第10章 夕夏と終夜

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 23日土曜日の朝。

 叔父に手配をお願いしていた御神酒と清めの砂、それにおふだを受け取りに夕夏は月見神社の社務所へ向かった。


 1800ミリリットル入りの清酒が3本に、清めの砂が3キログラム、お札が4枚。

 御神酒はこの前と同様に神社へ奉献されていた物を譲り受け、清め砂とお札は一般参拝者向けに頒布されている物を正規料金を支払って頂いた。

 小学生の身としては大きな出費だが、背に腹はかえられない。


 それをこっそり母から借りた、容量の大きいアウトドア用の白いリュックの中に入れて持ち帰った。


 御神酒、清め砂、お札、櫛。

 その4点が明日の決戦で用いる“武器”だった。


 もし、それでもダメだったら……。

 その時はもう白旗をあげて後の事は母か叔父にでも任せるしかない。


 だから、上手くいこうがいかなかろうが、私の戦いは明日には終結する――。


 それからお昼ご飯に昨夜の残りのカレーライスを食べていたところ、有希から『今日は体調を崩しておばあちゃん家にいけない』との電話があった。

 スマホの番号は以前教えてあった。


 食事を終えた夕夏は廊下を出て客間として使われている和室へ向かった。

 そこで瞑想でもしようかと思った。

 数年ほど前から母の影響を受けて始めた、集中力を鍛える為の習慣だ。


 普段から来客をもてなし、綾瀬家の顔とも言えるその和室はちょっとした旅館ほどの広さがある。


 真壁仕様の12畳の部屋の中央には風格を感じる唐木座卓、それに2台の座椅子が向かい合うように置かれている。

 残りのスペースを利用して、併設されている押入れの中から寝具を取り出しそこに敷けば宿泊をする事も可能だ。


 ここの他にもリビングルームの隣に6畳の和室があったが、こちらの方が静粛性に優れているように感じる為、瞑想の際には専らそこを利用していた。


 座卓の隣の空きスペースに腰をおろした夕夏は早速瞑想を開始する。

 そして無の境地に至ろうとした時、軽快な電子音が静寂を破った。


 夕夏は眉根を寄せる。スマホの着信音だ。


 瞑想に集中できるよういつもなら電源を切るか機内モードにしているが、今日はうっかりそれを忘れてしまっていたようだ。


 ちょうどいいところだったのに一体誰だろう……。

 少し自分勝手な文句を心の中で呟く。


 ワイドパンツのポケットの中からスマホを取り出し、液晶画面に目をやった。


「川森くん……?」


 何の要件か、優也からの着信だった。


「もしもし、夕夏だけど」


「綾瀬か、俺だよ!」


「どうしたの?」


「それがさ、急に今日の夜1人で過ごす事になって不安で死にそうなんだ。助けてくれ……」


「え? どう言う事?」


 優也が言うには、この土曜日を利用して優也の両親が夫婦水入らずの日帰り旅行へ出かけたが、急遽予定を変更し一泊する事になったらしい。

 彼の姉もまた親が不在なのをいい事に友達のところへ泊まりがけで遊びに行こうとしているようで、夜を1人で過ごすはめになってしまったとの事。


「もしさ、1人で居るところにあの幽霊が来たら大変じゃん? だから今日はどこにも行かないでくれって姉ちゃんに頼んだんだ。そうしたらあいつ鼻で笑いやがった! 絶対に許さねぇ……!」


 そう鼻息を荒くさせる優也に夕夏は苦笑した。


「でもそうなったなら仕方がないんじゃない……? それに幽霊の件は明日には片付けるから心配しないで」


「それなら逆に今日の夜が一番ヤバくないか!? 最後の最後でなにかがあるって映画や漫画の中じゃ定番じゃん!」


「もう、落ち着いて。私たちがいるのは映画や漫画の世界じゃないでしょ」


「でも心配なんだ、祈祷か何かしてくれよ! あの幽霊が来ないように」


「そんな無茶言わないで……そもそもあのレベルの霊を足止めできるほどの力はまだ私にはないから」


「じゃあどうしたらいいんだ!?」


 電話の向こうで優也が騒いでいる。

 それと呼応するように電話口の遠くの方から「優也、さっきからうるさいんだけど!」と声が聞こえてきた。

 

