幸運は波に乗り……

 正直、いつ事務所に戻ってきたのかも定かでないくらい、俺は頭がクラクラしていた。こんな幸せな時間が過ごせるなら、俺は毎日、昼前には会社へ帰って来たい。


 会社の廊下を歩きながらも夢見心地でフワフワする俺の横から、ミーが肘で脇腹を小突く。ビクッとなったが、こいつ程度が邪魔したところで、俺を幸福夢想から引き戻すには至らない。


 みんなで事務所へ入った後も、至近距離からひたすらボーッと俺の女神を眺めていると、事務所にいた一人の女性社員がその女神へ話しかけた。


 えーと。この子、なんて名前だっけ? 


 女性社員の名前を思い出せないなんてどうかしてるな俺。

 黒髪ショートで地味な印象だけど……そう、名前も少し地味だったような。


 むむむむ……。


 俺が神妙な顔をして無闇やたらに見つめていたからか、その黒髪ショートの女性社員は無表情で軽く会釈をする。ミー以外の女の子に慣れていない俺は妙に意識してしまい、しどろもどろになってしまった。


「あー! そうだ。寝咲くん、まゆと喋ったことあるー? この子、結構奥手だからさぁ、喋ったことないかも。紹介しとくね、『田中真弓たなかまゆみ』。だからわたしは『まゆ』って呼んでる。よく一緒にまゆとランチ行ってるんだぁ」


「あ、どうも」と言った人見知りの俺はきっと顔が固かったと思う。


 話によるとどうやらこの子は奥手らしいが、俺だって似たようなもんだ。

 女子と話すのは得意じゃない。そもそも得意なら二四年間も童貞やってない。


 自分で言うのもなんだが、俺は見た目はそんなに悪くないと思っている。細身で、ある程度の身長もあって、顔もそんなに悪くは無いはず!


 以前これをミーに話したところ、「なまじ見た目に自信持ってるから余計に始末が悪いわぁ」とからかわれてしまい結構イライラした。

 

「まゆは可愛いのになかなか彼氏できないからなぁ。良い人がいたら紹介してね!」


 横へ頭をかたむけたせいで真下へフワッと垂れた髪。この世のものとは思えないほどに美しく柔らかい笑顔。

 彼女の様子がいちいち俺の心臓を鷲掴むから、甘い声が逐一俺の身体にビリビリと電気を走らせるから、俺はその都度、放心してからのリアクションとなってしまうのだった。


 ミーは、無礼にも完全に俺たちへ聞こえるほど大きなため息をつき、自席へ戻って行った。


「新堂さん、何か怒ってるのかなぁ。ずっと機嫌悪そうだったし。わたし、何か悪いことしたかなぁ」


 愛原さんは、そのプルンと柔らかそうな唇に人差し指を当てながら悩ましげに言う。


「い、いやいや、気にしないで! あいつ、情緒不安定なんだよたまに」

「それなら良いけどね! 今度、まゆと寝咲くんとわたしで、ランチ行こうよ。あ、飲みにでも良いけど。二人とも今日の夜、空いてる?」


 とくん、と心拍が高鳴る。


 今までの人生、ひとつたりとも思い通りになんてならなかった。

 望み通りに事が進みすぎて怖い。

 残りの人生の運を全部使い果たしていたとしてもおかしくない。

 俺、明日あたり死ぬんじゃないだろうか?


「あ、仕事忙しいよね。全然暇なときでいいから」

「あ、いや大丈夫! なんとかして帰ってくるよ!」

「嬉しい! きっとね! じゃあ、仕事のこともあるだろうから、夜八時とかの開始にしようか」

「いいの? 愛原さんは、仕事、もっと早く終わるでしょ?」

「下の名前で呼んでくれていいよ。わたしも『ネム』って呼ぶねっ! みんなはね、わたしのこと『さや』とかが多いかな。大丈夫、まゆと一緒に買い物してるから」


「キャピっ」という音が聞こえてきそうだ。


 漫画で出てくる、女の子の裸を見て鼻血が出るシーン。

 こんなの実際には起こらねえだろと思っていたが、俺は今、なんだか鼻血が出てもおかしくない気がした。愛原さんが目の前に裸でいたりしたら、絶対、出る……。


 俺は、ズボンの外に出していた会社指定の作業着の上着の裾を、股間の前にキュッと手で引っ張った。


 ふと気がつくと、妄想に揺れる俺を、田中さんがじっと見つめていた。

 俺はその目にハッとする。あたふたと手を動かし、目線を飛ばし、今の今まで頭の中を占領していた妄想を悟られまいと努力した。


 それにしても、綺麗な目だ。


 美人というより可愛いというのが似合う。華奢な身体が、思わず護りたくなるような疼きを男の心に起こさせる。

 愛原さんと違って、色気ムンムンな感じじゃなく。

 なんというか……そう、清楚。この言葉がぴったりだ。


 何か会話しないと……と焦りながら身体を固くする俺。

 そうこうしているうちに、田中さんは目線をそらしながら小さく会釈して、自席へと戻っていってしまった。


 その後ろ姿を見つめる俺の背後から、まるでDNAにまで刻まれているのではないかと思うくらいに嫌悪感を感じる声がして、俺の脳を嫌な感じで揺さぶった。


「よう、愛原くん!」

 

