第1章 綾瀬家の娘




「これ、スゲーな。姉ちゃんに渡してみたらあれから全然変な事起こらないって」


 そう興奮したように話す優也ゆうやに、夕夏ゆうかは優しく微笑んだ。

 

「私の手作りだから、うちのきちんと祈祷したものに比べたら効果は劣るけど……それでも川森君のお姉さんを悩ませてるモノにはこれで十分だと思ったの」


「へぇー、さすが綾瀬だ」


 目の前に指でぶら下げた黒いお守り袋を小さく揺さぶりながら、優也は感心したように呟いた。


「でもなんで1か月経ったら返さなきゃいけないんだ? もしかしてこれはお試し版で続きは製品を購入しろ……的な?」


 わりかしまじめな顔でそんな事を聞いて来る優也に、思わず夕夏は苦笑する。


「もう、そんな何かの通販みたいな事するわけないでしょ。単純にそのお守りの効果が1か月ぐらいで切れるの。正式に神社で授与しているような物なら1年ぐらいは持つんどけどね」


「そっかぁ。それじゃあ、これ以上身に着けてても意味がないって訳か」


「うん。そう言えば川森くん、たしか移動教室でお守り頂いてたでしょ? あれもあと数ヶ月すれば1年だから、そろそろ返納してまた新しいのを頂いた方がいいと思うよ」


 ◆


 そう言われた優也は、去年の4月に実施された6年生日光移動教室での出来事を思い出す。

 二泊三日の移動教室の最終日、自由時間の時に他のクラスメイトにつられて、日光東照宮の授与所で『心願成就』のお守りを1体頂いたのだ。


 小さな鞠のような形をした可愛いらしい鈴のお守りで、歩く時の振動に合わせて「リリン」と澄んだ音を響かせた。


 初めはランドセル横のナスカンに紐を結んで付けていたが、登下校中や教室への出入りの際にコロコロとよく通る音が周囲の目を引いてしまい、何だか気恥ずかしさを覚えたため、結局は習い事のサッカークラブで使用しているスポーツバックに付け替えたのだ。


 元々『お願い』がサッカーに関する事だったと言う理由もあり、こっちの方がピッタリかなとも思った。


 ◆


 次は優也が困り笑いを浮かべる番だ。


「あそこ地味に遠いから1年毎とか厳しいなぁ。それにうちの親、そう言うスピリチュアル的なのを信じないタイプだから、そんなの気にするなって言われそう」


「そっかぁ残念……」


「それで、姉ちゃんはどうしたらいい? お守りの効果で、幽霊かなんかももう消えちゃった?」


「うーん……あれは主に厄から身を守る為の物だから、祓うような力は無いかな。多分またいつか現れると思う」


「ええ、嘘だろ。いつも何か見えたり音がしたりするたびに悲鳴をあげて俺を呼び出すから、こっちだってもうウンザリなんだよな。父さんと母さんは『疲れてるだけだ』とか言ってまともに取り合わないしさ。どうにかならない……?」


「ふふ。それを言うなら『疲れてる』じゃなくて『憑かれてる』かもね」


 少しイタズラっぽく夕夏は冗談を言う。


「いや、笑えないわ……」


 しかし、若干絶望したような目で立ちすくむ優也に夕夏は力強く頷いた。


「うん、分かった。私がどうにかする!」


「マジで!? もっと強力なお守りでも作ってくれるとか?」


「うーん、お守りはもう使わないけど……」


 予想外の答えに「え、お守りはダメなの?」と、拍子抜けしたような声を優也はあげた。


「私ね、川森君の話をいろいろと聞いてみて思ったんだけど、多分お姉さん自身よりもお姉さんの部屋に何かあるんだと思う。だからまずはその場所を調べて場合によってはお祓いをしてみる」


「それじゃあ何かアイテムをくれるんじゃなくて、直接俺の家にまでお祓いをしに来てくれるって事?」


「そうなるかな。それも出来れば早い方がいいかも。今週中とかどう?」


 優也は腕組みをしつつ考える。


「うーん……。明後日の金曜日なら俺はサッカーが休みだし、姉ちゃんも特に用事は無かったと思う。それに父さんと母さんも帰りが遅いって言ってたような気がするからちょうどいいかも」


「そう、わかった。それじゃあ金曜日学校が終わったら川森君の家に寄るね」


 夕夏がそう言うと、「お願いします先生!」と優也は大袈裟に手を合わせてみせた。





 


 優也と約束を交わしてから3日後の金曜日の朝。

 

 玄関先でランドセルを開けた夕夏は、家を出る前に忘れ物がないかを確認した。

 教科書、宿題、下敷き、筆記用具、それにタブレットは大丈夫。

 そのまま隣に置いてあった給食袋を覗き込む。

 エプロンと帽子はちゃんと入ってるし、お箸も大丈夫。

 

