第9章 赤い家

24




 ちょうど1週間後に卒業式を控えた3月18日の月曜日。

 放課後、有希と共に学校を出た夕夏は彼女の手を引き通学路を走っていた。


「もう、どうしたのいきなり?」


「今からうちの神社に行くよ! すぐ終わるから着いて来て」


「お月見さんに? どうして?」


「いいから……!」


 先日、優也と別れた夕夏は、世田谷月見神社に禰宜ねぎとして奉職する叔父に御神酒おみきの手配を依頼しに社務所へ向かった。

 権宮司ごんぐうじを置かない世田谷月見神社において叔父は母に次ぐ重要なポジションを占める。


 その際、ほとんどの神主がどこかへ出ているらしく叔父も不在であった為、窓口業務にあたっていた顔馴染みの巫女へ叔父への言伝ことづてを頼んでおいた。


 それにより今日のお昼には御神酒が届いているはずだった。


 本来であればそういうお願いは母にするのが一番だったが、前回と同様この件は母の関与無しで解決したかった。


 学校から神社までの700メートルほどの道のりを走り終えた時には息が上がっていた。


「ハァッ……ハァッ……別に、そんなに慌てなくたって良いじゃない」


「だって、社務所がもうすぐで閉まっちゃうから」


 少し休憩をした後に、鳥居の前で一礼をし有希と共に境内へ入る。

 社務所へ向かう途中、手水舎ちょうずやで手と口を清めた。


「有希、何か変化はない?」


「え? 変化?」


「例えば心がスッキリしたとか、体が軽くなったとか」


「うーん、そんな感じはしないけど」


「そっか……」


「それより、何でお月見さんに来たの?」


「まぁ、いいから」


 釈然としなそうな顔をしている有希を連れて参道の左端を真っ直ぐ進む。

 それからしばらくして社務所が見えてきたところで、ここで待っているよう有希に言い残し、社務所へ駆けていく。


 窓口には白衣を着た中年女性が立っていた。

 カウンター越しに少し顔を覗かせている袴の色は深碧しんぺき

 昔からここで働いているベテラン巫女の紗千子ちさこに違いなかった。

 大抵の巫女が20代で去ってゆく中、40代に入っても奉職し続ける彼女は稀有な存在だ。


「千紗子さん! 頼んでたやつ来てますか?」


 窓口に走り寄るや否や千紗子にそう尋ねる。


「こんにちは、夕夏ちゃん。うん、来てるよ」


 落ち着いた様子でそう返事をすると、紗千子は奥へ行き1本の酒瓶と白いタオルを持って戻ってきた。


 それから「はい」と手渡してくる。


「ありがとうございます!」


 それらを受け取ると、落とさないよう両手で慎重に持ちながら、すぐさま来た道を引き返す。

 有希の元に辿り着くと不思議そうに「なにそれ?」と聞かれた。


「御神酒だよ。開けるから、ちょっとタオル持ってて!」


 タオルを有希の胸元に押し付け、酒瓶の金色のスクリューキャップを左に回す。


 参拝者によって奉献された奉献酒のうちの1本を夕夏は貰ってきていた。


 ラベルを見ると300ミリリットル入りの清酒となっている。

 サイズからして恐らく元は2本セットであったものだ。


 清酒自体は何も特別なものではない。

 その辺の酒屋やスーパーの酒類コーナーなどで販売されている一般向けの品物だ。

 しかしそれが神へ捧げられる事によって御神酒へと生まれ変わる。


 酒だけではない。

 米、魚、野菜、果物、菓子などあらゆる食物が同様の変化をする。


 そのように神へ捧げられた食物――神饌しんせんには神の力が宿る。

 神饌を食す事で、心身を神と一体化し神のご加護を授かる。

 地鎮祭などで見られる直会なおらいもこれだ。


「有希、今までお酒を飲んだ事はある?」


「え? えーと、昔こっそりワインを飲んだ事なら……」


「じゃあ、大丈夫だね。一口でいいからこれを飲んで!」


 酒瓶の口を有希の唇に押し当て、瓶の底を上に傾ける。


「んむ!?……ゴホッ!」


 咳き込みながら、有希がそれを飲み込む。

 それから「ちょっと冷たいけど我慢してね」と言い、残りの御神酒を有希の頭の上から勢いよく掛けた。


「わっ! なに、なに!?」


 御神酒が髪を濡らし首を伝う。

 服の繊維へ染み込もうとしたところで、預けていたタオルを使ってそれを拭き取る。


 これで有希は体の中と外を通じて神の力の一端に触れた。


 ここで言う神とは全国に散らばる814の月見神社とその総本社、月見大社が主祭神として祀る月照比売神つきてらすのひめがみだ。

 月照比売神は月を創造したとされる神で、大地を夜空から聖なる光で照らし蔓延はびこる闇を祓う。


 あの化け物をどうにかする前に、まずは有希を正常な状態に戻したいと夕夏は考えていた。

 その為に神の力を借りる事にしたのだ。


 しかし――。


「どう有希? なにか変わった?」


「変わったってなにがよ! 髪がグシャグシャだし、服もベタベタになっちゃったじゃない……。どうしてこんな事をするの!?」


 ダメか……。


 それから少ししても平然とした顔でぶつくさ言うだけの有希を見た夕夏は、心の中にそう思った。


 そもそも有希には祓うものが存在しない。

 別に何かに取り憑かれている訳ではないのだから、それは当然と言える。

 彼女のこれまでの奇怪な言動は、他の誰でもない彼女自身の意思に基づく。


 悪いものをお祓いで祓う事はできても、人の根底にある考えまでを変える事はできないと言う事か。

 有希を救うにはあの化け物を打ち倒すしかない。


「はぁ……」


 なんとなくそんな気はしていたが、残念な結果に思わずため息をついてしまう。

 瓶の底に少しばかり残っていた御神酒を勢いよく飲み干す。

 聖域の中に居るにも関わらず行儀なんてあったものではなかったがもう自棄やけだ。


 来週の卒業式までにはどうにかケリをつけたい。

 こんな大きな不安材料を抱えたまま人生の晴れ舞台に臨む訳にはいかない。


 夕夏はそう決意を新たにした。



 怒る有希を落ち着かせ帰宅した夕夏は、ランドセルを自分の部屋に置くと、愛用のミニショルダーバッグを防寒着の上から掛けて家を出た。

 それから、徒歩圏内に位置するスーパーマーケットへ向かう。


 目的の店へ到着すると、風除室に積み重ねられている買い物かごを1つ手に取り建物の奥へ進む。

 