 少し迷いながらも「うーん……じゃあ、私の家に来る?」と夕夏は提案してみる。


「え!? 綾瀬の家……?」


 虚をつかれたような返事を優也がする。


「うん。1晩ぐらいなら泊めてあげられるかも。時々私の友達も泊まりに来るし」


「マジか。それは、ありがたいけど……」


 悪い提案ではないと思ったが、どこか優也の歯切れが悪い。

 もしかしたら女子の家に泊まる事に躊躇いを感じているのかもしれない。


「とりあえず私も川森くんを泊めていいかどうか1度聞いてみるよ。そしたらまた掛け直すね」


 そう言って電話を切ると、瞑想を再開した。



 父は仕事に出ているが、母は休みを取っているのか在宅だった。

 霊能力者としての仕事も掛け持ちする母は、他の神主達に比べ高い頻度で休みを取得しているようだった。

 不在中の仕事の大半は叔父が担っているようで、ある程度の仕事を他に任せられる点は規模の大きい神社ならではの特権なのかもしれない。


 午前中どこかへ出掛けていた母だったが、帰宅してからはずっと家で家事にあたっている。


 サンルームで洗濯物を干している母に、今晩優也を泊めていいかどうかを聞いてみる。

 すると、初めは男子を泊める事に驚きを見せていたものの最終的にオッケーを貰えた。

 何か事情があるのだろうと母なりに察してくれたのかもしれない。


 それから再び優也に電話をかけて泊まりに来ていい旨を伝える。

 やはり1人で過ごすのは不安だったようで、夕飯と入浴を済ませたら向かうとの返事があった。


 その後18時ぐらいに優也から家を出たと連絡があったので、待ち合わせ場所の月見神社の鳥居前へ向かった。


 しばらくそこで待っていると、上下お揃いの青いジャージに黒いリュックサックを背負った優也が自転車に乗って現れた。


「悪い、待った?」


「ううん」


 合流した2人はさっそく夕夏の家へ移動する。

 徒歩で来た夕夏に合わせ、優也が自転車を押しながら隣を歩く。


「なんか申し訳ないな。いきなり泊めてもらって」


「そんなに気にする事ないよ。普段からうちにはいろんな人が出入りしてるから」


「そうなんだ」


 数分ほど歩いたところで前方に家が見えてきた。


「もしかして、あの白いやつ?」


「うん」


「マジか、噂でデカいって聞いた事あるけど豪邸だな……」


 ポカンとしたように優也が呟く。


 それなりに裕福な家の生まれだと言う自覚は、夕夏にもあった。


 都内の事務所に司法書士として勤める父の給料に、毎年十数万人近くの参拝者を抱える人気神社の宮司そして霊能力者として働く母の収入。

 それに加え先祖代々からの資産が今の豊かな暮らしを支えている。


 特に母のような日本トップ級の霊能力者ともなればその収入には凄まじい。

 毎年宝くじに当選でもするかのような大金が入ると聞いた事がある。


 今の家に住み出したのはおよそ5年ほど前からだ。

 それまでは築何十年にもなる日本家屋に暮らしていたが、同居していた祖父の逝去をきっかけに母が中心となり家を建て替えた。

 長い建築期間の末に完成したのは、以前とはタイプの異なる洋風モダンの二階建て住居だ。

 ナチュラルホワイトで統一された外壁は明るく開放的な印象を与え、手入れの行き届いた広い庭も合わさり、まさに豪邸と言った佇まいをしている。


 そんな清潔感があって広く美しい我が家を夕夏は気に入っていた。


 駐車場ガレージにまで到着するとそこの門扉を開け優也を敷地内へ迎え入れた。


「駐車場の隣に駐輪スペースがあるから、自転車はそこに停めてね」


「お、おぉ」


 優也は少し緊張しているようだった。

 たどたどしく足を踏み入れる。


 そして優也が自転車を停めたところで駐車場を横に出て、玄関アプローチを歩き玄関まで向かう。


 その途中、アプローチの両側に沿うように咲いている花々をキョロキョロ見渡しながら「花がたくさんあるな……」と優也が呟いた。


「お母さんがガーデニング好きなの。だからいろんな花を植えてる」


「へぇ」


 それから玄関に辿り着いた夕夏はポケットの中からスマホを取り出し、その裏側をプッシュプルハンドルの上側部分へ近づけた。

 ピッと短く電子音が鳴り鍵が開く。


「スマホで開くの?」


「ううん、シールキーだよ」


 スマホをひっくり返し裏面を見せる。

 ピンク色のカバーの上には直径1センチほどの丸いシールが貼られている。

 それにはICチップが内蔵されており、ハンドルに接触させる事で解錠が可能だ。

 

「へぇ、カードのやつは時々見かけるけどシールタイプのもあるんだ」


「学校に行くときは私もカード使ってるよ。パスケースに入れてランドセルの中に仕舞ってるの」


 優也は関心したように頷いた。


 玄関のドアを開けて中へ入る。

 靴を脱ぎ廊下へ上がり、スリッパを履いて廊下の奥へ進もうとした。

 すると優也が家の人へ挨拶をしておきたいと言うので、一旦リビングへ通した。

 そこに居合わせた家族と慇懃いんぎんそうに挨拶を交わす姿からは、スポーツマンらしい礼儀の正しさを感じた。


 その後廊下を歩いて客間へ案内する。

 少し前まで瞑想をしていた和室だ。


 その部屋に入るや否や、優也が感嘆の言葉を口にする。


「うわ、広いな。綺麗だし旅館みたい。ここで過ごせばいいの?」


「うん、お客さん用の部屋だから好きにくつろいでいいよ。布団は押入れの中に入ってるから眠くなったら勝手に敷いて寝てね。私ご飯まだだから、ちょっと食べてくる」


「わかった、ありがとう」


 ◆


 夕食と入浴を済ませた夕夏は、ココアとマドレーヌの乗ったお盆を持って客間へ向かった。


――トントン。


 ノックをして中に入ると、座卓の横に敷かれた布団の上に寝転がりながら優也が携帯ゲーム機で遊んでいた。

 黒いスウェットの上下に服が着替えられている。

 もう寝る準備に入ったようだ。


「飲み物とお菓子持ってきたから一緒に食べよ」


 そう言い2人分のマグカップ、小皿、フォークを座卓の上に置く。


「あぁ、サンキュー」


 布団から起き上がった優也がゲーム機の画面を消して近寄ってくる。


「今更だけど、綾瀬ってお嬢様なんだな」

 

