ヴィオラ・ディスアビリティ
@kanazawaituki
第1話 四肢そがれた君と
8月1日
彼女の名前はヴィオラ。
戦後処理の奴隷市場のリストの中にその名前を見つけた時、私は背中を凄まじい悪寒が駆け抜けていく感触に冷や汗を流した。
まさか生きていたとは思いもしなかった。
直ぐに通いの商人を呼びつけ、研究用に取っておいた鉱石を売り払ったが手持ちが心許無い。
リストの競売開始価格は彼女の地位と名声を考えればひどく低いように感じたが、今まで奴隷というものに興味を持ったことが無かったのでそういったものなのかもしれないと考え直した。
きっとここから値が吊り上がっていくのだろう。
一体どれほどの資金を用意すれば良いのか分からなかったから、明日もう一度通いの商人に来てもらう事にする。
家財道具も必要最低限を除いて売ってしまおう。
魔道具もだ。
彼女に比べれば全ては塵芥に等しい。
競売は一週間後。
急がなければ。
8月7日
この1週間は目の回るような忙しさだった。
家の中のありとあらゆるものを売り、家中を掃除して回った。
こうしてみるとこの家も結構広かったのだなと一人で悦に浸ったが、その感覚を共有する相手は時折壁の穴から顔をのぞかせる鼠のデュークくらいしかいない。
寂しいものだと自分でも思うが、明日彼女を落札できればこの空間には………。
いや、変に期待しすぎるのはよそう。
元王国騎士団、烈火の剣姫と呼ばれたヴィオラの事を欲しがる人間なんてごまんといるはずだ。
私が彼女を手に入れられる確率なんて無きに等しい。
とにかく私が気を払わなければいけない事は、明日寝坊しないようにすること、そして会場へ向かう道のりや現地でスリに合わないようにすることだけだ。
落札できなければ帰り道も気を付けなければいけない。
もし落札出来たら私は…………
気付けばもう日が変わっていた。
この日記を途中まで書いたところで随分長い事ボーっとしてしまっていたらしい。
明日は早い。
私はもう寝ることにするよ。
おやすみ、デューク。
穴の前に置いておいたチーズは前祝だ。
存分に堪能してくれ。
8月8日
言葉にならない。
ちくしょう。
まさかっ………あんなっ………
(1ページ丸々を使って乱暴に書きなぐられている。)
8月10日
昨日はあまりに動揺しすぎて日記など書く気分には到底なれなかった。
もう書く必要も無いのではないかとも思ったが、やはり日記はつけていくことにする。
いや、これは日記などではない。
(何事かを書き走ってはグシャグシャと上から消した後が数行続いている。)
何といえば良いのか分からない。
でも、これは記録だ。
私が読み返し、過去の自分に誤った言動が無かったか、彼女を傷つけてはいまいか、彼女の為だけを想って行動できていたか、それを確認するための記録。
最初に抱いた決意が揺るがないようにするための記録。
今、誰が目にするでもないこの日記で神に誓おう。
私はもう誰にも彼女を傷つけさせない。
私の全てを投げうってでも彼女を救って見せる。
彼女は怯えた獣のような目を私に向け続けているが、そのこと自体はどうでもいい。
それが当たり前だと思うからだ。
数日前までは、いつか彼女の気持ちがほんの僅かでも自分に向かってくれればと甘い事を考えていたが、その考えも捨てる。
ただ願うのは。
彼女がまたいつか剣を持って自分の足で立ち上がるようになれること。
例えその剣が私に突き立てられることになろうとも。
私はそれをあまんじて受け入れようと思う。
彼女の名前はヴィオラ。
私が過去に一目惚れをした、隣国の烈火の剣姫。
◇ ◇ ◇
ガチャリと音が鳴って部屋の扉が開く。
私はその音が鳴るよりも前からその扉を睨みつけていた。
