第3話 二人と、独り。

 青波が自我を持つ年齢を迎えた時、両親と呼ばれる存在は既にいなかった。

 それが普通ではないと気が付いたのは、青葉が小学校に上がった年だ。同級生の男子達に「お前って施設に住んでるんだろ? ってことは父さん母さんいないんだ!」と言われたのがきっかけだった。それまで自分の置かれた状況をおかしいと思ったことはなかったが、この時初めてということを知った。


 普通はお父さんとお母さんがいて、皆それぞれの家に住んでいる。

 なのに青波は施設で数名の子供と施設長と暮らしている。


「ねぇ、どうしておれには、お父さんもお母さんもいないの?」


 いつだったか、施設長にそう問いかければ、彼は少し困ったように笑って青波の頭を撫でた。


「青葉のお父さんとお母さんは、遠い所で青波のことをずっと見守ってるんだよ」

「遠いところ?」

「そう、夜空に輝く星よりもずっとずっと遠い所だ」

「いつか会える?」

「そうだなぁ。青葉がうんと大きくなって、子供から大人になって、いまの僕よりもずっとずっと年を重ねたら、いつか会えるよ」


 だから青波、長生きするんだよ。

 そう言って施設長はただただ、青波の頭を優しく撫でた。


 施設の中には青波と同じような境遇の子供たちがたくさんいたが、中にはある日突然いなくなる子もいて、後になってその子達は引き取られていったんだと知った。

 小学校には毎日のように施設から通い、決して不登校ではなかったものの、施設の子というレッテルが影響してなのかクラスメイトからは仲間外れにされる日々。友達らしい友達は出来ず、毎日施設と学校を行き来するだけ。楽しいことなんか、何も無い。

 通学路の途中にある公園で、毎日暗くなるまで遊んでいる子達が羨ましかった。自分も普通だったら、あの中に混ぜてもらえたのだろうか。


 光輝と澄花に出逢ったのは、そんな寂しい気持ちを抱えて生きていた時だった。

 

 いつも通り小学校から帰って、施設の庭の隅にあるベンチで本を読む。

 戦後、新日本和国では紙の本はかなり減っていて、人々はデータ化された書籍を読むのが当たり前になっていた。確かにデータにしてしまえば持ち運びも保存も容易ではあるが、青波は温かみのある紙の手触りがなんとなく好きで、施設長が大切に保管している本を借りては読書に没頭するのが唯一の楽しみだった。


「ねぇ、それ何読んでるの?」


 背後からかけられた声に、活字を追っていた目を本から離す。振り向けば施設と道路を隔てるフェンスの向こう側に女の子がいて、青波に微笑みかけていた。突然の出来事に青波が固まっていると、その子の後ろからもう一人男の子がひょっこり現れた。


「澄花?」

「光輝、どこ行ってたの?」

「ジュース買いに行ってた」


 ほらよ、と男の子が女の子にジュースを手渡しながらチラッと青波を見た。意志の強そうな瞳に思わず本で顔を隠しそうになる。


「おれ、光輝。君は?」

「え?」


 出会って、ものの数秒しか経ってないのに光輝は青波に向かって名を訪ねてくる。まさか話しかけられるとは思っていなくて、しどろもどろになりながら乾いた口を何とか動かして答える。


「えっと……青波」

「青波か、覚えた」

「わたしは澄花だよ! ねぇ、ここでずっと本読んでるよね? 外で遊ばないの?」

「いや、おれは……」


 フェンス越しにキラキラした目を向けてくる澄花を直視出来なくて、青波は本を胸に抱えたまま黙り込む。多分この二人も自分と同じくらいの年齢だろう。だからこそクラスメイトと同じような対応をされてしまうんじゃないかと不安で堪らなかった。


 そんな青波不安を他所に、光輝がフェンスの隙間から何かを青波に向けて突き出す。「ん、これ」とねじ込むように差し出されたそれは、光輝が今買ってきたであろうジュースの缶だった。


「あげる。ソーダだけど、飲める?」

「え、でも」

「気にしなくていいよ、おれがあげたいんだ」


 遠慮しようとしている青波の思考を察知したように、光輝がそう言って更に缶をフェンスの隙間に差し込む。恐る恐る手を伸ばして缶を受け取れば、満足そうに光輝が歯を見せて笑った。


