赤い家

雪屋敷はじめ

序章 古家の老婆

 72年間の人生で、こんなにも電話までの距離が遠いと思ったのは初めてだった。


 深い海に沈みゆく中、遥か頭上に救いの手を求めるかのような絶望感。

 

「どうして……わたしは……いつも、こうなんだろう……ねぇ」


 力が脱けたように囁く。


 昔からそうだ。

 事あるごとに、人から「おっちょこちょい」だなんて言われてきた。


 台所で野菜の皮を剥けば、よそ事に気が取られるうちに指先に痛みが走った。

 庭先にやって来た可愛い猫の頭を撫でようと外に出れば、足元の植木鉢に気付かずについうっかり蹴り倒してしまった。


 そしてとうとう始末の悪い事に、こんな大ドジを……。


 居間の長押なげしの上に溜まった埃を掃除しようと椅子の上に登ったところ、運悪く足を滑らせてしまいそののま勢いよく畳の上に腰から落下してしまった。


 その瞬間、腰に走った激痛と耳奥に届いた湿り気のある嫌な音。

 この頃経験した痛みの中でこれ以上のものなんてない。

 痛みで息もできない中、腰の骨が潰された事を悟り全身から冷や汗が溢れ出してきた。


 この家には自分1人しかいない。

 助けを呼んだって誰も来やしない――。


 玄関に置いてある色褪せした白い固定電話が、この時とばかりにその存在をチラチラと主張しているような気がした。


 慣れ親しんだ黒電話から目新しいプッシュホンへ買い替えた時も、それがたった数年で壊れて新しいものに乗り換えた時も、長年の慣習からその置き場所だけは変わる事がなかった。


 当時から、電話はそこにあるものなんだと思い込んでいた。

 このご時世「電話を貸してくれ」だなんて玄関先にまでやって来る人など、もうどこにも居なかろうに。


 どうしてもっと手の届きやすい所に置いておかなかったんだろうか……。

 それともやはり、大貴だいきの言う通り子機のあるものにしておくべきだったか……。


 時流に疎いかつての自分達を恨みつつ、どうにか体を起こして玄関へ向かおうとした。


 ところがその瞬間、腰から下にかけて尋常ではないぐらいの強い痺れが襲い、思わず大きなうめき声をあげ、仰向けに横たわってしまう。

 恐ろしい事に、足がほとんど動かなかった。

 碌な医学知識を持たない素人ながらに、骨が折れた時に一緒に神経がやられたんだと悟る。


 顔を青ざめさせながら、家の表面へ目を向けた。

 今いる部屋と隣の大広間を仕切っている襖、そして大広間から廊下へ通じるガラスの引き戸を換気の為に全開にしていた為、ここからでも外に敷かれた多摩沿線道路を見渡す事ができる。


 スーツを着込んだ会社員や目的もなさそうにフラつく若者など、その歩道を日々多くの歩行者が行き来する。

 助けを呼べば1人ぐらいは反応してくれるかもしれない。

 そう思ったが……高速で駆け抜ける車の放つ容赦のない騒音が邪魔をして、それも叶わなそうだ。


 やはり、電話で助けを呼ぶしかない。


 そう思い必死で身体を動かそうとするも、強烈な背骨の痛みと感覚の麻痺した足がそれを拒む。


 ◆


 そして、それから地獄とも言える4日間が過ぎた。


 激痛で動けぬまま1日ほどが経ったところで、諦めにも似た気持ちが心を支配した。

 一旦、心が折れてからは何もする気が起こらなくなった。

 あとは、誰かが気付いてくれるのをこうしてじっと待つだけだ。

 

 息子の大貴か、嫁の絵美さんか。

 孫の有希か、隣の家の上谷さんか。

 それとも、毎月やってくるガス料金の集金人さんか。


 いずれ誰かしら用があって来てくれる。


 それまで、痛みも苦しみもグッとこらえて耐え忍ぶ。

 もう自分ではどうしようもない。


 何も考えずに心を無にすれば、幾らか気が楽になった。


 だけど――。

 この主張の激しい空腹感と喉の渇きだけは如何ともし難い。

 せめて一杯の水だけでも。


 脱水症が始まったのか、昨晩からずっと頭の中がぼんやりとする。

 いつだったかのラジオで、人が山で遭難した時一滴の水も無ければ数日、どんなに良くても1週間で力尽きるのだと言っていた。


 もしかしたらこのまま誰かが来る前に……。

 そんな最悪の可能性が頭をよぎる。


 でも水のある所まで手が届かないし、食べ物も身近にはない。


 その時、寒さを凌ぐために体に被せた掛け布団がなんだか妙に気になった。


 いつ頃か居間を寝室代わりとしても使うようになった。

 あの日も畳の上に布団を敷きっぱなしにしていたお陰で、こうして掛け布団を手繰り寄せて暖を取る事はできた。


 10年間もひたすら使い続けた為か、生地がほつれ中身の綿が顔を覗かせている。

 それが気になって仕方がないのだ。

 もともと植物であったもの。

 食べようと思えば――。


 じっと見つめたあとに、かじかんで動きが鈍くなった指先で布団の綿を一つまみ引きちぎり、ゆっくりと口に含んでみた。


 舌の上にほのかな苦みと柔らかな感触が広がった。

 固くなった顎の骨をポキポキと鳴らしながら、熱心に噛み熟す。

 そうする内に無意識にそれを飲み込み、喉の奥深くへ送り込んでいた。

 口内から消えた異物感が食道を通り、胃まで下るのがわかる。


 決して美味しいなどとは言えない。

 でも、胃を膨らませるこの感覚が辛すぎる空腹感を少しでも満たしてくれるような気がした。


 それからもう一度、またもう一度と、まるで綿菓子でも食べるように次々と口の中に柔らかい綿を押し込んでいく。

 気付けば食欲が刺激され、もはや自分では動きを止められなくなっていた。


 そして両手を使ってまで一心不乱に綿に喰らいつこうとした時だ。

 ついに老化で衰えていた嚥下機能が悲鳴をあげた。


 ハッとした時にはもう遅い。

 喉の途中に感じる異様な異物感。

 食道、そして気道が塞がれた。


「グォッ! グゥッ!……ォウ!」


 左手で喉を押さえ、右手の握りこぶしで胸を叩く。

 骨折の痛みにも構わず、死に物狂いで横隔膜と肋骨筋を動かし息をしようとする。


 しかし幾ら悪戦苦闘しようが、喉奥で膨らみベッタリと粘膜に張り付いた綿の塊が動く事は無かった。

 苦しみに悶えながら5分ほどが経過したところでとうとう意識が遠のき始めた。


 急速に視野が狭まると共に、自分の体がどこか遠くなっていく感覚がした。


 意識が飛ぶその直前に、西日に照らされ赤く染まった自分の部屋が見えた。

 

 そこに誰かの人影が佇んでいる。


 大きな頭部に、骨と皮程にまで痩せこけた体。

 鞠のようにふっくらと膨張した腹部。


 人生の最期に見た異様なもの。

 だがもうその奇怪な姿態に気付けるだけの正常な判断力は残されていなかった。


「……あんたや。迎えに来て、くれたのかい」


 ただそこに、半世紀近く寄り添ってきた愛しい伴侶の姿があると信じ――。

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