 俺は、振り向くこともなく顔をしかめる。イントロクイズのように、一瞬聞いただけでもわかるその声の主は、高田だった。


「こんなクズと喋ったりしたら、クズが感染うつるぞw どうだ、うまい寿司を食わせる店があるんだ。今日、仕事が終わったら一緒に行こうや」


 俺を見下すように目を細める高田の顔を見ながら、俺は、拳を握りしめた。

 

 こいつは、いろんな女性社員に声をかけ、いつも二人でご飯を食べに行ったりしてる。その中には、手を出した女性社員もいるって噂だ。


 仕事のことは俺がミスってるんだ。だから、百歩譲って仕事で何かを言われるのは良しとしよう。

 でも、愛原さんのことを俺から奪うのだけは、絶対に、絶対に我慢できない。

 

 神様。


 どうしてこんな、何もかもがうまくいかないんだ。いったい俺が、何をしたってんだ。



 と──



 絶望し、うつむく俺の視界の中で、愛原さんの身体が俺に近づく。

 なんだろうと思う間もなく、突然、彼女は俺の腕に抱きついた。


「今日はわたし、ネムと、ご飯食べるんです! ネッ、そうだよね!」


 顔を上げた俺の目に飛び込む、天使のような笑顔。

 愛原さんが浮かべた迷いのない笑みは、俺の心臓をズキューン! と撃ち抜いた。


「あっ、うん! そうだよっ」


 高田は目を白黒させ、愛原さんと俺を交互に見る。

 相当驚いた様子だったが、口をパクパクさせながら、なんとか気持ちを持ち直したようだった。


「は、はあ……? こんな奴と? 良いところがカケラも見当たらんクズじゃないか。君みたいな子が、こんな……それに、『ネム』って、君ら……」

「そうですかぁ? ネムは、すごく男気あって、カッコいいと思いますけどね。じゃあね、ネム。また仕事が終わったら!」


 こう言い放って自席へと歩いていく愛原さんは、途中で振り向き、小さく手を振った。


 間違いなく、俺だけを見て笑顔を作る。彼女は笑うとエクボができて、余計に可愛くなるのだ。

 唖然とする高田を尻目に、俺は無心で彼女に手を振った。


      ◾️ ◾️ ◾️


 幸せな昼休みを終えて再び外回りに出た俺は、トラックを運転しつつゼウスを起動し、テレビをつける。


 意識の中に現れるモニター映像は、自分の目によって取得する視覚情報とは別であるため、運転も同時にできるのだ。

 この感覚は、体験した人にしかわからないだろう。いちいちスマホやナビなんかを操作する必要もなく、すべてのことが頭の中だけで完結してしまう。


 つまり状況的にいうと、俺は今、頭の中でテレビを見ながら、頭の中に目的地へのナビを出現させ、目で道路状況を確認しつつ車の運転をしている。

 そして、その「テレビ」に映し出されているのは昼の三時頃にいつも放映されている情報番組だった。


 そこで流されているニュースの内容に既視感を覚える。アナウンサーの話をざっと聞く限り「戸建の一般民家が爆破された」という内容だった。


「これさ、どっかで見た気がするんだけど、なんだっけ?」


 俺は、俺の意識の中にだけ存在するノアとルナに「思う」ことで話しかける。

 ベッドの上でスナック菓子をバリバリ食べながら、ノアが回答した。


「朝のニュースだよ。あれと同じようなケースだね」


 ……同じような? って、これじゃなかったっけな。

 ああ、そうだ。そういや、朝やってたのはマンションの一室の話だったはず。じゃあ、これ、別件?


「物騒だなぁ。こんな何件も爆破されるなんて、世も末だろ」

「これは、ゼウスが関係してるね」

「は? なんで? お前、なんか知ってんの?」

「お前って言うなっつったろドアホ。もう忘れたのかこの鳥頭!」


 こっちの気になるワードを口走っておきながら怒った挙句に俺を放置し、お菓子を置いて次はおもちゃに夢中になり始めたノア。

 代わりにルナが俺のそばへ来る。


「眠れば全てがわかるよ」

「ええ? てか、お前ら……いやごめん、そんな睨むなよ。いやいや、君たちだって俺を『お前』って言うじゃん。不公平だろ! ……まあいいわ。ルナたちは、そういうこと、全て把握してんの?」