「そんな事ないよ……! これ食べ終わったら歯磨きしよっか。私が洗面所まで案内するから」


「うん」


 座椅子に座って向かい合いながら、2人でココアに口をつける。


「すごい静かだね」


「ああ。こんなに広くて静かな部屋で過ごすのは何か怖いな……。さっきまでゲームで気を紛らわせたけど」


「前はテレビがあったんだけど、見栄えが悪いとかなんとかでどっか持っていっちゃったの」


「そうなんだ。でもここなら、もし幽霊が来たって大丈夫だよな? なんたって綾瀬の家なんだし」


「そうだね。今日はお母さんもいるから心配はいらないと思う」


 この家は母が作り出した一種の聖域だ。


 どんなに強い幽霊でも緻密な計算のもとに作られたこの結界を突破する事はできない。

 それでも破られたとするのならば、それは大事件だ。


 和室の最奥に設けられた窓へ、夕夏は何となしに目を向ける。

 薄茶色のプリーツスクリーンが下ろされ、外の景色が見えなくなっている。

 先ほどは、こうなっていなかった。

 優也がやったのだろう。


 もう日は落ちている。

 窓の向こうには漆黒の闇だけがどこまでも広がっているはずだ。


 じっとそこを見つめていたところ「綾瀬、どうした?」と声をかけられる。


「ううん、なんでも」


 静かに首を振る。


 それからココアとマドレーヌを食べ終えると優也を連れて洗面所へ向かった。

 来客用の使い捨て歯ブラシもストックされていたが、優也は歯ブラシセットを持参しているようで、それを使って歯を磨いていた。


 部屋に戻った後もどこか弱気な優也の為に、眠りにつくまでその部屋で一緒に過ごしてあげる事にした。


「川森くん。そう言えば、有希風邪引いちゃったんだって」


 座椅子に座って振り向きながら、布団から顔だけを出し眠っている優也に話しかける。


「マジで? 珍しいな、いつも元気いっぱいなのに」


「そうだよね。有希の体調も心配だけど、明日来れなかったらどうしよう。有希の鍵がないとあの家に入れないのに」


「それはそうだな……。それより有希が来たら本当に明日には終わるの?」


「うん、その予定。私だけじゃ無理な可能性もあるけど、その時はお母さんとか他の大人の人に任せるつもり。どっちにしても、私があの家に関わるのは明日が最後だよ」


「そっかぁ。俺、あんまり知らないけど、綾瀬の母さんって有名なんだろ? それなら心強いな」


「まぁね。日本だとお母さんと同じぐらい力のある人はあと2人しかいないの」


「そうなんだ」



 頭の中でいろいろと考えているのか、その後も優也はなかなか寝付けなそうにしていた。


「その様子だとまた悪夢を見そうだね」


 優也が顔をしかめる。


 その時「あっ、そうだ!」と言って夕夏は部屋を出て行った。

 そしてすぐに戻ってくると優也に自分の櫛を手渡した。


「私がいつも使ってる櫛。枕の下に敷いて寝てみて」


 赤いケースに入ったそれを指先で受け取りながら、不思議そうな顔で優也が眺める。


「もしかしてこれって、前、俺ん家に来た時に綾瀬がポケットの中から出してたやつ……? 櫛だったんだ」


「うん。それを使えば少なくとも悪夢を見る事はないと思う」


「へぇ」


 夕夏に言われた通り、優也はその櫛を枕の下に突っ込んだ。


「だからもう安心して寝なさい!」


 そう言い優也の胸元あたりを布団の上からポンポンと叩く。


 それからしばらくすると優也が寝息を立て始めた。

 夕夏は「おやすみ」と囁き、食器類を持って部屋を後にした。




29




「どう? 昨日の夜は大丈夫だった?」


 その翌朝、朝食のハニートーストと牛乳の乗ったお盆を座卓の上に置きながら優也に尋ねた。


「なんか、凄いぐっすり眠れた」


「悪夢も見なかったでしょ?」


「うん。でも、変なうさぎの夢は見た。布団で寝てる俺の周りを白いうさぎが3匹ぐらいグルグル回ってるんだよ。怖い感じはしなかったけど」


「ふふ。それ、うちのうさぎさん達だよ」


 ◆


 朝の支度が済んだところで優也を連れて家の外へ出た。


「悪いな、いつもいろいろとやって貰って」


 自転車を押して門扉の方へ向かいながら、どこか申し訳なさそうに優也が言った。


「そんな事気にしないで! それより、とうとう明日は卒業式だね。有希の体調もそれまでに良くなってればいいけど」


「そうだな……。袴を着るんだって前から楽しみにしてたから早く治って欲しいな」


 それから優也と別れた夕夏は家の中に戻り有希の家へ電話をしてみた。


 ちょうど有希が電話を取ったので体調を聞いたところ、ひと晩眠った事である程度回復したようだった。

 外出もできそうだと言ったので、予定通りにあの家へ行く事にする。


 待ち合わせの時間は午前10時30分。

 まだ余裕がある。


 それまでに必要な持ち物を再度確認したり沐浴して身を清めたりと、夕夏は準備を万端にした。


 その後、リュックを背負い家を出て自由が丘駅まで徒歩で向かう。

 今日は電車で行くつもりだった。

 荷物がかなり重たいので自転車だと運転が不安定になって事故をしないか不安に思った。


 待ち合わせ時間よりも少し早くあの家へ到着したところ、既に有希が玄関の前に座りながら待っていた。

 その顔には使い捨ての白いプリーツマスクが着けられている。


「有希、大丈夫?」


 開口一番にそう尋ねる。


「うーん、ちょっとまだフラフラするかも。微熱もあるし……。でも今日でおばあちゃんが成仏できるかもしれないんでしょ? なら、このぐらいで寝込む訳にはいかないよ!」


 意気込む有希に夕夏は苦笑いを浮かべる。


「まぁ無理はしないようにね。ご飯をあげたら後はゆっくりしてて」


 それからいつものように有希が玄関の鍵を開けて家の中に入り、夕夏もそれに続く。


 夕夏は今までにない程緊張していた。


 上手くいくだろうか。

 失敗して状況を悪化させないだろうか。

 不安で仕方がなかった。


 でもこれだけのアイテムを揃えてきたのだ。

 大丈夫なはず。


 居間に入る。

 先ほど手渡しておいた食料を有希が与え始める。


 もう見慣れたこの光景。

 それも今日で最後だ。

 

 居間の隅の方にリュックを置くと、まずはその中からお札を4枚取り出した。


 裏面に付けておいた両面テープを利用してそれを四方の壁に貼っていく。

 前後左右から送られる神気が化け物を閉じ込める檻として作用する。


(下準備はこれでオッケーかな)


