第2章 初めての仕事
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1日分の疲労が押し寄せる6校時の授業とその後の10分ほどの帰りの会を終えた6年2組の児童たちは、解放感に浮かれながらランドセルを背負い1人また1人と教室から去って行く。
なにも華金はサラリーマンだけの特権ではない。
世田谷区立の小学校・中学校では、他の一部の公立小中学校と同様2012年度より半日限りの土曜日授業が取り入れられている。
夕夏たちの通う深ヶ丘小学校でも毎月第2土曜日は授業日となっていた。
先週は土曜日まで授業があった事を思うと、5日だけで帰れる嬉しさはひとしおだ。
◆
「おーい、綾瀬ぇ」
夕夏が教室の後ろのロッカーに忘れ物がないかを確認していたところ、突然名前を呼ばれる。
声のする方へ顔を向けてみると、教室の後ろの出入り口から体を半分覗かせた優也が手を振っていた。
「待ってて、すぐ行くから」
夕夏はそう返事をする。
優也の家には帰りの会が終わった後に2人で一緒に向かう約束となっていた。
優也の家がどこにあるのかは知らない。
だから、もし学校からあまりにも遠いようであれば一度帰宅して荷物を置いてからまた自転車で戻ってきてもいいと思っていたが、聞いてみたところ1キロ程度だと言うことだったので徒歩で向かう事にした。
教室を出ると廊下で優也と合流し1階の下駄箱に向かう。
「それにしても、さみぃなぁ」
階段を降りる途中、ジャンパーのポケットに手を突っ込みながら体を小さくして優也がそう言った。
「そうだね。教室は暖房があるからまだいいけど、一歩でも教室を出たら極寒って感じ」
「だよな。そう言えば、北海道って家がまるごと暖房になってるんだろ? もしかして学校もそんな風になってるのかな? そうだったら、ちょっと羨ましいわ」
「セントラルヒーティングのこと? たしか、ボイラーの熱をいろんな部屋に送って家全体を暖めるんだよね。学校がどうなのかは分からないけど、冬でも廊下が暖かいのは快適そうでいいよね」
「東京にもあったらいいのにな」
「うん。私はお風呂の脱衣所とか欲しいな。浴室が暖かい分、外に出た時寒くて」
「あぁ、それ分かるわ。……なぁ、綾瀬はやっぱり冬よりも夏の方が好きな感じ?」
「え、どうして? 暑い上に虫がいっぱいいる夏よりかは、寒いだけの冬の方がまだ好きかな私は」
「そっか。いや、夏生まれだし名前にも夏が入ってるからそうなのかなって思って。でも冬のほうが好きなんだな」
そう言う事ねと、夕夏は微笑む。
「まぁ私だって好んで夏に生まれてきた訳じゃないからね。でも夏祭りとか、花火とか、風鈴の音とか夏の風物詩はは好きだよ!」
校舎の1階に着いた2人は、そのまま『6-2』と書かれた立て札が立てられてある下駄箱の前まで進み、自分の名前のついたロッカーの中から下履きを取り出して上履きと履き替えた。
「川森くんの靴、サッカーしてるだけあってよく履き込まれてるね、さすが」
ちょうど優也が履いたばかりの、グレーのアッパーに白い靴紐とそれと同じ色のサイドマークのついたランニングシューズを見ながら夕夏はそう言った。
靴底の側面やつま先、踵なんかがすり減っているのが分かるし、靴紐やアッパーの一部には恐らく洗っても落ちきらないのであろう深い黒染みができていた。
少し照れたように優也が笑う。
「あぁ、これはサッカーのとはまた別だよ。練習にはそれ用のトレシューがあるし、試合に出る時はスタッドのしっかりしたスパイクを履くんだ。でも友達とちょっとボールで遊ぶ時とかは、よくこれを使ってるから汚いのはそのせいかもしれないな」
そして「何かもうボロボロすぎてカッコ悪いし、そろそろ捨てよっかな」と付け足した。
「そうだったんだ。私サッカーのことあまり知らないから、全然わからなくて……。でも物を大切にするのはいい事だと思うよ! ずっと大切にしてきた物には持ち主の『念』が宿るの。それはお守りにも近い力を発揮して、いろんな災いから持ち主を守ってくれる」
自分の足を見つめながら優也は「へぇーこんなのがお守り代わりになるのかぁ」と、しみじみとした様子で呟いた。
「逆にそれをぞんざいに扱った時には、相応の災いが降りかかる事もあるから気をつけなきゃね……」
「おぉ、せっかくいい気分だったのに怖いこと言うなよ」
その時、誰かが勢いよく階段を降りてくる足音が1階のエントランスに響いた。
夕夏と優也はその方へ目を向けた。
すると他の児童たちに混じり、髪を肩先ぐらいで揃えたボブヘアの女の子が姿を現した。
「あ、優也いた! と思ったら夕夏と一緒なんだ、珍しいね」
「なんだよ、有希か」
「なんだよってなによ。玲奈たちが先に用事で帰っちゃったから、せっかく一緒に帰ってあげようと思ったのに」
◆
その女子児童の名は
優也の幼馴染だ。
優也は最近賃貸のマンションから中古の分譲マンションへと引っ越しをしたのだが、以前住んでいたマンションのすぐ目の前に有希の家が建っていた。
築10年にも満たない比較的新しい一戸建て住宅だ。
家が近い事、学年が同じ事、それにお互い活発な性格で顔を合わす度によく会話を交わしていた事なども手伝い、いつの間にやら2人は仲良くなっていた。
タイミングが合えば登下校を共にするし、休みの日にはお互いの家に遊びに行く事もある。
◆
「用事なら俺もあるんだけどな今日は」
「え、そうなの? でもクラブは休みでしょ?」
「サッカーじゃないよ、これだよコレ」
優也はそう言いながら、自分の両手を顔の前で手を合わせ拝むようなポーズをして見せた。
「はぁ?」
初めキョトンとしていた有希だったが、優也の動作と夕夏の顔を交互に見比べた後訳知り顔となる。
「ああ、お祓いの事ね! 今日の予定だったんだ」
「そうそう」
夕夏が神社の娘である事や霊感を持つ事などは学年を問わず広く知られていた。
中には胡散臭そうな目で見てくる者も居るものの『なにか怖い事があれば綾瀬夕夏に頼ればいい』と言う共通認識が児童たちの間で出来上がっているようで、時々そのような相談を夕夏は持ちかけられた。
今回もそのようなケースの1つにカウントできる。
「それで、このまま2人で優也の家に向かうって感じなわけ?」
「そうだよ」
「ふーん……」
優也の顔を有希はじっと見つめる。
「なんだよ、その不満そうな顔は」
「いや別に。でも、どうせなら私もついて行きたいなーって思って」
「え!? 来てどうすんだよ。今日は遊びじゃなんだぞ」
「いいじゃん! 私、優也が新しい家に引っ越してからまだ1回も行ったことないし。帰りの方向も途中まで一緒なんだからそのついでよ」
「いや、それはそうだけどさ……」
歯切れが悪そうに、隣の夕夏のほうを優也はチラッと見た。
『え?』っと夕夏は思うも、すぐにその意図を理解する。
今日の自分はいわばゲストのようなもの。
そのお客さんの断りもなく勝手に人を呼ぶ真似なんてできないと、思いのほか殊勝なことを考えているようだ。
「私なら大丈夫だよ。ちょっと人が増えるぐらいなら、私のやる事にも影響はないはずだから」
「そうか、わかった。じゃあ有希も一緒に来るか」
「やったぁ!」
そうして急遽同行することになった有希が靴を履き替えるのを2人で待っていたところ、唐突に何かを思い出したように優也が「あ!」と叫んだ。
「どうしたの、川森くん」
思わず夕夏が尋ねる。
「有希で思い出したんだよ。そう言えば
「え、椿くんが?」
夕夏は少し意外な気持ちになった。
同じく6年2組のクラスメイトである椿
誰とでも話の合う優也と彼が時々話をしているのを休み時間などに見かける事があるが、まさか相手の家に遊びに行くほど仲が良いとは思っていなかったのだ。
「なんか意外だね。2人で遊ぶぐらい仲が良かったんだ」
