第4章 白装束の祖母

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 祖母の葬儀から1週間後の月曜日。

 その日は建国記念日で学校が休みだった。


 この頃ずっと沈痛気味だった有希はその休みを利用して川崎の祖母の家を訪れてみる事にした。

 別に何かそこに向かわなければならない事情がある訳ではない。

 ただ思い出の場所を巡り感傷に浸りたい気分になったのだ。


 祖母の葬儀の後、両親は行政手続きや遺産相続の話し合いなどでずっとバタバタとしていたが、今日はその息抜きも兼ね去年の秋ぐらいに新しく新宿にできた生クリームと果物をふんだんに使ったパフェが人気の古民家カフェへ出掛けるようだった。


 そのついでにショッピングなどもしてくるらしく有希も誘いを受けたが、そんな気分ではなかったのでついつい暗い表情で断ってしまう。


 カフェ巡りは母の趣味だ。

 時々ネットや雑誌のカフェ特集の中から気の惹かれる物を見つけては友人や家族を誘って訪れる。

 いつもなら有希もウキウキ気分でそれについて行く。


 父はあまりそう言うものに興味がないようだが、普段自分の趣味であるアウトドアに付き合ってもらっているお礼もあるのか、誘われた時には嫌な顔をせずそれに同行している。


 私、今日おばあちゃん家に行ってくる――有希がそう言ったところ両親は訝しそうな顔をした。

 しかし両親なりに何か察するものがあったようで反対はしなかった。


「それなら出かけるついででいいんじゃない? それとも帰りに寄るとか」


 母のそんな言葉に気遣いを感じた。

 家族みんなでパッと出掛けて楽しめば嫌な事も忘れられるはず。

 最近落ち込んでばかりの自分を励ます意図が含められているように有希には思えた。


 けれども有希は首を振る。


「今日は1人でゆっくりしたい気分だから」


「そうなの……」


「まぁいいんじゃないか? とりあえず鍵だけ渡しとくよ、有希」


 そう言うと父は、長年の使用で色褪せたディスクシリンダー鍵を1本手渡してきた。


「でもあんまり家の中の物には触らないようにな。まだチェックしとかないといけない場所なんかも残ってるから」


「うん」


 ポツリと返事をし有希は鍵を受け取る。


 祖母の家は多摩川の下流を挟んだすぐ向こう側にある。

 ここからの距離は3、4キロほど。

 車なら10分もかからないし徒歩や自転車でも十分に行ける範囲だ。

 そこへ有希は自転車で向かう事にした。


 行きは送ろうか――父がそう申し出てくれたが、それでは帰り歩くしかないので気持ちだけを有り難く受け取り、1人で有希は家を出た。


 ◆


 通学でいつも使っているダウンジャケットと手袋それにマフラーで寒さを凌ぎつつ、周りの交通に気を払いながら自転車で進む。

 世田谷から川崎に伸びる丸子橋を渡ってしまえば後はすぐそこ。


 丸子橋を渡り終えしばらく真っ直ぐに進んでいたところ、先の方の交差点の角にポツンと立つ1軒の和菓子屋に注意を引かれた。


 自転車を走らせながらそれをじっと有希は見つめる。

 祖母の行きつけの和菓子屋『川丸堂』だ――。


 そこで売られている、白餡にバターそれに少々の生クリームを挟んだ『バタークリーム白どら焼き』が祖母の大好物だった事を有希は思い出す。


 和菓子独特の餡子のしつこさが少なく舌触りもなめらで、洋風感の強いそのどら焼きは、和菓子を食べ慣れていない現代っ子の有希の舌にも合い美味しく食べる事ができる。


 フラリと祖母が家を出て行ったかと思えば、どら焼きの入った川丸堂のビニール袋を手に提げて戻って来て、それを遊びに来ていた家族や親戚の皆んなで楽しく食べたのは今となってはいい思い出だ。


