事件七 昭和の東京。
事件七 昭和の東京。
原宿、と言うと、明治神宮、竹下通り、インバウンドもありの混雑が思いうかぶ。
学生時代(昭和30年代前半)の高田の住まいは、国鉄の駅から竹下通りに入ってすぐ右手の露地の奥。ある立派な邸宅に隣接して、旧居の平屋建てがあった。その八畳ほどの部屋を学友三人で、現代でいうシェアー、残りの二間に二人づつ、出身地も学校も夫々違っていたが、お茶を飲んだり麻雀をしたり、わいわい、仲良くやっていた。庭を挟んで離れ屋があって、同じ東大の学生がひとりで居ると聞かされていたが、会うことはなかった。
高田が暮らす建物は古く、今にも壊れそうで便所(トイレ)など壁にしがみついて用をすまさないと
今の方には信じられないと思うが、竹下通りには、野菜、魚、雑貨を一緒くたに扱う店と、寿司屋が一軒、あと、煙草屋、小さな郵便局があるだけで、歩いても青山通りまで人と会うことなどなかった。
月に一度、親の仕送りがあると、かつ丼を食べるのが愉しみの「増田屋」の向かい、青山通りに面して銭湯があった。離れ屋の主である先輩の名は、
山田さん。
法学部で秀才や。たまに、露地で出会って無言の会釈はしていた。敬意をこめて。
銭湯で、たまたま、ばったり。
高田のことは、大家さんから後輩と聞いていたらしい。
屋台のおでんをごちそうになった。
関西では関東煮(かんとだき)と言う。
慣れない東京暮らし、お汁粉のつもりで、「ぜんざい」、を頼むと、餡子のかたまり(関西では「亀山」と言う。小豆の名産地から)が出て来た。
「中華そば、ください」、
はりきって注文したら、大笑いされた。(なんて言えばいいの?)
電車内で年より押しのけて座るヤツに「アカン」と注意したら、
「どこの国から来た?」
そんな顔された、頃のこと。
山田先輩、大根の食べ方を教えてくれた。
「煮の薄いほうから並べてあるので、まず、薄地で舌をならして」。
おでんの呼び名は豆腐料理の
法学部にしては知識が広い。
先輩は趣味の映画を仕事にすると。
就職先は、松竹。
山田洋次さんやった。
監督は、原宿での高田とのことは覚えておられないと思う。奇しき縁で、その後、第一回日本アカデミー賞(1978/昭和53年)で、
「幸せの黄色いハンカチ」(脚本監督 山田洋次) と、
高田が脚本を担当した「日本の
自身も助演男優賞にノミネートされ、同席していた川谷拓三が、やはり「幸せの黄色いハンカチ」の武田鉄矢に最優秀助演男優賞を持って行かれて、
「あんなシロウトに、負けた、胸クソわるい、付き合うてや」
と新宿のT風呂(当時)で、
「先輩にはナンバーワン、わしのは、分かってるやろう」
二人分の入浴料とボーイにチップをはずんだ。
「河内のオッサンの歌」と、言う、放送禁止になった歌をもとにした映画で主演を張って、天にも上る気分でいたに違いない。(※「河内の~」は主演、「ドカベン」「日本の仁義」「ピラニア軍団ダボシャツの天」の作品を含めた「助演」ノミネート)
山田洋次と高倉健の組み合わせに一般投票で勝てるはずもなく、大部屋俳優から個性を生かし「ひたすら努力」でのし上った、タクボン(川谷)の支持者は多く、それでええやろう、とは言わなかったが、東映の番線(公開する映画のプログラム)を支える立場にあった高田としては、東映ヤクザ路線の終末を感じさせる出来事ではあった。
ある西洋の哲学者の言葉、
「嫉妬とは、評価された相手が、それに値しないと思う感情である」
誰にでもあることです。
高齢になった高田でも、たくさん、ある。競争する歳ではないので、知らぬ顔をしているだけ。
T風呂や、やけ酒や、何かに当たり散らして憂さ晴らしをする手もあるけど、自分を見直す良い機会と思う余裕も持とう。
「仁義なき戦い」以後、「その後」、とか、「新」のつくシリーズも三年しかもたなかった。
「事件六 ヤクザ映画。その栄光と
あの、健さんが、幸せを求めている。
東映が、高田が書いた、「ヤクザもの」、と、される映画の主人公は、もれなく、殺人でドラマをしめくくる。
どんな理由があっても、自分の幸せは求めない。
山田洋次作品との決定的な違いで、世の人は、黄色いハンカチで歓迎した。
どうする、東映、と、言うところや。
映画「日本の黒幕」は、そう言う時期の企画です。(※「事件五 祇園の殺人者」で綴った、大島渚監督が高田のホンを投げたエピソード参照)
山田監督は一九五四年の松竹入社で、一年下の大島渚さんは京大の法学部出身で次の年に入社されているはず。
同じ助監督として、相反する路線を行くことになるが、
一九六九年「男はつらいよ」で、山田監督が日本国民の文化財的な映画を世に出したころ、大島監督は「絞死刑」や「儀式」などで映画ジャーナルの寵児になっていた。
一九六十年の安保闘争をきっかけに学生の反体制運動は暴走して、武装集団になり、東大紛争(一九六八/昭和43年)やあさま山荘事件(一九七二/昭和47年)など、戦後最悪の流血事件になっていた。
「とめてくれるな、おっかさん、背中のいちょうが泣いている、男東大どこへ行く」
東大紛争の年、小説家・橋本治の名コピーが東大駒場祭のポスターに出されて評判になったが、映画では背に華やかな唐獅子牡丹を背負ってドスをふるい、白刃の林に切り込む高倉健の壮絶な勇姿を、絶対権力の壁に挑む戦いに重ね合わせる。大衆は劇場が揺れ動くほど支持した。山田、大島、お二人が、それをどう見ておられたか?
たぶん、別世界のこととして見ておられたと思う。
高田が信頼する映画史の権威、伊藤彰彦君は言う。
「日本映画界は、一時期、大衆相手と、特定のファン相手に造られたアート系の映画の二つの流れがあった」
アート系。東映は、すくなくとも、京撮は、全く無関係。
大島さんは、「天草四郎時貞」(一九六二/昭和37年)を東映で撮って失敗している。数年後「日本の黒幕」で東映から思いがけなく再度のオファーがあって、自分の世界の映画が造れると思われた。
そのきっかけになった映画がある。
「日本の夜と霧」
(監督 大島渚、脚本 大島渚、石堂俊郎 一九六〇/昭和35年)。
松竹の映画で、わずか四日で会社によって公開を打ち切られた。
つづく。
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