第2話 アカシックホール
ジリリリリと、青波の腕につけたデバイスがアラームを鳴らす。
ハッと目を覚まして画面を見れば、時刻は二十時を示していた。薄っぺらい布団から体を起こしてぼさぼさになった髪を掻きまわす。気が付けば外はもう暗い。
アカシックホールで夜間のバイトを始めて一週間。ホールでのバイトが入っている日は決まって学校から帰った後にこうして仮眠をとる。でなければ二十一時に始まって深夜三時頃に終わるバイトの間起きていられない。
起き抜けに冷蔵庫から冷えたお茶を取り出して飲む。買っておいた菓子パンを一つ夕飯代わりに頬張りながら、黒いポロシャツの上に一枚上着を羽織って玄関に向かう。夏が近くても、まだ夜は少しばかり冷える。
玄関を開ければ、一気に夜の匂いが濃くなって鼻腔をくすぐった。扉に鍵をかけてからアパートの階段を降りてそのまま小走りで最寄りの駅に向かう。ホームに到着したモーターカーに乗車して、二十分程度揺られてから目的の駅で降りる。改札を出て中央通りを抜ければ、バイト先であるアカシックホールはものの数分で目の前にその姿を現した。
戦後、二度と戦争をしないという誓いの証として、新日本政府はアカシックホールと呼ばれる博物館を建てた。核爆弾が落ちた跡地に建てられたそのホールは、管理全般を政府が管轄しており、一般公開されている場所以外は普段立ち入り禁止扱いになっている。なんでも国の重要文化財等もそこに保管されているからだという話だ。
館内はとても広く、その外見は大核戦争前にフランスにあったベルサイユ宮殿の雰囲気に似ている。内装こそ宮殿のように煌びやかではないが、各フロアに様々な物が展示され、時間を忘れて滞在する人も少なくない。
裏口から入って暗い廊下を少し進めば、守衛室が見えてくる。不思議なことにアカシックホールで仕事をしている学芸員や、青波のようなバイトで雇われている人間は皆、警備担当と同じで守衛室で着替えをしたり休憩を取ったりするシステムになっている。
青波が守衛室の窓口に座っている男に軽くお辞儀をして中に入ると、先に出勤してきていたバイトのおばさんが髪の毛を一つに束ねながらこちらを見た。「お疲れ様です」と挨拶すれば、元気のよさそうな声で「どーも!」と返事をする。既に埋まったロッカーを見る感じ、他にあと数名いるバイトは皆もう先に館内に入っているようだった。遅刻したわけではないが、少し申し訳なくなる。
「佐伯君、今日は清掃と整理両方あるみたいなんだけど、佐伯君どっちがいい? 先に入ってる人たちが丁度半々に散ってるから、どっちでも選べるわよ」
「えっと……清掃って今日はどこのフロアが残ってますか?」
「清掃ね。ちょっと待ってよ~……ああ、今日残ってるのは三階の戦没者遺品展示のフロアね。ちなみに整理の方は一階の絵画フロアみたいよ。今度企画展をするみたいだから、絵を移動させたりするみたいね」
「あ、えっと、じゃあ絵画整理の方で」
「いいわよ、じゃあ私は清掃の方をやるわ」
役割分担のボードに名前を打ち込んでもらい、二人揃ってそれぞれの担当フロアに移動する。閉館後の館内は、夜間ということもありかなり薄暗い。悪く言ってしまえばどことなく不気味である。何か出そうだと言えばそう感じてきてしまう。
正直なところ、戦争関係の展示物を見るのが青波は苦手だった。理由は自分でもよくわからない。ただ……生きたくても生きられなかった人たちの魂がすぐそこにいて、何の取り柄もないくせにのうのうと生きている自分を見ているような気がして、胸が苦しくなるのだ。
目的のフロアには先に学芸員の人と数名のバイトがいて、学芸員の人の指示に従って絵画を決められた場所に移動させている。時には他の博物館に貸し出すためにトラックへ積み込む作品もあったりして、館内を行ったり来たりを繰り返しているうちに時間はあっという間に過ぎていった。
「佐伯君、これラスト。倉庫に移動させたら今日はもう終わりだから」
学芸員にそう言われ、最後の一枚を抱えて暗い館内を倉庫に向かって歩く。他のバイトは先にあがったようで、一階フロアには青波以外の気配はない。広い空間に自分の足音だけが響くのはどことなく不気味で、フロア内の壁に展示されてある大きな絵画達がなんだか恐ろしいものに感じてくる。
きっと暗闇のせいだと自分に言い聞かせ、なるべく下を向いて歩を速めた。
暗闇に光を感じたのは、まさにその時だった。
薄暗いはずの館内に、突然沸き上がるように一筋の光が浮かび上がる。思わず立ち止まってその方を向けば、何もないはずの大広間の壁に扉が現れていて、その扉の隙間から光が漏れ出していた。
――え? ここ……扉なんかなかった……よな?