「実は澄花が、結構前から青波のこと気にしてたんだ。晴れてる日は大抵ここで本読んでるだろ?」

「うん」

「なぁ、施設から勝手に出たら怒られる?」

「え?」

「本もいいけどさ、たまには一緒に外行かない? 色々面白い物たくさんあるよ」


 光輝の横で澄花もうんうんと頷いている。

 施設から勝手に出ても、門限までに戻れば怒られはしない。むしろ青波以外の子供たちは自ら遊びに出て行っている。でも自分にはきっと関係のないことだと思っていた。

 だって自分には、


「青波、友達になろうぜ」


 友達が、いない。

 

「…………うん」


 いないはずだった。


 なぜか溢れそうになった涙を懸命に抑え込むようにぎゅっと目をつぶって返事をすれば、フェンスの向こうで澄花が「やった! これで一緒に遊べるね!」と嬉しそうに光輝に笑いかける声が耳に届いた。


「でもおれ、外で遊んだことないから……多分上手にできないこと、多いよ?」

「ははは、そんなの今から上手くなればいいよ」


 そんなに心配するなよ、と光輝が笑った。



 その日を境に、青波学校終わりに二人と一緒に遊ぶことが当たり前になった。光輝と澄花は青波と同じ小学校で、二個隣のクラスだった。他人を拒絶して生きて来たから、そのことすら青波は知らなかったが、二人は青波が同じ小学校だと気がついていたらしく、後で光輝が「突然学校内で話しかけたらびっくりするだろ? 他の奴らもいるし。青波、人目気にしそうだもんな」と言っていた。

 光輝は学校の中でもとりわけ明るく友達がたくさんいた。それもあってか、光輝と仲良くするようになってからは自然と青波に対して強く当たってくる同級生も少なくなった。

 守られているようで情けないなと思う反面、光輝と澄花の暖かい雰囲気に安心している自分がいるのも事実で、二人のそばにいる間は自分が孤独であるということは忘れて、普通の子になれた。


 同じ中学にあがり、光輝はバスケ部に入部した。青波も何か部活に入ろうかとも考えたが、施設長から当時空手を教えてもらっていたこともあり、あえて帰宅部を選択した。運動部を選んだ光輝は生活リズムが微妙にずれることが多く、そういう時は料理研究部で比較的帰宅時間が早い澄花と一緒に帰宅した。かといって光輝との仲に変化があったかと言えばそういうことはなく、たまに男二人で海岸沿いに行き、堤防の上に腰かけて澄花には言えないような話に明け暮れたりすることもあった。


「ここの海岸のことは、澄花にも話したことないんだ。俺と青波だけの秘密基地な」


 いたずらっぽく笑う光輝に、青波も同じように笑って頷く。

 年頃にもなってくると、やはり男女の間には何かしら秘密ごとが生まれるものだ。

 澄花には多少申し訳なく思いつつ、男同士の秘密を共有するということがなんだか新鮮で、嬉しかった。


 そうこうしているうちにも時間はあっという間に流れ、進学の時期がまたやってきた。この頃になると個人の学力の差というのが顕著になってくるが、光輝と澄花に比べると青波の学力は決して良い方だとは言えず、二人と同じ高校に行くためにかなり一生懸命に勉強しなければならなかった。周りの生徒や光輝が推薦入試で進学を決め、澄花も塾に通って勉強し、目当ての高校の安全圏の判定を貰っている中、青波は毎晩独学で遅くまで勉強した。他の人の様にすらすらと勉強が頭に入ってこない自分が情けなくて、改めて自分のダメさに投げ出しそうになったこともあったが、どうしても諦めたくなくて懸命に勉強を続けた。そのかいもあってなんとかギリギリ三人はまた同じ学校へと通うことになる。

 高校生になるのを機に、青波は施設を出て一人でアパートを借りて生活するようになった。これは以前から心に決めていたことで、早く自立して一人前になりたいという心の表れでもあったと思う。

 安いアパートとは言え当然家賃は発生するし、食費や光熱費なんかも全て自分でどうにかしなければいいけない以上、必然とバイトをする時間が増えていった。施設を出てからしばらくは施設長の所へ通って空手を続けていたが、それもやがてバイトに当てるために二年生の秋に辞めてしまった。早朝のバイトをして高校へ行き、終わってからまた夜にバイトをするということも多々あった。そんな生活をしていると、暗いアパートに帰るたびになんだか空しくなってきて、時には何も食べずに布団に包まって一夜を明かすこともある。施設にいた時は必ず周りに誰かがいて、光輝や澄花と別れて帰れば、誰かが玄関で「おかえり」と迎えてくれた。