 これからは私が食べ物を準備する――その約束を果たす為、買い出しに訪れたのだ。


 与える食べ物の種類によってはあの化け物の成長を促進してしまうから、考えて物を選ぶ必要がある。

 生鮮食品なんてもってのほかだ。


 そう思い、お菓子コーナーへ足を運ぶ。

 できるだけ"軽そうなもの"がいい。


 しばらく陳列棚に並ぶ商品を見渡していたところ『フワフワわたがし』とやらが目に留まった。


 これはいいかもしれない。

 商品を1つ手に取ってみる。


 青い文字で商品名が印字されたシンプルな透明のパッケージに、雲のように真っ白で柔らかそうなわたあめがぎっしり詰まっている。

 1袋150円ほど。


 それを他の客の為に1袋だけ商品棚に残すと、残りの全てを買い物かごの中へ入れ会計へ向かった。

 レジで合計金額を見た夕夏は、思ったよりお金が掛かるなぁと複雑な気分になる。

 支払いを済ませるとまっすぐ家へ帰った。


 その日は有希の習い事が無かったが、神社に寄り道をした事により時間を取られてしまったので、深夜にあの家を訪れる事になっていた。


 それまでの間に入浴を済ませたり家族と共に食事を取ったりと、帰ってきてすぐに寝られる用意をしておく。

 それから自宅を出る前に、線香と蝋燭それにマッチを自宅の敷地内の倉庫から持っきた。


 香を使ったお祓いに挑戦してみようと夕夏は考えていた。


 線香は仏教由来のアイテムであり、本来、社家の綾瀬家とは相容れない。

 しかし霊能力者としての職務の都合上、どうしてもそれが必要となる場合がある為、ある程度の種類の物が揃えられていた。


 その線香は沈香じんこうの中でも最も品質の高いと言われる伽羅きゃらをふんだんに使用した一級品だ。

 それを入手する為には目の飛び出るような高いお金を支払わなければならないと聞いた事がある。



 深夜、有希と共に例の家へ到着した夕夏は自転車を降りると、わたあめの入ったスーパーの袋を有希に手渡した。


「はい、これをおばあちゃんにあげてね」


「わぁ、ありがとう」


 袋を受け取った有希はライトで照らしながら袋の中を覗き込む。


「食べ物を持ってきてくれるのは嬉しいけど……どうして全部わたあめ?」


 いつもは新鮮で食べ応えのある物を与えている事もあり、いかにも食感の軽そうなお菓子に有希はやや不満を感じているようだった。


「えーと……わたあめは白い色をしてるでしょ? 白は古代から尊い色とされるから、それと同じ色の食べ物には特別な力が宿るの。それを口に含めば体内から体が浄化される」


「そうなの!?」


「うん。それにわたあめは白くてふわふわで、空に浮かぶ何かに似ていると思わない?」


「……雲?」


「そう! 雲は天に近い場所にあるとても神聖な物。それとよく似た形のわたあめも同様に神聖だと言える。だから、それが悪いものを追い払ったり霊魂が成仏するのを手助けしてくれたりするの」


「そうなんだ、凄い! わたあめって、そんなに有難い食べ物だったんだね! 私、今まで何も知らなかった」


「…………ふふ」


 もちろん、そんなものは大嘘だ。

 わたあめで浄化ができるなんて話、古今東西存在しない。

 自分でも何を言っているのか分からなかった。

 全国の霊能力者が聞けばひっくり返るに違いない。


 でも、有希を納得させられるのならそれでいい。

 彼女がとてもピュアで助かった。


 それから家の中に入った夕夏は、早速わたあめをあげる有希を横目に線香を焚く準備に入った。


 あの化け物は食事中や食事を終えてすぐの時は比較的大人しい。

 攻撃衝動もだいぶ抑えられている。

 だからお祓いをするのなら、その隙をつくしかない。


 燭台に立てた蝋燭の芯にマッチの火を近づけて点火する。

 その後、火の勢いが十分に強くなったところで布に包んでいた1本の線香を取り出した。

 全長20センチほどの長くて太い線香だ。

 その先端を蝋燭の火に当てて、しばらく待つ。


 線香を持つ夕夏の手が微かに震える。

 高価な物を母に無断で消費する緊張感や、伽羅きゃらの香りを初めて嗅ぐ期待感によるものだ。


 しばらくして線香の先が赤くなり白い煙が立ち上る。

 それと共に嗅覚の奥深くを刺激するような濃い伽羅の香りが漂い始める。


 甘みの中にちょっとした刺激臭を感じられる。

 目を瞑れば夢幻の底に意識が落ちていきそうな優雅な香りだ。


 立ち上がった夕夏は、火が消えない程度に線香の先を軽く片手で扇ぎ、その煙と香りを化け物の元へ届けた。


「なんか、いい匂いがするね」


 側に立っていた有希がうっとりしたように呟く。


 有希のミニライトと、畳の上に夕夏が置いたナイトライトの灯りで室内は明るかった。

 それを頼りに煙の軌道を夕夏は注意深く見守る。


 線香の先から上り続けるそれが部屋の中に充満したかと思えば、次に部屋の中央へ集まり、やがては化け物の体を取り囲んだ。


 その時、化け物の口から「グゥッ……」と呻き声が漏れた。

 煙を振り払おうと、大きく手を振り始める。


 効いている……!


 ここに来てようやく、光明を見いだせた思いがした――。




25




 翌日の朝の事。

 洗顔や食事を終え2階の自室に上がった夕夏は、学校へ行くために着替えをしていた。


 カーテンがきちんと閉じられておらず、その隙間から少しだけ外の景色が見える。

 いつもよりも薄暗い。

 昨夜から降り続いている小雨のせいだ。


 今日はお姉ちゃんの可愛いパステルピンクの傘でも借りて行こうかなと思っていたところ、勉強机の上に置いて充電をしていたスマホが鳴る。


 電話だ。

 こんな朝早くに誰からだろう。


 セーターに腕を通しつつ机に向かった夕夏はスマホの画面に目をやる。


「川森くん……?」


 そこには、ついこの前登録したばかりの優也の名が表示されていた。

 セーターを着てから電話に出る。


「はい、もしもし」


「綾瀬か!? 大変なんだ、聞いてくれ!」


「どうしたの、川森くん? こんな朝から」


「それがさ――」


 何やら興奮状態の優也によると、今日の朝、悪夢を見たらしい。

 それはあの化け物がノコギリを持って追いかけてくると言う内容で、その夢を朝に見てしまったものだから正夢になるのではないかと恐れ慄いているようだった。


 どれほどの緊急事態かと思っていた夕夏は、正直なところ内心呆れた。

 怖い気持ちも分かるが、流石にそれは考えすぎと言うものだ。


「もう終わりだ! あの白いやつがノコギリを持って殺しにくるに違いない!」


「落ち着いて、川森くん。朝に見た夢が正夢になるだなんて、そんなの何の根拠もない与太話だから。あの幽霊と前の有希の事を意識するあまり変な夢を見ちゃっただけだよ、きっと」


