第8章 夕夏の戦い

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 初めて有希の祖母の家を訪れた翌日、再び夕夏は有希と共にそこへ向かった。

 家に到着したのは深夜帯に差し迫る23時30分。


 夜が更けるほど魔の力は強くなる。

 これから幽霊と対峙する事を考えれば最悪の時間帯と言える。


 慣れた手つきで玄関の鍵をガチャと回し有希が家の中へ入った。

 それに夕夏も続く。


「この前、釣りについて調べてる時に知ったんだけどね、釣り用の活き餌があるんだって。そう言うお店に行ったら生きたままのアジとかを買えるみたいで――」


 何やら不穏な事を有希が語っており、思わず夕夏は顔を顰める。


「……そんなの買ってたらすぐにお金がなくなっちゃうよ。勿体ないから安めのお菓子とかでいいんじゃない。お菓子も美味しそうに食べるんでしょ?」


 生きた餌やそれに近い物を食べるほど、恐らくアレはパワーアップしていく。

 その後ろの赤い光もそれに連動して成長している可能性がある。

 有希の話によると、初めは細い糸ほどだった光の筋が今やパスタの麺ぐらいの太さにまでなっているのだ。

 できるだけ粗末な物を与えるよう誘導して、それらを遅らせたい。


「お金の事は私も悩みなのよねぇ……。生肉やお刺身って高いでしょ? 家の中の食べ物を持って来るにしても限界があるし。早くおばあちゃんを成仏させてあげなきゃ!」


 その後居間に入ると、待ち構えるようにソレは立っていた。

 トートバッグを肩から外した有希が、さっそく食べ物を与える準備をする。

 それを夕夏は制止した。


「ごめん、その前にちょとやりたい事があるの……。いいかな?」


「そうなの、何を?」


「おばあちゃんの成仏の手助けになる事だよ」


 そう答えると有希がニコニコし始める。


 半分は本当、半分は嘘だ。

 今から行う事で幽霊の力は弱まる。

 それを繰り返した先には幽霊の消滅が待っている。


 しかし有希が望むように幽霊を満足させてあの世へ送り出すのではなく、強制的にこの世から去らせるのだ。

 決して穏やかな手法とは言えない。


 家から持参してきた黒い巾着袋の口を夕夏は開けた。

 それを不思議そうな顔で有希が覗き込んでくる。


「それは?」


「クリスタルチューナーだよ」


「クリスタルチューナー?」


音叉おんさって言った方が分かりやすいかもね」


 すると納得したように有希が頷く。


「あぁ、昔理科の授業で先生が使ってたやつね! 叩くとキーンって音が鳴るんでしょ? こう言う事にも使えるんだ」

 

 鉱物や金属から発せられる音には祓いの作用がある。

 それをこの業界では様々なシーンで用いる。


 だが注意点もある。

 音と言うものは、魔物を呼び寄せる力も合わせ持っている。


 夜に口笛を吹いてはいけない――そんな誰もが一度は聞いた事のある言い伝えもその表れだ。


 だから陰気の強い夜に音を奏でるのは御法度とされている。


 しかしそれは何の力も持たない素人であればの話。

 強い霊力があれば、魔物を退けた上で音を自身の武器として操れる。


 夕夏はそう考えていた。


 巾着袋の中から先がU字型に曲がったシルバーのチューナーと、六角柱の形をした水晶を取り出す。


 左手に水晶を乗せ、その側面を右手に持ったチューナーの先端で軽く叩く。


 このチューナーから発せられるのは、強い浄化の作用を持つとされる4096ヘルツの高音。

 天へ駆け上るようなその澄んだ音色からはこの上ない清涼感を感じられる。


 そのはずだったが……。


 全くと言っていいほど音が伸びない。

 それに響きもしない。

 発したそばから吸収されているようだ。


 もう一度叩いてみるが、やはり結果は同じだ。


 クリスタルチューナーが効かない――。


 これは綾瀬家にて保管され、母や姉も使用するきちんとしたものだ。

 それが通用しないとは、信じられない。

 幽霊の強さと使用者の力不足を痛感させられた。


 それからクリスタルチューナーを仕舞い、次の手段に移る。


 手のひらを広げ2、3度叩いてみる。

 パンッパンッと乾いた音が鳴る。


 それを側で見ていた有希が「そう言えば、優也の家に行った時もそんな風に手を叩いてよね。どうして?」と尋ねてきた。


「破魔の音だよ」


「はまのおと?」


ぜるような音には魔を祓う作用があるの」


 お祭りなどの際に爆竹を鳴らす習慣を持つ国や地域が、世界には存在する。

 魔物は破裂音を嫌うとされる為、それらを鳴らして悪いものを追い祓った上でお祝い事を楽しむのだ。


 日本においてもその理論は通用するし、破裂音に似た手を叩く音にも同様の効果がある。

 実際にお祓いの手法としてこれを採用する事があり、手を鳴らしていれば少しずつ場が浄化されていく。

 優也の姉の部屋で手を叩いたのもこの為だ。


「ふぅん。でもそんな事しておばあちゃんは大丈夫なの……?」


 夕夏はギクっとした。


 これは謂わば幽霊に対する攻撃。

 当然ながら攻撃を受けた幽霊は苦しみを覚える。

 有希の疑問は的を得ている。


「えっとね……おばあちゃんの周りに悪い気が充満してて、それを追い払おうとしてるの。それだけだから大丈夫だよ」


 隙だらけの言い訳だったが、それで有希は納得したようだった。

 

 その後何度か手を打ち鳴らす。

 しかし周囲が浄化される気配も、幽霊が弱体化する気配も全くと言っていいほどなかった。


 もう少し続けてみようか……。

 そう思っていた時、突然幽霊が動き出そうとするのを感じた。


 こっちに来る――!