「…………」
「…………」
その男は扉を開けた瞬間にベッドの上に寝かされていた私の視線に気づき、無表情のまま私に視線を返してくる。
できる事であれば今すぐに剣をとり、この男の心臓を貫いてここから逃げ出したかったがそれは叶わない。
今もこの男を睨みつけるだけで。、首に施された奴隷紋がじわじわと締まっていく感覚に呼吸が細くなる。
………。
いや、殺さないのは奴隷紋のせいなどではないのだ。
例え奴隷紋に首の骨を折られようとも、私はこの男を殺せるならば殺していただろう。
「………痛むのか?」
そう男が言った言葉に私は思わず舌打ちをして横を向いた。
私はいつの間にかもう動くことの無い自分の四肢に視線を移していた。
未練がましく自分の手足を見つめていた自分にも、まるでこちらの事を気遣うようなセリフを吐くその男にも反吐が出る思いだった。
「………」
「………」
私がその男の言葉を無視し続けていると、男はやがて諦めたのかコツコツと足音を立てながら私の横へとやってきた。
私は男と反対側の壁を睨み続けていたが、男はそれに構うことなく私の寝るベッドの横の椅子に座る。
ゴトリという音は男が手に持っていた湯桶を床に置いた音。
よくもまぁ飽きもせずに続けるものだと思う。
「………すまない、一回持ち上げるぞ」
「………」
男の手がゆっくりと私の身体へと伸びてくる。
その手が私の首の下へと差し込まれようとする瞬間。
「うがぁっ!!!!」
「っ!?」
私は思いっきり上半身を捻り、男の腕へと嚙みついた。
「ぅぐっ……!」
よくもまぁ飽きもせずに同じことを繰り返すものだと思う。
自分もこの男も。
男が思わず腕を引くと、万力でも締め上げるような勢いでその男の腕に噛みついていた私も勢い余ってベッドの上から床へと落ちた。
最早動くことの無い手足では受け身を取ることなど叶わず、思いっきり顔面をうったけどどうでもいい。
「………大丈夫か?」
頭上から降ってくる声に私は肩越しに振り返って、できる限りの憎悪を漲らせた視線をその男にぶつけてやった。
視線の先には、私の歯型から血を滲ませる男の腕。
「………」
「………」
暫くガチガチと歯を食いしばって威嚇してやると、その男はやがて小さくため息をついて部屋から出ていった。
「………」
しかしすぐにまた扉の向こうから現れた男は、真夏だというのに長袖の革のコートを着込み、手にも分厚いミトンを嵌めている。
完敗だ。
この程度の防具で、もう今の私では太刀打ちができなくなる。
「すまない。こんな………」
こんな………なんだというの?
猛獣の世話をするような服装をしてということ?
「………」
「………」
構わないわよ。
今の私には猛獣ほどの価値はない。
むしろこの世に私より価値の低いものなど、もう残されてはいないだろう。
「起こすぞ、頼むから暴れないでくれ」
「………」
腕のあちこちに私の歯形がついてなお、この男は未だに最初はコートもミトンもつけずにやってくる。
まるで私に噛まれることが日課だとでもいうかのように。
男がまた私の身体の下に手を差し込んできても、今度は私も噛みつこうとはしなかった。
されるがままに仰向けにされ、滑り込まされた枕にそっと頭を下ろされる。
まるで大切な赤子の世話でもするかのように。
「………すまない、服を脱がせる」
「………」
今日何回目の「すまない」だろう。
この男から聞いた言葉の中で一番多いのがこの「すまない」。
何をするにも「すまない」。
私が一枚だけ着ている男の物と思われるシャツのボタンを外し、身体を持ち上げながらそれを脱がしていく。
できるだけ私の身体を見ないように顔を背けるのは、汚いものを見たくないからってわけ?