見間違いかと思い、空いた方の手で眼を擦ってからもう一度そっちを見る。だけど光は消えておらず、あるはずのない扉はやはりそこにあった。
「な、んで……?」
答えの出ない呟きが口から漏れる。館内の空調はしっかり管理されているはずなのに、嫌な汗が背中に浮き上がるのがわかる。暗闇の中に浮かび上がる光に眼がくらみそうになって目を逸らそうとするのに、まるで固定されてしまったかのように視線が動かせない。
耳のすぐ近くで心臓の音が聞こえた。
ありえない状況を目の前にして、鼓動が早くなっているのが嫌でもわかる。
扉の隙間から光が漏れているということは、あの扉の向こうには何かがあるというのか。
あるはずのない、何かが――
「どうかしたのかい?」
突如降り注いだ声に我に返る。
反射的に振り返れば、守衛の男が青波の顔を覗き込むようにして立っていた。手に持った懐中電灯は眩しくないように足元の方に下ろされている。その残光でぼんやりとお互いの姿が見える。
「あ……」
「何かあったかい? 一人で壁を睨んで立っているから驚いたよ」
もう見回りの時間だよと男が肩をすくめて言う。その言葉に先程扉か浮き上がっていた大広間の壁を見れば、そこには扉どころか光すらもなかった。ただ、何もない壁が佇んでいるだけだ。
おかしい、確かにそこに扉はあった。光の漏れ出した扉が。
その先に、まるで部屋があるかのように。
「えっと……すみません、ちょっと……ぼーっとしてただけです」
「そうなのかい? どこか具合が悪いなら遠慮なく言ってくれていいが」
「大丈夫です」
大丈夫だと言いながら、それはむしろ自分に言い聞かせたい言葉かもしれなかった。今まで見ていた光景は、絶対に夢なんかじゃない。
気が付くと、青波が手に抱えていた絵画に掛けられている布には深く皺が刻まれていて、それが自分が強く握りしめたせいで出来たものだと理解するのにそう時間はかからなかった。両手は手汗でべとついていて気持ち悪い。耳元でうるさく鳴っていた心臓の音は、今だ胸の中に戻っても激しいままだ。
青波は守衛の男に深く一礼すると、そのまま絵画を目的の場所に足早に移動させ、弾かれるようにアカシックホールから外に飛び出した。来た時に一緒になったおばさんが「そんなに慌ててどうしたの?!」と言うのが聞こえたが、構う気になれなかった。
駅までの道をただ走り、深夜ゆえに無人運転に切り替わったモーターカーに飛び乗る。車内にはほぼ人はいないが、なぜか座る気になれず入口にそのままもたれ掛かるようにして立っていた。
窓の外を流れる夜景には、人々の営みの気配を感じる。あの灯りの下で良い夢を見ながら眠りについている人もいるだろう。
トンネルに入って外が暗くなると、窓に青波自身の顔が映った。疲れているのか、なんだか顔色がよくないとまるで他人事のように思う。
暗い部屋には帰りたくないが、早く布団にもぐって眠ってしまいたいと思った。
* * *
「青ちゃんが見たそれって、異次元への扉だったりして」
向かい合って座る澄花がどこか面白そうに言いながら、目の前に置かれたフルーツタルトを一口頬張る。
アカシックホールで謎の扉を見た翌日の放課後、青波は澄花と二人で学校の近くの喫茶店に足を運んでいた。光輝はバスケの練習があるため今日は不参加だが、青波からすれば澄花と二人でこうして放課後にたむろする割合の方が多かったりする。三人揃って夕飯を食べて帰るのは、何か理由があって光輝の練習がない時限定だ。
「異次元って……そんなファンタジーな」
頼んだホットコーヒーにミルクを垂らしてかき混ぜながら言えば、澄花が「だって、アカシックホールでしょ?」と続ける。
「あそこって色々噂あるの知ってる? 展示されてるものにいわくつきが多いだとか、夜中になったら絵画に描かれたものが飛び出してきて暴れてるだとか」
「ええ……」
「それにあそこに行った後に行方不明になった人もいるって噂よ? それって青ちゃんが見た扉に引っ張られて、異次元に連れていかれちゃったとかなんじゃないかな」
