前は。
光輝に、かなり心配をかけた。
暗い天井を見つめながら、青波は内心独り言ちた。
室内には、時計の秒針が進む音だけが響く。
布団に横たわったまま、ただじっと仰向けで時の流れに身を任せた。
左隣には、先ほどまで涙を零していた光輝が同じように仰向けに寝そべっている。
直接畳の上に寝ると体を痛めるからと同じ布団に招いたのだが、さすがに男子二人だと狭いからと光輝が遠慮した。だからと言って直接畳に寝かせる訳にもいかず、苦肉の策で冬用の少し分厚めの掛布団を押し入れから出して貰い、それを布団代わりに敷いて寝てもらっている。
室内は、弱くエアコンをつけているおかげで、暑くも寒くもなく、至って過ごしやすい温度を保っていた。
「青波、寝た?」
お互いの顔も見えない暗闇で、光輝の声がした。
「ううん、寝すぎちゃって寝られないや」
光輝こそ、眠くないの? と問いかければ、「そうだな」と端的な答えが返ってきた。
鼻が詰まったようなその声は、まだどこかに涙の気配がある気がする。
――光輝が泣いたの、初めて見たかもしれない。
天井を見つめたまま、ぼんやりとそう考えた。
昔から負けず嫌いの光輝だ。それこそスポーツの試合で負けて悔し泣きをするような場面は見たことがあった。だが、それ以外……特に自分の感情を吐露しながら静かに涙を流す様は今まで見たことがなかった。
――『怖いんだよ、なんか。お前がいなくなりそうで』
光輝が言った言葉が、頭から離れてくれない。その言葉が口をついて出たということは、光輝は恐らく、今の青波の行動に何かしら違和感を覚えているのだろう。
確かに、シャルと出会いあっち側に行くようになってからの自分はどこかよそよそしかったかもしれない。そばにいると、どうしても感情が揺れてしまうから、それでバレてしまわないようにとなるべく……さり気なく距離を取ってやり過ごすつもりだった。
それが、裏目に出たかもしれない。
そんなことを考えていると、隣から再び光輝の声が染み出した。
「……青波」
「ん、なに」
静かに返事をすれば、一拍置いてから光輝が続けた。
「さっきはごめん……みっともない所を見せた」
びっくりしたよな、と言ってくるもんだから、「ううん」と否定する。
「そんなことないよ。むしろちょっと……安心したかも」
「安心?」
「うん。光輝もちゃんと、泣けるんだなって」
向こう側の光輝の姿が、脳裏に浮かんだ。
自分の不甲斐なさに涙を流していた彼……てっきりその涙すらも、全部こっち側の光輝のものまで背負わされているのかもしれないと危惧していた。
だが、それはまた少し違ったかもしれない。
「光輝はいつも飄々としてるんだもん。こう言っちゃなんだけど、悩みなんかなくて……いざ、何か辛い事とかがあっても、涙が出ないんじゃないかなって思ってた」
「……試合に負けたりしたら、泣くぞ? 青波だって見た事あるだろ、俺の悔し泣き」
「うーん……そういうのじゃあ、ないんだよなぁ」
困ったように笑って言えば、暗闇の中、隣に横たわっている光輝が姿勢を変えてこちらを向いた気配がした。ごそっと、布地が畳に擦れる音が聞こえる。
青波の言葉を待っているかのように、光輝はただ黙っている。
「何て言えばいいのかな……鈍感なのかな、光輝は」
「おい」
「冗談だよ。でも、多分捉え方が違うんだと思うんだ」
「……すまん、わかりやすく言って欲しい」
「うん、何と言うか……普通の人が悲しい事だって捉える事案だったとしても、光輝はそれをそうとは捉えていないというか……嚙み砕いて言えば、悲しみに対しての耐性が他の人より強いのかなって」
「……つまり?」
「悲しいことを、悲しいって感じにくいってこと……かな」
「その言い方だと、やっぱり俺が鈍感ってことになるじゃん」
むくれたような声がして、思わず青波は頬を緩めた。
本当は、あっち側の光輝が悲しみを感じる弱い部分を全てと言わずとも、かなりの割合で持って行ってしまっているからだろう……しかし、そんな事を今光輝に言えるはずがなかった。
呼吸を整えて、なるべく変な発言をしないようにと、心に言い聞かせながら次の言葉を探す。
「鈍感とかじゃなくて、ポジティブだからだよ。悲しい事があっても、『まぁ、なんとかなるか』って思うタイプでしょ、光輝は。その気持ちが、悲しみを悲しみだと捉えない強さの正体だと思う」
「まぁ確かに……悩んでても仕方のないことは、なんとかなるだろうって投げやりにしたりする。ポジティブなのかどうかはわからないけど、不思議とそう思っちまう節はあるな。なんとかなるだろう、大丈夫って」
「そうだよ、それこそが――」
――光輝が、成功する人間である証なんだ。
思わず口をついて出そうになった言葉を、寸でのところで飲み込んだ。
危ない、と内心ドキドキしながら息を止める。
隣から「どうした?」と怪訝そうな声が聞こえた。
――なんとかなるだろう、大丈夫、か。
今までの人生で、一度たりとも青波自身が思い浮かべた事がない言葉だと内心苦笑すれば、チクリと胸の奥が少しだけ痛んだ。
息を整えようと瞼を下ろせば、そこに再びあっち側の光輝の姿が浮かぶ。
なんとかならない人生を送っている彼には、何もかも報われていくこちら側の光輝を見せたくないような気さえしてしまう。
変な感情だった。
どちらも同じ魂なのに、青波がどことなく……心のどこかで、あっち側の光輝の肩を持ちそうになってしまうことがあった。
それはきっと――
――……俺自身と似た境遇に追い込まれているから、なんだろうな。彼が。
