序文~本編を前に~

 東映に入社して京都撮影所に配属されたのは昭和三十三年の春ごろ、肩書は企画部所属脚本要員、映画を職にするならシナリオと決めていた。

 理由は一人で出来る仕事だから。

 六十年以上も前のことゆえ、今、この小文を読もうとしてくれている人の多くは未だこの世に生まれていないと思う。

 昭和から平成にかけて、テレビやネットなどの普及で映画館に来る観客の数はどんどん減って行き、映画を職業にする人間の一人として、時流の波にどう乗るか、どう戦うか、七転八倒の日々を送るなか、警察沙汰にならずとも、記憶にのこる「人間喜劇」とも言える映画の事件を世代の違うみなさんに話して裁きを受けるのも意味あることと思いこの小文を書くことにした。

 映画は観客にお金を払って観て良かったと思わせ、出資者に利益を提供する、まぎれもない商売で独りよがりで済むものではない。

 人間の良いところだけでなく、醜いところ、恥ずかしいところ、かまうことなく造り話にして生きた人間に演じさせて商売する。

 この罰あたりの仕事の元になる台本を書くのがシナリオ作家である。

 高田がどうしたか。

 セリフ、つまり、会話を何よりも大事にした。 

 集団で暮らす人間が普通に生活をするのに欠かせないのはお互いの会話、その手段となる言葉は、男や女、土地や職業によって異なり、別けても、日本語には多様で味わいのある言い回しがある。

 映画の会話、その魅力はかぎりなく深く技として練り上げる価値があり、これだけは誰にも負けない業師になろう。

 いっぱい、映画を観て、本を読んで、いっぱい、人に会った。

 名の知れた小説家、学者、政治家、やくざの親分から死刑囚まで。

  

 この投稿のサイトのキャッチコピーになっている、

「なめたらいかんぜよ」

 の、夏目雅子の啖呵で知られる、

「鬼龍院花子の生涯」の監督、五社英雄さんは言いました、

「女はみんなさびしがって生きている、男は口惜しがって生きているけど」

 時代が変わって、男と女の区別があいまいになっても、映画で描かれるドラマの核心になるのは、男と女、その人生の綾、愛、恨みつらみのカラミに違いあるまい。

 昨今、漫画やアニメに押されて劇映画が苦戦している。

 同じ顔で口パクの線で書いた人間の劇に負けるのは会話がつまらないから、心に残るセリフがないから。

 若い作家諸君は会話を書き流している。

 言葉の持つ力を知らない。

 言葉は口から出たら戻せない。

 相手の心に入ってしまう。

 その怖さを使って観客の心に食い込め。


 ライン、と、言うのか、ネットなどでの会話が日常になってーー

 言い過ぎた、相手が気を悪くしている、取り消そう、さっきはごめん、またね。

 こんな感じですましてしまう。

 これを、言いっぱなしと言う。

 相手を傷つけたまま。

 会話は対面でするものです。

 相手の反応を目で見て訂正はその場でしよう、頭を下げて。

 ネットで中傷し欠点を言いふらし良い気になっている下劣な行為は論外、自分の心をズタズタに切って、その傷は一生消えない。


 最近、若い人の自殺が増えて気になっている。

 苛(いじめ)は今にかぎったことではないが、ネットが暗い犯罪にした。

 悩みを持つ友達に同情して一緒に飛び降り自殺をする事例もあるが、明かに人間としての自分が分かっていない未熟のせいである。

「一緒に死のう」

 そこに至るまで、どんな会話があったか? 死は遊びのツールではない。

 どうすれば良い?