「いや、学校の外で椿と会った事はないよ。何と言うかさ、俺の家に遊びに来ると言うよりかは、綾瀬の除霊を見てみたいらしいぜ。今日のことを話したら興味深そうにしてたから」
「そうなの? まぁ、私はいいけど」
「オッケー? でも椿のやつ見てないな。もしかしたら、そんな事とっくに忘れて1人で帰ったのかも」
「はは、終夜くん、なんかそう言う自分本位的なところありそうだよね。それより、はやく行こうよ!」
靴を履き終え玄関ホールに立った有希が2人にそう言った。
「おう」
優也を先頭に玄関を出た3人は正門の方へ歩き出す。
それから正門を抜け通学路を左方向に出た。
少し歩いたところで優也が言う。
「ここを真っ直ぐ行って1つ目の信号を右に曲がって、次の交差点のヒノキヤをさらに真っ直ぐに行って、それで次は左に曲がってしばらく直進すればオレん家だ」
「もう! そんなに一気に言われても分かるわけないじゃん」
「あんなのすぐ覚えられるよ」
その時「あ、ごめん2人とも」と夕夏は呼びかける。
前を歩いていた2人が同時に振り返る。
「途中でヒノキヤ寄りたいんだけどいいかな? 川森くんの家で使いたい物があるの」
「そうなの? 俺は全然いいよ」
「私も別に大丈夫だけど。でも先生に見つかっちゃったら大変じゃない?」
「わかってる。だから、バレないようにサッと入ってサッと出なきゃ!」
「おいおい、マジかよ」
いつもの真面目な夕夏からは想像できない言動に、優也と有希はおかしそうに笑った。
それからしばらく歩いていると、途中にあるコンビニの前で小学高学年ぐらいの男の子が1人でポツンと立っているのが見えた。
「ん? あれ椿じゃん! どこにも居ないと思ったら先に行って待ってたっぽいな。おーい、椿!」
そう言って優也が両手を大きく振ると、終夜もそれに気付いたようで軽く右手を挙げて合図をした後3人に近づいて来た。
「綾瀬が一緒に来てもいいってよ」
「ああ、わかった」
言葉短に終夜が3人に加わる。
その後少し歩いたところで、ホームセンター『ヒノキヤ』の前に到着した。
「着いたぜ。だけどホームセンターなんかで何を買うんだ? 俺が知らないだけで実は除霊グッズでも売ってるとか?」
「まぁいいからいいから」
そう言って先に進み自動ドアを潜る夕夏に3人は続いた。
学校の帰り道にどこかへ立ち寄るのは御法度だ。
だからこうしてランドセルを背負ったままホームセンターに入る経験は初めてで、罪悪感と共にどこか新鮮な気持ちにもなる。
いつも家族で来るヒノキヤとはまたどこか違った雰囲気が漂っているような気がした。
事前に買う物を決めてあった夕夏は、店の中を迷うことなく真っ直ぐに『芳香剤コーナー』まで歩いて行き商品の陳列棚の前で立ち止まった。
何列にもわたり豊富な種類の芳香剤や消臭剤が揃えられている。
目的の物を夕夏は陳列棚の下の方に見つけた。
そして「うーん、どれがいいんだろ」と呟きながら、商品に目線を合わせるようにその場にしゃがみ込む。
後に残された2人は何が何だか分からないようにしていたが、しばらくして夕夏の見ている物に興味を示した有希がその隣にしゃがみ込んだ。
「これって、リードディフューザー?」
夕夏の目線の先に並ぶ商品を見ながら有希がそう尋ねる。
「うん、そう。この中からどれか1つを買って行こうかなって思ってるの。何か川森くんのお姉さんが好きな香りでもあればいいんだけど」
「へえー、それなら優也に聞いてみた方がいいかも」
そう言いながら振り返った有希が優也の顔を見上げながら「ねぇ、優也のお姉ちゃんって好きな香りとかあるの?」と尋ねる。
前に座る2人の背後から優也が商品を覗き込む。
「なんだコレ?」
「リードディフューザーだよ、優也知らないの? アロマの入った瓶の中に木のスティックを挿すの。そうしたらスティックに染み込んだアロマの香りが部屋に広がっていい匂いになるの」
「あぁ、アロマか何かか。CMとかで見た事あるかも」
「うち、お母さんが好きで、リビングに1つ置いてあるんだ」
「ふーん。俺のとこ、あんまりそう言うの興味ないからよく分かんね。でも、甘い感じの匂いとかは姉ちゃん好きかも。昔、苺の匂いのついた消しゴム鼻に持って行ってずっとハァハァしてたから」
「……そうなんだ」
夕夏と有希はアロマの香りをめぐって話に花を咲かせ始める。
プライスレールに掛けられた小さな箱型の香り見本を順番に手に取り、1つ1つの香りを確認してゆく。
「これいい香り……! ちょっと石鹸ぽいけど」
「問題はどう言った系統の香りにするかじゃない? 香りの強さ自体はスティックの数で調節できるし」
「そうだよね。同じ甘い香りでも柑橘系とかはちょっと刺激刺激臭があるし、好き嫌い分かれそう」
◆
そんな風に2人が会話するのを優也は不思議そうに眺めた。
「みんな詳しいんだな。それともオレん家が興味なさすぎるだけか? なぁ椿のところも、こう言うの好きだったり――」
そう何気なく終夜に話題を振ろうとしたところで、優也は『あ! しまった』と言う顔をする。
(まずい、椿に家族の話は――)
そんな優也に「いいぜ、変に気を遣わなくても」とその発言を何とも思っていない風に終夜は言った。
そしてその後「ま、俺もあんまり香りとかには興味ない方だな。消臭剤とかそう言うのがあれば十分だよ」と付け加える。
「そ、そうだよな……」
優也もようやく言葉を返す。
◆
それから数分ほどしたところで、商品が定まったのか夕夏と有希が立ち上がる。
「ホワイトムスク。どうかな?」
「ホワイトムスク?」
初めて聞く名称なのか、優也が奇妙な顔をする。
「うん。そんなに珍しい香りではないけど、優しくて甘い匂いで心が落ち着くの。ちょっと川森くんもサンプル試してみて」
そう言うと夕夏は、商品のパッケージと同じ白色の香り見本を優也に手渡した。
それを鼻に近づけ、優也は匂いを確かめてみる。
「へー、確かにふんわりした甘さで何かいいな。姉ちゃん好きかも」
「オッケー、じゃあこれにするね」
そう言うと夕夏はレジに向かって歩き出した。
そろそろ店内が混み合い出す時間帯にも関わらず店員が不足しているのか、全部で3台あるレジのうち2台には赤い文字で『使用休止中』と書かれたプラスチックのプレートが立てられている。
既に数人ほどの列ができている残りの1台に夕夏は並ぶ事にした。
だがその前に一度足を止め、商品を抱えたまま器用に肩からランドセルを外す。
そして錠前を解錠しカバーを開けると、小マチの中からオレンジ色の長財布を取り出す。
それを見た優也が「そう言えば、そのアロマいくらするんだ?」と今更ながらに少し心配そうな顔で値段を聞いてきた。
「えーと、確か税込で1980円だったかな」
「え!? 意外と高いな……。大丈夫なのか?」
「まぁ私は、お母さんのお手伝いとかでいろいろとお小遣い貰ってるから」
「そうなのか」
だがその後「あ、でももしみんなお金があったら、ちょっとずつでいいから出して欲しいな」と3人の顔を見渡しながら言った。
「俺、10円玉ぐらいなら何枚か持ってたと思う多分」
「私もそのぐらいなら、ランドセルに入ってたかな……」
「でも家に帰ったらお年玉の貯金とかあるから、後でそれ出すよ。俺の姉ちゃんのことをやってもらう訳だし」
「ううん、そこまでして貰わなくても大丈夫だよ。元々、私が1人で出すつもりだったからね。何なら1円玉1枚とかでも全然オッケー」
それを聞いた優也の頭に疑問符が浮かぶのが分かった。
「それは有難いけど……でも流石に1円は申し訳ないわ。そんな少しじゃ何のために出したか分からないし」
その優也の疑問に夕夏が答えようとしたところ「要するに、ソッチの理由があるんじゃないか」と終夜が横から言った。
「え? ソッチ……?」
ますます意味が分からなそうな顔をする優也に、淡々と終夜が説明する。