 そう直感した夕夏は咄嗟に後退あとずさる。


 読み通り幽霊が足を交互に動かしながら夕夏の方へ接近し始める。

 着物の裾が畳を引き摺る耳障りな音が夕夏の耳を刺激した。


 幽霊に押されるように夕夏は居間を抜け廊下まで後退するが、それでも幽霊の動きは止まらない。


「おばあちゃん、どうしたの……?」


 予想外の祖母の行動に有希も戸惑いを隠せないようだった。


 夕夏の後を追って部屋の外へ出ようとする幽霊だったが、高い身長がその妨げとなる。

 すると体を屈め鴨居を潜り始めた。

 それに合わせ白い巨体が徐々に廊下へ出現する。


 そして廊下へ出ると、再び夕夏へ迫る。

 夕夏はジリジリと廊下を後退した。


 その時、目の前に気を取られる余り玄関の段差に気付ず土間へ足を踏み外してしまう。


「うわっ……!」


 体のバランスを崩し、背中から玄関の引き戸に叩きつけられる。

 ガラスの揺れる音が静寂の中に響いた。


 追い詰められた夕夏は反射的にポケットの中へ手を突っ込み櫛を握りしめた。

 これさえあれば自身の身は守れる。


 だがそれだけではダメだ。

 ここから攻勢に移らなければならない。


 必死でその方法に考えを巡らせる。


 すると夕夏のすぐ側まで迫った幽霊が歩みを止めた。

 そして右手をスッと地面に水平に上げたかと思えば、こちらに向けて人差し指を立てる。

 幽霊に


 夕夏は大きな衝撃を受ける。 


 これはまずい――。


 明確な悪意を向けられている。

 敵だと認識されている。


 まるで目の前にナイフを突き付けられたかのような不安と緊張それに恐怖に襲われた。  


 こんな事態は初めてだ。

 冷や汗が肌を伝う。


 それから突然幽霊の下顎が外れ、大きく口が開いた。

 そのまま再びこちらへ進んで来ようとするのを察知した夕夏は、反射的に玄関の鍵を開け外へ飛び出す。


 玄関の引き戸を勢いよく閉め、幽霊の方を凝視しながら距離を取っていく。


 靴を履く余裕も無かったせいで、冷たく固い地面の感触がダイレクトに足裏へ伝わってくる。

 しかし今はそんな事を気にしている場合ではない。


 その後しばらくして、玄関戸のガラスに写っていた白い影とその気配がスッと奥へ消えた。

 それから間もなく、グシャ、グシャと咀嚼音が響いてくる。

 例の如く有希が食べ物を与えているようだ。


――負けた。


 呆然とした思いで夕夏は突っ立った。



「大丈夫、夕夏……?」


 そう言いながら夕夏の荷物と靴を持って有希が家の外へ出て来た。

 差し出された荷物を力無く受け取り靴を履く。

 その後2人で自転車の停めてある場所まで向かう。


「おばあちゃんいつもは居間でいるんだけどね、時々どこかへ出て行く時があるの……」


 その帰り道、有希がそう語り始めた。

 有希の話す内容に夕夏は背筋に冷たいものを感じた。

 

 家族全員で有希があの家へ訪れていた時。

 用を済ませ皆んなで家の外へ出ようとしたところ、天井を伝いながら玄関の方へ駆けて来る祖母らしき姿がチラッと見えたそうだ。

 

 また、釣りの帰りに優也とその家へ立ち寄った際には、廊下の窓ガラス越しに祖母が優也の姿をじっと眺めていた。


 それらの話と先ほどの出来事から浮上する恐ろしい可能性。


――あの幽霊は人間を食料として認識している。


 有希の家族の件では死角に隠れながら有希の家族の様子を窺い、最後に隙を見たのか急接近した。


 優也の件では優也がじっと家の近くに留まっていた事から興味を示し、捕食者さながらの眼差しを優也に向けていた。


 そう考えられる。


 今のところ有希が何事もなく過ごせているのは、彼女が食べ物を与える役目を担っているからだ。

 この人間は進んで食料を差し出す。

 それが分かっているから手を出さない。

 決してそこに孫に対する愛情があるのではないだろう。


 普段からある程度の食べ物を与えられているせいか、人を襲おうとする衝動が今はまだそこまで強くないものだと思われる。


 しかし問題は今の食事量や頻度に満足できなくなった時だ。

 手当たり次第に目につく人や生き物を襲い始めてもおかしくはない。


 人を取って食うなど、普通の幽霊ではあり得ない。

 それは昔話に出てくるような妖怪や物怪もののけと言った類の話だ。

 最早、化け物だ。


 だが、どうしてこんな事になったのだろうか。

 毎日大勢の人々が亡くなり、多くの霊魂が表出する中、なぜか有希の祖母だけがこのようなおぞましい変化を遂げてしまったのか。

 そうなるに至った何か特別な理由があるはずだ。

 

