第7話 彼の心の影
とりあえず光輝は見つけたが、問題は彼にどう接触するかだった。こちら側に青波が存在しないということは、もちろんこっちの光輝とは初対面ということになるはずだ。ゆえにあちらは青波を一切認識していないということでもある。
――どうしようかなぁ。
背後で響くバッシュの音を聞きつつ、入り口横の壁を背にしゃがみ込んだまま考える。今自分がずかずかと体育館に侵入することはリスクが高すぎると青波は思う。元の世界ならまだしも、こっちでは知人の一人もいない。部外者どころの騒ぎじゃない。下手すれば通報されかねないと最悪のケースを考えてしまう。
――何かきっかけになるような事でもあればいいんだけどなぁ……。
例えば青波自身がめちゃくちゃバスケが上手かったとしたら、道場破りのノリでも使って体育館に堂々と入ることが出来たかもしれない。しかし実際はバスケどころか球技自体不得意だ。
そうして悶々と考えていると、ふいに背後からボールが開いたままの入り口をすり抜け、外へと転がっていった。どうやら体育館の中で誰かが投げたパスを誰かが取り損ねた結果らしい。テンテンと軽快な音を立ててボールは青波の目先へどんどん転がっていく。
「え、これ……」
取りに行くべきか? そう頭によぎったのとほぼ同時に背後から「おい、新庄取って来いよ!」という誰かの声が聞こえた。新庄というのは光輝の苗字だと、青波が反応して振り返ろうとした時、入り口から光輝が小走りで現れ、そのままボールを追いかけて青波の目先へと進んでいく。
「あ、」
遠くまで転がったバスケットボールを手にした光輝が戻ってこようと踵を返すのが見える。今なら話しかけられる。むしろ今話しかけなければ接触するチャンスはまた暫く巡ってこないかもしれない。
青波はその場に立ち上がると、体育館へ戻ろうとこちらへ歩いてくる光輝の前に駆け寄った。
「あ、あのさ! 新庄光輝君……だよね?」
幼馴染に今更君付けすることに猛烈な違和感を覚えながらも、顔に出さないように細心の注意を払う。自分は初対面だと言い聞かせて、なるべく粗相のない様に慎重に次の言葉を探していれば、問われた光輝が少しばかり小首を傾げて返事をした。
「そうだけど……君は?」
不思議なことに、光輝は不審者を見るような目で青波を見なかった。少しばかり口角をあげて笑って見せ、あくまでも相手を受け入れるという姿勢を見せてくれる。きっと青波が光輝の立場だったら、知らない人に話しかけられたら警戒心を前面に押し出してしまうだろう。光輝の人当たりの良さは、向こうと変わっていないらしい。
――さすがだなぁ。
彼の対応の良さで幾分か心が楽になった気がした。もう一度息を吸って、一拍間をおいて続ける。
「俺、佐伯青波……えっと、この高校の……じゃなくて、隣町の高校に通ってるんだけど、前に大会で新庄君の姿を見かけた時に、なんかかっこいいなって思って……それで友達になってみたいなと思って……」
自分でも何を言っているのか訳が分からなくなりそうで、必死で青波は言葉を繋げる。小学生のころ、初めて出会った時は光輝と澄花がリードしてくれた。今になって二人に感謝してしまう。自分からはきっと友達になろうとは言えなかった。人と知り合うということは、なんと難しいことなのか……。
ちらりと光輝の表情を伺うと、彼はどこか驚いたような顔をしていた。だがすぐにまた表情を緩めると「なるほど」と頷いて続けた。
「友達か、いいな。なんかそういうの」
両手で持っていたボールを左手に持ち替えて、光輝は右手を差し出す。
「光輝でいいよ。君は何年生?」
「えっと、同い年。だから……俺のことも青波でいいよ」
「一緒の三年生なのか。じゃあ尚更友達になれそうだ」
差し出された右手を素直に握り返してみる。光輝の手には青波の手にはない硬くなった豆がたくさんあった。ごつごつした部分を思わず指でさすりそうになって慌てて止める。あっちの光輝の手も、きっと恐らく豆だらけなんだろうな……と思いつつ、そういえば彼の手をしっかりと握ったことはなかったなと気が付いた。
「おい新庄!! いつまで油売ってるんだよ!!」