 ここからが本番だ。


 次にリュックの中から透明なポリ袋にぎっしり詰められた清め砂を取り出す。

 そして金色のラッピングタイで縛られた口を開けると、部屋の端から中央に向かって大きく円を描きながら畳の上に砂をまいていく。


 清め砂はとても強い浄化アイテムだ。

 まいたそばからそこに漂う瘴気が薄らぎ始める。


 化け物への食事を終えた有希が部屋の出入り口付近に立ちながら、夕夏の動きを不思議そうに目で追っている。


 化け物の方も自分の周囲で何か異変が起きようとしている事に気付いたようで、鋭い視線を夕夏へ向けていた。


 黙々と砂をまき続ける夕夏だったが、化け物の方へ近づくに連れてヒヤヒヤし始める。

 また突然暴れ出さないか不安と恐怖で一杯だった。


 化け物と目線が重ならないよう、あの光が目に入らないよう出来るだけ顔を伏せて事にあたる。


 それから5分ほどかけて全ての砂をまき終える。


 あたり一面に砂が広がりその下の畳がほとんど隠れてしまっている。

 その甲斐もあり、部屋の中の嫌な空気がだいぶ軽減されたような気がした。


 だが――。


 あの化け物はまだピンピンしており、新しい瘴気を次から次へと放っている。


 小さな砂粒が化け物の足元にまで迫っている。

 これである程度の身動きを封じられるはずだ。


 頃合いを見て夕夏は仕上げに入る事にした。


 5リットル以上もの大量の御神酒を化け物の全身に振りかける。

 髪に、素肌に、白装束に染み込んだ神の力が化け物の全身を包み込み急速な浄化を行う。

 そう目論んでいた。


「有希、少し廊下の方に出ててくれる」


 そう夕夏に言われた有希は頷くと足を2、3歩後退させた。


 リュックのところまで寄った夕夏は、酒瓶を3本取り出し畳の上に置く。

 瓶の底が砂に触れジャリジャリと音が鳴った。


 それぞれの口を開けると、そのうちの1本を両手に持ってゆっくり立ち上がる。

 酒瓶の口を化け物の方へ向けながら、慎重に足を進める。

 瓶を思いっきり上に振れば、あの高い頭まで酒が届きそうな気がした。


 そして狙いを定め、酒を浴びせ掛けようとする。


 だが、その時。

 何か察するものがあったのか、化け物が身を屈め大きく飛び上がった。

 宙で体の向きを変え四肢を広げながら天井に張り付く。


 その衝撃で『ズドンっ』と轟音が響き、家全体が軽く揺れたような気がした。

 化け物はそのまま体勢を固定すると、顔をグニャっと180度回転させ床を見下ろした。


 夕夏は慌てて体の動きを止めたが瓶の先から酒がこぼれ、先ほどまで化け物の立っていた場所を濡らす。


 唖然とした。

 清め砂やお札を使って化け物の動きを封じたつもりが天井に逃げられた。

 頭上は盲点だった。


 露骨に攻撃を仕掛けたせいか天井に張り付いた化け物の体からは、殺意にも似た刺々しいオーラが発せられている。


 大変な事になった――。

 もしこのまま前のように突進でもされたら一貫の終わりだ。


 化け物の拘束に失敗した時点で状況は非常に危うい。


 この場を放棄してでも有希を連れて外に逃げ出すべきか。

 そう逡巡していたところ、玄関の方から『ニャア』と猫の鳴き声が聞こえた。


 ここにきて夕夏は気付いた。

 家の中へ入るとき緊張のあまり玄関の戸を閉め忘れていた事を。


 ◆


 猫の鳴き声につられて有希は顔を左に向ける。

 ノソノソと廊下を歩いてくる猫――シロアンだ。


 その先では人一人分ぐらいの隙間の空いた玄関戸から外の景色が顔を覗かせていた。

 どうやら夕夏が閉め忘れたようだ。


 時々鳴き声をあげながら足元までやって来たシロアンを見た有希はふと思う。

 もしかしたら、おばあちゃんに最後のお別れをしにきたのかもしれない。