「…………」
「…………」
また「すまない」と口を動かしかけて止めた男は、私の下半身に履かされた布のオムツに恐る恐るといった様子で手を伸ばしてそのボタンを外した。
途端に今まで薄っすらとしか漂っていなかった汚物の匂いが部屋に充満し、私の鼻孔をつく。
男の鼻にも私の汚物の匂いが届いているだろう。
「………」
「………」
しかし私が睨みつける先で男は一切表情を変化させることなくその汚物まみれのオムツを近くにあった籠の中にいれ、先ほど床に置いた桶へと手を伸ばした。
パシャッと湯が跳ねる音の後に、タオルを絞る音が部屋に響く。
「………」
「………」
男は、今度は完全に無言のまま、一糸まとわず汚物だけを身体に張り付ける私の身体を拭き始めた。
汚物だらけの尻と股を拭いて2枚目のタオル。
また尻と股を拭いて、3枚目のタオル。
動かない脚を拭いて4枚目のタオル。
毎日毎日。
いったいこの男の家には何枚のタオルがあるのだろう。
「………」
「………」
ポタ………と、男の汗が私の身体の上に落ちる。
ポタポタと、次々に落ちる。
暑いはずだ。
真夏なのだから。
「………すまない」
「………」
それに気づいた男がまた謝りながらコートの袖で自分の顔を拭い、すぐに私の身体に落ちた汗を拭う。
まるで自分の汗が汚れだとでもいうように。
「………ふぅ」
「………」
結局10枚以上のタオルを使って私の身体を拭きあげたその男は、小さく息をついてからやおら立ち上がった。
「………もうちょっと辛抱してくれ」
「………」
男が向かうのは、シーツにも布団にも私の汚物の染みがあるベッド。
男は数日前よりも随分と慣れた手つきでシーツをはがして丸め、タオルと同じ籠へとそれを放り込む。
布団をはがし、たたんで持ち上げると「すぐに戻る」といって籠と一緒にそれをもって扉の向こうへと消えた。
「………」
今日は晴天。
ベッドの脇の窓は雨の日以外はいつも僅かに開かれ、レースのカーテンが風にそよそよと揺れている。
段々と部屋の臭気が消えていくと、代わりに漂うのは甘い花の香り。
「………」
顔を動かして見上げてみれば、随分と殺風景な部屋に一つだけ置かれた机の上に、質素な花瓶と白い花束。
「………」
昨日から男が部屋に置き始めたものだった。
「………すまない、遅くなった」
完全に部屋の空気が入れ替わった頃、男は新しい布団を手に扉の向こうから姿を現した。
「………」
その布団の上には、私の新しいオムツとシャツ。
男は固い表情のままベッドの上に新しい布団を敷き、その上に糊のきいたシーツをかけていく。
メイドがいるような気配はこの数日間で一度も感じていない。
まさかとは思うが、この男がシーツに糊をかけているのだろうか。
「………持ち上げるぞ、暴れないでくれよ。危ないから」
「………」
そういうと男はまた赤子でも扱うかのように私をそっと持ち上げ、ベッドの上へ静かに身体を横たえた。
皺の無いシーツ。
気分が良くならないと言えば嘘になる。
「………」
「………」
無言のまま男が私にオムツを履かせ、上半身を抱き起してシャツを着させ、抱きかかえられるようにして身体を横たえさせる。
「………」
「………」
「………薄い布団だけ、腹にかけておくから。………暑かったら言ってくれ。食事を作ったらすぐにまた来る」
「………」
ベッドの脇の壁を睨み続ける私にそう言って、男は静かに部屋を後にしていった。
「………」
オムツを隠す様に、薄い布団を身体の上に掛けてから。
◇ ◇ ◇
2時間ほど経ってから、その男はまた部屋の扉に姿を現した。
私はまた男が姿を現す前からその扉を睨みつけていて、扉を開けた瞬間にその男と視線がぶつかる。
「………」
「………」
男の手にはいい香りのする湯気が立ち上る鍋。