 それを探ってみようと、少し前を走っている有希に話しかける。


「ねぇ有希、ちょっと聞いてもいい?」


 軽快な足取りでペダルを漕いでいた有希が少しペースを落としながら振り返ってくる。


「ん、何を?」


「気を悪くしたらごめんね。おばあちゃんが亡くなった原因とか、死んだ時の様子をもし知ってたら教えて欲しいの」


 有希の体が固くなるのが分かった。


「もしかしたら、そこにおばあちゃんを成仏させる為のヒントがあるんじゃないかなって思うの」


 しばし黙り込んだ後、気の沈んだように有希が言葉を返す。


「夕夏までそれを聞いてくるんだ」


「え、他の人にも聞かれたの……?」


「うん。前にね、同じような事を終夜くんが聞いてきたの」


「椿くんが?」


 有希によれば、以前家を出ようとした時、偶然この辺りを通りかかったらしい終夜と鉢合わせをし、祖母の死について事細かく問いただされたらしい。


 普段から他人事に無関心そうな彼がどうしてそんな行動を取ったのか、夕夏は不思議に思った。


「でもいいや。夕夏はおばあちゃんの為に頑張ってくれてるから教えてあげる。それで成仏に近づくなら私も嬉しいし――」



 その日の夜。

 夕夏が寝る準備を整えベッドに潜り込んだ時には午前1時を回っていた。

 家族はもうみんな寝静まっている。

 夜中に1人で家を抜け出していた事は秘密にするつもりだ。


 早く寝ないと授業中に眠くなってしまい大変だと目を瞑る。

 しかし先ほどの出来事が頭の中に蘇り、なかなか寝付けなかった。


 有希の祖母の死因は窒息死。

 空腹のあまり布団の綿を食べ、それが喉に詰まり息ができなくなったらしい。

 無念の死だったに違いない。


 死に際に感じていた強い空腹感が現世に対する強い未練となり成仏を妨げた。

 そして今も空腹を満たそうとこの世を彷徨っている。


 話の辻褄は合う。


 しかしそれだけでは普通の霊を超えてあんな姿へと変貌した理由にはならない。

 結局のところ肝心な部分が分からないままだった。


 はっきり言ってあの化け物の霊力は異常だ。

 全ての攻撃を跳ね除けた上、余裕綽々と反撃に出てきた。


 これは子供の手には負えない――すぐにでも周りの大人達へ伝えた方がいい。

 場合によってはの霊能力者が出てこなければ解決出来ない可能性だってある。


 母は『日本三大霊能力者』に数えられている。


 関西の霧島風花きりしまふうか

 東北の戸風龍麿とかぜりゅうま

 そして、関東の綾瀬詩織だ。


 現状その3人が日本の霊能界を牽引しており、もし普通の霊能力者の手に負えない事態が発生した時には、彼らが“最後の砦”として矢面に立つ。


 これはそんな層が出張って来てもおかしくはないぐらい危険度の高い事案であるように思えて仕方がなかった。


 だけれど……。


 もし母が子供の頃にあの化け物と出会っていたら尻尾を巻いて逃げ出しただろうか。

 いや、そんな事はない。

 きっと果敢に挑んで行ったはずだ。


 以前に母の小学生時代の卒業アルバムを目にした事がある。

 そこに映る小さき姿の母は、その優しい雰囲気に反し意志の強そうな目をしていた。


 このまま無様に引き下がる訳にはいかない。

 弱音を吐くのも人にすがるのも、精一杯戦った後で十分。


 それに、これをたった1人で解決できれば今よりもずっと強くなれるし、憧れの母へもまた一歩近づける。


 夕夏は闘志に満ちた炎を心に灯した。




22




 それから数日後の放課後。

 優也に呼び出しを受けた夕夏は、そのまま帰れるようランドセルを背負いながら渡り廊下へ向かった。


 先に待っていた優也がこちらに気付き話しかけてくる。


「こんな所で悪いな。あまり人に聞かすような話でもないなって思って」


「ううん、大丈夫だよ。あの家の事なんでしょ?」


「うん。もうあそこには行ったのか?」


「何回かはね……」


「じゃあ、もうお祓いは終わった?」


 優也の顔が明るくなるが、夕夏は首を横に振る。


「結構手強そうだから、前に川森くん家に行った時みたいに簡単には行かないね」


「そうなんだ……やっぱりヤバいのかアレ」


「ある程度時間が掛かるかも」


「なぁ、俺アイツと目を合わせてるかもしれないけど、大丈夫なのかな?」


「それなら、多分大丈夫だと思うよ」


「本当に?」


「うん。そもそもあの幽霊は誰かに取り憑こうと思って外を見ていた訳ではないっぽいし」


「マジ? じゃあ、なんで?」


「率直に言うと……外にいる人間へ食べ物としての関心を向けていたから、かな」


「は、はぁ? 食べ物!?」


「ショッキングな話かもしれないけど、あの幽霊は人を食べる可能性があるの。それで川森くんがずっと家の庭で有希を待っていたものだから、近くに強い獲物の気配を感じた幽霊が窓の側まで寄って来てしまったんだと思う」


「ちょ、ちょっと待ってくれ、人間を食べるのかあの幽霊!? そうだとしたら全然大丈夫じゃねぇじゃん!」


「落ち着いて、あくまでまだ可能性の話だから。それでね、あの幽霊は食べられそうな人間なら誰でも良かった。何か特別な理由があって川森くんを見てた訳じゃない。だから川森くんを付け狙う理由はないし、再びあの家を訪れでもしない限りは安全だよ」


 そう言って安心させるつもりが、話の内容が衝撃的過ぎたのか却って優也の不安を増大させてしまったようだった。


「綾瀬、聞いてくれ! 俺はいつかサッカー選手になりたいんだよ。前に配られた卒業文集の原稿にもそう書いた。それが訳の分からない幽霊に食べられて人生終わるかもしれないなんて、あんまりじゃないか!」


「そうじゃないの、落ち着いて。確かにあの幽霊が人を食べる可能性はあるよ。でも川森くんを狙ってる訳ではない。あの幽霊に自分から近づかなければ大丈夫。それに私が頑張ってやっつけるから安心して。ね?」


 もう一度事情を説明し直し、しばらく優也を宥めていると、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。