だけど、見失ってはいけないと思う。
青波が助けたいのは――生きて欲しい新庄光輝という人間の本体は、今隣にいる彼なのだ。
負の部分を背負わされた新庄光輝は……あくまで彼の片割れで、あるべき場所に戻らなければならない魂に過ぎない。
例えそれを成し遂げることで、佐伯青波と言う人間が消える事になったとしても……必ずやり遂げて見せると心に誓ったはずだ。
だから、
――向こう側の光輝、ごめん。
どんなに似ていても、俺は最後には君を裏切る形になるんだろうと――
「……青波?」
呼ばれて、ハッと我に還った。
余計な感情の海に溺れかけていたと自覚し、一度深呼吸をする。
「大丈夫か? 熱計ってみるか?」
仮にもまだ病人なんだからな、と言われ、「平気だよ」と見えもしないのに首を横に振った。
「……嘘じゃないよな?」
「嘘じゃないって。もうだいぶ落ち着いたし、大丈夫だよ」
信用してよと言えば、見えない隣で光輝が小さくため息を吐いた。
それからまた布地が擦れる音がしたかと思えば、次の瞬間、青波の左手を光輝のぬるい手がそっと掴んできた。
突然のことに思わず身を固くすれば、光輝は青波の手を握ったまま、ポツリと静かに声を漏らした。
「さっき、なんとかなるだろう大丈夫って思うことが多いって俺……言ったけどさ、」
「……うん」
「でも、お前のことだけは……大丈夫だって思えないこと、あるよ」
沢山あるんだ、と言った声は、まるで夜の街のように静かだった。
つい、何も言えなくて黙り込んでしまう。
「俺は……こんなに長く青波と一緒に居るのに、お前のこと何もわかってやれない。お前が抱えてること、何がお前を苦しめてるのかさえも、わかってやれない」
まるで、自分自身を責めるような声で続ける。
「だけど、それでも……澄花と青波と、ずっと一緒に生きていきたいと思っちまう。これは、俺の我儘なんだと思う」
「…………」
青波は、何も言わなかった。
いや、言えなかった。
何を言ったところで、光輝の願いを叶えてあげることは出来ない。
ずっと一緒にいることは、出来ない。
佐伯青波は、この夏を超えることは……ない。
「なぁ、青波……」
縋るような、寂しそうな声が言った。
「どうしたらお前は……ずっと俺達のそばにいてくれる?」
胸の奥が、じんと唸った感じがして、無意識に息を止めた。
とどのつまり、どうすれば青波を繋ぎ止めておけるかと、そう問いかけたのだ、光輝は。
それは、ある意味で……彼自身が青波に対してやはり何か予感しているということなのか。
繋ぎ止めておかないと、一緒にいられなくなる……そう悟っているのか。
「…………」
今度は、ちゃんと何か言わなければ。
光輝の言葉を、疑念を、不安を、ちゃんと否定しなければと心は焦る。
なるべく、平常心で。
いつもの、佐伯青波らしく……彼の望む答えを――。
「――大げさだなぁ、光輝は」
嘘は、吐かないように。
「大丈夫。俺は死ぬまで、ちゃんと光輝とすみちゃんのそばにいるよ」
「……本当かよ」
「本当だよ。心配しなくても、ちゃんと二人のそばにいるから」
だから、安心してよ。
言いながら、今度は青波が光輝の手を握り返した。
まだ少し熱が残っているからだろうか、普段は光輝の方が体温が高いはずなのに、今は青波の手の方が熱い。
弱いエアコンの風を微かに感じながら、青波は自分の体温を光輝に分け与えるかのように、何度もその手に力を込めた。
ぬるい光輝の手が徐々に温もっていくのを感じながら、同時に自分の手の平の温度が下がっていくのを感じる。
――死ぬまで、ちゃんとそばにいるから。
嘘は言っていない。
嘘は……言っていないはずだ。
心の奥でチクリと刺してくる罪悪感の針を、自分自身で言い聞かせるようにして抜いていく。
この心の痛みに、誰も気が付かないでいてくれるといい。
最後まで、最期の瞬間まで――。
「なんか、変なこと言ってごめんな、青波」
黙っていた光輝が、ぽつりと言った。
「……ううん、最近俺も、忙しかったりして変によそよそしかったもんね。不安にさせてごめん」
言えば、丁度頭上の窓から月明かりが差し込んで、室内が少しばかり照らされた。
真っ暗だった部屋が明るくなり、お互いの姿が見える。
こちらを向いて横になっていた光輝が、目が合った途端に緩く微笑んだ。
普段の彼にはない、どこか悲しみを含んだような……少し寂しそうな笑みだったと思う。
「夏休みの間にさ、」
「うん」
「澄花誘って、三人で花火しようぜ」
「いいね。昔公園でよくやったもんね」
「あと、海行こう。俺スイカ割りやってみたいんだよな」
「俺もやったことないや。光輝はああいうの上手そうだよね」
「叩く力だけは強いかもしれん」
「はは、違いないや」
他愛のない話をしているうちに、月明りはまた雲の奥に攫われていく。
再び暗闇を取り戻しつつある室内で、それでも努めて青波は明るく言った。
何も心配のないように、不安にさせないように。
佐伯青波を、務めなければ。
「よーし、明日からまた、元気に頑張るかな」
「その前にちゃんと治せよ」
「大丈夫、わかってるよ」
「早く元気にならねぇと、夏が終わっちまうからな」
そういった光輝の言葉が、また一つ胸にごとりと音を立てて落ちた。
「――うん、そうだね」
だけど気が付かれないように、青波はそっとその言葉を胸の奥にしまう。
夏が、永遠に終わらなければいいのにと……その時だけは思ったのだった。
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