 ――俺は、施設にいた時……独りじゃなかったんだ。贅沢だったんだ。


 この時初めて、あの頃はまだ本当の孤独ではなかったのだと青波は思い知った。

 

 本当の孤独は、必ず真夜中に青波のもとにやってくる。

 光輝とも澄花とも別れて、バイト先からも離れて羽を休めるはずの家に帰れば……そこには本当の孤独が「おかえり」とも言わず、静かにこっちを見ていた。


 光輝は当然高校でもバスケ部に入り、中学の頃よりもさらに激しく練習に明け暮れる日々で、中学の頃に比べれば二人で話す機会はかなり減った。特に一年生と二年生の時はクラス自体が離れてしまったため、余計にもお互いに予定を合わせなければ顔を合わさないこともあった。澄花とは二年生の時に同じクラスになったからまだその間は接点があったし、彼女は高校に関しては青波と同じ帰宅部を選択していたため、青波がバイトがない日はクラスが一緒だとかそういうのは関係なく共に帰宅するようになった。

 澄花は青波が一人暮らしを始めたことに対して少々心配している節が強く、会うたびに「ちゃんと食べてる? ご飯作って持って行こうか?」と言ってくれる。そのたびにやんわり断りながらも、同時に家に帰ると少し寂しいだとか、そういう類のことは澄花には言わないでおこうと思った。さらに心配をかけるに違いない。


「青ちゃん、遠慮なんかしないでね。何かあったらすぐ言って。私がついてるからね」


 そう言って微笑む澄花の顔を見るたびに、どこかホッとする自分がいた。澄花は青波が知る中でも、恐らく一番優しくて暖かい女の子だ。光輝も同じような雰囲気はあるが、やはり女の子らしく世話を焼こうとする澄花の方が少しばかりその優しさが青波の目に強く映った。

 

 だけど、絶対に勘違いしてはいけないと言い聞かせるもう一人の自分もいる。

 澄花は青波を大切にしてくれているけど、きっとそれ以上に光輝のことも大切にしている。

 なぜならば、二人はずっと一緒に生きてきたのだ。

 青波と出会う、ずっと前から。


 青波には、二人と自分の間にちゃんと線引きをしなければいけないという気持ちが芽生えていた。二人は自分のことを構ってくれるが、それに甘えすぎてはいけない。本来二人だったはずの世界に、独りである自分がお邪魔させてもらっているのだから、絶対に二人の人生を邪魔するようなことはしてはいけない。二人と一緒にいることが心地よくて、何も考えずに高校までこうして一緒に歩いてきたが、ふと最近になって思うことがある。

 この先大人になった時、どうなるのだろうか……と。

 きっと、光輝と澄花のそばに、自分はいるべきではないだろう……と。



「悪いな、突然家に来てくれって無理言っちゃってさ」


 二年生の冬のある日、光輝の母親に呼ばれて新庄家にお邪魔した。なんでも彼の母が肉じゃがの材料を買いすぎてしまったから、消費のために食べに来てほしいという話だった。

 バスケ部の練習が終わるのをまって新庄家に一緒に行き、夕飯の席を一緒に囲わせてもらう。その日は珍しく雪が降りしきっていて、温かい肉じゃがは骨身に染みるように美味しかった。光輝の父と母は明るい人で、施設育ちの青波に対して嫌な態度をとることもなく「光輝がいつも迷惑かけてます。仲良くしてくれてありがとうね。余ったら肉じゃが持って帰ってね」と笑いかけてくれた。

 誰かと一緒に食卓を囲むのは施設を出てからはなかったから、少しだけ昔の風景を思い出しつつ、目の前に並んだ料理をありがたく噛みしめるように食べた。


 肉じゃがを持たせてもらって玄関を出れば、光輝が当たり前のように「雪降ってるし、寒いだろ。送っていく」とコートを着込んでついてきた。光輝がついてきても外が寒いことには変わりないのになぁと思ったが、多分気分的なことを言っているんだろうと思ってあえて何も言わなかった。

 雪の積もりつつある夜の道を二人で並んで歩く。住宅街ということもあって車の通りも多くはない。道路にうっすらと積もった雪がすべての音を吸収しているようだった。


「もうすぐさ、三年生じゃん」

「うん」

「そろそろ同じクラスがいいよな。お前と澄花は今同じだけど、俺高校生になって一回も青波と同じクラスになってないし」

「うん、確かに」


 吐く息を白くしながら、他愛もない会話をして歩く。


「青波はさ、高校卒業した後どうするんだ?」

「俺? そうだなぁ……」

 