 そう落ち着かせる夕夏だったが、相変わらず優也は混乱したままで仕舞いにはもう家から一歩も出ないと言い張る始末だった。


 夕夏は時計を見る。

 早起きをしていた事もあり時刻はまだ6時30分。

 登校時間までには十分な時間がある。


「じゃあ川森くん、私が家まで迎えに行くから一緒に行こ? それなら怖くないでしょ?」


 そう提案すると、渋々と言った風に優也はそれを受け入れた。



 普段より30分以上早く家を出て、夕夏は優也の家へ向かう。

 いつもなら前にも後ろにも通学中の児童たちが多く連なるが、今日はその姿もまばらだ。


 優也の家にはあの時の1回しか行った事がなく道の記憶が曖昧だったが、どうにか彼の住むマンションのすぐ近くまで辿り着く。

 マンションのエントランスホールを少し出たあたりに、1人の男の子が黒いランドセルを背負って立っていた。


 優也に違いなかった。

 しかし顔をうつむかせ猫背になっているせいか、体が萎んで見える。

 哀調を帯びた様子がこの距離からでも伝わってくる。


「川森くん、おはよう」


 側まで近づいていった夕夏は、軽く手を振りながら声をかける。

 それに気づいた優也が「あぁ、綾瀬……おはよう」と元気のない声で挨拶を返してくる。


「もう気にし過ぎだよ。夢の事なんて忘れてさっさと行こ?」


 そう言い背中を向けようとする。

 しかし、優也はそこから動く素振りを見せなかった。


「えっと、どうしたの川森くん……?」


 一度顔をあげて「はぁ」とため息をついたかと思うと、再び下を向く。


「俺、やっぱり学校行くのやめるわ。行きは良くても帰りが怖いし……」


「何言ってるの、大丈夫だよ……!」


「いや、もういいよ。どうせあと1週間で学校も終わるじゃん? あの幽霊が居なくなるまではずっと布団の中で過ごすよ」


「川森くん、手出して」


「え?」


「いいから」


 そう促すと、訳が分からなそうにしながらも優也が右手を差し出してきた。

 それを夕夏は手袋越しにギュッと握る。


「ほら、行くよ! 小学生活最後の1週間なんだから、こんな事で無駄にしてちゃ勿体無いよ」


 驚いた顔をした優也だったが、やがて小さく頷くと、夕夏に手を引かれて歩き出した。



 つつがなく1日の課業を終えた夕夏は、朝と同じように怖くて帰れないと言う優也の帰り道に付き添っていた。


「綾瀬! あの店の中に白いのがいるぞ!?」


 その途中、慌てたように優也が叫ぶ。


 優也が指差す方向に目を向けてみる。

 数十メートルほど先の一軒のうどん屋の中で、白い制服を着た店員が2、3人ほど慌ただしく動いていた。


「はぁ。よく見て、あれはただの店員さんでしょ?」


 そう言われた優也は立ち止まり、じっとその店の中を見つめる。


「……でもさ、ひょっとしたらって事があるじゃん」


「ひょっとしたらって?」


「例えばアイツが人間に化けてて、気を抜いた瞬間に襲って来るとか」


「……流石にないよ、それは。そんな事気にしてたら何にもできなくなっちゃうよ」


「もう俺が信用できるのは布団の中だけだ……! 360度布団にくるまれば幽霊から身を守る事ができる!」


「そっか……」


 その後再び歩き出した優也だったが、またすぐに立ち止まる。


「いや、違う! 布団の中じゃダメだ……。○怨じゃ布団の中から幽霊が出てくるシーンがあったんだ! 綾瀬、どうしよう!?」


「どうしようって……。そもそも布団を被れば安全って言う考え方がよく分からないけど、私には」


 顔を両手で覆いながら優也が絶望し始める。


「やっぱりもう終わりなんだ」


 それから動こうとしない優也の手を夕夏は掴む。


「もうちょっとで家なんだから頑張ろ? それまで手を繋いでてあげるから」


 少し沈んだ顔をしながらも優也が足を動かし始める。

 それからしばらく歩いたところで優也のマンションへ到着する。


「川森くん、明日も学校行くよね?」


 そう問う夕夏だったが、「それは……」と優也が言い淀む。


「じゃあ今日みたいに迎えに行けば大丈夫かな?」


「……うん」


 そうして夕夏は約束を取り付け、マンションのエントランス前で優也と別れた。



 次の日の夜、夕飯を食べ終えた夕夏はダイニングテーブルの前の椅子に座りながら小さくため息をついた。

 優也の送り迎えに加えて、夜はあの家でお祓い、空いた時間には食べ物の買い出し……どんどん負担が増えていき心にも体にも疲労を感じる。


 椅子の上で膝を抱え、目を閉じてリラックスする。

 今、リビングルームの中には自分と兄しかいない。


 母は仕事で不在。

 千葉県館山たてやま市の海水浴場近くの旅館で、この頃死人を出すほどの怪奇現象が多発しており、それを鎮める為に泊まりがけで出掛けているらしい。


 父も残業で帰りは遅い。

 少し前に帰宅が21時を過ぎそうだと言う連絡を受けたばかりだ。


 いつもの家族団欒とは遠く、控えめな音量にまで絞られたテレビの音だけが虚しく響く。

 夕夏は少し寂しい気分になる。


「どうした、元気ないな?」


 その時、キッチンの方から兄の声が聞こえた。

 顔を上げると、お菓子の袋を両手に持ちながら兄が歩いてくる。

 そしてテレビの前のソファに軽く腰掛けて菓子袋を開封した。


「ポテトチップスダブル伊勢海老風味。どこも売り切れでずっと探してたんだよなぁ」


 時々CMでも見かける、今春に発売が開始されたばかりの新商品のポテトチップスだ。


 是非ともこれを1度は口にしてみたいと、魚介類好きの兄は近場のコンビニやスーパーを巡っていたらしい。

 それをようやく手に入れられて、さっそく夕飯後のおやつに食べようとしているようだ。


 兄がポテトチップスを指先でつまみ口の中へ放り込む。

 それを噛み砕く乾いた音が夕夏の耳へ届いた。


「うん、濃厚でうまい。まるで口の中で伊勢海老がワルツを踊ってるようだ!」


 何やら訳の分からない事を言っている。


 それから3、4枚食べた後、兄がソファから立ち上がり廊下の方へ向かう。

 どうやら2階へ上がるつもりらしい。


 その去り際「フフ、羨ましいか? 欲しいなら夕夏も自分で見つけて買ってこい」と2匹の伊勢海老のイラストが描かれたパッケージを自慢げに見せつけてくる。


 そのご機嫌そうな姿に、夕夏はなんだかとても腹立たしい気分になった。


 こっちは変な化け物にお小遣いまで持っていかれて辛い思いをしているのに……1人だけ呑気にお菓子を食べるなんて許せない!