「………すまん、またおかゆだが………今度料理を教えてもらう約束をしたから………そうしたらもっとましなものを作る」
「………」
男は僅かに情けなさそうに眉をハの字にし、しかしすぐにまた固い表情に戻って私のベッドの横にある椅子へと腰を下ろした。
「………」
「………」
グゥゥ………と腹の虫が鳴るが、それを殴って止めることもできやしない。
私は苦々し気に男から顔を背けて壁を睨みつけたけど、鼻孔を付くおかゆの匂いに口の中に次々と唾が湧いてきて益々イライラした。
カチャ、という音は男が手に持ったお盆を机の横に置いた音だろう。
「………起こすぞ」
壁を向いたままの男の手が首の下に差し込まれると、
「………」
「………」
「………」
「………噛まないのか?」
男が僅かにトーンの上がった声でそう聞くものだから、私はすぐさま上半身を捻って男の腕に噛みついてやった。
「………」
「………」
でも、
「………起こすぞ」
「………」
今度は男はそのまま私の身体に腕を回しきってグイと身体を起こしてくる。
「………壁に背を付けるぞ………いいか? 離すからな?」
「………」
男が私の背中から抜いた腕についた歯形からは、血は滲んでいなかった。
「今日はモルの実を入れてみたんだ。酸っぱいのは大丈夫か?滋養がつくんだ」
「………」
「俺は子供の頃は苦手だったんだが、今は結構好きでな。少し味見をしたが、そう悪いできじゃないと思う」
「………」
気分でも良いのか珍しく饒舌に話すその男は、私が睨みつけるのには付き合わずに机の上に置いてあった鍋へと手を伸ばす。
蓋を開けた途端にモルの良い香りが部屋に充満し、私の腹はまたグゥと大きな音を立てた。
「少し時間を置いたから熱くないと思うんだが………熱かったら吐き出して良い」
「………」
「不味くても吐き出して良い。 すぐに作り直す」
「………」
初日に口に入れられた途端私が男の顔に吐き出してやったのを、何を勘違いしたのかこの男は「すまない、口に合わなかったか」といっておかゆを作りなおしてきた。
二度目、三度目、そして四度目に作り直してきたおかゆを、私が根負けして一口だけ飲み込んだ時、男が安堵したような顔でため息をついた光景は、何故か毎日のように頭の中で繰り返される。
「じゃぁ、口を開けてくれ」
「………」
「………ほら」
「………………………………ぁ」
目の前にグイグイとおかゆを乗せたスプーンを差し出され、私がそっぽを向いたまま僅かに口を開いた途端にそれが押し込まれてくる。
「………」
「……………」
「………食えるか?」
「……………」
「そうか」
私がプイと顔を背けたのを、また何か勘違いしたのかこの男は初日のようにホッとため息をついた。
「………ほら、もっと食ってくれ。足りなければもっと作る」
「…………」
「…………ほら」
「…………………………………ぁ」
そこからはもう男も無言だった。
カチャというスプーンが鍋に当たる音と、私が喉を鳴らしておかゆを飲み込む音だけが暫くの間静かな部屋に響き渡る。
男がおかゆを飲み込む私の事をじっと見つめ、私はそっぽを向いたままトロトロしたおかゆをゆっくりと咀嚼しては飲み込んでいく。
何度となくそれを繰り返し、私が無意識に「……………ぁ」と口を開いたところで、
「すまない、今ので最後だ。もう少し食うか?」
と男の声が響き、私は耳まで赤くなって男の顔を睨みつけた。
「………待っててくれ、すぐに作ってくる。………女性がどの程度食うのかよく分かっていなくて」
「………」
しかし男はそんな私の睨みには表情を動かさず、すぐさまお盆を持って立ち上がり部屋から出ていこうとする。
「…………」
既に私の腹の虫は鳴らなくなって暫く経っていた。
「………………………いらない」
「っ!?」
