事件一 母のビンタ 

事件 一 母のビンタ


 自分は高校二年までお茶と平等院鳳凰堂で知られる宇治に住んでいて、小遣いをためて京都で映画を見るのが愉しみでね、当時の京都は四条通りや北大路など市内の端々まで市電が通っていたから、方々、観て回って、嵐山などの名勝地も人出は少なく、近くの広沢の池や大覚寺で時代劇映画のロケに出会って、ずっと見ていて日が暮れてロケバスに乗せてもらい、撮影所の前で下ろされて、お金がなくなっていたから、宇治まで歩いて帰ったことがあった。

 何時間かかったか、もう、ヘロヘロで、母親が家の前で寝ずにまっていて泣いてひっぱたかれた。

 十年ぶりのビンタ。

「映画なんて不良が見るもんや」

 反論したかったが、戦後の苦難の中、父親は病気で床についたまま、母親が宇治川の畔で茶店を出して一家を支えてくれていた。

 改心して映画断ちをして東大を出て映画会社東映に入った。

 高田家は元々大阪の東、今里で町工場をしていて、その頃、父親も元気になり、工場の跡地で食堂を営んでいた。

 一家を仕切るのは常に母親で、付き合いが広く、東映の入社が決まって社会人として実家に帰ると、

「オタクのボン、東大出て、なんで映画会社になんか入りはったん」

 近所のおせっかい焼きに言われたと、母親がぼやいた。

 十年近くたっても、まだ、不良とおもっている。

 就職難で採用してくれる会社が他になかったからと弁解すると、学校の先生なら何とかなったやろうと来た。

 不良の息子を先生にして喧嘩の仕方でも教えろと言うのか。

 実は新聞社など他にも行く先はあって迷ったが、映画をえらんだのは最初に採用通知が来て他所には行かないと誓約書をとられたから、これはほんとです。

「東映いうのか、チャンとした会社やろな」「株式の一部上場、日本の百社にはいる会社や」

「入るからには社長になりや」

「事務職と芸術職があって、芸術にした」

「何やる?」

「映画を造る仕事や、クロサワ、ミゾグチ、世界でみとめられてる」

「誰や、それ?」

「監督や」

「あんたも、なるのか?」

「シナリオを書く」

「儲かるんか?」

「撮影所で最初に挨拶した作家の先生はシナリオ一本で百万とりはる」

 百万で家が建った時代、これもほんと。

「ええがな、頑張りなはれ」

 母親が大阪のおばはんでよかった。

 

 高二のあの日、観た映画は「哀愁」です。

 主演は「風とともに去りぬ」で、世界中の男を虜にした、ヴィヴィアン・リー、相手役はロバート・テイラー、恋愛の映画でこれ以上のカップルはない。

 第二次大戦のさなかのロンドン。

 たった一夜の恋。

 男は戦争へ、女はバレリーナになる夢を追いつつ再会の日を待つ。

 新聞で男が戦死したと知る。

 絶望した女は病に伏し、親友が身を売って

助けてくれる。

 それを知った女は自分もおなじことを。

 だが、男は生きていた。

 奇跡の再会。結婚へ。ためらう女に勇気を与えたのは男の変わらぬ愛であった。

 男は貴族の血をひく名家の跡継ぎ。

 見たこともない豪華な暮らし、花嫁になる女を見に来た一族の冷たい目。

 男の父親代わりの長老は女を気にいって家柄を汚さない花嫁とみなに認めさせる。

 親友は大人の分別の持ち主で、男との結婚に反対して言った、

「女には、幸せをつかめるひとと、つかめないひとがある」

 女は耳をかさない。

 華やかな婚約披露の宴。

 女の心は乱れる。

「君の瞳におそれが見えるのは、なぜ?」

 男が言う。

「幸せ過ぎるから」

 宴のあと、寝室で一人になり、迷う女を男の母親が会いに来て言う、

「はじめて会ったとき、あなたはふつうじゃなかった、息子が死んだと思ったからだったのね、もう、すんだこと、息子の目はただしかった、あなたはこの家の嫁にふさわしいひと、仲良くしましょう」

 母親は去った。

 女は叫んだ、

「待って、お母様、わたしは、ご子息と結婚できません」

 ここからの、ヴィヴィアン・リーの演技、

何よりの見どころはセリフだ。

 母親を演じた女優もすごい。

 二人の呼吸、間合い、口には出せない事実をめぐって、女の心の中にある迷いを消そうとする母親の苦悩は、愛する息子の幸せを願うから。

 女はその愛に立ち向かって行かねばならない、悲劇の結末へ一直線のたたみこむようなやりとり、心臓が止まる緊張を観客も共有してしまう。

 日本のスクリーンで活躍する女優さんたちにぜひ見てほしい。

 少年高田はヴィヴィアン・リーに恋して恥ずかしいほど泣いた、泣きぬれた。

 生きた人間による芸術表現としての映画の持つ力に、少年の純粋な心が打ちのめされ虜になったのは間違いない。

 去年、「哀愁」原題「ウオータロー橋」を久しぶりに観てね、高田もセリフでは誰にも負けないとの自負はあるが、ヴィヴィアン・リーに惚れなおしてしまった。

 覚えていることを再現します。

「母親というものは、息子に大きい期待をするものなのよ」

 このセリフが前の場面にあって、怖い予感が観客にある。

 セリフによる伏線。

「何か問題でもあるの、それなら、話しあいましょう、解決できない問題などないから」

「明日朝、ここを去ります」

「ほかに、男の人でもいるの」

「愛してるのは、あの方だけです」

「では、どうして」

「言えません」 

「どうしてなの」

「お母様には、お分かりにならないこと」

「まさか」

 母親は否定してほしい。

 最愛の息子のために、

「いま、お母さまが、心で想像なさったことです」

 永遠に姿を消します、あの方にはなにも言わないでください、おねがいです、言わないと、約束してください。

「約束するわ」

 終ってしまった、女のすべてが。

 彼と初めて出会った、霧のウオータロー橋で、女は車列に身を投じて死にました。

 高二の春から、ボクの映画への気持ちは変わっていません。

 母さん、カンニン。

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