 それから「これ私の電話番号。もし万が一なにかあったらここに電話して」と、自分のスマホの番号を綴った小さなメモ用紙を優也へ手渡した。

 ここへ来る前に準備していたものだ。


「……サンキュー。と言うか綾瀬も自分のスマホとか持ってるの?」


 070で始まる携帯番号を見ながら優也が聞いてくる。


「うん。1年ぐらい前に買って貰ったの」


「へーマジか。いいなぁ」


「前、有希にも同じ事言われた」


「有希……。そう言えば最近有希と話してないけど大丈夫なのかな? よく考えたら俺よりもずっとヤバいよな、いつもあの幽霊の近くにいる訳だし」


「まぁ、有希も今のところは大丈夫だと思う。でもあの幽霊に魅入られてるも同然の状態になってるから、この先何が起きるかは分からないね……」


「マジかよ」


「有希も川森くんも、絶対私が救ってみせるから安心して!」


 夕夏が力を込めてそう言うと、コクっと優也は頷いた。


 それから話も終わりその場から離れようとしたところ、「あ、忘れるとこだった」と言いつつ優也がランドセルを肩から外した。

 そしてカバーを開け、巾着型のラッピングバッグを中から取り出した。


 光沢のあるブルーの袋で、その口は同じ色のリボンで縛られている。


「ほいよ」


 少し照れ臭そうに、それを優也が渡してくる。

 いきなりの事に夕夏は目が点になった。

 たが、すぐに今日がホワイトデーである事を思い出す。


「もしかして……ホワイトデーのプレゼント?」


「うん。バレンタインデーの時に貰ったからな、そのお返し。俺は手作りとかできないから店で買ってきたやつだけど」


「そうなんだ、ありがとう……!」


 純粋に嬉しく思った。


 それから優也と別れ帰宅した夕夏が、自分の部屋でプレゼントのリボンをほどいてみたところ、中からは缶入りのキャンディーが出てきた。


 おやつ代わりにそれを開封し一粒口に含んでみると、なんだか温かい気分になった。



 その次の日。


 昨晩、夕夏はあの家の居間に結界を張っていた。

 白い陶器の丸皿へ粗塩を円錐状に盛った物を4つ用意し、それを部屋の四隅に配置したのだ。

 あの化け物を一定の場所へ閉じ込めておく為の措置だ。


 四隅に盛り塩を置く事で、それらを結んで形成された空間に結界が張られる。

 するとその空間内へ魔や厄などの悪いものが立ち入れなくなる。


 だが結界は外部からの侵入を防ぐ一方、内側から外側への移動も妨げる。

 その性質により、魔除けの為に結界を作ったはずが、その中に自分と悪いものを一緒に閉じ込めてしまい却って危険な目に遭うと言う事態も発生する。


 良い意味でも悪い意味でも、結界は中と外を隔絶するのだ。


 今回はそれを利用し、あの化け物を居間の中へ封じ込めた。


 しかしあの化け物の力を考えると、それを破ってしまう可能性がある。

 きちんと効果は現れているのか――それが心配で夕夏は朝から授業内容が碌に頭の中に入らなかった。

 それを気にしているうちに1日が終わり下校のチャイムが鳴る。


 帰り支度をしていたところ、夕夏は自分の席の近くに誰かの気配を感じた。

 顔を上げその方へ目を向ける。


 椿くん……?


 席の右隣に終夜が立っていた。

 どうしたのだろう、と不思議そうな顔で見つめる。

 すると「綾瀬、一緒に帰らないか?」と言われた。


 夕夏は一瞬聞き間違いかと思った。

 普段男子に帰りを誘われる事なんてない。

 それに相手は余り人との関わり合いを好まなそうな終夜だ。


 ポカンとしたまま固まってしまう。

 それを終夜は否定の意味と捉えてしまったのか、「……嫌だった?」と少し困ったような笑みを浮かべながら背を向けようとする。


「う、ううん、嫌じゃないよ!」


 慌てて夕夏はそう言った。



 大急ぎで帰り支度を終わらせた夕夏は、教室を出たところで先に待っている終夜の元へ向かう。

 それから2人で並んで歩きながら、1階の靴箱を目指す。

 その途中、何度も夕夏は終夜の方をチラチラと見た。

 なんで急にそんな事を誘ってきたのか、気になって仕方がなかったのだ。

 しかしお互い会話がないまま、いつの間にか通学路へ出ていた。


 その後しばらく進んだところで、ようやく終夜が口を開く。


「川崎にさ、桐谷の亡くなったおばあさんの家があるじゃん。綾瀬、最近そこへ行ってないか?」


 唐突にそんな話題を振られ、夕夏はびっくりする。


「へ? どうして……?」


「この前、綾瀬と桐谷がそこへ入って行くのを見かけたから」


「そうなんだ。……まぁ、ちょっといろいろあって、あの家へは何回か行ってるよ」


 まさか出入りしているところを見られていただなんて。

 少し気まずい気分になる。


 それから少し間を置き「あの家、何か居るだろ」と終夜が言った。


 思わず言葉に詰まる。


 なんでそれを?

 もしかしたら川森くんみたいにアレを見た?