その背中を睨みつけながら私が一言だけそういうと、男は目が飛び出るのではないかと思うような表情をして肩越しに私を振り返った。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「………ちょ、ちょっと待っててくれ。飲み物を持ってくるのを忘れたんだ。すぐに持ってくる」
「……………」
そう言って男はここ数日で初めて聞くドタドタという足音を響かせながら扉の向こうへと消えていった。
「……………」
まるで、何かが嬉しくてたまらないとでも言うかの様に。
◇ ◇ ◇
「…………」
今日も晴天。
朝、あの男は朝晩二回のルーティーンになっている私の身体拭きを終え、今は部屋の中に私一人きり。
「…………」
部屋の窓はベッドよりも少し高い位置にある。
一人では身体を起こすこともできない私には雲一つない青空しか見えないけど、僅かに開けられた窓からは街中の声や音が響いてきていた。
「…………」
その窓から響いてくる音の中には、恐らく男が庭に干しているのであろう洗濯物がパタパタと風になびく音も混じっている。
少し強い風が吹くときに響く重い音は、丸洗いしているであろう布団の音だろうか。
「…………」
何もできない私はただ耳に聞こえてくる音を聞きながらここ数日を過ごしていた。
馬車が道を行く音。
子ども達が遊ぶ声。
時折甲高く響く女達の笑い声。
「…………」
しかし今日気になっているのはその窓から聞こえてくる音ではなかった。
音と声が聞こえてくるのは風通しを良くするために開かれている部屋の扉から。
しかもその音と声に合わせて、何やら凄く美味そうな匂いまで漂ってくる。
「あぁっ!!違いますってリュート様っ!!! それは後からっ!!」
「す、すまん………」
「リュート様火が強いっ!!弱めて弱めてっ!!」
「すまん………」
「…………」
声の主はあの男と甘く鼻にかかるような若い女の声。
「ちょっとリュート様っ!!あははっ!!」
「す、すまん………」
「も~♡ 良いですから作り直しましょっ!」
「い、良いのか? 時間が………」
「気にしない気にしないっ!どうせこんな事だろうと思ってましたよ♡」
「しかし………」
「大丈夫ですってば!カノン様もリュート様が料理を習うなんて一大事だって言って丸一日掛けて教えて来いって言ってましたし」
「うぬっ………」
「しかし稀代の大魔導技士様が料理が苦手って………薬の調合と似たようなものだとおもうんですけど」
「………全然違う」
「そうですかねぇ?」
「そうだよ」
いつも私に話しかける時より、男の声はリラックスしていて優し気な響きがする。
「はぁっ!!?身体拭いてるだけなんですかっ!!!?湯あみはっ!?」
「えっ………い、いやしかしっ………」
「まさか髪も拭いてるだけっ!!?」
「いやっ………そのっ………」
「かぁぁぁぁぁっ!!!信じられませんっ!!!」
「し、しかしどうすればっ………!!」
「調合に使ってたでっかい桶どうしたんですかっ!!?」
「あぁ…………」
「あぁじゃなくてっ!!!どこにあるんですっ!!!」
「いや………その………質屋に………」
「料理の前にその桶買い戻してきてくださいっ!!!!!」
「…………」
だから何だという訳ではないのだけれど。
「…………」
長い時間聞こえてくるその楽し気な声に、私はずっと耳を澄ませていた。
◇ ◇ ◇
「起こすぞ」
「…………」
その男は私の背中に無警戒に腕をまわし、ふわりと私の上半身を持ち上げる。
数日前から始まった湯あみのお陰か、今までベトベトだった私の長い銀髪は上半身の動きに合わせてサラリと私の顔にかかった。
「壁に背中つけるからな。………良いか?離すぞ?」
「…………」
その男は今はもう厚手のコートを羽織っておらず、手にもミトンはつけていない。
「…………」