 懐かしい気分になった有希はそれに引き寄せられるように店の敷地内へ自転車を乗り入れた。

 バタークリーム白どら焼きを1個か2個ぐらい買って行って、おやつにでもして食べようかと思ったのだ。

 財布には2000円ぐらい入っていたはずだから、少々何かを買うぐらいなら問題ない。


 駐輪場の空きスペースに自転車を停め、店の中へ入る。

 様々な商品が並ぶ販売フロアへ足を踏み入れると同時にふんわり甘い香りが漂ってきた。


「いらっしゃませぇ」


 それからすぐに少し低くて掠れたような女性の声がフロアに響いた。


 その独特の声から、声の主を連想する。

 そして紺色の作務衣さむえに身を包んだ中年女性を少し奥の方に見るや否や、その予想が当たっていた事を理解する。


 少し白髪の混じった髪にふくよかな体、それに面長の顔のあちこちに刻まれた皺――ここで昔から働いている従業員の1人の芳恵よしえに違いなかった。


 芳恵は顔を俯かせながらショーケースの向こうで品出しの作業に当たっている。

 しかし店内に入って来たばかりの客を確認しようと思ったのか顔を上げた。


「あら、有希ちゃんじゃない! 久しぶりね」


 目が合うと芳恵が微笑み掛けてきた。


 時々祖母と一緒にこの店を訪れていた事もあり、芳恵と有希は顔見知りに近い仲だ。

 またここの常連客であった祖母は芳恵と特に親しかったようで、商品を買ったついでに楽しそうに立ち話に興じる姿を何度も見かけた。

 時には話のネタに祖母が有希の話を持ち出し、それをきっかけに有希が会話に加わる事もあった。


「今日は1人?」


「はい、お父さんとお母さんは新宿まで出掛けてて」


「あらそう」


 それからいかにも物悲しそうな表情で「そう言えば、美智さん本当に残念だったね……」と芳恵が言った。


 祖母の死をもう既にどこからか耳にしているようだ。


「はい……いきなりだったから凄くびっくりして。最近はずっと憂鬱でした」


「そうなの……。私も美智さんにはお世話になってたから悲しいやら何やら」


「それでこれからおばあちゃんの家に行こうと思っているんです。おばあちゃんの家で昔の思い出を振り返ったら、少しは心が楽になるかなって」


「それはいい事だと思うわ」


 にっこりと芳恵が笑う。


「でも、お家の方はもう入っても大丈夫なの?」


 入っても大丈夫? 

 その問いの意味を有希は少し逡巡した。

 そして『あ、もしかして警察の事を言ってるのかな』と推測する。

 

 祖母が亡くなった時、祖母の家に警察が来てしばらくの間誰も立ち入りが出来なかったと、両親が話しているのを以前聞いた覚えがあったのだ。


「警察ならもう大丈夫だと思います。お葬式ももう1週間前には終わちゃってるし」


「警察……? あぁ、そうじゃなくて部屋のほうよ」


「……部屋?」


「そう、結構ひどい事になってたんでしょ? 業者さん達が出入りしてたって、美智さんのご近所の方から聞いてね」


 少しカウンターから身を乗り出しながら芳恵がそう言ってくる。

 しかしそれがどう言う意味なのか有希には全く分からなかった。

 そもそも祖母に関してはその死因すらまだ教えて貰ってはいないのだ。


 地域に密着した仕事をする上話好きな性格の芳恵は、客などの口を通じて日々多くの情報に触れているのだろう。

 だから祖母の死についてもいろいろな事を知っているのかもしれない。

 そう思った有希はこの際に長らくの疑問を聞いてみる事にした。


「芳恵さん、おばあちゃんはどうして死んじゃったんですか?」


「あれ、もしかして有希ちゃん何も聞いていないの……?」


 コクっと有希が頷くと、あからさまに気まずそうな顔を芳恵がする。


「ごめんなさいね! 私、なにも知らずに」


 そして「またお父さんか、お母さんにでも聞いてみて」と話を切り上げ、とっとと作業に戻ろうとした。


「待ってください! 知ってること全部教えてくれませんか? 私だけ何も知らないって、そんなのおかしいです」


 困ったような顔をしながら芳恵は背後をチラッと見る。

 そして「私が話したって事は絶対に秘密よ」と念押ししながら有希の方に顔を近づけて来ると、店の奥にいる他の従業員達に気を配っているのか小さな声で語り始めた。


「初めに美智さんを発見したのはそのお隣の上谷さんらしくてね。親戚の人に貰ったミカンをお裾分けしに行ったら、偶然家の奥の方で倒れている美智さんを見つけたんだって。それで大慌ててで救急車を呼んだらしいんだけど、その時には既に亡くなっててその後すぐに警察の捜査に切り替わったみたい」