「お金を支払うの『払う』は、なにかを祓うの『祓う』に通じる。つまり、お金を払う行為にはちょっとしたお祓いの作用がある。今から川森ん家にお祓いに行くのに、もし俺たちに憑いている良からぬ物を万が一連れ込んでしまったら本末転倒。だから、その前に簡単に浄化しよう――って事じゃないか」
びっくりしたような顔で優也は夕夏の方を見る。
『マジ?』と目線で尋ねてくる。
「うん、私が言いたのは大体それで合ってる」
「へぇー、すごい! そうなんだ!」
隣でそれを聞いていた有希が感心したような声を漏らした。
夕夏もまさかクラスメイトにそれを指摘されるとは夢にも思っておらず驚きの気持ちを隠せなかった。
それから終夜は「だけど、実際そんなに効果あるものなのか?」とどこか首を傾げるように呟く。
内心夕夏はドキッとした。
お金を支払う行為にお祓いの意味が含まれるのは本当の事だ。
己の財を差し出して痛みを感じる行為はそれ自体が『贖い』の意味を持ち、身を清めることに繋がるとされるからだ。
だが神社で行う『厄払い』や寺院で行う『厄除け』のような強力な効果が期待できるかと言えばそうでもなく、本格的な儀式に比べれば気休めに過ぎない。
本当に金銭の支払いだけで神社の祈祷のごとく良くないものを祓えてしまうのであれば、今頃世の人々はみな穢れなき身になっているはずなのだから――。
実際のところ、それがあろうとなかろうと今回の件には影響しない。
レジ前で財布を出した事をきっかけに即興的に思いついただけ、と言ったのが実情だ。
何も知らないクラスメイトを前に少し得意になってみたくなった心のうちを見透かされてしまったような気がして、夕夏はヒヤリとする思いがした。
結局優也が30円、有希が50円、終夜が500円そしてその残りを夕夏が出して買い物を終えヒノキヤを後にした。
それからまたしばらく優也の家に向かって歩き続ける。
歩道を4人で広がって歩くのは危険だし常識的ではない。
自然と2つの列が出来上がる。
前側に優也と有希、その後ろ側に夕夏と終夜。
優也と有希はいつもそうなのだろうか、時々軽口も言い合いながら楽しそうに無駄話に興じている。
その一方で夕夏とその隣を歩く終夜との間には何も会話がなされないまま時間が過ぎようとしていた。
途中チラッと終夜の方を覗った夕夏は、何か話しかけようかな? と心の中で思った。
こうして会話がないものの別に口を聞きたくない相手だと言う訳ではない。
日々小学校で多くの児童達と共に過ごしていると、中にはあまり関わりたくないと思ってしまうような子も出てくる。
例えば粗暴で誰の言うことも聞かない問題児であったり、いつも遊びで体中を泥まみれにしたう上平気な顔で過ごす清潔感のない子だったり。
そのどれにも終夜は当てはまらないし、むしろこうやって近くにいれば少なからず異性として意識してしまう程度には魅力のある男子に違いなかった。
それなのにどこか独特の心理的距離感を感じてしまうのは、やはり“あの事件”の存在が大きいからなのかもしれない。
変に意識してしまうのは却って本人を傷つけ兼ねないと言うのは分かっているのだけれど――。
◆
今から5年前の2014年10月12日。
その日の夜、岡山県総社市の天万山に開かれるキャンプ場『緑々の森』のコテージにて、そこに宿泊していた同県岡山市在住の警察官
事件当日の21時30分頃、犯人はコテージの玄関口より侵入し、1階のリビングダイニングルームで寛いでいた家族3人を日本刀のような長く鋭い刃物で次々に切りつけ殺害したものとされる。
それぞれの遺体の首には、首が切断しかける程の深い切り傷がつけられており、その後の司法解剖により死因は頸動脈などを切断された事による出血死であると断定された。
当時コテージには殺害された3人の他に同家の7歳の長男がいたが、夕方頃から体調を崩し先に2階の寝室で休んでいたため犯人の凶行から逃れる事ができた。
不自然な物音と家族の悲鳴から事件の発生を知った長男が、その後1階のダイニングテーブルの上に置かれていた父親の携帯電話から緊急通報した事により事件は明るみとなる。
当初警察は海斗が岡山県警察本部の警務部長を務める現役の警察官であった事も念頭に怨恨の線で捜査を進め、公私問わず生前家族と関わりのあった人物を中心に人間関係を総洗いしたが、有力な手がかりを得る事はできず、次第に事件は通り魔的犯行との見方が捜査関係者の間に広まるようになる。
キャリア警察官として順風満帆な人生を歩むエリートの身に突然起こった悲劇に、多くのメディアがめざとく喰い付き連日全国のワイドショーを賑わせた。
また海斗が現役の警察官であったばかりではなく、妻美津那の父にあたる
犯行に使われた凶器や犯人の指紋、足跡、DNA、キャンプ場に設置されていた防犯カメラの映像など、事件の解決に結びつきそうな証拠は一切発見されず、唯一の手がかりは、残された長男の語った『黒いお坊さんが歩いて行くのを(2階)から見た』と言う目撃証言だけであった。
しかし、そんな曖昧な人証1つだけで捜査が進展を見せる訳もなく、その言葉はある種オカルト的響きを持って当時のネット界隈を中心に世間をざわつかせ人々の好奇心を無意味に煽るだけに終わった。
そして――。
その事件で生き残った椿家の長男こそが、椿終夜であった。
終夜は事件のあと岡山県内に居住する親戚の元でしばらく過ごし、その後東京に住む
深ヶ丘小学校は都心に位置する事もあり誰かが転校して行った、転校して来たなどのイベントには事欠かず、普段そのぐらいで話題になることはなかったが、終夜の抱える事情が事情だけに転校後直後から多くの児童の関心を引いた。
本人も教師達もその事件について触れることはなかったが、『あの事件の子らしい』と言う噂話はあっという間に広がり気づけば周知の事実となっていた。
◆
夕夏がそんな終夜と初めて出会ったのは小学4年生のクラス替えの時だ。
それからは進級の度に同じクラスになり卒業も近い今では小学生活の半分近くを同じクラスで過ごす仲となっていた。
やはりあの凄惨な事件の影響が大きいのだろうか、終夜は常にどこか悟ったような冷たい雰囲気を放っている。
そのせいか同じ年頃の男子と比べるとずっと落ち着きがあり、年齢よりも2つも3つも大人びて見えた。
その冷静さは熟した物の見方や考え方をする上ではプラスとなるかもしれないが、人間関係の場においては取っ付きにくいと言ったマイナスの印象も与えてしまうようだ。
実際終夜が特別誰かと親しく接しているような所を夕夏は見た事がなかったし、自身の経験からしてもお互い好き好んで会話をした記憶はほとんどなかった。
クラスの中でちょっと浮いた特別な存在の男の子――それが終夜に対する夕夏の認識だった。
でもそんな一匹狼的な性格や触れ難い境遇があるにも関わらず、終夜は密かにクラスの女子から人気があった。
端正な顔立ち、それに頭や運動神経の良さなど総じて高いスペックは勿論のこと、その冷めきった目も逆にクールで見つめられるとキュンとすると囃し立る女子も中にはおり、不思議にも異性を惹きつける材料として作用しているようだった。
バレンタインデーの学校の帰り道に終夜が女子からチョコレートをもらったと言う話を夕夏は耳にした事があったし、半年ぐらい前のまだ暑い日の体育の授業のサッカーで、終夜がサッカークラブに通う男子達のディフェンスを巧みにすり抜けゴールに華麗なシュートを決めた時、近くで眺めていた女子達から控えめながらも黄色い歓声があがっていたのは印象的だった。
この沈黙をどうしようかと密かに夕夏が頭を抱えていたところ、斜め前を歩く優也が急に振り返ってきた。
こっちをじっと見つめた後に、次は隣の終夜の方をチラッと見た。
その後前に向き直ったかと思えば、また同じように振り返り視線をチラチラと送ってくる。
(何をやってるのかな、川森くんは?)