その代わりについているのは、まだ消えていない歯の形についた傷跡と、指に巻かれたいくつもの包帯。
私がその歯形と包帯をじっと見つめる中、男はまったくこちらのそぶりになど気を払わずに「ふぅ」とため息をついて椅子に座った。
「今日はベスに……えっと……知り合いに魚料理を教えてもらったんだ。上手にできたと…………その………さっきは上手くできたんだが………というか魚は嫌いじゃないか?」
「…………」
私はためらいがちに小さく首を振るけれど、男は机の上に置いたお盆を見ていたせいかそれに気づくことは無かった。
「っ………!!」
何故私が赤面などしなくてはならないのか。
叶うならばぶん殴ってやりたい、この男。
「柔らかく煮るコツを教えてもらったから食いにくくは無い筈だ。骨も気を付けるが………もし小骨があったらすぐに吐き出してくれ」
「…………」
もう頷いたりなどするものか。
私が男を睨みつけると、そういう時に限って男と真正面から視線がぶつかる。
私が真っ赤な顔をして睨みつけていることに男は珍しく動揺して狼狽えたが、私もどうしたら良いのかよく分からなくなって男の事を睨み続けていた。
「ど、どうしたんだ?何か気に障ったか………?」
「…………っ」
「す、すまないっ………」
「~~~~~~~っ!!」
男の表情に根負けしてプイッ!!と顔を背けると、その男は今までで一番情けない声を出してまた謝ってくる。
何故か私は益々顔が熱くなり、意味が分からない感情が胸の奥からこみ上げて来て思わず怒鳴り声を上げそうな気分だった。
「と、とりあえず食事をっ………」
「…………」
オロオロとした声を上げながら、男は慌ててお盆にのせた食器に手をかけ、
「あっ…………!!」
「っ………!?」
息を呑んだ男の叫び声に驚いて振り返ってみれば、今まさに男の手から滑り落ちた皿が床に衝突する瞬間だった。
パリンッ!!!!!
と響いた音に、私は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
私のせいだ。
慌てさせたせいだ。
「……………」
「……………っ!!!」
「……………す、すまないっ!!」
「~~~~~~っ!!!」
床に飛び散った皿の破片。
上手にできたと僅かに嬉しそうな表情を浮かべた煮魚。
青い顔をしながら素手でそれを掴み、折角作ってくれた料理をゴミでも扱うかのように拾い集めていく男の背中。
「本当にすまないっ!!すぐにっ………作り直して………いやしかし材料がっ………」
あせあせと自分の服のすそに煮魚と割れた破片を集め、青い顔をして男がそう呟き、
「す、すまない………今夜はおかゆでも………」
眉を八の字にして私を見上げた瞬間、私はもう堪え切れなかった。
「…………………それでいい」
「っ!!!!!?」
しわがれた声。
ここ最近連日のように聞く、あの女の甘い声とは随分違う。
それもそうだろう、まともに喋ってなどいなかったのだから。
声も綺麗だなんて褒められたのはいつの事だったろうか。
「それでいい」
腱を斬られた四肢では、指を差すこともできやしない。
私は男の服の裾にのった、ガラスの破片が混じった煮魚を真っ直ぐに睨みつけた。
「っ………!! そんな訳にいくか。おかゆを作ってくるから………」
「それでいいっ!!」
「っ!!?」
別にガラスの破片まで食べようって訳じゃない。
「駄目だっ!!」
「っ!! 破片取ってくれればいいでしょっ!!食べられるわよっ!!」
「そんな訳にいくかっ!!駄目ったら駄目だっ!!!」
男は顔を青くしたり赤くしたり、怒っているような、笑っているような、泣いているような、形容しがたい表情をしたまま初めて声を荒げた。
「それがいいのっ!!!」
「っ………!?」
何を言っているのだろうか私は。