 それを聞いた有希は優しげな老夫婦の顔を頭の中に思い浮かべた。

 ずっと昔から祖母の隣に住んでいる上谷さん夫妻。

 1人で亡くなっていた祖母を彼らが発見してくれたようだ。


「それでね、ご近所の人が言うには美智さん窒息死だったんだって。それも布団の綿が喉に沢山詰まった上に背中の骨まで折れてたんだとか」


 有希は気が遠くなるような思いがした。

 大往生をした訳ではないとは察していたが、まさかそんな悲劇的な最期を遂げているなんて大きなショックだ。


「美智さんがいた部屋の端の方に椅子が立ってたから、そこに登っているうちに落っこちて背中の骨を折ったんじゃないかって話よ」


「そんな……。でもどうして布団の綿なんかが喉に詰まってたんですか……?」


 骨折が事実だったとしてもそれと布団の綿が喉に詰まる事に何の結びつきがあると言うのかと、有希は疑問に思った。


 「憶測に過ぎないみたいなんだけどね」と前置きをしながら芳恵が話の続きを語る。


「骨折が思ったよりも酷くてその場から動けなくなった可能性があるんだって。それで何も食べる事ができなくて空腹の余り近くにあった布団の綿を思わず食べてしまったんじゃないかって。でも結局それを上手く飲み込めずに喉に詰まって……」


 想像よりもずっと刺激の強い話に有希は顔が真っ青になる思いだった。


「そんな状態だったらもちろんトイレにも行けないから……ね? それに加えて遺体の腐敗も少し進んでたらしいから、見つかった時には美智さんの居た居間がいろいろと酷い状態になってたらしいのよ。それで清掃の業者さんが入ったんだって」