そう疑問に思っている夕夏に、ニヤッと意味ありげな笑みを優也が向けた。
「なんかさ、お前らお似合いだな。横に並んでるとカップルみたいじゃん」
「は、はぁ!?」
夕夏は面食らった。
男女関係に疎そうなこのサッカー少年の口から、そんな色のある言葉が飛び出してくるとは思ってもいなかった。
そもそも終夜も一緒に居るのにそんなイジりを見せるとは予想外にもほどがある。
固まったまま目を見開いて優也を凝視する。
それから不意に終夜の様子が気になり彼の方へ目線を向ける。
終夜も夕夏と同様目を丸くし、夕夏の方を見たあと気まずそうに視線を逸らした。
その瞬間、急激に顔が熱くなっていくのを夕夏は感じた。
ちょうど思春期も始まる多感な時期にそんな
軽いパニック状態に陥いりながら、気づけば自分でもよく分からない罵倒の言葉を口にしていた。
「な、なにを言ってるの! このスポーツばか! ぽんこつ脳筋!」
「ええ、いや……そこまで言う?」
突然発せられた謎の罵声にさすがの優也もちょっと狼狽えたようだった。
だがその後、隣を歩く有希に「有希もそう思わね?」と尋ねる。
◆
そう問われた有希は話に乗るように2人の方へ振り返った。
ちょうど目線が止まった先にいる終夜をじっと観察する。
顔はなかなかカッコいいし、スタイルもそれなりだ。
それに勉強もよくできる。
恐らく2組の中じゃ成績はトップだ。
服装も悪くはない。
無地の白いセーターと黒いスラックス、その上に羽織る温かみのあるベージュのピーコート。
クラスのオシャレ好きな男子達のような強い個性は無く至ってシンプルだが、そこが少しませていていかにも終夜くんらしい。
本人の雰囲気とファッションがマッチしている好例と言えるかもしれない。
次に夕夏の方を見る。
まず目を引くのは整った顔のパーツ。
それに加え曲線を描く綺麗な顔の輪郭にサラサラの黒髪。
可愛い女子の定番と言ったイメージ。
優等生で性格も優しく、男女問わず好かれるタイプ――。
「たしかに、美男美女の優等生でお似合いって感じかもね」
「ちょ、ちょっと! 有希までなにを言い出すの」
「なんかね、夕夏と椿くんってタイプは違うけどオーラが似てるって言うか――自分があって独特の世界観があってみたいな。うまいこと言葉で言えないけど」
「だろ? 俺も前からそう思ってた」
◆
「ほんとに、もう……」
これ以上何と返したらいいのか分からなくなった夕夏は思わず下を俯いた。
それからしばらく歩いたところで、優也が100メートルぐらい先のとある1棟のマンションを指差しながら「あれあれ」と叫んだ。
「へぇあの茶色っぽいやつ? 綺麗じゃん!」
「それであそこの3階が俺のとこ」
「ふーん、いつの間にかいいところに引っ越ししたんだね。何か凄い高そう」
「別にそんな事はないよ。中古だしな」
「そうなの?」
「うん。初めうちの親は新築の一軒家に住みたかったらしいけど、家を決める前にファイナルプランなんとか? みたいな人のところに相談しに行ったら――」
「ファイナンシャルプランナー?」
有希が合いの手を入れる。
「そうそう多分それに相談しに行ったら、『お宅の収入で無理をすれば老後に資金が不足します!』とか散々脅されて、結局はどっかの不動産屋に紹介してもらった中古マンションにしたらしい」
「ふーん。一軒家って高いもんね。私のところもローンがまだまだ残ってて大変みたいな話聞いた事がある」
「でも山口に住んでる俺の親戚の人とか、うちのマンションよりも安い値段で大きな庭付きの一軒家建ててるらしいんだぜ。東京は何をしても高いって聞くし都会もいいところばかりじゃないよな」
そんな会話を交わしながら、4人は優也のマンションのエントランスホールを目指して歩いて行った。
4
「ど、どうも……よろしくお願いします」
優也の姉、
相手は自分が通っていた中学の後輩となるはずのずっと年下の小学生の女の子だったが、今の瑞希にはそれ以上にこの恐ろしいトラブルを解決してくれる救いの女神としての思いのほうが強かった。
そう考えると自然と態度も改まる。
「6帖と7帖の部屋があって姉ちゃんが『絶対7帖のほうがいい』って譲らないから、俺が狭い方になっちゃったんだぜ。そういう時だけ年上の特権使ってずるいよな」
優也が出し抜けにそうぼやくと、余計な事を言うなとばかりに瑞希は無言で優也を睨んだ。
◆
そんな姉弟をよそに「それじゃあ、失礼します」と一言断ると、夕夏はさっそく部屋の中に入り中央までスッと進んだ。
まずは部屋の中をぐるりと見渡す。
ちょっと前に引っ越しを済ませたばかりと聞くが、その為か部屋は綺麗に片付いている。
入って右奥側に勉強机、その向かい側にシングルのベッドとその横に小型のファブリックのソファ、部屋の入り口の方には夕夏の背丈と同じぐらいのキャビネット。
ベッドの上や勉強机の上棚なんかにちょこんと座っているぬいぐるみには親近感を覚える。
壁紙や家具類など、全体的に白色で統一されスッキリとしていて過ごしやすそうな部屋だ。
「あれ? 姉ちゃん、本棚はクローゼットにでも隠したの? そりゃあまぁ、あんないい年して少女漫画ぎっしりの本棚なんか見せられないわな」
「ああ、もう! さっきからうるさいのよ!」
何かと姉のプライベートを明かしては楽しそうにする弟に、瑞稀はついに怒り出した。
だがその後「私、あんまりこの部屋にいたくないから……奥行ってる」と怯えた風に言うと、速やかに自室から出て行った。
「いい部屋だね、綺麗で」
瑞希が去ったあと、夕夏は優也にそう言った。
「ま、怪奇現象が起こり出して他の部屋にいる事が多いから、おかげで物は全然散らかってないかもな」
「たしか、寝る時も別の部屋の事が多いんだっけ?」
「ああ。父さんと母さんの寝室に行ったりリビングのソファで寝たり、いろいろだよ。時々俺の部屋にもいきなり入って来てそのまま長居するしマジで迷惑」
「そっか……。じゃあ、とりあえず今から始めるからみんな少しの間静かにしててね」
目を閉じた夕夏は部屋の中央に立ったまま、両手をパンッと勢いよく叩いた。
じっと神経を集中させ音の広がりを確かめる。
次に部屋の四隅で順番に手を叩いて行く。
そして勉強机が置いてある辺りに立ち止まると「やっぱり、この角かな……」と言いながら2、3回続け様に手を打った。
「違う……今の分かった人いる?」
部屋の入り口にかたまって立っている3人に夕夏はそう尋ねた。
優也と有希が顔を見合わせる。
「分かるって、何が?」
「さぁ? 何が違うのかさっぱり」
その時、「少し音の響きが鈍いような気がする。そこの勉強机の時だけ」と終夜が静かに呟く。
「そう……! 椿くん耳いいんだね。僅かな違いなんだけど、ここで手を叩いた時だけ上手く音が響かないの。何かに音が当たって吸い込まれると言うか」
「へえ、もしかして霊感がある人だったら分かるみたいな?」