 様々な疑問が脳内を駆け巡ると同時にこの事を聞きたかったんだと、帰りを誘われた理由を察する。


「もしかして、あそこで何か見た?」


「あぁ」


 不意に夕夏は、優也の家へお祓いへ行った時の事を思い出した。

 あの時、終夜が同行した理由は夕夏のお祓いに興味を持ったからだ。


 もしかすると彼は元からなのかもしれない。

 

 どこにでもホラー好きな人間と言うものが一定数いるものだ。

 実際に周りから怖い話をねだられたり、心霊スポットを案内するように頼まれたりした経験が幾らでもある。


 終夜もそう言った1人なのかもしれない。

 それで面白そうな話題を嗅ぎつけ、関わりを持とうとしている。


 夕夏は心の中でそう憶測した。


 けれど、もしそうだとしても今回の件に彼を巻きこむ訳にはいかない。

 人の念が漂っていただけのあの時とは訳が違うのだ。


「あの家にはね、亡くなった有希のおばあちゃんの幽霊が居るの。今それを祓おうとしているところ」


「1人で……?」


「うん。それでその幽霊は強い悪意を持ってていろいろと危険だから、あまりあの家には近づかないようにね、椿くん……」


 空を見上げた後、終夜は「そうか」と呟いた。


 それから少し歩いたところで「それと、渡したい物があるんだ」と終夜が言う。

 右手に持っていた手提げを探り、その中から白いラッピングペーパーに包まれた折り箱らしき物を取り出す。


 そして、それを静かに手渡してくる。


 突然の事に夕夏は戸惑った。

 状況が理解できない。


「えっと……これは?」


「悪いな一日遅れて」


 夕夏は目を丸くした。

 昨日と言えばホワイトデーだ。


 1ヶ月前の記憶が蘇る。

 あの時、確か友達と一緒にチョコレートを渡したんだ。

 なら、これはそのお返し……?