 衝動的に椅子を降りた夕夏は廊下へ出てそのまま小走りに兄の元へ駆け寄る。

 そして、ちょうどホール階段を上り始めていた兄の制服の裾を背後から掴んだ。


「うわっ! なんだ、夕夏」


 驚いた兄が振り返る。


「もう、許さないんだから!」


「なにが!?」


 んー! といきみながら掴んだ生地を強く引っ張る。


「やめろ、落ちるだろ!」


 しばらくそんな攻防を繰り広げていると、風呂を上がったばかりの姉が濡れた髪をタオルで拭きながらパジャマ姿で現れた。


「何をしてるの2人とも」


「美月か、ちょうどよかった! 助けてくれ、夕夏がご乱心なんだ!」


 お菓子を片手に階段を登ろうとする兄に、それを妨害しようとする妹。

 そんな奇妙な光景に戸惑いを覚えたのか、ためらいがちに夕夏へ話し掛ける。


「えーと……どうしたの夕夏? お兄ちゃんに何か意地悪でもされた?」


「お兄ちゃんがニコニコしながらお菓子食べてた!」


 夕夏はそう言うと兄のブレザーを更に強く引っ張った。


「え? それだけ?」


「そうだ、俺は何にもしてないぞ」


「うーん……あれじゃない? お兄ちゃんのお菓子が欲しいんじゃない? そのポテトチップス、夕夏にあげたら?」


「え!? それはあんまりだろ……これ見つけるの大変だったのに!」


「じゃあ、また私が今度同じのを見つけて買ってくるから」


 しばし逡巡した後に「仕方ねーな」とポテトチップスの袋を夕夏へ手渡す。

 夕夏は特別お菓子が欲しかった訳ではなかったが、それを黙って受け取った。


「ほら、夕夏も貰ったならお礼言わなきゃ」


 そう促され、ぶっきらぼうに「アリガト」と言う。

 納得のいかなそうな顔をしながら2階へ上がって行く兄を横目に、夕夏はポテトチップスの袋を抱えリビングの中へ入った。

 そしてソファに向かうとその上に座り、何枚か口にしてみる。


 『ダブル』を謳っているだけあって、とても味付けが濃い。

 ふんだんにパウンダーがまぶされ1枚1枚が桜色に色づいている。


「それ、おしいしいの?」


 廊下に繋がるリビングのドアを閉めながら、姉が尋ねてくる。


「うん……。まるで伊勢海老が口の中でワルツを踊ってるみたい」


 首を傾げる姉の姿が視界の隅に見えた。




26




 3月21日の木曜日。

 春分の日で学校が休みだった夕夏は、午前中にあの家へ有希と共に向かった。


 いつものように庭先へ自転車を停めたところで、大量に買い込んだわたあめとちょっとしたスナック菓子を有希に渡す。


 それらを持って有希が玄関をくぐり抜け、そのあとに夕夏も続く。

 少し冷たい廊下を2人で歩き、居間の中へ入る。


 様々な食べ物の匂いや、ここで焚いている香の匂いが鼻を刺激する。


「おばあちゃん、なんか小っちゃくなった気がする……」


 部屋の中央を見ながら有希が憂いを帯びた口調で呟く。


 確かにそうかもしれない。

 あからさまな変化がある訳ではないが、初めに会った時と比べると、あの化け物の体が心なしか萎んでいるように見えた。


 香による除霊が功を奏し始めたのかもしれない。

 しかし、それでも未だに強烈な存在感を放っている事に変わりはない。


 有希が食べ物を与えている間に、夕夏は部屋の四隅に香炉を置いていく。

 そこへ火をつけた線香を立てる。

 残り少しになった伽羅きゃらが1本と、近場の仏具屋で新しく買った沈香じんこうが3本だ。


 部屋の中が煙でほんのり白く染まり、沈香の香りがふわっと広がる。

 とても心地の良いものだが、不浄な存在にはそれが不快で苦痛に感じられる。


 お菓子を食べ終えボーとしていた化け物だったが、しばらくして両手を宙に彷徨わせながら部屋の中をウロウロし始める。


 その手に捕まらないよう、夕夏は有希の手を引いて外に出た。


「ねぇ、おばあちゃん変な動きしてるけど大丈夫なの……?」


 心配そうに有希が尋ねてくる。


「大丈夫だよ、成仏に近づいた幽霊はああ言う動きをするものだから」


「ふぅん」


 少し強引に有希を納得させる。


 それから伽羅が燃え尽き他の沈香も半分ほど灰になったところでその日は終わりにし、家を出る事にした。

 線香の根本を指先で摘み、先端を強めに振って火を消す。

 それを布に包んだ後、灰が溢れないよう気をつけながら4つの香炉を底の広いテリーヌ・バッグに収納する。


 後片付けが終わると土間で靴を履き、玄関の外へ出る。

 ガチャっと言う鍵が閉まる音を合図に2人で歩き始める。


 その時だった――。


 背後で、ガシャン! と大きな音が響く。


 驚いて振り返る。

 すると、ガラス越しに映った白い影が何度も玄関の引き戸へ衝突を繰り返していた。

 その度にガラス製の窓とアルミサッシが壊れそうなほど大きく揺れる。


 夕夏は唖然とした。


 あの化け物が暴れている。

 外に出ようとしている。


 みるみる血の気が引いていく。


「おばあちゃん……?」


 有希も動揺を隠せないようで、夕夏のカーディガンの袖を不安そうにギュッと掴んでくる。


 夕夏はこの事態を収める手立てを大急ぎで考えた。


 もう一度香を焚くか。

 しかしここで焚いても香りが風に流され、効果は薄くなる。

 中途半端にアイツを刺激し続けたのが悪かったのだろうか……。

 