夕夏と終夜の顔を見ながら、不思議そうに有希が尋ねた。
「ううん、霊感の有無はあまり関係ないかな。手を叩いた時の音の響きって言うのは物質的な現象――ちょと難しい言い方をすれば物理現象の1つなの。だからきちんと耳を澄ませば誰にだって分かるはず」
それを横で聞いていた優也が顔の色を変えながら言う。
「そこ、姉ちゃんが一番やばいって言ってた所だ! 椅子に座ってると足に変な感触がして、それから呻き声みたいなのが聞こえるって」
「それは『誰かに足をつかまれる』みたいなそこまで強くてハッキリした感覚ではないよね……?」
「うん。なんかフワっとした空気みたいなのが足から登ってくるんだってさ。やっぱりそこに幽霊がいるってことか?」
不安ながらもどこかワクワクしたような表情で優也が聞く。
しかし夕夏は、ううんと首を横に振る。
「幽霊ではないみたい。だけどここに強い念みたいなのが漂ってる。多分前住んでた人のものかも。何かすごく苦しくて辛い事でもあって、その負の感情が少しづつここに蓄積されていったんじゃないかな」
「念って……。まぁうちは中古だしそれも有り得るか」
「でも幽霊じゃなかったのは幸いかな。もしかしたらお姉さん、そう言う感受性が強いタイプなんじゃない? 他の家族の人達が何ともないように、普通は何も気付かないまま終わってたと思うから」
そう言った後、先ほどと同じように「パンッ、パンッ」と大きな音を鳴らしながら夕夏は繰り返し手を叩いた。
そしてそれが終わると再び優也の方へ振り向きにこやかに言う。
「川森くん、この部屋掃除しよっか」
5
「まさか、姉ちゃんの部屋を掃除させられることになるとは思わなかったな」
壁と床の境目に溜まった埃を指先を使って丁寧に雑巾で拭き取りながら、優也が少し不満そうに言う。
「お姉さん、あまりこの部屋使ってないみたいだから、そのせいで部屋の掃除もお留守になってるんだと思う。結構埃が溜まってるね」
「昔は母さんが子供部屋も掃除してくれてたんだけど、ちょっと前に『そろそろ自分のことは自分でやりなさい』って全部自分でさせられるようになって。それからは気をつけてなきゃ、あっという間に部屋が汚くなるんだ」
優也の持って来た掃除用具を使い、4人で手分けして部屋の中を綺麗にする。
家具類についた埃を有希がはたきで落とし、それを床に溜まった汚れとともに夕夏が掃除機で吸い取っていく。
その後を雑巾で優也が水拭きする。
その間、黙々と終夜は雑巾で窓を拭いていた。
「うわっ、もう雑巾が真っ黒だ」
「だけど綺麗になっていく部屋を見ているとなんだか心が清々しい気分になるよね。学校の掃除の時もそう思うよ私。優也もなんだかんだで楽しそうじゃん」
「いや、別に楽しくはないけど……。でも、このメンバーで何かをするのは新鮮だな。有希はともかく、綾瀬と椿には学校以外で会う事ないし」
「だよね~」
そうして掃除に精を出すこと20分ほど。
おのおの自分の作業の出来を確認しながら用具を片付け清掃を終了させる。
「なんか、初めよりも部屋全体が明るくなったような気がしない?」
どこか嬉しそうに有希が呟く。
「窓の汚れが落ちて光が入りやすくなったからじゃね? それより綾瀬、こうやってわざわざ掃除するのにも何かそう言う意味があるのか?」
「まぁね」
「へぇどんな?」
興味津々と言った様子で横から有希が聞いてくる。
「さっきヒノキヤでお金を出して貰った時と仕組みは同じかな。掃除で『汚れを払う』事は『不浄を祓う』事に通じる。汚れは一種の『穢れ』であるから、それを払えばお祓いとなるの」
「へぇ。俺お祓いって言うからてっきりこう、お清めの水とか塩とか準備してそれから白いヒラヒラみたいなの振ってみたいなもっと本格的にやるのかと思ってた」
「もちろん場合によってはそう言うのもやるよ。
「ふぅんそうだったんだ。でもさ知らない俺が言うのもあれだけど、払うで祓うとかそんなダジャレみたいなので本当に大丈夫なのか?」
“普通の人”らしい優也の疑問に、「ふふ」と夕夏は笑う。
「心配しなくても大丈夫だよ。私たちの世界じゃ『形が似ている』という事はとても重要な意味を持つの」
「形?」
「うん。例えば昔から刀や剣には悪いものを祓う力があるって言われてるんだけど、それは刃物に他人を傷つける機能があるから。そして剣に形の似た物――例えば鋭く先の尖ったもの何かにも同じ様に魔を祓う力が宿るとされる。つまり形を似せた物は、それの元となった物と同じ機能を持つ」
「それじゃあ、子供用のプラスチックのおもちゃでも本物の刀みたいに切れるって事?」
どこか半信半疑に優也がそう聞く。
「そうだよ。現実の世界じゃおもちゃの刀で本物の刀のように人を斬る事はできないけど、相手が霊界の住人となれば話は別。おもちゃの刀でも幽霊は恐れて近づけなくなる」
「マジかよ! その辺のおもちゃ屋のでもいいの?」
「原理的にはそう。小学生ならいつでも持ってる筆箱を利用するのも手だね。その中から鉛筆を取り出してその先を相手に向ければ、それだけで本物の剣と同じように魔を除ける効果が生まれる」
「へぇすげーな。綾瀬もそう言うので幽霊を追い払う訳?」
「そういう時もあるよ。でも本当に何も道具がない時とかは指で代用するかな」
「指?」
右手の人差し指をピンと立てながら夕夏は説明する。
「そう。全ては形状を似せる事に意味があるのだから、指を立てて剣の形を再現するの」
その2人の会話を聞いていた有希が夕夏の真似をして右手の人差し指を立てながら、空中をビシッと指差した。
「こんな簡単な動作で悪霊退散的な事ができるの? なんかびっくりだね」
「うん。ちょっと思い出してみて欲しいんだけど、誰かにじっと指を差された時って嫌な感じがしない? ただ指を1本指されただけなのに凄い威圧感を感じると言うか」
「確かにそう言われてみればそうよね」
「それと同じ。幽霊だって先の鋭いものを向けられたらどこかに逃げたくもなるのよ」
「へー! さすが夕夏、何でも知ってるんだね」
「私もお母さんに教わっただけだよ」
「それじゃあさ綾瀬、逆に幽霊がもしこっちを指差してきてたらヤバい?」
優也もそれを真似しながら疑問をぶつける。
「うーん、まだそう言うのは見た事がないけど多分かなりヤバいと思う。ただそこに幽霊がいるだけじゃなくて、こっちを認識した上に敵意を向けて来てるってことだから」
「こえぇな……」
その後再び勉強机の前まで向かった夕夏はポケットの中から、赤い布製のケースを取り出した。
表面には白いうさぎのイラストが描かれている。
そのケースの中には1枚の櫛が仕舞われてあった。
小学生の夕夏の片手に収まる程の小さなつげ櫛だ。
それは夕夏が産まれた時に、同じく霊能力者であった祖母から母が出産祝いとして贈られた品の1つだ。
母用と娘用2つの櫛がセットとなっていて、1つは4寸5分の細歯のとき櫛、もう1つは4寸の細歯のとき櫛。