 そう芳恵は話し終える。

 最早有希は食欲なんてあったものではなかった

 そんなに祖母が苦しんでいただなんて――言いようのない絶望感が込み上げて来た。


 このまま外へ駆け出してしまいたい衝動に駆られる。

 しかし強引に話を聞いておいたにも関わらず、何も買わずにそんな事をするのは失礼だと思い直し、バタークリーム白どら焼きを1つだけ買って店を後にした。


 ◆


 これ以上にないブルーな気分になりながら祖母の家に到着した有希は、寒さとショックで震える手で玄関の鍵穴に鍵を差し込んで開錠する。

 そしてガラガラと戸を引き、恐る恐る中へ入る。


 芳恵から聞いた話のせいで自分の中で変な妄想が膨らみ、強烈な死臭を放ちながら今も祖母が部屋のどこかに横たわっているような気がした。


 だが実際に玄関で靴を脱いで家の奥へ進んでいるとそんな訳はないと理解できた。


 例の居間の前で立ち止まりその中を覗いてみる。

 見慣れた家具類が置かれてあるだけで、おかしな所なんてどこにもない。

 ここで人が死んでいただなんてどこか信じられない。


 それから有希はリビングへ向かった。

 ダイニングテーブルの下に仕舞われていた椅子を引きそこへ腰掛ける。

 そしてその隣の椅子に外出時に愛用しているショルダーバッグを、テーブルの上に買ったばかりのどら焼きを置く。


 やはり食欲はなく、どら焼きに手をつけられるような気分ではない。


 そのままテーブルに突っ伏し目を閉じたところ、頭の中に様々な思い出が蘇ってきた。

 いつの間にか溢れ出した涙を止められなくなっていた。


 せめて苦しまずに旅立ってくれていたらどんなに良かった事か。


 その後、泣き疲れた有希はウトウトと眠りに落ちていった。




11




「うーん……」


 寒さで目が覚める。

 少し頭が痛い。 

 リビングの壁に掛けられた時計のチャイム音が、間延びしたように鳴り響くのが聞こえた。


 ポーン――ポーン――ポーン――ポーン――ポーン。


 顔を上げた有希はキョロキョロと周りを見渡す。

 部屋の中が暗くなりかかっている。

 少し慌てたように時計を見る。


「5時か……」


 夕方の17時から19時ぐらいは逢魔が時だから気をつけてね。

 そんな事を以前夕夏が言っていたのを不意に思い出し、なんか嫌な時間だなと有希は思った。


 家を出たのは昼食を取ってすぐの13時ぐらい。

 ならいつの間にか3、4時間近くも眠っていた事になる。


 一応遊びに出かけた時の帰宅時間の目安は17時、遅くとも18時となっている。

 それほど厳格ではないが、それを過ぎたらやんわりと注意される事が多い。


 クラスの1部の子達とは違いまだスマートフォンは持っていない。

 連絡もつかないまま遅くなれば両親が心配する。

 そろそろ帰らないと。

 そう思った有希は立ち上がる。


 しかし家を出る前にもう1度居間を見ておく事にした。

 祖母がこの世から旅立った特別な場所なのだから。


 出入り口に立ったまましばらく部屋の中を見つめていたが、ふと思いついた事があり中央へ歩み寄る。

 そして川丸堂で買ったどら焼きを静かにそこへ置いた。

 

 せめて天国で大好きなどら焼きを食べてほしい――。


 有希なりの弔いの気持ちだった。

 この場所は天国へ通じる。

 そんな気がした。

 

 それから居間を去ろうときびすを返した時。


 ズザ――。


 突然後方から何かが畳を擦るような音が鳴った。

 咄嗟に有希は振り返る。


「え――」


 人の形をした何かが目の前に居た。

 ソレの着る白い服と頭部から下がる長い黒髪が有希の目を引いた。


 思考が完全に停止する。

 今、この家には私しかいないはずだ。

 きちんと玄関は施錠してある。


 もしかしたら寝ている間に誰かが入って来たのだろうか……?


 ソレは部屋に差し込む赤い夕陽を背に立っていて、光の影で体の正面が黒くぼやけて見える。


 無意識に顔を確認しようと目を凝らした有希だったが、その顔の造形を読み取るや否や絶叫しそうになった。

 をしていたのだ。


 その服が白装束にそっくりであった事もあり、棺の中に見た祖母が目の前に蘇ってきたかのような錯覚に襲われる。


 あり得ない、あり得ない、有り得ない――頭の中で無限に言葉がループする。


 だってこの前お葬式を挙げたばかりじゃないか。

 火葬をしたしお骨も拾った。

 でも間違いなくこの顔は――。


「おばあ……ちゃん?」


 気付けばそう言葉を発していた。

 しかしソレが何かを答える事はなく、能面を張り付けたかのような無表情な顔でじっとそこに佇むだけだった。


 このまま永遠にも近い沈黙の時間が流れるような気がしたその時だ。


 突然ソレが畳の上に四つん這いになったかと思えば枯れ枝のような細い腕を伸ばし、先ほど有希が畳の上に置いたどら焼きを荒々しく両手で掴んだ。

 そして口を大きく開けると淡黄蘗うすきはだ色の包装紙ごと食べ始めた。


 鋭く尖った白い歯が包装紙の表面を切り裂き、その中のどら焼きの生地を勢いよく引きちぎる。

 それをグチャグチャと水音を立てながら奥歯で咀嚼する。

 歯の間からはポトポトと涎が滴り落ちる。


 呆然とする思いで有希はその光景を眺めた。


 そしてあっという間にどら焼きを食べ終えたソレは、のっそりと立ち上がり灰色に濁った両目で有希を凝視した。


 目線が重なり合う。

 ソレからは一切の感情も読み取れない。

 しかし食料にありつけた喜びを示すかのようにその口だけが『ニィー』と不気味に裂けた。


 この世の者ではない――有希は直感した。


 そしてこうも思った。

 

 おばあちゃん、……。


 霊と言う存在を有希は信じている。

 それは身近に霊能力者の夕夏がいるからと言うところが大きい。


「そうだよね……あんな苦しい死に方をして、成仏できるはずがないよね」


 あのどら焼きの食べっぷり。

 今も祖母はお腹が空いて仕方がないのだ。

 だからそれを満たすまで天国に行けないんだ。


 きっとそうに違いない。


 ゆっくりとソレに歩み寄った有希はその体を強く抱きしめた。


 異様に細い。

 白装束越しにゴツゴツとした硬い骨の感触が感じられる。

 まるで骸骨を抱いているようだ。


 こんなにも痩せ細って……可哀想に。

 でも大丈夫。


。成仏ができるまでずっとおばあちゃんの側にいるからね」

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