 それから手に汗を握るような時間が続いたが、外には出られないと悟ったのか、やがて化け物が家の奥へと退いていった。


 夕夏は恐る恐る玄関へと近づいていく。


 玄関前の石畳の上には2つに裂かれたお札が落ちていた。

 以前、念の為に貼っていたものだ。

 息を呑みながらそれを拾い上げ、バッグの中へ仕舞う。


 危なかった。

 恐らくもう一撃体当たりされていたら玄関戸が破られていた。


 有希の元へ戻った夕夏は呆然としたように「帰ろっか」と呟いた。

 何か言いたそうな顔をしていた有希だったが「うん」とだけ返事をすると、自転車の停めてある方へ向かった。


 それから2人で庭を出ようとしたところ、道の方に人の気配を感じた。

 隣を歩いていた有希の足がピタッと止まり、夕夏もそこへ注意を向ける。


 すると、10メートルほど先に同世代ぐらいの男の子が立っていた。

 シャープな顔立ちに少しセットの崩れた黒い髪。    

 上はグレーのトラックジャケットに下は黒いストレッチパンツ。

 スポーティーな装いだ。


「……椿くん?」


 そこにあったのは終夜の姿だった。

 歩道に立ちながら、じっとこちらを見ている。


――どうしてここに?


 そう思ったが、有希も同様の疑問を抱いているようで目を丸くするのが隣からでも分かった。


 無言の間の後、あの家の方へ終夜が向き直る。

 そして、鋭い眼差しをそこへ投げかけた。


 夕夏は何か話しかけようとしたが「ね……放っといて行こ」と有希に促され、再び自転車を押して黙って歩き始めた。


「綾瀬。あの家なんで赤いか知ってるか?」


 その側を通り過ぎようとした時、何の前触れもなくそう問われた。

 夕夏は思わず立ち止まる。

 そして終夜の目線に誘われるかのように、同じ方向に目をやった。


 多くの住宅が密集する中、あの一軒だけが異彩を放っている。

 彼にはあの色が見えているのか――。


 じっと眺めていると、血のように濃い赤に意識が吸い込まれていった。

 視界の奥で黒い影が蠢き、地の底から響くような低い声が鼓膜を震わせる。

 ツンとした痛みが脳に走り、ジワジワと頭全体へ広がろうとする。


「ウッ……」


「夕夏、どうしたの」


 自転車のハンドルを軽く揺さぶられ、意識が目の前に引き戻される。


 夕夏は大きく息を吐き、両手で頭を押さえながら目を瞑る。

 すると、その奇妙な症状もやがて治まった。


 心配そうに顔を覗き込んでくる有希に「ううん、何でもない」と告げると、自転車に乗り家を離れた。


 その帰り道「また終夜くん、変な事言ってた。ホント何なんだろうね……」と訝しそうな顔で有希が愚痴を言う。

 しかし考え事をしていた夕夏はそれを黙って聞き流す。


 あの赤い色の正体は何なのか。

 それを見つめた時に現れる奇怪な現象は何なのか。


 何も分からないでいた――。



 その後、有希と別れ帰宅した夕夏は昼食をとると自室のベッドで横になった。

 日頃の疲れもあり、スマホを見ているうちに眠りに落ちる。


 それから幾らか時間が経過し夕方が迫った頃に、庭の方から男女の話し声が聞こえてきて目を覚ます。

 笑い声が混じり和やかなムードだ。

 