 しゃがみ込むと、シロアンの体を左方向に向かせ居間の中へ案内した。

 おばあちゃんも大好きなシロアンに会えてきっと喜ぶはず。


 なんの躊躇いもなしにシロアンは居間の中に小さな前足を踏み入れる。


「おばあちゃん見て。シロアンが会いに来てくれたよ」


 天井に這いつくばる祖母へ語りかける。


「有希!」


「え?」


 夕夏が焦った顔で叫ぶと同時に、祖母の目が怪しく光り体を捻りながら畳の上へ着地した。

 そして四つん這いになりながらギロっとシロアンを睨みつけ、大きく口を開いて太い腕を伸ばす。


 その様相は捕食者さながらだ。

 ゴキブリ、蛾、ミルワーム、魚……有希の脳内に様々な生き物を口にする祖母の食事シーンが鮮明に蘇る。


 祖母の手と口がシロアンに迫る。


 そんな、まさか――。


 巨大な口で咀嚼されミンチと化したシロアンの哀れな姿が目の奥に映ったような気がした。


「だめぇぇぇええええええ!」


 気付けば有希は大絶叫していた。

 勝手に体が動き、祖母の手が届くよりも早くシロアンを抱きかかえる。


 おばあちゃんは――シロアンを食べたりしない!


 一線を超えた祖母の動きに有希は眠りから覚めた。

 目を見開き前を見つめる。

 

 どこまでも深く裂けた口。

 濁り黒く変色した目。

 筋肉と脂肪で服が張り裂けそうなほどに膨らんだ体。

 長い頭髪が抜け落ちそうなヌメっとした頭。


 愛する祖母とは似ても似つかない醜い化け物の姿がそこにはあった。


 なによこれ――。


 おばあちゃんなんかじゃない。

 そう認識した途端、声帯が壊れそうな程の悲鳴を上げだ。

 意識が遠くなり、シロアンを抱いたまま有希は廊下に倒れ込む。



「有希!?」


 夕夏は動揺した。

 突然有希が気を失ったのだ。

 力の抜けた有希の腕の中からシロアンが飛び出し、玄関の方へ駆けて行く。


 それからすぐに化け物が有希に近づこうとするのが分かった。

 猫が去ってしまった事でターゲットを有希に変えたのかもしれない。

 見境なく相手を襲おうとしている。


 有希が危ない!


 そう思った夕夏は咄嗟に酒瓶の首を両手で握りしめ、身をかがめている化け物の頭を渾身の力で打ちつけた。


 パリンッ!


 瓶の下半分が吹っ飛び粉々に砕ける。

 中の酒が化け物の頭部を濡らしながら畳に滴り落ちる。


 全ての挙動を停止した後、ゆっくりと化け物が顔を夕夏の方へ向ける。

 その目から強い敵意を読み取った夕夏は内心パニックになりつつも、大急ぎで残り2本の瓶の中身を化け物の体へ掛けた。


 白装束に吸収しきれなかった酒が畳の上に水溜りを作る。


 効果はあるだろうか。


 血の気が引く思いで、化け物の挙動を見守る。


 化け物はゆっくりと体を低くした。

 そして、あろう事か畳の上に口をつけるとそこに溜まっている酒を飲み始めた。

 ズズズッ。

 勢いよく口の中へ吸い上げその後咀嚼する。

 酒と一緒に吸い込んだ砂が噛み締められ、ジャリジャリと音が響く。


 夕夏は愕然とした。

 御神酒も清め砂も効かない――。


 辺りの酒をあっという間に飲み干した化け物は再び立ち上がると夕夏へ向き直る。


 そして口を上下に開け、着物を引き摺りながら歩みよって来る。


 夕夏は震える手でマウンテンパーカーのポケットの中から櫛を取り出す。

 本体をケースから抜き化け物の方へ向ける。


 すると化け物の足がピタッと止まった。

 それから右手を大きく広げ勢いよく横に振る。

 攻撃を仕掛けてきた。


「わっ!」


 のけぞってどうにかそれをかわす。

 鋭い爪が目の前の空間を裂いた。

 急に体を動かした反動で櫛が手から離れ、部屋の奥へと飛んでいく。


 しまった、顔をしかめる。

 