 困ってしまう。

 スマホは間違いなく生活を便利にするツールです。

 悪いヤツは悪だくみに便利使いするから厄介だ。

 人はみなスマホを手に下を向いて歩いているからやりたい放題。

 今、我々の周りに悪事を指示する悪人の声が電磁波になって飛び交っている。

 地獄やで。

 八十九才になった高田は、こんな風に生きています。

 朝、目が覚めたら、今日一日、全力で生きよう。

 生きると言う行為は、若いひとは意識しないけれど、年をとると自覚するようになる。 まだ、保っている命が愛しくなるから。

 先日、若い脚本家諸君が拙宅に来てね、一人が、脚本家として何時の時期が最も充実していたと思うかとたずねた。

 高田は、即、今と応えた。

 体力は少しは衰えたかもしれない、が、脚本家として、円熟の極みに入ったとの自信はある。

 若い諸君、死、なんて、ほんの一瞬でも心に近づけたらあかん。

 ゴミみたいに吹き飛ばさなあかん。


 高田は高校の同人誌で、ビルの屋上から飛び降りたとたん後悔して、落ちて行くわずかな時間の気持ちを小説にしたことがある。

 多分、失恋がもと。

 なんであんな女に、と、自分を取り戻しても、もう、間に合わない。

 高三の卒業前、一年下の女子生徒が好きになってね、マドンナ、と呼ばれるお嬢さまで高嶺の花やった。

 小説を読んでくれて、興味を持ったらしく、つきあった、と、言っても、デートは、映画鑑賞と大阪城公園の二度だけ、受験勉強が手につかず、京大を落ちてしまった。

 すると、マドンナから葉書が来た。

「わたしのことを忘れて、勉強、がんばってください」

 母親が読んで怒った、

「女にこんなこと言われて口惜しないんか」「ひとの手紙読むな」

「子どもは母親のもんや」

 むちゃくちゃ、だが、応えた。

 こんな母親をもったら、子どもは自殺なんかしない。

 勉強して、次の年、東大に合格した。

 マドンナは神戸の由緒ある女子大を受けて落ちたと聞いた。

 手紙を書こうかと思った、

「ぼくのことを忘れてーー」

 もともと、何にも思ってくれてない、そう、気づいて止めた。

 その人の面影は今も心の隅に焼き付いている、あの頃のまま。

 女には勝てない、マドンナも母親も、この思いが「極道の妻たち」など、映画で女性を書くにあたって高田のドラマ造りの根底になってね、

「女やとおもうてなめてたら、血の一滴かれるまで戦うで」

 こんなセリフになっている。

 マドンナとは後日談がある。

 高田が社会人になってから京都にたずねて来てくれて、あの頃、婚約者が決まっていた、相手にせかされているけど、心がさだまらない、どうしようーー

 こたえられるか?

 高田も東京に結婚を約束したひとがいた。 それを言えば、ドラマはあっさり終ってしまう。

 男のズルサ、思いやりとも言う。

 三畳一間の寮で朝まで話あった。

 手も握らず。

 神戸への阪急電車の始発。

 四条大宮で見送った時の別れの言葉は忘れていない。

「さよなら」

 これも、言葉です。

 後に高校の名簿でその人の名を見た。 

 亡くなっていた。早くに。

 言葉にならない言葉もある。


 東京で研修を終え社会に旅立つ時、専務の送別の辞は、

「映画で有名になるなら監督になれ、金持ちになるなら脚本家になれ、プロデューサーは賤業だから、止めておけ」

 賤業とは、いやしい、と、言うこと。

 出資者にぜったい当たるとウソついて、スターに胡麻すって出演させる、後は監督以下のスタッフをこき使う。 

 これをいやしいとしたら映画はなりたたない。

 高田が脚本をえらんだのは金ではない。

 話が面白い、と、みなに言われ、喋りすぎて失敗したことも数かぎりなく、それなら、職業にしようと、まあ、そんなところ。 

 劇場用映画だけて百五十本、テレビは数知れず、八十九才と言う齢になって、映画について話をしたくなってね、kadokawaの投稿サイト「カクヨム」のユーザーに若い人が多いと聞いて、最高齢の投稿者になるのもわるくないと思った。

 マドンナの話はメロッぽいけど、青春の記録としてのこる軽い事件の一つ、業界の誰もが知っている大きく重い事件もある。

 高田が心の奥に秘める、昭和の素晴らしい、俳優のこと、芝居のこと、勿論、映画のセリフのことも、思いつくまま話ます。

 反響がもひとつなら、即、この小文の寄稿は取りやめます。

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