 目をこすりつつベッドから降り庭を見下ろしてみる。

 すると両親が談笑をしながらガーデニングに興じていた。


 綾瀬家の庭では四季を通じて多くの植物が育てられている。

 そうやって植物の持つ強い生命力を魔除けとして利用し、不浄なものから家を守るのだ。


 そしてそれらの手入れが母の趣味となり、それに父も付き添っていた。


 数週間ほど前からレンガ、セメント、培養土などを搬入して少しずつ新しい花壇を作っていたのは知っていたが、それが完成間近のようだ。


 レースカーテンを開けて2人の様子をじっと観察していたところ、視線を感じ取ったのか母が2階を見上げる。

 目が合うと「夕夏もおいで! ちょうどいいところだから」と叫んでくる。


 少し興味を惹かれた夕夏はそれに応じる事にした。

 椅子の背もたれに掛けてあったカーディガンを羽織り部屋を出る。

 階段を降りると靴を履いて外へ向かった。


 庭の駐車スペースの少し横あたりにレンガを円形に積んだ花壇が出来上がっており、その側にガーデニングの装いをした2人が立っている。


「夕夏も種まきする?」


 右手にハンドスコップを持った母が微笑む。

 どうやらこれから種をまくところのようだ。


「うん、何の種をまくの?」


「向日葵だよ。母さんの希望だ」


 向日葵の写真が印刷された種のパッケージをカシャカシャ振りながら、父が答える。


「俺はマリーゴールドの方が綺麗で良かったんだけどなぁ」


「マリーゴールドはちょっと匂いが独特だからねぇ……。うちに来たお客さんが嫌な顔しても困るし」


「確か、向日葵は風水的にも良いんだよね」


 横から夕夏が合いの手を入れる。


「そうよ。生命の溢れる夏に大きな花を咲かせる向日葵はまさに『生』の象徴。黄色い花びらは金運の上昇にも繋がる。本当に縁起の良い花ね」


「ふぅん、そうか」


 機嫌良さそうに語る母の隣で、父はあまり興味の無さそうな顔をしている。

 業界とは無縁の父らしい反応だ。

 できれば風水や縁起よりも見栄えを優先したいのだろう。


 話に区切りをつけた母がハンドスコップの先を使って、深さ数センチ程の小さな穴を幾つも掘り始めた。

 そこへ父が勝手を知ったように向日葵の種を2、3粒まいていく。

 途中でパッケージの中の種を半分ほど手のひらへ乗せると、その残りを夕夏へ渡してくる。


「ほら、夕夏もやってごらん」


 軽く頷きながら、それを受け取る。

 それから2人掛かりで全ての穴へ種を入れ終え、仕上げに母が土をかぶせる。


「ふぅ、これでよし。ようやく完成ね。これから毎日お水をあげなきゃね」


「そうだな。少しまく時期が早かったかもしれないけど、最近暖かいから大丈夫か。俺、道具片付けてくるよ」


「うん、お願い」


 そう言い父がガーデニングの後仕舞いに入る。


「喉乾いちゃった。中に入ってお茶でもしよっか」


 手袋とエプロンを脱ぎながら母が玄関の方へ向かう。

 夕夏もそれに誘われて後についていく。


「ねぇ、お母さん。旅館の方はもう大丈夫なの?」


 お祓いの為に隣の県まで出ていた母だったが、今日の朝方にはもう帰宅していた。

 昼過ぎまで睡眠を取り、その後ガーデニングで体を動かしていたようだ。


「1回じゃ祓いきれないから、何回かに分ける事になってね。他にも仕事があるから全て片付くのは一体いつになるやら」


「そうなんだ」


 白い乱形石が敷かれた玄関アプローチを歩いて玄関に辿り着く。

 そして足元の段差を登ろうとしたところ、母が不意に足を止めた。

 後ろを振り返り夕暮れの空を見上げながら「赤いね……」と呟く。


 夕夏も同じように空を見る。

 西の彼方に落ちようとしている太陽が、その隣の南の空をほんのり赤く染めていた。


 この目線のずっと先には、ちょうどあの家がある。

 もしかしたら、あの家から発せられる瘴気を母は感じ取っているのだろうか――。


 いっそのことこれを機に自分の抱えている件を母へ話そうかと夕夏は迷う。

 しかし結局は、そうする事なく母と一緒に家の中へ入った。




27




「はぁ、ついに学校も終わっちゃたね」


 次の日の金曜日。

 優也に付き添って通学路を歩いてい夕夏は、帰りの会で配られた卒業文集に軽く目を通しながらしみじみと呟いた。


 それに「そうだな」と優也が短く言葉を返す。


 クリーム色の文集の表紙には、桜並木道を並んで歩く男女の児童のイラストが描かれている。

 イラストの上手いクラスメイトが数名で共同制作したらしい。

 1番手前の大きな桜の木に関しては担任の先生が筆をふるったと聞いている。

 思い出に残る表紙絵だ。


「川森くんは他の子達と話さなくて良かったの?」


 下校のチャイムが鳴ってからもしばらくは浮かれ気分で友達とはしゃいでいた夕夏だったが、教室の出入り口でポツンと自分を待っている優也の姿を見て輪から抜け出してきた。


「そんな気分じゃなかったしな……」


「そっか。卒業旅行とかは行くの?」


「一応友達とな……」


 そう答えた後、優也は黙り込む。

 毎回こんな調子だ。

 何を話しかけても反応は薄く、暗い雰囲気を漂わせている。


「来週の卒業式までには全て解決するつもりだから……。元気出して。ね?」


 優也は無言で頷くだけだ。


 それから文集をランドセルの中に仕舞った夕夏は、この陰鬱な雰囲気をどうにかしようと何か雑談のネタを考える。


 川森くんが思わず食いついてしまうような話題って何だろう。

 サッカー?

 でも私、サッカーの事は分からないし。


 あの日と同じ道を歩いているせいか、優也の家を訪れた時の記憶が蘇ってくる。


 そうだ。


「ねぇ、川森くん」


「ん?」


「前、川森くんの部屋を見せてもらった時、机に鍵が掛かってたでしょ?」


「うん、まぁそうだけど……」


「結局、あの中には何が入ってたの? なんか、開けられないように必死だったよね」


 ちょっと意地悪な質問だな、と自分でも思った。

 しかし優也を刺激するには充分だったようで、目に見えて動揺を始める。


「な、なんで今更そんな事聞くんだよ」


「だって気になるじゃん。もう卒業しちゃうんだから思い切って言っちゃいなよ」


「卒業とそれは、何の関係もないだろ……!」


「そんなに人に見られたくないもの?」


「そりゃあ……鍵が掛けられてる時点で察してくれよ」


「そっかぁ。そうなんだ、ふーん」


「なんだよ、その目は」


「私もお兄ちゃんがいるから、川森くんの気持ちは分かるよ」


「え?」


「前にね、パソコンで見たいサイトがあって、お兄ちゃんのパソコンを借りた事があるの。ちょうど家族用のパソコンが壊れててその代わりに」


 そう夕夏は話し始める。


「ロックが掛かってたけど、思いつきでお兄ちゃんの誕生日を入れてみたら見事に解除されちゃって。それからサイトを見てたんだけど、何となくブラウザの閲覧履歴が気になって覗いてみたら変なタイトルのページが幾つもあった。試しに1つクリックしてみたら……何だったと思う?」


「え、何って……」


「女の子の水着や裸の画像とかが沢山表示されたの。私、びっくりして慌ててパソコン閉じちゃった。それからしばらくしてお兄ちゃんが学校から帰ってきたんだけど、なんかショックで顔を合わせられなかったなぁ。ハハ……」


 突然のセンセーショナルな話題に何と答えればいいのか分からないようで、優也はドギマギとしていた。


「でも男の子だったらそう言うのに興味があるものなんだよね……! 前に授業でもそんな感じの話聞いたし。だから川森くんも、そんなに気にする事ないと思うよ!」


「あ、綾瀬!? ちょっと待て!」


「それにね、幽霊は何というか……エッチな表現が苦手とされているの。そう言うものの先には生命の誕生があって、一種の神秘性や神聖さが含まれていると考えることができるから。だから川森くんも、もしあの化け物が来たらそう言う本でも使って追い払っちゃえばいいんだよ!」