 思わず沈黙してしまいそうになったのを何とか回避するために、うーんと唸って間を繋ぐ。


「……大学は行かないかな、勉強苦手だし。かといって秀でてるものも特にないし。卒業したらどこかに就職するか……それも難しかったら当面はバイトかなぁ」

「大学行かないのか」

「うん、大学行くなら働いた方がいいかなって」


 やりたいことも、なりたい職業もない。勉強だって不得意だからさと言えば、光輝が少しだけ悲しそうな顔をした。なんでそんな顔をするのか、青波にはわからない。


「光輝はバスケ続けるんでしょ? だったらバスケの強い大学がいいよな。いずれプロにつながるような大学」

「……ああ」

「都心の方にあったよね? 何て名前だったか覚えてないけど。それか思い切って県外とかの強豪大学狙ってみるってのもありかな? でもそれだとすみちゃんが一緒のところに行きたいって言うだろうからちょっと困るか。いずれにせよ光輝だったらどこに行ってもきっと」

「青波、」


 青波の言葉を遮るように光輝が名前を呼んだ。

 青波が振り返れば、光輝は数歩後ろで道端に立ち尽くしてジッと青波の事を見ていた。

 その視線に、青波は無意識に息を吞む。


「……お前さ、遠くに行ったり、しないよな」


 コートの両ポケットに手を突っ込んだまま、光輝が静かに言う。


「俺や澄花の前からいなくなったり……しないよな?」

「……え、」


 なんでそんな思いを光輝が抱いたのだろうか。

 ひょっとして、青波の二人に対する思いに気が付いているのだろうか。


「…………」


 何か言わなくては。

 そう思えば思うほど言葉が喉に詰まって出てこない。

 いなくなろうと思っているわけじゃない、ただ……この先も二人のそばに自分が居ていい未来が、見えない。ただそれだけなのだ。

 一拍置いて、息を整えて、再び光輝の方を見た。


「なに言ってるの、俺はいなくなったりしないよ?」


 笑って言ったつもりだが、多分少しぎこちない笑みになっていたんだろうと思う。

 光輝が何か言いたそうな顔をした。

 それを言わせないために、次の言葉を慌ててつむぐ。 


「いつだってうざいくらい二人のそばにいるでしょ! そんな俺がいなくなるわけないじゃん! 光輝は心配しすぎだよ~俺が家賃払えなくて夜逃げしちゃうとでも思ってる?」

「いや、そうじゃないんだけどさ。なんか……」

「……大丈夫だって! 心配しないでよ」


 ね? と精一杯笑って見せると、ようやく光輝もため息をつくようにして笑った。ゆっくりと青波のそばまで歩いてきて、横に並んだタイミングで再び歩き出す。


 内心、まだ青波の心臓はドキドキしていた。

 この心のわだかまりを、光輝に見抜かれたかと思った。

 大丈夫、多分、気が付かれていないはずだ。

 二人と、独りの……この心のわだかまりに。


「なんか、変な事言ってごめん」

「ううん、気にしてない」

「春になったら進路のこと本格的に考えろって担任うるさくてさ。それでちょっと柄にもなくナーバスになってるのかな、俺」


 だから変な事思ったのかも、と言う光輝に大丈夫だよ、と返す。


「冬だからってのもあるかもよ? 春になったら、意外と心晴れやかになってるかもしれない」

「なんだそりゃ、そういうもんか?」

「そういうもんだよ」

「はは、わけわかんねぇ」


 ようやくいつものように笑う光輝の声を片耳に聞きつつ、青波は足元に目をやる。

 雪を踏んで歩く足先は冷たい。でもきっと数か月後にはこの道にも桜が咲いている。本当のところ、高校を卒業したら自分は二人とは離れたほうがいいかもと思っている。そう思っているのは本当だった。


 ひょっとしたら、次の桜が三人で見る最後の桜になるのだろうか。


 まだ白く化粧をする木々を見上げながらそんなことを思った。



* * *


 ジリリリリと、青波の腕につけたデバイスがアラームを鳴らす。

 普段通りに飛び起きれば、もうすぐ出勤の時間だと気が付く。


 なんだか、とても懐かしい夢を見た気がする。

 一息ついて前髪を掻き上げながら窓の外を見れば、季節はもうすっかり初夏だ。


 そういえば、高校三年生の春が来て桜は確かに咲いたけど、結局自分の心は晴れなかったな……と思う。


「光輝は……少しは晴れたかい?」


 ここにはいない友人に、密かにそう問いかけた。

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