 あとは……。


 ランドセルの小マチの膨らみを確認する。

 そこにはを入れてある。

 

 夕夏の通っている世田谷区立深ヶ丘小学校では、登下校中の買い物が禁止されている。

 そのため普段財布を使う機会なんて物は無く、それを学校に持ち込めば何か特別な事情でもない限りは不要物の持ち込みとして先生に叱られる。

 だが家族と連絡する時などに公衆電話で使う用の少額の小銭ぐらいであれば、先生の裁量で所持が許される事もあった。

 

 だからみんなランドセルの前ポケットなんかに数枚の10円玉ぐらいは入れてあるもので、中にはそれにかこつけて、ちょっとしたお小遣いの入った小銭ケースを忍ばせ、学校の帰り道にジュースやお菓子を買ういたずらっ子もちらほらいた。


 そんな中、夕夏はこれまでの学校生活で幾度もクラス委員に推薦され、それを快く引き受けるような模範的な生徒であり自ら進んで規則を破るなんて事は普段無いものの今日に限っては特別だ。

 ちょっぴり高いものを、学校の帰りに買うつもりでいたのだ。


 一通りのチェックを終えた夕夏は、最後にスカートのポケットの中からコルク栓の付いたガラスの小瓶を取り出した。


 リップクリームほどの指先で持てる小さな物。

 その中には、少し灰色のかかった黄色い砂が瓶の8分目ほどまで詰まっていた。


 それを手のひらの上に乗せて夕夏は眺める。


(たぶん、これは使わなくても大丈夫だと思うけど……念のため)


「あれ、うちの砂。何に使うの?」


 その時、不意に背後から声がした。

 振り向くと、紺のセーラー服に学校指定のデイパックを背負った姉の美月みつきが静かに近づいて来た。

 その右腕には白いウィンドブレーカーが抱えられている。 


 中学生の姉とは登校時間が近い事もあり、家を出るタイミングが良く重なる。


「あ、お姉ちゃん。今日ね、クラスの子の家に行ってお祓いしようと思ってるの」


「そうなんだ。それでお母さんがそれを持って行けって?」


「ううん。まだお母さんには何も言ってないの」


 そう言うと、姉が少し意外そうな顔をするのが分かった。


 ◆


 夕夏の家――綾瀬家は先祖代々300年以上の歴史を紡ぐ社家しゃけだ。

 先祖の中に江戸の初期頃に活躍した高名な陰陽師がおり、それに由来する神通力が世代を通じて脈々と受け継がれていると言い伝えられていた。


 実際に夕夏の母である詩織しおりの持つ類まれなる力は、その世界では評判であり、本業である神職としてのみならずプロの霊能力者としてもその名が広く知れ渡っていた。


 そんな綾瀬家の者たちが仕えるのは、自宅から歩いて数分ほどの距離にある『世田谷月見神社』だ。


 ここ世田谷区に位置する神社仏閣の中でも有数の敷地面積や建築面積を誇り、壮麗な神社として以前より観光客からの人気が高い。


 地元では、『お月見さん』の愛称で親しまれている。


 そんな月見神社も全国的に見れば、奈良県広陵町に総本社を置く『月見大社つきみたいしゃ』が抱える814の分社の1つに過ぎない。


 世田谷月見神社ではその規模から職階を問わず幾人もの神主かんぬしが奉仕をしているが、その中で詩織は宮司として神社の全てを取り仕切っていた。


 古くから綾瀬家では、性別や生まれ順などに関係なく本家の子達の間で最も力のある者が神社の跡を継ぐと言う決まりがある。


 詩織もかつて兄の宗二そうじと跡目を争った過去があるが、詩織の方がより優れた力を持っている事は誰の目にも明らかであり、こうして今の地位に就くに至る。


 詩織の夫――秀司しゅうじはこの業界とは無縁の人物であったが、大学生時代に同じインカレサークル所属へしていた事をきっかけに2人は恋愛結婚で結ばれ、3人の子を授かった。


 夕夏はその末っ子であり、上に兄と姉が1人ずついる。


 長男の颯真そうまは霊能力の点においては、からっきしダメだと言えた。

 綾瀬家の人間であれば『見える』であろう物をまず認識する事ができない。

 しかしその代わり勉強の分野において優れた才能を発揮し現在は都内有数の進学校に通う。


 そんな颯真の事を詩織は『この子は本当お父さんそっくりね」と半ば呆れたように、それでいてどこか嬉しそうに語った。


 それに引きかえ長女の美月は、小さい頃から詩織や神社の“お手伝い”が出来る程度にはそう言った力を秘めていた。

 だが持ち前のおっとりとした性格が災いしてか、周囲の大人から何か言われない限り自ら進んで霊的な存在や現象にタッチしようとする事は無かった。


 その一方、次女の夕夏はその方面での才能が傑出していた。


 ずっと幼い頃からこの世には、自分たちのいる物質的な世界とは異なる『特別な世界』が存在していることを肌身に感じていたし、霊的な物を見えるのは勿論のこと時には意思疎通や触れることすらできた。