そのうちの小さい方を物心がついた時に夕夏は母から貰い受け、専用のケースに入れて保管しながら今に至るまで大切に使用してきた。
夕夏が産まれた翌年に祖母は不慮の事故により他界した。
だから夕夏には祖母の思い出と言ったものが全くと言っていいほど無い。
だが、そのプレゼントのつげ櫛を見るたびに霊能力者であった祖母らしい愛情が伝わってくるような気がした。
櫛には強い女の念が宿るとされる。
目と同様、髪は強力な霊力を帯びるパーツの1つであり、それを手入れするのだから当然その道具にも相応の霊力が宿る。
日本神話に登場する
櫛には古来より祓いの道具として認識されてきた歴史がある。
それを小さい時から愛情を込めて使用すれば、これ以上にない魔道具となる。
その櫛に思いを寄せると、親子3世代にわたる力の流れをひしひしと感じられるものだ。
ケースに仕舞われたつげ櫛を、夕夏はそっと机の下に差し込んでみた。
何の反応も感じられない。
でも、これで良い。
何の手応えもないと言う事は既に浄化が完了していると言う事に他ならない。
次に部屋の壁際の床に置いてあったヒノキヤのビニール袋を持って来た夕夏は、さきほど購入したばかりのリードディフューザーの紙パックを取り出す。
そしてそれを丁寧に開封してゆく。
そんな夕夏の手元を物珍しそうに優也が覗き込む。
「そうだ、川森くん。この部屋に暖房入れたいんだけど……いいかな?」
「暖房? オッケェー」
そう言うと室内の壁に掛けられているラックの中からエアコンのリモコンを抜き取り、暖房のボタンをピッと優也は押した。
「ありがとう」
「そういえば暖房入れてなかったな。厚着で動いてたから忘れてたけど」
「私も今気づいたの。できるだけ快適な環境でお姉さんを呼びたいと思ったから入れてもらっちゃった。ちょっと、机の上借りるね」
ガラス瓶を勉強机の上に置き、その口にアロマオイルを溢れないように少しずつ注ぎ込む。
その動きに合わせるように鼻を優しくくすぐる甘いホワイトムスクの香りが漂い始めた。
それから付属の8本のスティックを瓶に差し込む。
「香りが部屋に広まるまで少し時間がかかるけど、とりあえずはこれでいいかな」
「意外とオシャレでいいな、このアロマ。俺も部屋に置こうかな」
「だったら優也はスプレータイプのにしなよ。こんな瓶の置いたらすぐこぼしちゃうよ、きっと」
「なんだよそれ」
その時3人が会話をする横で、リードディフューザーの空き箱を手に取った終夜がそれを眺めながら「これはお祓いには関係ないってわけか」と呟いた。
「え……? そうなの?」
それを近くで聞いていた優也がびっくりしたように言う。
「そうだね、直接的には関係ないかな。さっき私が勉強机の前で何回も手を叩いたでしょ? それと部屋の掃除で悪い物は全て綺麗に消えた。このアロマは部屋を快適にしてお姉さんの心を安定させる為のもの。心が不安だと悪いものにつけ込まれやすくなるからその予防の意味も込めて」
「そうなんだ、全然知らなかった。お祓いの道具じゃないんだな」
「確かにいい匂いがすると心が落ち着くよね」
部屋の空気を大きく吸い込みながら、そう有希が言葉を口にする。
「でも私、いい匂いのするものは幽霊を追い払えるって前にネットで見た事があるよ。ファ○リーズをシュッってすれば除霊ができるみたいに話題になってたの」
「そうだね、香りの中に除霊の効果が期待できるものが存在するのは本当だよ。でも、ファ○リーズはまた別かな。あれは香りというよりかは、ファ○リーズの持つ除菌作用が除霊に繋がってるんだと思う。不浄は清潔を嫌うものだから」
「へーファ○リーズならうちにもあるから、今度肝試しに行く時にでも持って行ってみようかな。というさっきから椿は詳しいな。小学生のふりして本当は年齢ごまかしてんじゃねぇか」
優也が冗談混じりに言う。
「アホか。そんなわけないだろ」
椿の返事に3人は笑った。
だが夕夏は一部優也の言葉に同意する思いだった。
先ほどから何かと鋭い一面を見せる――椿くんは。
世の中に数多くの『香り』が存在する中、特に
古くから仏教において不浄は香を嫌うとされ、東洋を中心とする仏教圏では、香を穢れを祓うアイテムとして用いる文化が育まれてきたからだ。
自宅の仏壇の香炉に線香を立てるのもその表れで、線香を焚く理由の1つは、香をもって自らの穢れを祓い清き身で仏様と対面する為だ。
その一方、香水やアロマオイルなど西洋に由来する香りは、お祓いの作用を持たない事で知られる。
西洋の文化の根底にはキリスト教的価値観が深く根付いているが、キリスト教において香は異教の伝統とみなされ長らく忌避の対象とされてきた。
だからそもそも西洋では香を祓いの道具として用いる文化が育たず、香水やアロマオイルなどはアクセサリーやセラピーの一環と言った程度の扱いがされるに過ぎない。
祓いの道具としての歴史の積み重ねが、アロマオイルには一切存在しないのだ。
歴史の積み重ねのないものに、突如としてその意味が生じる事はない。
だからこうしてアロマオイルの香りを部屋に充満させたところで、香木や練香のように霊現象を解消する手助けとはならない。
あくまでもリードディフューザーはアロマセラピー的な位置付けでしかない。
それを的確に椿くんは見抜いたと言う事になる。
しかしそんな『業界的な裏事情』をその辺の普通の小学生が知ってる訳も無いから、彼の場合知識が豊富というよりかは異様に頭が冴えるのかもしれない。
例えば寺院で香が焚かれる事はあってもアロマが焚かれる事はないと言う事実を元に、アロマは神聖なシーンには相応しくない俗世的な物であるのだと推測する事はできる。
そうやって間接的にも物事の本質を見抜けるだけの高度な洞察力や推理力を椿くんは持っていると言う訳だ。
流石は勉強だけはできる兄が通うのと同じ『千夜橋中学校・高等学校』への進学を志望するだけの事はある。
リードディフューザーの組み立てを終えた夕夏は、姉の瑞希を呼んで貰うよう優也に頼んだ。
部屋を出た優也は家の奥へ向かい、その後すぐ姉と一緒にまた部屋へ戻ってきた。
「瑞稀さん、一応これで全ては終わりました。それで試しに部屋でくつろいでみてくれませんか?」
「う、うん」
そう言われた瑞希はおそるおそる部屋の中へ入りひとまずベッドの上に腰を落としてみる。
ふわっとした軟らかい生地に瑞希のお尻や腰が沈む。
そしてゆっくりと寝転んだ後、体を大の字にした。
「いつもの嫌な気配がなくなってる……」
部屋の様相が大きく変貌していることを瑞樹は実感しているようだった。
暖かい空気に、優しい香り。
少し前まで瘴気の漂っていた恐ろしい部屋が、安らぎの空間へと早変わりしていた。
「暖かいし、いい匂いもするね。よく考えたらこうやってのびのびするの、ここに来て初めてかも……」
「なにか、気になるところとかありませんか?」