 そう理解するも、驚きを隠せなかった。

 終夜がそのお返しを準備をするような気配りの効く人間だとは夢にも思っていなかったのだ。


「あ、ありがとう」


 信じられない思いで、たどたどしくそれを受け取る。


 両手に乗せられるぐらいの大きな包みだ。

 白無地に思えたラッピングペーパーには、よく見れば控えめながらに花柄があしらわれている。

 あのチョコレートの返礼には勿体ない程の上品で高価そうな品だ。


「いいの、こんなに高そうなのを」


「うん」


「ちょっと意外……。椿くん、ホワイトデーとかスルーしちゃうタイプだと思ってたから」


「はは……そう見えるかもな」


 終夜は苦笑いした。


「ごめん、変な事言って。椿くん、甘いものが苦手だって聞いたけど、チョコレート大丈夫だった?」


「まぁ、あんまり好きじゃないな。でも綾瀬から貰ったのは美味しかった。手作りだったんだろ?」


「う、うん。そんなに手の込んだものじゃないけど……。でも美味しかったなら良かった。へへ」


 ちょっと照れくさそうに夕夏は微笑む。


「それにしても、こんなにしっかりした物を準備するのは大変そうだね。他にもいろんな子へ贈らないといけないんでしょ?」


「別にそんな事はないよ。綾瀬だけだから、お返しをしたのは」


「……え? 他の子には?」


「特に何もしてない」


「じゃあ私と一緒に渡した陽菜にも?」


 終夜は小さく頷いた。


 夕夏は目をパチクリさせた。

 どう言う風の吹き回しかは分からないが、他の女の子達を差し置いて自分だけに優しくしてくれている――。


 気づけば顔が熱くなっていた。

 そんな様子を見られたくなくて、終夜の方から顔を逸らしてしまう。


 それからお互い言葉を発する事も無いまま歩き続け、気が付けば終夜との分かれ道に差し掛かっていた。

 間を置かず「じゃあな」と終夜が去って行く。


「うん、またね……」


 少し夕夏は立ち止まり、その後ろ姿に小さく手を振る。

 それからプレゼントをぎゅっと胸に抱きしめ、再び歩き出した。




23




 結局、盛り塩による結界は何の意味も無かった。

 あろうことか、あの化け物は塩を食べていたのだ。

 四つん這いになって、何十センチもありそうな長い舌の先で少しずつ味わうように。


 他に鏡や石や水など様々なアイテムを使ったお祓いに挑戦してみるもその効果はイマイチだった。

 また、あまり見つめていると前のように苦しみを覚えるのでチラッと見ただけだが、あの赤い光の筋も更に太くなっているような気がした。


 ある時、夕夏はその光について『扉から漏れ出す光』のようだと、ふと思った。


 あの上下一直線に伸びる光の筋は、少しだけ開かれた扉の隙間から漏れ出す灯りの形状によく似ている。

 あの光の先は何かに通じていて、それを隔てる扉が今、徐々に開かれようとしている――。


 あの化け物はヤバいが、その後ろの光はもっとヤバい。

 アレが完全に開き切った時、もっと恐ろしいものが現れる。

 そんな気がしてならなかった。


 自室のベッドの上に仰向けになった夕夏は目を閉じる。


 今日は土曜日で学校が休みだ。

 のんびりと休暇を楽しみたいところだが、今はそんな気持ちにはなれなかった。


 この先どうするべきか、頭の中で考えを巡らせる。

 手札には限りがある。

 それが尽きるまでにあの化け物を祓えるかどうか……。


「はぁ」


 そうため息をついた時、枕元に置いてあるスマホの着信音が鳴る。

 素早くスマホを手に取り液晶画面に目を向けた。


 見知らぬ番号。

 固定電話のようだ。


 通話ボタンをタップする。


「はい、もしも――」


「綾瀬か!? 俺だよ俺!」


「え?」


「ヤバいんだよ! ちょっと聞いてくれ!」


 出るや否や、切羽詰まったようにそう叫ばれた。

 困惑を覚えるも、話し方や声などからすぐに相手に察しがついた。


「えーと、川森くん?」


「そうだよ、俺!」


 スマホの番号を一昨日教えたばかりだが、早速掛けてくるような事態に遭遇したようだ。


「どうしたの、何かあった?」


「もう終わりだ……。有希は本当におかしくなったんだ! もうダメかもしれない――」


「どう言う事?」


 混乱しているのか要領を得ない。

 仕方がないので、一度会って話をしてみる事にした。


「ごめん、電話じゃよく分からないから会って話せない? 時間あれば、今からうちの神社に来て欲しいんだけど」


 そうして了承を得た夕夏は、電話を切り軽く身支度を整ると家を出た。



 比較的規模の大きい世田谷月見神社には複数の鳥居が存在する。

 その中で、参道の入り口にある一の鳥居の近くに立ちながら夕夏は優也が来るのを待った。


 それから5分ほどしたところで、自転車に乗った優也の姿が遠くに見えた。

 そのまま駐輪場のある方へ消えて行ったかと思えば、その後こちらに向かって歩道を歩いて来る。


「よっ」


 夕夏に気付いた優也が軽く手を挙げ挨拶をしてくる。

 先ほどのような取り乱した様子はない。

 ここに来るまでの間に、幾分か平静さを取り戻したのかもしれない。


 呼び出しておいて立ち話をするのも申し訳ないと思った夕夏は、境内に店を構える『月見茶房つきみさぼう』へ案内する事にした。


 月見茶房は広い神社の敷地を利用して営業している喫茶店だ。

 飲食物の他に、参拝者向けのちょっとした土産物なんかもそこでは取り扱っている。

 粛然とした境内の雰囲気に合った和風のオープンカフェで、木造の店舗を少し外に出れば、趣のある野点傘のだてがさの下で赤い毛氈もうせんの敷かれた床几台しょうぎだいに座りながらお茶を楽しむ事ができる。


 夕夏も時折そこを訪れてはお茶やお菓子などを味わったり、静かな空間の中で友達の相談事や悩み事に乗ったりする事がある。


「お参りをした事はあるけど、喫茶店にはまだ1回も入った事ないや」


 二の鳥居を潜りその先にある月見茶房の建物を参道の左手に見ながら優也がそう言った。


「そうなんだ。抹茶とクリーム大福のセットが美味しいんだよ。それでも食べながら落ち着いて話そっか」


「それはいいな。……でも、今日は何も持って来てないから、その辺の座れそうな場所とかで十分だよ」


「大丈夫だよ、私が奢るから。私もほとんど手ぶらだけど一応お財布とスマホは持って来てるし」


 そう優也を誘い、店の中へ入った。

 すると「いらっしゃい、夕夏ちゃん」と声を掛けられる。


 声のする方へ目を向けると、カウンターの向こう側で藍色のカフェエプロン着用した若い女性が微笑んでいた。

 シニヨンで結われたトーンの高い茶髪が溌剌はつらつとした印象を与える。


「こんにちは、美波さん」


「男の子を連れて来るなんて珍しいね。ボーイフレンド?」


 ここでアルバイトとして働く美波だ。

 普段は世田谷の大学へ通っていると聞く。


「えーと……まぁ、そんなところです」


 この状況の説明に迷ったので、取り敢えずそう言っておいた。


「ふふ。お好きな席にどうぞ」


 そう言われた夕夏は店内を進む。

 外の方が眺めは良いけど少し寒いかな、と思い入って左奥の席に優也と共に着席する。


「へぇ、綺麗だし結構広いなぁ」


 席に座るや室内を見渡しながら、しみじみとした様子で優也が感想を漏らす。

 ゆとりのあるフロアスペースには木目の美しいカフェテーブルと椅子が等間隔で幾つも並ぶ。

 2人の他にも、カップルや家族連れなど数組の客が飲食を楽しんでいる最中だった。


「昔はちょっとした掛け茶屋だったのを1度大きく改築したんだって。それからは沢山お客さんが入れるようになったって聞いた」


「そうなんだ」


 それからグラスに入った水が運ばれて来たところで、抹茶とクリーム大福のセットを夕夏は2人分注文した。


「さっそくだけど、有希がどうしたの? 川森くん」


 そう本題を切り出すと、一呼吸置いて優也が話し始める。


「今日はさ、昼から友達と遊ぶ予定だったんだよ」


「うん」


「でも家を出る少しぐらい前に有希から電話があって、手伝って欲しい事があるから今から自由が丘駅まで来てくれって言われたんだ」


「自由が丘駅?」


「あぁ。今日は友達と遊ぶから無理だって初めは断ったんだけど、有希が今からじゃなきゃダメだし俺以外には頼めないって譲らないもんだから、渋々友達との約束を断って駅まで行ったんだ。そうしたら改札前で、旅行とかに使うようなデカいボストンバッグを持って有希が待ってたんだよ」


「それで……?」


「そのバッグのファスナーが開いてたんだけどさ、そこから茶色い木の柄みたいなのが出てたんだよ。何となくそれが気になって軽く覗き込んでみたら何が入ってたと思う?」


 優也の目が見開き呼気が荒くなる。

 よほど衝撃的な物だったのか、また興奮し始めたようだ。


 夕夏は無言で話の続きを促す。


「ノコギリだよ、ノコギリ。それも歯が何十センチもありそうなやつがバッグの中に入ってたんだ」


「ノコギリ!?」


「そう、それ以外に黒いポリ袋も沢山入っててな」


 大きなボストンバッグ、ノコギリ、黒いポリ袋。

 不穏な出立ちの有希が頭の中に浮かび上がる。 


「そんなのどう考えても不審すぎるじゃん? だから、びっくりして『何だよこれ!?』って聞いたんだよ。そしたら『今から高緒山に行ってこの中にイノシシを入れて帰る』とか言い出して」


「どう言う事……? 高緒山って、八王子の?」


「あぁ、そうだよ。有希の話によれば、高緒山のキャンプ場に向かう途中の道に、車に撥ねられたイノシシの死体が転がってるらしい。それでそれをノコギリで小さく分解して袋に詰めて持って帰りたいんだと。それを自分1人でするのは難しいから俺の手を借りようとした訳だ」