 顔を真っ赤にしながら夕夏はそう言い切った。

 優也の感情を刺激するつもりが、気付けば自分がヒートアップしていた。


「何を言ってるんだろうね私! もう、川森くんのせいなんだから」


「綾瀬、落ちいてくれ……。違うからそれは! な?」


「違うって、なにが」


「別にそんなのを隠してた訳じゃないって事!」


「……じゃあ何を隠してたの?」


「それは……言えないけどさ」


「やっぱり、そう言う事なんじゃない」


「はぁ……分かったよ、白状するよ。でも、絶対誰にも言うなよ?」


 真剣な眼差しで夕夏の顔を見つめながら、優也が詰め寄ってくる。


「う、うん」


 それから一呼吸置き「有希の写真だよ」とぶっきらぼうに言い放つ。


 思いがけない言葉に夕夏はポカンとした。


「へ? 有希の写真」


「そう」


「えーと、どう言う事?」


「親が持ってる写真アルバムの中から、有希の写ってる写真を抜いて机の中に入れたんだ。有希とは家族ぐるみでキャンプやバーベキューに行く事もあってな、その時の写真だ」


「そうなんだ……。でも、どうしてそんな事を?」


 そう尋ねると、気まずそうに優也は視線を逸らせた。

 その後、何も言葉を発しない。


「……もしかして、有希の事が好きだから?」


 その疑問に苦虫を噛み潰したような顔で「綾瀬ってけっこう酷いよな」と言葉を返してきた。


「ごめん、ごめん」


 有希に対して彼は幼馴染以上の感情を抱いていのるのではないか――。

 以前から何となくそんな気がしていたが、それはやはり正しかったようだ。


「そんな理由があっただなんて。それじゃあ、変な事言った私が馬鹿みたいだね……!」


 不満そうに夕夏がそう言う。

 おかしな方向に勘違いをしてしまったせいで、大恥を掻いたも同然の状態だ。


「勝手に勘違いする方が悪いんだよ」


「ハハ……。でもそれだと確かに有希に見られる訳にはいかないよね」


「なぁ、約束だぞ。絶対に誰にも言うなよ!」


「分かってるって。どう、少しは元気になった? 最近なにを話してもずっと反応が薄かったから」


「……元気が出るどころか心臓がキュッってなったよ。ある意味、幽霊よりも綾瀬の方が怖いかもな」


 真面目な顔でそんな事を言う優也に、夕夏はおかしそうに笑った。

 それから軽い雑談を交わしたところで、優也のマンションに到着した。


「じゃあ、次は卒業式の日にね、川森くん」


「あぁ。幽霊の事は任せたぜ、綾瀬」


「うん」


 ◆


 夕夏は物量作戦でいくつもりだった。

 手に入れられる限りの御神酒と清め砂を用いて、一挙にあの化け物の力を無効化する。

 中途半端に刺激し続けるのはかえって危険だと先日学んだ。


 勝負の日は明後日の日曜日。

 それまでに準備を万端にしなければならない。


 そんな事を考えながら、来た道を引き返し自宅へ向かっていた。

 そして再び学校を通過しようとしたところ、前方の校門から見覚えのある男子児童がスッと現れ夕夏の先を歩き始めた。


(椿くん……)


 ちょうど下校時刻が重なったようだ。

 10メートルほどの距離を空けながら、黙々と歩いている。

 歩行ペースが速く、時間が経つにつれて次第に距離が開いていく。


 これまでにもこんな風に帰りが一緒になる事はあったが、それも今日で終わりか……。


 どこか寂しい思いで終夜の後ろ姿をじっと見つめていたところ、にわかに終夜が振り返る。

 そして少し驚いたような顔で「綾瀬……」と呟き立ち止まる。


 どこかバツの悪さを感じた夕夏は慌てる。


「つ、椿くん、今帰るとこだったんだ!」


 それから終夜の側まで近づいたところで、終夜が歩行を再開した。


 図らずも下校を共にする事となった夕夏は、終夜と幾らか言葉を交わす。

 彼は図書室に立ち寄っていたせいで帰りが遅くなってしまったらしい。


「本好きなんだね。そう言えば、時々昼休みにも図書室の方に行ってるよね」


「まぁな。いろいろと為になるから、本を読んでいれば」


 そこで会話が途切れる。

 あと5分も進めば、分かれ道に差し掛かる。

 中学が別となる終夜と会うのはあと卒業式ぐらいだ。

 もしかしたらこの5分間が2人で過ごす最後の時間となるかもしれない。


 そう思った夕夏はこの際に何か気になっている事でも聞いてみようかな、と考えを巡らせた。


 普段、家では何をして遊んでいるの。

 何をすればそんなに頭が良くなるの。

 どうして卒業文集の将来の夢が探偵なの。

 

 とか、尋ねてみたい事は幾つかあるが……。


「ね、椿くん」


「ん?」


「椿くんは好きな人とかいるの……?」


 そう切り出した瞬間、終夜の動作がぎこちなくなる。

 微かに動揺が走ったようだった。


「……好きな人?」


「うん」


「どうして?」


「どうしてって、純粋に気になったから。椿くん、あまり恋愛とかに興味なさそうに見えるけど、そう言う人いるのかなって」


 しばらく沈黙したあと「好きと言うか……気になってる人なら」と答えた。


「えぇ、そうなの!? どんな人? 同じクラス?」


 そんなのいるかよ。

 そう返事を予想していた夕夏は衝撃を受け、思わず矢継ぎ早に質問をしてしまう。


「それは……言えない」


「そっか。いつから?」


「……前から」


「前からっていつ? もう何年も?」


 終夜は苦笑いした。


「なんでそんなに詳しく聞いてくるんだよ」


「だって、気になるもん」


「これ以上は何も言えないよ。もういいだろ」


 そう言うとどこか気恥ずかしそうに終夜は目線を足下に向けた。


 それからしばしの間、2人は無言で歩き続ける。

 道路を吹き抜ける少し冷たい風が頬を撫で、春らしい心地の良さを感じる。


 先ほどの優也との会話が頭の中に残っていた夕夏は、何となしに「もし、その子の写真とかがあれば欲しいと思う?」と聞いてみた。


「――え?」


「好きな子の写真をこっそり集めて眺めたいとか……思ったりする?」


「何だよその質問」


 終夜は少し呆れたようにしていたが、その後「知るかよ」と素っ気無く呟いた。


「ふーん。その子は可愛い?」


 答え辛そうに「……さぁな」と言う。


「ふふ、なんだか顔が赤くなってる。椿くんもそう言う表情するんだね」


「は? 赤くなってねーよ」


 それから「あーもう、余計な事言うんじゃなかった!」と頭をかきむしる。


 そんな様子の彼を見るのは初めてで新鮮な気持ちになる。

 隣で夕夏は微笑んだ。


 その後、落ち着きを取り戻そうとしたのか終夜が大きく息を吐く。


「――そんな事より、あの家の方は大丈夫なのか?」


 これまでの態度とは一変、真剣な表情でそう尋ねてくる。

 思いがけない問いに夕夏は戸惑いを覚える。

 まさかここに来てあの家の話が出るとは……。


 どう答えようかと迷った末に「えーと、日曜日に決着をつけようと思ってる」と言葉を返す。


「どうにかなるのか?」


「え?」


「あそこはいろいろとヤバい。白いヤツもそうだが、特にあの赤い光がな。どんどん状態が悪くなっている」


 夕夏は言葉を失った。

 どうしてそれを知っているのか――。


 あれは普通の人には知覚できないはずだし、仮に霊感があったとしても、家の中にでも入らない限りそこまで詳しくは分からない。


 前にあの家で会った時の発言といい、彼は単なるオカルト好きにしては何かがおかしい。

 まるであの家に関するすべての事象を見透しているかのようだ。

 

「……見えるの?」


 そう問うと、終夜は静かに頷いた。

 