 それに興味を示したのか、化け物はくるっと体の向きを変え櫛の落ちている所まで歩いていく。

 そして櫛を拾いあげると口の中へ放り込んだ。


 さも美味そうにバリバリと噛み砕く。

 

 衝撃のあまり夕夏は立ち尽くした。


 櫛を食べ終えた化け物がこちらを向く。

 その瞬間、化け物の長い黒髪がズルズルと抜け落ちた。

 それと同時に白装束の帯がひとりでに解け、着物が足元に落ちる。


「ギィ……ギギギィ……」


 口からは気味の悪い声が漏れ出ている。


 あらわになった本当の姿。


 風船のようにパンパンに膨らんだ腹。

 四肢の付け根からどこまでも長く伸びる手足。

 どす黒くヌメっとした地肌。


「なに……これ……」


 半ば放心状態で夕夏は呟いた。


 一切の知識や経験も通用しない得体の知れない何かが目の前に立っていた。


 その時、部屋の中央に屹立するあの赤い光の筋が突如として横にグッと広がった。


 そして確かに夕夏は見た。


 その光の奥にどこまでも広がる真っ赤な世界を。

 無限に地を埋め尽くす黒い人集ひとだかりを。

 口から火を吹き拳を地へ振り下ろす巨大な黒い影を。


 その光景から目を離せないでいると、眼球の奥と脳内にこれまで経験した事のないような激痛が走った。

 それはまるで頭の中をミキサーで掻き回されるかのような激烈なものだ。


「ぎゃぁぁぁああああああ」


 その場にうずくまり、力の限りに絶叫していた。

 顔を涙で濡らし、頭を掻きむしる。

 

 ここで私は死ぬんだ。

 あまりの苦しさに夕夏はそう思った。


 ◆


 うずくまってただひたすら苦痛に耐えていた時。


 背後から急に誰かの手によって抱きしめられた。

 畳の上に突っ伏すように頭と肩を強く上から押さえられる。


――お母さん?


 事態を知った母が駆けつけたのかと思った。

 しかし、すぐに違うと気付く。


 体に触れている相手の手や胸部の感触が固い。

 筋肉質だった。


「綾瀬! そもまま下を向いてろ! しばらく顔を上げるなよ、それで意識を目の前から逸らせ!」


 中音域の澄んだ声が夕夏の耳に届く。


 椿くん……?


 その声は間違いなく終夜のものだ。

 どう言う訳か終夜に体を抱えられている。


 そのままじっと苦痛が退くのを待つ。

 数分ほど経過したところで、どうにか会話ができる程度に痛みがおさまる。


「できるだけあの光には意識を向けるなよ。綾瀬みたいに霊感が強ければあっという間に蝕まれる」


「どうして、ここに……?」


 痛みに耐えながら真っ先に思った疑問を終夜にぶつける。


「今日で終わらせるつもりだったんだろ? どうなってるのか気になってな」


「そうなんだ……。それより逃げないと。あの化け物が……」


「もう無理だ。ここで背中を向けたらやられる」


 それから終夜が押し黙る。

 恐る恐る夕夏が顔を上げてみると、あの化け物と終夜が睨み合っていた。

 終夜の顔には強い緊張の色が見て取れる。


 化け物と視線を合わせたまま終夜が何かを手渡してくる。


「これを開封しててくれないか」


「カッター?」


 未開封のパッケージに収められた新品のカッターナイフだった。


「ここに来る時、近くのコンビニで買ってきたんだ。これでどこまでやれるか……」


 夕夏は驚いた。

 あの化け物と戦うと言うのか。


「綾瀬でもどうにもならないか。やはり強いな」


「椿くん、あの化け物の事を知ってるの……?」


 少し間を置いて「アレはかつてだったものだ」と言う答えが返ってくる。


 餓鬼がき――。


 その言葉を夕夏は知っている。

 仏教の世界に登場する鬼の名だ。

 餓鬼道に落ち、満たされる事のない飢えと渇きに苦しみ続ける亡者。

 その体は痩せ細り腹だけが奇妙に膨らんでいるとされる。

 その面影を目の前の化け物に見た気がした。


 でもどうしてそんなものがここに……。


 その疑問に答えるかのように、終夜が言葉を続ける。


「400年以上も昔に、どこかの呪術師が餓鬼を現世に呼び出した。長い時間をかけてあらゆる物を口にするうちにおぞましい姿へと変貌したんだ。その時代ごとの霊能力者達がどうにか餓鬼を封印しようと戦ったが、誰も完全に倒す事はできなかった」


 まだ動きの鈍い頭で必死に終夜の言葉を理解しようとする。


「でもどうしてこの家に……? それも有希のおばあちゃんになりすまして」


「有希のおばあさんは死ぬ直前に強い飢えや渇きを覚えていた。食に対する強い執念がこの世を彷徨っていた餓鬼を呼び寄せたんだ。そして死んだ瞬間に餓鬼と有希のおばあさんの魂が同調して結びついてしまった。その結果がアレだ」


 夕夏は言葉を失った。

 そんな悲惨な事があるのか。


「それじゃあ、あの赤い光は……?」


「"地獄"だよ」


「地獄?」


「桐谷が無闇に養分を与えたせいで餓鬼が急速に力を取り戻した。そして、もともと地獄の住人だった餓鬼は再び地獄に繋がろうとしている。餓鬼を通じて地獄への扉が開きかけてる」


「地獄への扉……もしそれが開いたら」


「地獄の亡者たちが一斉に現世へ流れ込んでくるだろうな。そうなればもう誰にも手がつけられない」


 神経を集中させるかのように終夜は一度大きく息を吐く。


「だから、今日ここで終わらせる」


 そう言うと終夜はカッと目を見開き両手を合わせた。

 そして高速で手を動かし始める。


(九字……!?)