瑞希は目を瞑り大きく深呼吸をする。
「ううん、すごく快適」
「それは良かったです」
夕夏は胸を撫で下ろした。
「とりあえずこれで一件落着ったことか、綾瀬……?」
「そうだね。私のやることはこれでお終いかな。それじゃあ瑞希さん、そろそろお暇しますね」
リラックス中の瑞希を邪魔しまいと、夕夏は手早く帰り支度にかかる。
ランドセルを背負いリードディフューザーの空き箱やトレーなどのゴミをビニール袋に詰め込んで回収する。
だがマフラーと手袋を着けようとしたところで、急に瑞希がベッドから立ち上がった。
何かダメだったのだろうかと、緊張と不安が夕夏を襲う。
にこやかな表情で夕夏の方を向いた瑞希が、おもむろに制服のスカートのポケットから2つ折りの財布を取り出す。
そしてそこから千円札を抜き出し夕夏に手渡してきた。
「こう言うのって凄くお金がかかるんだろうけど、今はこのぐらいしかなくて……。お父さんとお母さんは理解してくれないからお金を貰って来ることもできないし……」
お祓いにお金が必要だと思われているようだ――夕夏はそう察した。
だけれど決して私はプロでは無いのだから、そんな物は不要であり受け取る事はできない。
「いいですよそんな! 私なんかじゃ受け取れないないです」
「ううん、そう言わないで。ずっとこのこと悩みだったから、せめてのお礼として」
しばし押し問答を繰り広げる。
しかし瑞希の意志は固い上、せっかくの厚意を蔑ろにしていると言った罪悪感もあった為、結局夕夏が折れ有り難くそのお代を頂く事にした。
「大したこともしてないのにお金まで頂いて。また何かあれば、いつでも相談してくださいね」
「うん、こちらこそ今日はいろいろとありがとう」
その後、それに続けて有希がお詫びの言葉を言う。
「ごめんなさい、私も勝手に入っちゃって。全然関係ないのに」
終夜も「今日は突然すみません」とそれに続き、4人は瑞希の部屋を後にした。
◆
「意外とあっさり終わるものなんだね。映画みたいにもっとこう、悪霊との戦いみたいなドロドロとした物を想像してた。リ○グの○子とか、○怨の伽○子みたいな」
「そんなのは本当に極一部だけだよ。と言うかそこまでだったら、私もまだ対処できないかも」
「流石にそんなにヤバいの棲み着いてたら、俺家族置いてでも家から逃げ出すわ」
「へへ、意外と優也怖がりなんだね」
「伽○子は洒落にならんだろ、命にかかわるわ」
そんなふうに談笑しつつ皆んなで廊下を歩いてたところ、ふと思いついたように有希が言う。
「そうだ、優也の部屋も見せてよ! せっかく来たんだし」
「俺の部屋? 今日の話とは関係ないじゃん」
「別にいいじゃない! ね、夕夏も見てみたいよね?」
「え、私? うーん、まぁちょっと見てみたい気も」
「ほらほら」
「はあ? 今日は遊びじゃないって靴箱のところで言ったばっかなのに」
「そうやって言い訳ばっかして、本当は部屋が汚すぎて見せられないんでしょー?」
優也に近づいた有希は、怪しそうにその顔を覗き込む。
「ちげーよ。ちゃんと綺麗にしてるし」
「ほんと~?」
「ちっ、うるせーな。じゃあ見せてやるよ」
ブツクサ言いながらも優也は玄関を入ってすぐの右手側にある自室へ案内した。
「初めにも言ったけど、姉ちゃんの部屋に比べたら狭いぜ。広い方を取られちゃったからな」
レバーハンドルをガチャっと回し洋室のドアを開く。
それから優也を先頭に有希、夕夏、終夜と続く。
「えーなんかオシャレ! ちょっと意外~」
中に入って早速部屋を見渡した有希が感嘆する。
驚くほど綺麗に整えられている。
「なんか知らない家具増えてるね。レイアウトも前の部屋と大分変わってるし。引っ越しに合わせて新調したみたいな?」
「そうだなぁ、ベッドはバネが駄目になって少しヘコんでたから新しいのに替えて、真ん中のテーブルとソファは俺が欲しいって言ったら結構あっさり買ってくれた。たぶん俺が狭い部屋で我慢したから、その辺は融通してくれたんだと思う」
少し照れ臭そうに優也が事情を語る。
「きちんと整理整頓されてるし、クラシックな感じが素敵だね」
夕夏も感心したように呟く。
やんちゃなスポーツ少年の印象に反して、部屋の中は至ってシンプルだ。
部屋の入り口付近から中央部にかけてガラス製のローテーブル、その正面にテーブルと高さの合わせた2人掛けのソファ、その向かいに24インチほどの液晶テレビが置かれてある。
テレビ台の2段目には家庭用ゲーム機が収納されていて、そのコントローラが日常に溶け込むかのようにテーブルの上に放り投げられている。
部屋の奥側には先ほどの瑞希と同じように勉強机とシングルのベッド、そしてそれに加え小型の本棚が隅に置かれている。
部屋の中心をローテブルと少し大きなソファが占領している分、瑞希の部屋に比べると部屋の大きさの違いを差し引いてもどこか窮屈な感じがするが、ダークブラウンで統一された家具類は上品さが感じられ好印象だ。
そっとソファに腰を下ろした有希がシートの表面を撫でた。
「ちょっと冷たいけど、ふかふかで気持ちいいね。さすが新品」
「ファブリックだったらそこまで冷たくならないけど、それじゃあ高級感がイマイチだから合皮にした」
「そうなんだ。でも確かに布だと染みとか汚れがついたらなかなか取れないから大変だよね。なんか全体的に大人っぽくてびっくり。私も模様替えしようかなぁ」
「もうすぐ中学生だし、気合い入れなきゃと思ってな」
明るく優也が笑う。
「なぁ綾瀬、俺の部屋には別におかしな所とかないよな……?」
「うん。パッと見た感じそう言った部分はないと思う。やっぱり清潔に保つのが一番だね。床にもほとんど埃が落ちてないし」
「実はちょうど昨日の夜、掃除機をかけたところなんだ」
◆
その一方物珍しそうに部屋の中を見ながら、終夜は入り口から奥の方まで歩いて行った。
「なんか、川森らしくない部屋だな」
思った事を率直に口にする。
「おいおい、なんだよそれ」
「褒め言葉だと思ってくれ」
その時ソファから立ち上がった有希が勉強机の方に向かう。
そして上棚に並べられている本類に目を遣るのが分かった。
「教科書にサッカーの漫画かぁ。ここは変わらないね」
次に机の右側の引き出しを開けようと引手に手を掛ける。
ガチャッ、ガチャッ。
「あれ? どうしたの、鍵かかってるじゃん。前はこんな事なかったのに」
「あ! おい、やめろよ」
慌てたように優也が有希の元に飛んで行く。
「え、なになに? 何隠してるの? 開けてみなさいよ!」
そう言いながら有希が何度も引き出しをガチャガチャと引っ張った。
「やめろって! 俺にだってプライベートの1つや2つあるっつーの」
「へぇーいつからそんな事言うようになったのよ」
「他人に見せたくない物ぐらい、普通はあるだろ」
「そう言われたら逆に気になるじゃん。あ、わかった。なんかエッチな漫画でも隠してるんでしょ~」