もう自分が分からない。
敗北し、守るべきものを失い、捕らわれ。
「食べさせてよっ!!!!!」
「だ、駄目だっ………」
屈辱を与えられ、拷問を受け、腱を斬られ。
「なんでよっ!!!!!!!」
「危ないし汚いだろっ!」
カビの生えたパンを口に押し込まれ、泥水を注がれ、固く冷たい石の上で鎖に繋がれ。
「破片は取ってくれるんでしょっ!!!!それにっ………汚くなんかないわよっ!!!!!!」
「っ!!」
やせ細り、虚ろになり、もう仇を取る意思も失いかけ、早く死にたいとさえ思った。
「私のほうがよっぽど………!!」
私の方が汚いと言いかけて、もうそれ以上言葉を紡げなかった。
脳裏に浮かんだのは、毎日毎日、私の身体を綺麗にしようと拭くこの男の姿。
「っ………………」
私の汚物にまみれる姿を見ても、一瞬すら眉をしかめなかったその表情。
どうして、私の身体が汚いなどと言えようか。
「ぐっ………………う゛っ……………」
扉の向こうから聞こえて来た、私を買うために家財を売り払ったという話。
「ぐぅっ………………うぐぅっ……………」
質に入れた桶を買い戻し、ぬるいお湯に私を沈めた時の緊張した顔。
「ふぐぅぅっ………………!!」
私の髪を始めて梳かしてくれた時の、おっかなびっくりの手つき。
私のために覚えようとした料理で怪我をした指の包帯。
「ぅ゛ぅぅぅぅうぅううううう゛う゛!!!!!!!」
黒い短い髪。
ごつごつした手。
歯形だらけの腕。
目つきの悪い怖い顔。
なのに、
深い藍色をした、優しい瞳。
「な、泣かないでくれ…………す、すまないっ…………」
なんで私が泣いているのか、分かりもしない唐変木。
私だって分からないけど。
「泣かないでくれ………」
ごつごつとした手がオロオロとしながら私の涙を拭っていく。
「すまない………」
ここに来てから何百回聞いたか分からない台詞で、男が私に謝る。
私はもう何も分からなくて。
悲しいのかなんなのかすら分からなくて。
「それがいいっ…………」
男が綺麗にしてくれた身体を震わせて。
男が綺麗にしてくれた柔らかな布団の上で。
私のために作ってくれた煮魚を睨みつけて、
幼子の様に駄々をこねて泣いた。
「ヴィオラ…………」
「っ!?」
どうしても食べたかった魚料理と一緒に、
「待っててくれ、すぐに戻ってくるから」
今はそばに居て欲しかった男は、扉の向こうへと姿を消していった。
……もう、主への憎しみで作動する奴隷紋が首を締めなくなって何日が経ったろうか。
「…………」
初めて名前を呼ばれた驚きで引っ込んだ涙が乾いて、なんだか涙の跡がかゆくなってきたころ。
「すまない、遅くなった」
おかゆの鍋を持って姿を現した男に、私は小さく首を横に振った。
「…………まだ熱いかもしれん」
「…………いい」
いつものように男が私の横に座り、いつものように私の口元にスプーンを運び、いつものように口を開けた私の口の中へスプーンを突っ込んでくる。
「………おいしい」
「…………そうか、よかった」
私の顔は真っ赤だったろうか。
「またいい魚が手に入ったら作るから…………その………そうしたら是非食べて欲しい」
「……………うん」
恥ずかしくて恥ずかしくて顔を手で覆いたかったけど、腱の切られた手足ではそれすら叶わなくて。
「すまない、今ので最後だ」
「……………」
「もう少し食べるか?」
でも、その顔をリュートがじっと見つめてくるのは、不思議とそんなに悪い気分はしなかった。
「…………うん」
赤い顔のまま私が小さく頷くと、リュートは凄く優し気な笑顔を浮かべて「そうか」と頷き。
「すぐに戻る」
空になったお鍋を持って、扉の向こうへと姿を消していった。
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