 兄妹の中で特に自分に目をかけられている事や周囲から大きな期待を寄せられている事に、夕夏は早いうちから気づいており、いずれ自分も母と同じような人生の道のりを歩むんだと思っていた。

 

 様々な悩みを抱えて神社にまで助けを求めてやってくる一般の人たち、それに普通の霊能力者では手の施しようのないトラブルの解決を依頼しに、お忍びで家を訪れる有力者たちへ優しく救いの手を差し伸べる。

 時にはちょっとしたメディアの出演オファーを引き受けては様々な方面の人々から尊敬の眼差しを集める。


 そんな華々しい詩織の活躍を目の当たりにする夕夏は、『綾瀬詩織の後継者』として相応しい人間になれるよう日々自分を律していた。


 今はまだ多くの事はできない。

 それでもせめて自分の周りにいる人たちぐらいはこの手で救ってみせたい――。


 そう心に熱い炎を灯していた。


 ◆


「お母さんに相談してからにした方がいいんじゃないの?」


「いつもはそうしてたよ……。でも、そろそろ1人で出来ることも増やさないと。いつまでも子供のままじゃお母さん達だって心配すると思うから」


 そう力を込めて話す夕夏に、少しおかしそうに姉がクスッと笑った。


「相変わらずだね夕夏は。でも今から張り切り過ぎたら疲れるよ。ただでさえ私たちは普通の人よりストレスの多い生活を送ってるんだから。気長にいくのが一番だと思うけどなぁ私は」


「もう、お姉ちゃんこそ、いつまでもそんなのんびり屋じゃダメだよ!」


「はいはい、あんまり無理しないようにね」


 そう言うと白いスニーカーを履き姉が外に出て行こうとする。


 その後ろ姿をじっと夕夏は見つめた。


 スラっとした体に背中で1つ結びにした長い黒髪。

 昔から姉とはそっくりだと言われる。

 ならば、あれは未来の自分の後ろ姿を見ているようなものだ。

 

 その時、姉が動きを止め後ろを振り向いた。


「どうしたの?」


 生き物の体の器官の中でも、特に目には強い霊力が宿るとされる。

 霊的な感受性が高ければ、背中越しであっても自分に向けられた視線を敏感に感じ取れるものだ。


「お姉ちゃんの後ろ姿見てたら、それが3ヶ月後の私なんだなぁって思って」


「そっか、もうすぐで卒業だもんね。ふふ、ついに夕夏も中学生か」


 姉が笑みを浮かべた。


「なに? 制服を着るのが待ち遠しくなった?」


 少しおどけるようにしてくるっと姉が体を1回転させた。

 上とお揃いの紺色のスカートが風に乗ってふわっと広がる。


「私も制服の採寸に行った時は、なんだかトキメいたなぁ。ずっと私服だったもんね」


「うん、私も制服着れるの楽しみだよ。私服も6年も続いたら飽きちゃうよ」


 バリエーションの豊富さに私服ならではの良さがある。

 しかし学校に行く日毎に、その組み合わせをいろいろと考えなければならないのは少々億劫に感じる。

 もしかしたらお姉ちゃんも同じような気持ちだったのかな、と夕夏は思った。

 

「でも、どうせならセーラー服よりもブレザーの方が良かったなぁ」


「えーそうなの? 夕夏はブレザー派なんだ。セーラーの方が可愛くて私は好きだな」


「だってセーラー服は何だか古臭い感じがするもん。ブレザーは今風でいいよね」


「それはあるかもしれないけれど……。私は小さい時に好きだったアニメのヒロイン達がセーラー服を着てカッコよく戦ってるの見てずっと憧れてたけどね」


「もしかして日曜の夜にやってたセーラースターのこと? 私も幼稚園ぐらいの時お姉ちゃんと一緒に見てた覚えがあるかも」


 そんな風にたわいもない雑談を終えたあと、夕夏は姉に遅れて玄関のドアを開け家の外に出た。


 ナイフのように鋭い1月の真冬の空気が全身を包みこむ。

 中綿でふわりと膨らんだブラウンのジャケットのファスナーを、今日の決意も込めてキュッと1番上まで閉めた。

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