 『臨』『兵』『闘』『者』『皆』『陣』『列』『在』『前』次々と九字の形に手を組み変えていく。


 そして最後の一文字を結び終わった時、天に響くような甲高い音が室内に木霊し、化け物に纏わりつく瘴気が急激に薄れた。


 そんな、あり得ない――。


「綾瀬……!」


 終夜の叫び声にカッターの開封を任されていた事を思い出す。

 大慌てでそれを開ける。


 夕夏からカッターを受け取った終夜は、スライダーを勢いよく押し上げ刃を限界まで出す。

 柄を4本の指先で握るとまるでダーツでもするように、しゃがみ込んだまま真っ直ぐ前へ放った。

 それは緩い弧を描きながら化け物の腹へ突き刺さる。


「グゥ……! アッ……!」


 呻き声をあげながら化け物が腹を押さえた。


「本当は日本刀が1番なんだがな」


 そう言いつつ終夜が化け物の挙動を見守る。


 刀の持つ祓いの力は数ある魔器の中でも最強クラス。

 当然その事は夕夏も知っている。

 簡単には準備できない刀に代わり、カッターナイフを祓いに利用しようとしているようだ。


 それも買って間もない新品。

 真新しい刃には一切の汚れ、つまり穢れが付着しない。

 祓いの力をより強く引き出せる。


 化け物は苦しそうにしながら、腹に刺さったカッターの刃を自力で引き抜いた。

 そしてそれを終夜の顔面に向けて投げ返した。


「ウッ……!」


 一直線に飛んできた刃を終夜は機敏にかわす。

 後方の壁に刃先が突き刺さり、自重によって廊下の上へ落下する。

 その時に顔を掠めたようで、終夜の頬には血の滲んだ浅い切り傷ができていた。


「ダメだな……力が及ばない」


 これまでにない強烈な殺意を向けてくる化け物を見ながら、自嘲するように終夜は薄く笑った。


 その後「手を、貸してくれないか?」と不意に呟く。


 自分に言われたのかと思い夕夏は終夜の顔を強く見つめる。

 しかしその目は夕夏の方を見ていなかった。

 宙へと向けられている。


 その時、とても重苦しく禍々しい気配を夕夏は背後に感じ取った。


 息を呑みながら振り返る。

 すると居間を出てすぐの廊下に、巨大で黒い塊が垂直に立っていた。

 縦方向に伸びた卵のような楕円形。

 その全身は熊の如く、黒くて太い体毛に覆われている。


 どこからともなく現れた正体不明の存在に夕夏の体は硬直した。


 私じゃない。

 これに向かって彼は語りかけていたのだ。


 その黒い塊の中央からスッと2本の手が出現した。

 直感的にだ、と夕夏は思った。

 実際にそれは白くて細い美しい形をしていた。

 それが化け物に向かって伸び始める。

 

 1メートル、2メートル……どこまでも伸び、ついには化け物の首をギュッと掴んだ。

 

 手の動きが止まる。

 息ができないのか化け物が暴れ出し、ナイフのような鋭い爪で自分を苦しめる手に攻撃を加えようとする。

 しかしどんなに爪を立てようが引っ掻こうが、その透き通るような白い肌に傷がつく事はなかった。


 その手によって化け物の体が引き摺られ始める。


 夕夏は信じられない思いだった。

 どうしようもない程の力を持ったあの化け物が劣勢に追い込まれている。

 ジタバタ暴れ回るだけで何もできずにいる。


 先ほどとは一転、冷静な目で終夜がその光景を眺めていた。


 手に引き摺られた化け物の体が徐々に部屋の出入り口へと近づいてゆき、とうとう廊下にまで出る。

 それでも手の動きは止まらず、しまいには化け物の体を己の黒い体の中へと引きずり込んでしまった。


 その直後、何の前触れもなく夕夏の視界の隅に赤い影が映る。


 あの光かと思った。

 だが、違う。

 別の何かだ――。


 咄嗟に目線を向けようとするも何故か体が全く動かなかった。

 まるで金縛りに合っているようだ。


 状況が読めずに唖然としていたところ、突如としてその影が消えた。

 そして次々の瞬間、瞬間移動でもしてきたかのように夕夏の隣に再び姿を現した。

 動かない顔に代わり、眼球を横に動かしてその姿を捉えようとする。


――え?