その時、体育館の中から先ほど光輝にボールを拾ってこいと叫んだのと同じ声が響く。ハッとして手を離して顔を上げれば、声の主は不機嫌そうに二人を見ていた。
「ごめんな。今戻るよ」
「なんだよそいつ、知り合いか?」
「ああ、友達」
「……どうでもいいけど、練習一丁前にさぼる前にやることやれよな」
それだけ吐き捨てるように言うと、声の主はさっさと体育館の中に戻ってしまう。自分が引き留めたせいで光輝が怒られてしまったような気がして申し訳なくなる。声をかけるタイミングを考えたつもりだったが、少しばかり配慮が足りなかったようだ。
「ごめん、俺が声かけたから……」
咄嗟に謝れば、光輝はゆるゆると首を横に振って「大丈夫」と言う。
その顔に、どことなく疲れのようなものが見えた気がした。
「気にしなくていい。俺が怒られるのはいつもだから」
「そうなの……?」
「うん。それより青波……もう帰る?」
この先の行動がノープランだった為に、その問いかけに一瞬固まるが、とりあえずなんとか首を横に振った。
「そっか。じゃあさ、練習終わるの待てたりする? 今日、俺はあと一時間くらいで終わりなんだ」
「え?」
「せっかく来てくれたし、少し話さない?」
「あ、う、うん!」
咄嗟に返事をしたものの、青波は今しがた光輝が言った「俺はあと一時間くらい」という発言が引っかかっていた。その言い方だと、まるで光輝だけ早上がりのように聞こえてしまう。
だが今そこに突っ込むのは適切ではないと思って口を噤んだ。
「よかった。じゃあ、悪いけどちょっと時間つぶしててな」
それだけ言うと、ひらひらと手を振って光輝は体育館の中へと小走りで消えていく。立ち去る一瞬、光輝の顔がどことなく陰っていた気がしたのは……気のせいだろうか。
青波は暫くその場に立ち尽くしていたが、おもむろに今さっき握手した右手を見る。彼の手の豆に触れた場所に、どことなくその感覚が残っている気がする。とても大きくて暖かい手だった。そういえば、あっちの光輝も自分は体温が高いと言っていたなと思い出す。
――体温があるってことは……やっぱりこっちの光輝も生きてるんだな。
例え片割れだとしても、やはり光輝は光輝だし、それ以前にこちらの世界でちゃんと生活を営んでいる……生きている人間なのだと、嫌でも実感した瞬間だった。
「…………」
相変わらずバッシュの音が響いてくる入り口を見遣る。
どこからともなく吹いたそよ風が青波の髪の毛を揺らした。
蝉達の鳴き声が、妙に遠くに聞こえる。
なぜか心に、小さなしこりが生まれた気がした。
* * *
それから青波は、ひとまず校門のところまで戻り、近くの植え込みに腰を下ろして光輝を待った。私服を着ている以上、校内をうろうろしていれば不審者だと間違われてしまうかもしれないという思いがあった。それに、自分がいない母校を見て回るのはなんとなく怖かったというのもある。
同じような世界なのに、自分がいない世界。
口の中で転がせば、それは酷く現実味がない響きをしていた。
「ごめんな、待たせて」
光輝が再び青波の前に現れたのは、その後一時間半くらいが経過した頃だった。
練習着から制服に着替えた光輝の姿は、今までよりもさらに馴染みのある感じがする。
「ううん、大丈夫」
「校内にはいないだろうと思ったけど、やっぱり校門だった」
「よくわかったね」
「はは、なんとなく」
ここにいるような気がしたんだよ、と光輝が笑う。
校舎の外壁についている時計を振り返って時間を確認しながら続ける。
「立ち話もなんだしさ、ファミレス行こう。せっかく来てくれたから俺がおごるよ」
「いや、奢ってもらうわけには……!」
「いいじゃん。久しぶりなんだ、誰かと行くの」
そう言って歩きはじめる光輝の後を青波は慌ててついて歩く。隣町の高校だと嘘を吐いたが、実際はこの高校が母校ゆえにファミレスがどこにあるかもわかっているが、ここはあえて大人しく光輝の少しだけ後ろをついて行くようにした。
ファミレスにつけば二人は窓際の奥のテーブルに向かい合うように座る。メニューを開いてドリンクバーと大盛りのポテトフライを注文した後、それぞれアイスコーヒーとロイヤルミルクティーを取って戻ってきた。