 突拍子もない話に夕夏は絶句した。


「えーと……そんなものを持って帰ってどうするの」


「そんなの決まってるじゃん! あげるんだよ、あの幽霊に! 無料で大きな肉の塊をゲットできるチャンスだとか言っててな」


 ヒートアップした優也が向かいの席から身を乗り出してくる。

 夕夏は引き攣った笑みを浮かべた。


「嘘でしょ……。と言うか、どうして有希はそんな離れたところにイノシシの死体があるって分かったの」


 ここから八王子の高緒山までは40キロほどの距離がある。

 そんな遠い山奥で死んだ動物の情報なんて、そうそう耳に届くものではない。


 その疑問に優也が答える。


「それは有希の親が話したからだよ。有希の父さんの趣味がアウトドアなんだけどさ、今日の朝、春休みに行く予定のキャンプ場へ下見に行ったらしい。そうしたら道路の脇で死んでるイノシシを発見して、それを帰ってから家族に話した訳だ」


「それに有希が関心を示して八王子まで電車で行こうとしてたって事?」


「その通りだ! イノシシをバラしたり運んだりするには結構力がいるじゃん? だから、それを俺にやらせるつもりだったらしい。それでノコギリやボストンバッグをこっそり親から借りてきて……。正気じゃねぇよ。そもそも死んだイノシシに近づこうとする感覚がもう狂って――」


 優也の話を聞くうちに、夕夏はとある重大な問題に気づく。


 現状、有希が祖母へ与える食べ物がで済んでいるのは、まだ彼女の倫理観が正常に働いているからだ。


 ゴキブリや蛾を食べる祖母の姿を目にし、有希はミルワームや魚などの生きた食べ物を準備した。


 それらは世間的に殺生が許容されている。


 ミルワームはペット用の餌として販売されているし、釣った魚を捌くのもありふれた光景だ。

 最近有希が興味を示している釣り用の活き餌も、それを買って消費する事に何のとがはない。


 祖母の為に生きた食べ物を準備したい。

 そう思いそれを実行に移している有希だが、そこには『あげていい物とあげてはいけない物』の一線が確かに存在している。


 そしてその基準は恐らく、これまでの人生で培ってきた世間的な常識や感覚によるものだ。


 魚や虫を殺したとしても倫理的に問題はない。

 しかしそれが小動物ともなれば、そうはいかない。

 手を掛ければ、社会的に非難を受けるし罰せられる。

 その理解があるからこそ、例え手の届く距離に野良猫などの生き物が歩いていようとも、それを捕まえて祖母の元へ差し出すような真似はしない。

 

 だがそれは今の段階での話だ。

 この先、何かの拍子に倫理観のタガが外れ、手当たり次第にその辺の生き物を襲い始めてもおかしくはない。

 そのターゲットは最悪人間に及ぶかもしれない。


 優也の話を聞く限り、その片鱗が見え始めているような気がした――。

 

 そんな風に考え込んでいると、先ほど注文した商品が運ばれて来る。


「はい、おまちどおさま」


 そう言いながら美波が両手に持った丸盆をそれぞれ夕夏と優也の前へ置いていく。

 それから商品の伝票をガラス製の伝票立てへ丸めて入れた後、「ごゆっくりどうぞ」と席を離れて行った。


 漆塗りの黒い丸盆の上には、抹茶碗まっちゃわん銘々皿めいめいざらが1つずつ置かれている。


 点てられたばかりの抹茶の香りがほのかに立ち上り鼻をくすぐる。

 ショッキングな話の最中だが些か食欲を刺激された。


「おぉ、うまそうだな」


 優也の関心がそれまでの話題から目の前のお盆に移ったのが分かる。


「せっかくだし、まだ熱いうちに頂いちゃおうか……」


「うん」


 いただきますと言い、早速優也が抹茶へ手をつける。

 ろくろ目が何段にも重なった卯の花色の抹茶碗を両手に持ち、そっと口をつけると火傷をしないようゆっくりと中身を口の中へ流し込む。


 一方、夕夏は初めにお菓子を頂く事にした。

 もう何度も同じメニューを口にしているが、毎回その順序だ。


 こう言う時はお菓子から先に手をつけるものだと、以前、茶道の心得のある友達に教えられたのだ。

 そうすれば、口内に残ったお菓子の甘味がより一層抹茶の風味を引き立ててくれるらしい。


 左手の指先で銘々皿を持ち、右手で器用に黒文字製の菓子楊枝を扱う。


 銘々皿に乗せられているお菓子は2つ。

 月見神社名物のクリーム大福に、桜の花びらをモチーフにした和三盆の干菓子ひがし

 出される干菓子の形は季節によって異なり、春は桜、夏は向日葵、秋は紅葉、冬は水仙をかたどったものだ。


 淡いピンク色のそれを菓子楊枝の先で刺し口の中へ入れる。


「この大福、黄色なんだな」


 抹茶碗を一旦盆の上へ置き、次にクリーム大福を食べようとしていた優也がそう言う。


「黄色いのは月をイメージしているからだよ。商品名も『ウサちゃんお月見大福』って言うの」


「へぇ、随分と可愛い名前だな。ウサギと言えば、このお盆にもウサギのイラストが入ってる」


「うん。月見神社にとってウサギは特別な動物なの。だからいろいろな所にその姿が描かれてる。それに月見大社や月見神社で仕える人たちの中には、ウサギを呼び出せる人もいるんだよ」