 そこには赤い着物を着たおかっぱの女の子が立っていた。

 背丈は小さく、小学生ぐらいだ。


 その女の子が夕夏の耳元にそっと口を近づけてくる。


「ケッケッケッケッケッケッケ」


 そして、けたたましい笑い声をあげた。


 その言葉の一つ一つに途方もない程の霊力が込められていた。

 思考回路が一瞬で焼き切れ、意識が遠退く。


 視界がブラックアウトする直前「これで1つ」と呟く終夜の声が夕夏の耳に届いた――。


30


  チクチクとした雑草の感触。

 地面の冷たさ。

 体の上を吹き抜ける風や道路を行き交う車の音。

 そして誰かの話し声。


 様々な刺激を全身に感じ夕夏は意識を取り戻す。


「ウゥッ……」


 上半身を起こして辺りを見回す。

 すぐそばに終夜、有希、優也の3人が立っている。


 左手側には流れの緩やかな大きな川、右手側には高速で走り去る車やズラリと横に並ぶ建物が見える。


 多摩川の河川敷に横になってるようだ。


「綾瀬、大丈夫か? 有希と一緒に気を失ってたらしいけど」


 目の前に立つ優也が心配そうに尋ねてくる。


「川森くん……なんでここに?」


「俺が呼んだんだ。気絶してる桐谷を迎えに来てもらおうと思ってな」


 隣から終夜がそう答える。


 終夜の顔を見た瞬間、夕夏の脳内に先ほどの記憶が蘇った。


 そうだった。

 さっきまであの家で――。


「私、夕夏と一緒に家の中に入って、それから……」


 優也の近くで小さくなりながら有希がじっと考えている。


「なんでだろう……。その後の事が何も思い出せない」


「おばあさんなら、無事天国へ旅立ったよ」


 そう声をかけられた有希は目を丸くしながら終夜を見つめる。

 そして「そうなの……? なら、いいけど」と呟いた。


「ふぅ。とにかく全部片付いたみたいで良かった。ようやく俺も安心できる。有希、風邪引いてるんだろ? とにかく帰ろうぜ。俺も自転車で来たから送ってくよ」


「うん……」


 有希を連れて優也が歩き出そうとする。

 一度振り返り「綾瀬、ありがとな。何があったのかは知らないけど、気を失ってまで頑張ってくれたんだろ? いろいろと世話になったな」とスッキリした笑顔で夕夏にお礼を言った。


 違う、私はなにも……。


 そう言おうとする前に優也は背を向け、あの家の方へ歩いて行った。

 そこの庭に自転車を停めているのだろう。


 夕夏が呆然としていると終夜が「綾瀬もいつ起きるか分からなかったから、とりあえず家の人呼んどいたよ。お姉さんが来るって」と告げた。


 それから夕夏は立ち上がるが、終夜と交わすべき言葉が何も出てこなかった。

 一連の出来事があまりにもショッキングだったせいで、茫然自失にも近い状態となっていた。


 そんな様子の夕夏を心配そうに見ながら、終夜が自身の足元に置いていた白いリュックを手に取り夕夏へ渡す。


「これ、綾瀬の荷物だろ」


 夕夏は黙って受け取った。

 酒瓶と砂で膨らんでいたリュックが、今は空気の抜けた風船のように萎んでいる。

 中はとても軽かった。


「一応あの部屋は綺麗にしといた。家の中にあった掃除用具を使ってな。おふだは剥がしてそのリュックに入れてある。瓶の破片や砂はコンビニでビニール袋を買ってきてその中にまとめたけど、それは俺が持って帰るよ。綾瀬はお姉さんが来たらそのまま帰ればいい」


 夕夏は小さく頷く。

 終夜の背後の地面に目をやると、そこには手提げのついた黒いビニール袋が幾つか置かれてあった。


 あの家の方へ目を向ける。

 少なくともここからは何の瘴気も感じられなかった。

 家を覆っていたあの赤い色も引いており、本来の素材の色が現れている。

 

 本当に全て終わったのだろうか――。


 何をするでもなく10分ほど経過したところで、多摩川の上流の方の河川敷を歩きながら姉の美月が姿を現した。


「お姉ちゃん……」


 目が合うとニコッと姉が微笑む。


「ここまで電車で来たんでしょ? 一緒に帰ろっか」


「うん……」


 夕夏はリュックを背負う。


「椿くん……私と有希をここまで運んでくれたの?」


「まぁな」


「そっか。ありがとう」


 交わした言葉はそれだけだった。

 河川敷を去る直前、姉が終夜へお礼を言う。


「どうも、うちの妹がお世話になりました」


 ペコっと頭を下げる。


「い、いえ、俺は大した事してないです」


 少し慌てたように終夜が言う。



 姉に手を引かれながら市街地を夕夏は歩いた。


 姉は何も聞いてこない。

 全ての事情を終夜から伝えられているのかもしれない。


 たった1人で強い霊と戦おうとしていた事。

 それが失敗に終わり急激に事態を悪化させてしまった事。

 終夜が来なければもうこの世に自分はいなかったかもしれない事。


 足を進めるにつれて言いようのない虚無感に襲われる。


 自分の力を過信した結果、最悪の事態を引き起こしかけた。

 その現実を意識すればするほど、胸が強く締め付けられる。


 そんな思いを察してか、姉はただ優しく手を握ってくれていた。

 

 そんな手の温もりが今は何よりも痛かった。

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