ロイヤルミルクティーを飲みながらちらりと光輝の方を見れば、光輝はソファーの背もたれに背中を預けて窓の外を眺めていた。その横顔に、どことなく光輝らしくない影を感じる。
――なんだろう、この……感じ。
形容出来ない違和感の正体を必死で模索していると、視線を戻した光輝と目が合った。
あ、と思った瞬間、光輝が笑う。
「ん? どうかした?」
「え、いや、なんでも」
笑顔こそ青波の知っている光輝なのだが、なぜだろう、なぜだか元気がない様に見えてしまう。まるで何かを隠しているような……。
「……青波?」
名前を呼ばれてハッとする。つい考えて一瞬黙り込んでしまった。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事してて……!」
慌ててそう言えば、光輝はどことなく困ったように笑って、それからアイスコーヒーを二口程度飲み込んだ。ストローを持ってグラスの中のアイスコーヒーをかき混ぜれば、氷とガラスがぶつかって綺麗な音が響く。
青波は暫く黙ってその様子を眺めていたが、やがて氷の音が鳴りやむのと同時に言葉を発したのは光輝の方だった。
「変だと思ってる?」
やっぱり気になるよな、と光輝が青波を見遣って言う。
一瞬何のことを言われているのかわからなくて、返答に困ってしまう。「え、」と言葉に詰まった青波を見ながら、光輝が少しばかり誤魔化すようにポテトに手を伸ばしながら続けた。
「俺が……俺だけこの時間に練習終わってること」
「…………」
言われて青波は先刻引っかかったことを思い出す。
体育館前で光輝が、自分はあと一時間くらいで練習が終わると言った……あの時、その言い方がどことなく気になったのだ。まるで、自分以外はまだ練習をするという風に聞こえて。
「…………」
なんと返せば光輝にとって負担にならないか、真っ先に思考が傾いたのはそこだった。恐らく何か理由があるに違いない。それはなんとなくわかる。そしてそれが……光輝にとってプラスではない理由だろうということも。
「気になってないと言うと、嘘になる……かな」
「……だよな」
おもむろに光輝がソファから少しずれて通路側に足を投げ出した。それからズボンの右足側を膝より少し上まで捲り上げれば、そこには黒いサポーターがしっかりと巻かれていた。
「もう痛めてしばらくになるかな。俺、右の膝が悪いんだ」
「え……原因は……?」
あっちの光輝は怪我なんか一切したことがない。ゆえに光輝が怪我を抱えているという目の前の事象に酷く動揺した。これは……これがシャルの言っていた片割れが負の部分を全て背負っているということなのだろうか。
「原因はいわゆるオーバーワークってやつ。練習のし過ぎだな。どうしても上手くなりたくてさ。一生懸命練習した結果がこれ」
右膝を摩りながら、光輝は目を伏せて言う。
短く整えられた爪が右手の指に乗っている。深爪をするほどに爪を切る癖はそのままだ。
「……治らないの?」
「治るには治る。でも、バスケをやらなかったらの話だけど」
捲り上げたズボンの裾を元に戻してソファーに座り直す。アイスコーヒーのグラスに手を伸ばして再びストローに口をつける。汗をかいたグラスから水滴が滴り落ちてテーブルの上に小さな水溜まりを作った。
「バスケは辞めたくないんだ。ちゃんと最後までやりたい」
「だけど高校のうちに治しておかないと、大学に行ったあと続けられなくなったりしない……?」
光輝の顔色を伺いつつ、ロイヤルミルクティーをちびちび飲み込みながら青波は問う。オーバーワークが原因で起きた怪我ならば、それは一度全てをやめない限り良くならないはずだ。実際青波自身も空手をやっていた時に手首を痛めたことがあったが、完治するには一度全てやめるという行動をとった。結局それが一番の薬だった。
いずれにしても、光輝にはまだこの先がある。今ここで怪我を悪化させてしまうことは賢明ではない。
だが、その考えは光輝の次の発言で間違っていたと気が付いた。
「大学では、バスケはやらない」
「……え?」
「俺のバスケ人生は、高校で終わりだ」
だから俺にとっては今が最後の時期なんだと、光輝はそう言い放った。
突然の言葉に、なんと返せばいいのかまたわからなくなる。
光輝がバスケを辞める? 将来プロ確実だと言われてる光輝が?
