事件二 旅立ち 苦い洗礼
事件二 旅立ち、 苦い洗礼
京撮(東映京都撮影所)に配属になったと東京本社の新人研修で世話になった先輩社員に報告すると、京都はベテランの職人が多いから扱(しご)かれるぞ、と、脅された。
撮影所の裏手にある独身寮の三畳一間に落ちついて窓を開けると、中庭こしにニューフェイスの女子寮があり、チラホラそれらしい人影が見えて、思わず顔が赤らむ自分が恥ずかしく、翌朝、冷水で身を清め、月八百円の寮費に含まれる卵と梅干し味噌汁つきの丼めしを力にして、生まれて初めての背広ネクタイで身心をひきしめ撮影所の正門をくぐるとヒョロッとした男が前に立って、
「おはようございます、東京から来られた幹部候補の方ですね、おまちしておりました、俳優のーーです、どうか、よろしくおねがいいたします」
と、丁寧な挨拶をされた。
見ると、着流しの町人髷で撮影所の俳優にちがいなく、
「こちらこそ、よろしく、おねがいします」 最敬礼した目の前に手が差し出され、握手かと握り返そうとすると、
「すみません、財布を忘れて、百円、貸してくれませんか」
「あ、はい」
内ポケットの財布から百円札をぬいて渡した。
人生最初に出会った映画俳優は礼も言わずサッサと門を出て三条道りに出るまで何軒かある食堂の一つに幻のように消えた。
早業と言うか余りの呼吸の良さにポカンとしていると、守衛さんが同情顔で、
「やられはったな、新人さんは、みな、ねらわれるのや」
「ああ、そう言うことか」
初任給は一万三千五百円と世間並でさほどの痛手ではなかったが、いきなり、百円の寸借サギは先輩に脅されたシゴキにしてはショボすぎて、待ち合わせをしていた同期の何人かに被害を受けたかどうかたずねると、何もなかっと言う。
つまり、高田が選ばれたと言うこと。
「なんでや?」
撮影所には大部屋と呼ばれる名前も顔もない俳優がいるのは知っていた。
時代劇が売りの京撮には俳優になりたい一心で大部屋に入ってチャンスをねらうものが多く、立ち廻りや危険なスタントで、スター俳優や監督に認められてポスターに名前がのる俳優になった例もあると聞いていた。
百円の俳優はどうか?
影がうすく暗かった。
「幽霊がでるらしい、苛められてクビを吊った大部屋の」
同期の一人が真面目に言う。
幽霊が金をたかってメシ食わんやろ。
思いつつ、そんな気もして、もし、職場がお化け屋敷ならそれなりの覚悟がいる、百円を咎める気はないが、正体だけは見届けたかった。
正門を入ってすぐ左手に細長い二階建てがあり、宣伝や製作部、ーー組と監督の名のつくスタッフルームが廊下をはさんで十室ほど並んでいる、その二階に総務、経理、所長室があり、真ん中にある企画部が高田の職場で係長が待っていてくれて、部長や何人かいたプロデューサーに挨拶をすませ、昼休みに所内を案内してくれた。
広い駐車場を囲んで試写と音録りを兼ねた建物や食堂があった。京撮自慢の新築の俳優会館の前には、映画でおなじみのスターが立ち話をしていて、ポカンと見ていると、
「うつ向いていそがしそうにするんや、そやないと挨拶ばかりして仕事にならんしな」
係長に注意された。
十数棟ある分厚いコンクリートで防音したステージは撮影と建て込みで満杯状態、昼休みでも本番の赤ランプが点滅して、静かに、と、緊張した声がひびき、撮影所に来た実感で胸があつくなった。
監督など主要スタッフや、ベテラン俳優に会うと、昼まなのに、「おはようございます」と、係長は挨拶する。昼夜のない業界の挨拶と知っていたので、気分を出してまねをしたら、新米は未だ早いと叱られた。
今は映画村になっているオープンセットで大がかりな馬の走る撮影があって、大部屋がみな見物人に出ていると聞いて百円の俳優を探したが見当たらない。
最後に俳優会館で結髪や衣装部屋を見学した。
ベテラン職人さんに旗本退屈男や遠山の金さん、鞍馬天狗など、大スターの持ち役の
そっと覗かせてもらった最上階の部屋の表札に、片岡千恵蔵、市川右太衛門、両御大を東西にして、中村(当時)錦之助、大川橋蔵、大友柳太朗、美空ひばり、など、大スターの名がズラリとあった。
若いひとたちに馴染みはないかも知れないが、その人が出演すれば間違いなく映画館が満員になる時代で、二階に大部屋もあると聞いたが、もう、百円俳優にはなんの関心もない。
外に出て、掲示板にギッシリ並ぶーー組と監督名のある張り紙に気が付いて、これは、と、係長に聞くと、香盤(こうばん)と言うもので、その日の撮影の予定を、ロケーションなら場所、セットならナンバー、撮影台本の場面の下に出演する俳優と役名が書いてある。これから、現場の実習もあるから、朝、入所したら、まず、これを見るように、と、言うので、端役の人も、と、聞くと、大部屋でも役名がつけば名が書いてあるーー
胸騒ぎがした。
すんだことや、忘れよう、でも、念のために、と、自分に言い聞かせ一枚づつ目を凝らした。名前は自己紹介されて覚えていた。
阿の字から始まる変わった苗字、
「あった」
場面は墓場。役は死骸。
感動した。京撮はすごい。人の使いかたを知っている。
怖いと言われたベテランの職人さんは優しかったし、「おはようございます」と、挨拶したら、スターは「よろしく、がんばってね」と、温かくこたえてくれた。
高田の使い方も知っているに違いない。
ここが職場でよかった。
果たして?
つづく。
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