「そういうことって?」

「いや、ほら。なんか、世の中の、『実はこうです』みたいな。なんか上手く言えねえな。裏事情みたいなのをさ」

「ゼウスが把握していることはね。だって、ルナたちは『ゼウスの化身』だから」

「あ──……。まあ、そりゃそうか。じゃあさ、ノアもルナも、電気回路を経由して俺がゼウスを操れるように──てか、正規で『ゼウスの全権保有者』ってことだろ? なら、俺がピンチの時、ちゃんと助けてくれよ」

「ルナたちの力は、ネムネムと同じじゃない」

「なんでだよ」

「なんでもだよ! うるさいな、しつこいんだよこのドーテーが」

「てめ、都合が悪くなるとドーテーって言ってんじゃねえか!? わかってんだぞ!」


 ルナが殴りかかってきて俺のアバターが吹っ飛ばされる。痛くはないが、ここがまるで無重力空間であるかのように俺はすっ飛んで、壁にドーン、と激突した。


 ん? 待てよ?

 こいつら、ゼウスの化身? 全権保有者?

 まさか……。


 俺は、床で四つん這いになっていた自分のアバターを起こして、ノアとルナを見ながら、恐る恐る尋ねる。

 

「あ、あ……あの。も、も、もしかして、ゼウスの中だけじゃなくて、俺のPCとかも無断で見れちゃう?」


 おもちゃで遊んでいたノアが、ピタッと手を止める。ルナが、顔を赤くしてうつむく。

 


 なんか嫌な予感が。


 

 ノアが目を細めて吐き捨てるように言った。


「ああ。お前のPCどころか、ゼウスにログインしているお前の視覚映像・聴覚情報は全部わかる。ぜーんぶ、ね」


 ある種の絶望感が、俺の身体を冷たくした。そしてすぐさま、カアッと身体が熱くなる。


 見られていた。


 全て。

 俺の、自分の家での行いが、ルーティーンが、全て。

 こんな子供に。いや、そりゃAIだけど。


 俺はなんだか泣きたくなった。



 現実世界の道路を走る俺のトラックが交差点を左に曲がる。

 辛うじて精神を立て直した俺は、左の巻き込みと後部オーバーハングの振り出しに注意を払う。


 ゼウスを使って運転すると、若干注意力が散漫になる感覚があった。

 まあ、それはそうだろう。いくら「脳内テレビ」と「眼球で得た視覚」が別映像とはいえ、それらを認識する「意識」は一つだ。同時に二人以上の人間の話を聞くのと似ているだろうか。いろんなことを同時に把握するのは、結局のところ難しそうだ。


 考え事をしながら運転していると、電話が掛かってきた。


 ゼウスで電話を受ける時、「着信音」なんてものは無い。通話要求があったことは、ゼウスが教えてくれるのだ。どういう感じになるかというと、

 

「電話だよ。『新堂ミミ』からだ。出る?」


 とノア。


「ああ、頼む」


 と俺。

 これらは全て、俺の頭の中で「思うだけ」で行われている。


「おっす。今日、中原たっちゃんと飲むんやけど、ネムは何時頃に仕事終わりそう?」


 俺は大好きな愛原さん……違う、もうそんなよそよそしい呼び名ではなくなった! さやちゃん、いや、さや! と! 一緒に飲むのだ! 貴様なんぞとつるんどる場合ではない。

 が、そんなことバカ正直に言ったら、こいつ押しかけて来そうな気がする。「じゃあ一緒に飲もーっ!」ってな感じで。


 よし……。


「悪いな、ちょっと遅くなりそうなんだ。二人で楽しんできてくれ」

「はーん……そりゃお疲れさん」


 ナイスアシスト! っていう中原の声が聞こえてきそうだ。


「そういや、さっき高田が『ミミちゃん、今夜どう?』とかキモい感じで誘ってきたわぁ。クソうざいから『今日はたっちゃんと飲むんですぅ』って、たっちゃんの腕に抱きつきながらイヤミっぽく言ってやったら、なんか涙ぐんでたな。あいつ、今日はなんかあったんか?」


 俺は、つい吹き出してしまった。「さあ」とだけ答えて、俺たちは電話を終える。

 

 俺はさやと仲を深め、中原はミーと仲を深め、みんな幸せになるという完璧で素晴らしい流れが出来上がっている。

  

 ルンルンする俺の意識内で、ノアが納得いかなさそうに、


「嘘ついた」

「……いや、だってよ。ミーのやつ、きっと邪魔してくるんだぜ?」

「なんか、かわいそうだなー。せっかく誘ってくれたのに。友達は大事にしろ」

「うっ。……俺だってすでに先約が入ってんだよ」

「一緒に行きゃいいじゃんか」

「……絶対やだ」


 なぜか気に食わなさそうに俺を見るノア。

 俺はこいつを意識の中のアバターの目で一瞥いちべつした後、トラックを少し飛ばし気味に走らせた。

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