――あ、そうか……
自問自答した先で、はたと気が付く。
この世界は裏。目の前の光輝は片割れなのだ。
負を背負わされた片割れは……可能性までもなくなるということなのか。
シャルの顔が一瞬浮かんで、すぐに消えた。
「……大学に行ってからもずっと続ければいいじゃないか」
「そりゃ……俺がめちゃくちゃ上手だったら考えるさ」
「なら……!」
「でも残念。俺、青波が思ってるほど上手くないし、大学に行って続ける理由が生まれるほど上手くもない。大学に行ったらちゃんと就職できるように勉強しないとだしな」
何か思うところがあるのか、手持ち無沙汰にアイスコーヒーをかき混ぜる。
カラカラと氷が鳴り、グラスの水滴が徐々に底の方に落ちてまたテーブルを濡らす。
「チームの奴らの前ではこんなこと……悔しいから言わないけどさ、」
光輝が青波の方に視線を向ける。
「本当は俺がいない方が、チームの奴らは嬉しいんだろうと思う」
光輝の瞳は、冷めきった色をしていた。
それは今までに見たことがない、諦めの色――
「な、」
――なんで、そんなことを言うんだ。
そう口から出したつもりの言葉が、音にならなかった。
口の中がカラカラに乾いたような気がしてロイヤルミルクティーに手を伸ばす。
口の中に含んでも、甘いはずのミルクティーの味を感じない。
初めてみる光輝のネガティブな姿に動揺を隠せていないのが自分でわかった。
違う、光輝はこんなこと言わない。そう叫びそうになる。
でも、目の前にいる彼は紛れもなく新庄光輝だ。
同じ魂から分かれた……彼の片割れ。
「………」
小学生の時、初めて会った時のことを思い出す。
澄花の後からやってきて、ソーダの缶ジュースをくれた。
まるで昔から知り合いだったかのように、拒絶することなく接してくれた。
それはこっちの世界の光輝も同じだ。
ついさっき出会ったばかりの自分に、分け隔てなく接してくれている。
そして、心の内を……チームメイトに見せない顔を見せてくれている。
「…………っ」
ひょっとしたら、表の世界の光輝の影響で……青波に対してはどこか心を許しやすいのだろうか。
そう思った時には、もう青波の右手は自然と向かい合って座る光輝の左手に伸びていた。
元は一つの魂だ。
もしかすると、まだ魂と魂の繋がりが残っているのかもしれない。
「……光輝がいない方がいいなんて、皆そんなこと思ってないよ」
「どうだろうな。俺はお荷物だからな」
「…………っ」
そうじゃないと精一杯首を横に振る。
これが、負を全て背負わされたもう一人の光輝の人生だとは思いたくなかった。
こんな、こんな悲しい顔をする彼を……見たくない。
「もっと、光輝の思いを……聞かせてよ」
「……俺の?」
「うん。普段抱えてること、思ってること、不安なこと、怖いこと……なんでもいいから、俺に教えてほしいんだ」
「はは、そんなの知ってどうするんだよ」
そう言いながら光輝が笑って流そうとする。
それを阻止したくて、自然と彼の手に重ねた手に力が籠った。
じんわりと彼の手の甲から熱が伝わって、青波の掌をほぐす。
視線をあげると、彼はどこか驚いたような顔をしていた。
「俺は……他の高校だから、光輝と共通の友達もいない。だから愚痴を言ったりしてくれても大丈夫。誰かに漏れたりしない。そもそもちゃんと内緒にする」
「……青波」
「だから……」
本当は高校が違うどころかこの世界の人間ではない。
でもそれを言うわけにはいかないし、仮に言ったとしても信じられないだろう。
ならば、この世界の筋書きに沿って寄り添うほかない。
「……お前、優しいな」
ふいに呟くように光輝がぽつりと漏らした。
「なんでだろうな、青波とは今日初めて会ったはずなのに……そんな感じしない。すごく気が楽だ。息がしやすい」
「……光輝」
ソファーの背もたれに全体重を預けるようにもたれて、光輝は天井を見上げた。
それから暫く無言のまま、時が流れる。
ファミレス内の物音も、ウエイトレスの声も、全てがまるでラジオから流れてくるように感じる。
「少しだけ、俺の話してもいいか?」
やがて口を開いた光輝が言う。
うん、と返事をすれば、彼は姿勢を戻して座りなおしながら長いため息を吐いた。
「青波にだったら話せるかも。俺の……心の影……汚い部分の話」
アイスコーヒーの中の氷がカランと音を立てた。
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