「呼び出す?」


「ウサギは私たちがお祀りしている神様の眷属けんぞく、要するに神様のお遣いなの。そして同じ神様に仕えている私たちはウサギにとって仲間も同然の存在で、時に力を貸してくれる」


「そうなんだ。そう言えばここの神社、ウサギの石像みたいなのがあった気がする」


「他の神社の狛犬にあたるものだね」


「へぇ、それにしても神様の遣いを呼ぶなんて想像もつかねぇな。魔法陣みたいなのを描いたらその中から現れる的な?」


「そう言うのとはまた別かな。心の中に念じれば自分の近くに現れるみたい。私はまだ呼べないからあまり詳しい事は分からないけど」


「ふぅん、なんかアニメの中の話みたいだなぁ。動物のウサギの形で現れるのか?」


「うーん、それは人によって違うね。お姉ちゃんは手のひらサイズの普通の姿のウサギを呼び出せるんだけど、お母さんのは何と言うか……人そっくりで武器を持ってるの。身長も大人の人と同じぐらいあるし。多分ウサギの中にもランクがあって、力の強い人ほど上位の存在を呼べるんだと思う」


 夕夏の話を興味深そうに優也は聞いていた。


 クリーム大福を半分食べたところで、夕夏は抹茶に口をつける。

 濃厚な大福の甘みが抹茶の苦味を緩和し、まろやかで優しい風味が口内に広がる。


 そうして一息ついた時、もう残り少なくなっていた抹茶を一気に飲み干し、優也が先ほどの話を再開した。


「それで続きなんだけど、それを見た俺は怖くなって逃げたんだよ。そしたらなんか言いながら有希が追いかけて来てさ。でも、そんなの放っておいて急いで家に帰った」


「その後、有希はどうなったの?」


「それは分からない。あれから電話はないし、こっちからする気にもなれないし」


「そっか……」


「業者とか他の人に片付けられる前にイノシシを回収したかったらしい。でも高緒山まで行くには何回も電車を乗り換えないといけないから時間もお金もかかるんだ。そこまでしてでも向かおうとする行動力が怖いよ」


「そうだね……。また次に有希と会った時に話を聞いてみる。それと有希がこれ以上おかしな方向に走らないよう何か対策を考えなきゃ」


 それから2人分の支払いを済ませた夕夏は優也と共に店の外へ出た。

 

 内外装や什器じゅうきにもある程度のこだわりを見せているせいか、ここのメニューは他の喫茶店などに比べやや値が張る。

 お財布に痛いのでそんなに高頻度で来る事はできないが、時々こうやってお茶をするのはいいものだ。


「また何かあったらいつでも電話して」


「あぁ、分かった。今日はいろいろと悪かったな」


「ううん、いいよ。じゃあまたね」


 そう言い月見茶房の前で優也と別れた。

 どことなく元気のない優也の後ろ姿を見送った夕夏は、それから店のすぐ近くにある社務所へ向かった。


 ◆


 次の日の深夜。

 例の家へ訪れていた夕夏は、その帰り道、昨日優也が話していた件について探りを入れてみた。


 すると有希がいきどおる。


「もう、本当に何でもかんでも人に喋っちゃうんだから!」


「ハハ……それは置いといて、川森くんが帰った後はどうしたの? まさか1人で行ったとか?」


「1人じゃ重たいし時間が掛かるから無理だよ。昨日は夕方からダンスがあって、それまでには帰らないといけなかったの。だから、もうほとんど時間がなかったのに、優也はどっかに行っちゃうし……」


 夜道を自転車で進みながら夕夏はじっと考えた。


 あの家に棲みついている祖母の幽霊の姿が異様な事や、それを人に見られたら騒ぎに成り兼ねない事を有希は理解している。

 だから他の人間をあの家へ寄せ付けようとはしない。


 その限られた例外に優也はいる。

 秘密を打ち明けてもいいと思えるほど、彼の事を信頼しているのだ。


 しかし、幽霊に食べ物を与えると言う自らの行動の異常性については認識していない。

 まるで、それが正しい行いだと信じて疑わない。


「――イノシシ丸々一匹って言ったら、いつもあげてるお肉の何ヶ月分にも相当する訳でしょ? もしかしたら、それでおばあちゃんは成仏できてたかもしれないのに」


「ね、有希……。有希はもう何もしなくていいよ。今後、おばあちゃんにあげる食べ物は私が準備するから」


「……え?」


 よほど驚いたのか有希の自転車を漕ぐ足が止まった。

 推進力を失い自転車が少しずつ減速を始める。

 それに合わせるように夕夏は自転車のブレーキレバーを軽く握った。


「有希の身の回りから食べ物が無くなり続けてたら、いつか不自然に思われるよ。それにお小遣いだって足りないんでしょ?」


「それはそうだけど……」


「だから、しばらくは私が有希の代わりに食べ物を準備する」


 しばらく考える素振りを見せた後、「いいの、本当に……?」と有希が言った。


「うん」


 ひとまずそう提案し、これ以上有希が食料収集の為に暴走するのを防ぐ。

 本当はあの化け物へ一切食べ物を与えないのが良いが、それだと空腹に耐えられなくなった化け物が何をしでかすか分からず危険だ。


 それから再び2人は自転車を漕ぎ始める。

 その途中、遠くに小さくなりゆく家を夕夏はチラッと振り返り見た。


「赤い……」


 ポツリと呟く。


 来た時からだ。

 まるで炎に包まれるかのように、あの家が真っ赤に染まっていたのは。

 居間に充満していた瘴気が更に強くなり、家全体を呑み込もうとしている。


 もしあれが近隣にまで広がりを見せ始めたらもう終わりだ。

 手の施しようがなくなる。


 タイムリミットは近づいている――。

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