 驚きの事実だ。

 彼には多かれ少なかれ霊感が備わっているようだ。


「そうなんだ……。でも、どうしてそれを? 普段あの家には鍵が掛かってるから中までは分からないでしょ」


 すると終夜は冷たい笑みを浮かべながら「あの手の古い鍵を破るのはそう難しい事じゃない」と言った。


 それを聞いた夕夏の頭の中に『ピッキング』と言う単語が思い浮かぶ。

 映画やドラマで見た事がある。

 細い針金のような物を使って、スパイや泥棒などが他人の家の鍵を開けるのだ。


 それと同じ事をやってのけたとでも言うのだろうか。


 でもそんな事を小学生ができるとは信じられない。

 それ以前に、それは法的にも倫理的にも問題がある行為なのではないだろうか。


 あれこれと心の中で思うも、なぜか彼ならそれを澄ました顔でやってしまいそうな気がした。


 どんな反応をしたらいいのか分からないまま、気付けば終夜との別れ道が迫っていた。

 そして住宅街に入ろうとする直前に「なぁ綾瀬。気をつけろよ、アイツはアッカヒャッキかもしれない」と言って終夜は去って行った。



――アイツはアッカヒャッキかもしれない。


 帰宅してからというもの、夕夏は終夜の語った事がずっと気になっていた。

 話の流れからしてアイツとはあの化け物の事を指しているに違いない。


 しかし……。

 アッカヒャッキと言う単語に聞き覚えはなかった。


 もしそうだとして、何故そんなことを彼が知っているのか。

 物心ついた時からこの業界にいる私ですら、あの化け物の正体には見当がつかないでいるのに。


 ベッドの上で仰向けになりながら考え事をする。

 すると、いつの間にか夢うつつ気分になっていた。


 すでに時刻は23時を回っているが、もう少し起きていようと思った夕夏は眠気覚ましのコーヒーでもいれてこようと、ベッドを降り1階のキッチンへ向かう。


 リビングのドアを開けると、ダイニングテーブルの前で母が1人で腰掛けていた。

 ノートパソコンを開いて、熱心にキーボードを打鍵している。

 何か仕事関係の作業をしているようだ。


 その側を通りすぎキッチンへ入る。

 レンジラックには他の家電製品と共にコーヒーメーカーが置かれてある。

 それを使いコーヒーをいれる。


 しばらくして出来あがったばかりのコーヒーをお気に入りのマグカップの中へ注ぐ。

 紙フィルターやポットの後片付けを素早く終わらせると、砂糖とミルクを入れて好みの味に調整した。


 挽いて間もないコーヒー豆の強い香りが、湯気と共にカップの中から広がる。


 その香りがダイニングの方へ向かう。


「いい香りね」


 両手を軽く上げて伸びをしながら、母が話しかけてくる。


「うん、粉の時と全然違う」


 以前はミルのついていないコーヒーメーカーを使っていたが、動きが悪くなってきたのを機に、より本格的なコーヒーを飲みたいと言う家族の要望のもとミル付きの新しい物へと買い替えた。


 それにより豆を挽くところからコーヒーを作れるようになった。

 動作音の騒がしさが玉にきずだが、一から挽いたコーヒー豆の香りとこくは格別のものがある。


 マグカップを片手に2階へ上がろうとした夕夏だったが、さり気なくあの事を母に聞いてみようかなと思った。


「ねぇ、お母さん」


「ん? どうしたの?」


 パソコンの画面を見つめたまま、母が返事をする。


「アッカヒャッキって知ってる?」


 そう言って返答を待つ。

 しかし、母は何の反応も示さなかった。


 あれ? 聞こえなかったのかな?


 そう思い、もう一度同じ質問をしようとする。

 その時だった。


 突然母が立ち上がったかと思えば、静かにこちらへ歩いてくる。

 そして、そっと両手を肩の上へ置いてくる。


「夕夏。どこでそれを知ったの?」


 心の奥底を読むかのようにじっと目を見つめながら、そう尋ねてくる。


 これは触れてはならない話題だ――。

 

 射るような眼差しに、瞬間的にそう悟った。


「えっと、あの……」


 口を濁した方がいい。

 そう思うも、動揺してしまい上手い言葉が見つからない。


「お、同じクラスメイトの子が、そんな感じの事を言ってたの! それでちょっと気になっただけ……!」


「それをどう書くかは、知ってる?」


 夕夏は慌てて首をふり、知らないとアピールする。


「他に何か聞いた事は?」


「な、なにも」


 それからしばらく緊張した時間が流れたが「そう」と呟くと、母は夕夏の肩から手を離した。

 椅子の方へ歩いていき、そこへ座る。


 その後、ポツポツと語り出した。


「昔はね、そんな事なかった。でも……いつしか、それ自体が強い呪いの力を持つようになった」


 背を向けて座る母の表情は分からない。

 しかし遠い目をしているような気がした。


「それと同じ。いつしか、その言葉が呪詛となる日がくるかもしれない。だから当て字を使って本来の形から遠ざけた。……夕夏、その言葉は忘れなさい。少なくとも、今はね」


 マグカップを持ったまま夕夏は硬直した。

 何を言っているのか、全く理解ができなかった。

 母の様子、口調、話す内容。

 その全てが薄気味悪く思えた。


「それを背負うには、あなたはまだ小さすぎる。またいつか……その時が来たらね」


 そう言い終えると、再び母は作業に戻った。

 キーボードを打つ小気味のいい音が、緊迫した空気を和らげる。


 ひとまず気分を落ち着けようと、夕夏はコーヒーに口をつける。

 熱さを感じると共に、甘苦いコーヒーの味が味蕾みらいに染み渡る。

 少しだけリフレッシュした気分になる。


 それから体の向きを変え廊下へ向かおうとした時、付け加えるように母がこう言った。


「そのクラスメイトって言うのは――椿?」


 雷に打たれたような衝撃が全身を駆け抜ける。

 全身が総毛立つのを感じた。

 思わずマグカップを落としそうになる。

 

 どうして、それを――。


 自分の子供のクラスメイトの名前ぐらい、保護者なら知っていてもおかしくはない。

 しかし、1クラスに40人近くもの児童がいる中、どうして彼の名前を的確に言い当てたのか――。


 少なくとも夕夏は、母との会話の中で終夜の名前を積極的に出した記憶はほとんどなかった。

 クラスメイトの話をするにしても、大抵は仲のいい女子や何かと目立つ男子の事に軽く触れる程度だ。

 それにも関わらず、そのクラスメイト達を差し置いて、普段話題に登る事もない終夜の名前が真っ先に母の頭の中に浮かび上がるのは明らかにおかしい。

 

 ショックのあまり夕夏は母の問いに答える事ができなかった。

 母もそれ以上、追及してくる事はなかった。


 足が浮わつく感覚を感じながらゆっくり廊下へ出る。

 リビングのドアをそっと背後で閉めると階段を登った。


 その途中、先ほどの会話が何度も脳内でリピートする。


 お母さんと椿くんの間には、私の知らない何かがある――。


 そう思わずにはいられなかった。

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