いたって真剣な顔つきで澄花が言うもんだから、なんと返事をすればいいか困ってしまう。そもそも青波のバイト時間は草木も眠る丑三つ時であり、真夜中もいいところだ。そんな時間帯にアカシックホールに滞在しているが、絵画から何かが飛び出してきて暴れている現場にはこれまで遭遇していない。噂は所詮噂なのではないかとも思うが、昨夜見た扉は確かに現実だったと思う。肯定も否定もできない宙ぶらりんな状態だ。
「もう何がなんだかわかんないよ。あー……明日の夜バイトに行って、また扉あったらどうしよう。こういう時光輝だったら多分全く気にしないんだろうなぁ」
テーブルに額を打ち付けるように前のめりになって言えば、「そうだねぇ……」と物思いにふける声が頭上から降ってくる。
「確かに光輝だったら気にしないだろうね。というか、そもそも『昨日バイトしながらすごい夢見たんだけどさ』とか普通に言ってきそう」
「端から夢だったと決め込んでるパターンかぁ……ありそう」
「だよね。鈍感なのかなんなのか、昔からお化けとか信じてない節があるんだよねぇ」
今頃学校の体育館でバスケの練習に明け暮れているであろう光輝の顔を思い浮かべる。彼がお化けがどうたらと慌てている様は全く想像できない。信じているいない以前に光輝の頭の辞書に「怪奇現象」という文字は刻まれてなさそうだとさえ思えてくる。
「いっそ私がこっそりついて行こうか? それとも光輝の方がいい?」
「ええ!? いやいや、さすがについてきてもらう訳にはいかないって!」
「でもまた扉があったらどうするの?」
怖いんでしょ? と言われて、なんだか男らしくない自分の姿が浮き彫りになったような気がして青波は情けなくなる。こういう時、光輝だったら絶対に誰かに頼ったりしない。もう少ししっかりしなくては。
ミルクの多めに混ざったコーヒーを飲み、注文して手を付けていなかった苺のショートケーキを一口食べる。気持ちが程よく落ち着いた所で、再度口を開いた。
「怖くない、と言えば嘘になっちゃうな」
「ほら、やっぱり」
「でも今回ばかりはバイト先だし、最悪守衛のおじさんもいるし……大丈夫! いざとなったらもういっそのこと、扉の中に入って何があるか確認してやるさ! 扉の先がどうなっているかわからないから恐怖心を持つんだろうし」
せめて表向きだけでも強がっておこうと妙に元気よく言えば、澄花が呆れたように笑う。
「なんて言ってるけど、青ちゃん無理してる」
「してないよ~」
「ふふ、嘘つき」
フォークでフルーツタルトを食べながら、下を向いた拍子に落ちてきた横髪を左手で耳にかける。澄花のその仕草を見ていると、なぜだか少し胸が苦しくなる。白くて細い左手首にはガラスで出来た綺麗なブレスレットがはめられていて、ブルーの小さなガラス達がこぞって澄花の麗しさを強調している。このブレスレットは先月の澄花の誕生日の時に光輝がプレゼントしたものだ。さすが幼馴染というだけあって、彼は澄花のことをよくわかっている。一生懸命考えた挙句、プレゼントが四葉のクローバーのキーホルダーになってしまった自分とは天と地ほどの差があるなぁと思う。
光輝からブレスレットを貰った時の澄花の笑顔が、忘れられない。
多分、澄花は光輝の事が好きなんだろう。
そして恐らくそれは、光輝も同じはずだ。
「すみちゃん」
「ん?」
青葉は自分のショートケーキの上に乗った苺のヘタの部分を掴むと、そのまま澄花のフルーツタルトの上に乗せた。驚いたように目をぱちくりさせた澄花の顔を見て、ちょっとだけ笑ってみせる。
「あげる」
「え、いいの?」
「うん、いいのいいの」
ありがとうと嬉しそうに言う澄花の笑顔に、ちょっとだけ涙腺が緩みそうになる。それを誤魔化すために目を伏せてコーヒーを飲めば、少しだけ鼻の奥がツンとした。
本当は、「いつもありがとうね」と付け加えたかったのに……言葉にならなかった。
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