「はあ!? バカ言え、そんなんじゃねーよ!」
「違うの?」
「あたり前だろ」
「ふーんじゃあ漫画じゃなくて、女の人のヌード写真集とか?」
「バカ! だから、そんな深読みしてんじゃねえ」
「でも私、知ってるんだよ、優也がいつも買ってる漫画の雑誌に大胆なグラビアが載ってるの。そう言うのを普段はどこに隠してるわけ?」
「あぁ、もう! ごちゃごちゃうるさい」
優也は有希の腕をつかみ机から引き離そうとする。
「そんなに必死になってあやしー。鍵かけて隠すとか絶対イヤらしいやつに決まってるよ。ね、終夜くん?」
終夜の方を向いた有希がそう尋ねてくる。
「え!? いや……俺に振るなよ」
唐突に話を振られた終夜は驚いて、思わず言葉に詰まる。
「あれ? どうしたのそんなびっくりした顔しちゃって。あ、わかった。終夜くんも何か心当たりがある感じ~?」
「なんでそうなる」
大胆に話を詰めてくる有希にさすがの終夜も狼狽する。
その時、不意に部屋の入り口の方に立つ夕夏と目が合った。
まずい物でも見るように夕夏が目を逸らす。
そのあと再び向きなおり今度はなんとも言えないような表情で終夜に微笑んだ。
何か誤解されているらしい――そう察し咄嗟に『俺は違うからな!』と叫びそうになる。
「放っとけよ、他人の引き出しの事なんか。用も済んだ事だし俺はもう帰るからな」
すぐにまたいつものクールな様子に戻った終夜は静かにそう言う。
「へへ、私に隠し事しても無駄なんだからねぇ~」
有希は舌の先を出すと揶揄いながら優也の机から離れた。
「うるせーな。ほら、もう帰った帰った!」
「なによ、せっかく来てあげたのに」
「もともと綾瀬以外に用はねぇよ」
それから3人は追い出されるように、川森家の部屋からマンションの廊下へ出た。
◆
「ま、とりあえず今日はサンキューな」
どこかぶっきらぼうにそう言って、優也が玄関のドアをしめた。
「もう、有希が変なこと言うから川森くんおかしくなっちゃったじゃん」
少しジト目で夕夏は有希の方を見た。
「正直に言わない方が悪いんだも~ん」
反省の色を感じられない有希の言葉に、終夜が呆れるように首を横に振っていた。
その後エレベーターで2人と共に1階へ降りた夕夏は、来た時とは逆の方向へ戻る形で帰路についた。
今日の事、学校生活の事、テレビの事などを楽しく有希とおしゃべりしながら歩き続け、その後ろを無言で終夜がついて来る。
それからしばらく歩いたところで「私、こっちだから。じゃあまた月曜ね!」と、有希が手を振りながら交差点を曲がって去って行った。
たちまち夕夏は終夜と2人きりになる。
少し後方を終夜が歩いているが、知らない仲でもないのにずっとこのまま距離を空けているのも何だかなぁと思い少しスピードを落とす。
するとお互いの歩行速度が重なり、終夜と横1列に並ぶ。
終夜の登下校のルートをある程度夕夏は知っている。
同じ通学路を歩いているのを時々学校の行き帰りに見かけるからだ。
となれば、しばらくはこのままだ。
その間なにも会話がないのは気まずい。
軽い雑談でもしてみようかと夕夏は思った。
今日の放課後を一緒に過ごしているせいか、初めに一緒に歩いていた時に比べると緊張も幾分か解けている。
自分から声をかける事にそれほどの躊躇いはない。
「椿くんはやっぱり優秀だね。今日私が考えてたこと何でもお見通しだったから」
「別に、まぐれみたいなもんだよ」
そっけなく終夜が返事をした。
「そんな事ないよ。椿くん千夜橋中学校受けるんでしょ? 私のお兄ちゃんも頭良くて、中学は千夜橋行ったんだよ。4つ上だから今はもう高校に上がってるけど」
その時夕夏はハッとする。
それがセンシティブな話題に限りなく近いと言う事に気付き、一気に冷や汗があふれるような感覚に襲われる。
1日の疲れと眠気が瞬時に吹き飛んだ。
どうしよう――。
だが、当の終夜はそんな事を気にした風もなく「綾瀬のお兄さんが?」と意外そうに聞いてきた。
どう振る舞うべきかを夕夏は幾度も逡巡したが、結局は下手に話題を変えたりせず終夜に合わせ自然に接することにした。
「……うん。お兄ちゃん6年生のちょうど今ぐらいの時期から学校を休んで、過去問解きまくってたなぁ。私はまだその時2年生だったから、何をやってるのか全然分からなかったけど」
少し自嘲気味に笑う。
「そう言うパターンは多いだろうな。北里たちも3学期の始業式以降見てないし」
◆
例年首都圏では、2月1日から3日にかけての数日間が中学受験の山場となる。
終夜の志望する千夜橋中学校もその例に漏れず、2月1日(金)を一般募集の受験日、そしてその翌日の2月2日(土)を合格発表日としていた。
東京都内の多くの私立中学校、高校が加盟する協会が定める中学受験に関する協定を基に、都内の私立中学校の大半は似たような受験スケジュールを組んでいる。
そのため都内の受験生はそれに合わせるように、年明けから受験日までのラストパートの期間学校を休み、おのおのが通う個別指導塾や自宅にて受験対策に専念するケースが多い。
6年2組では終夜を含め5人の中学受験生がいたが、そのうちの3人は私立中学の受験を控えるにあたり2週間ほど前から既に自宅学習へ入っていた。
◆
「椿くんも他の子達みたいに学校休まなくていいの?」
「それもアリだけど、ずっと1人で勉強するのも何だか気が滅入るからな。学校が終わってからの時間と土日を使って勉強時間は確保してるよ」
「そうなんだ、みんな大変そうだね……。ところで、合格祈願のお守りは?」
終夜のランドセルにストラップ類がなにもついていないのを見ながら、神社の娘らしく夕夏はそう尋ねた。
「俺は持ってないな。別にそう言ったご利益を否定しているんじゃなくて、単に必要ないかなって思って」
「えー! ぜったいにあったほうがいいと思うよ。この時期なんだし」
神社に関わる話になると思わず熱が入る。
「……そうか?」
「うん。うち、合格祈願や願望成就のお守りも授与してるから、良かったらまた時間がある時にでも寄ってみて」
終夜はしばらく考え込んだあとに「分かった」と一言つぶやいた。
その後会話が途切れたまま2人は真っ直ぐに道を進む。
東急東横線にかかる踏切を渡りその先にどこまでも伸びている目黒線に沿って歩き続ける。
1月中旬の東京。
もう既に日没時刻を30分以上過ぎている。
闇がそっと忍び寄り、それまで夕暮れの空に弱々しく光っていた月や星々が夜の主役としての顔を見せ始める頃合いだ。
太陽の光が届かなくなり氷のように冷やされた外気が急激に体温を奪う。
歩く時の振動で崩れかけていたマフラーの形を夕夏は両手を使ってそっと整え直し隙間を塞ぐ。
手袋ごしに両手を擦り合わせたあと体を小さく抱いて寒さを凌ぐ。
その隣を終夜がコートのポケットに手を入れながら寒さに顔を歪める事もなく平然とした様子で歩く。
終夜のほうをチラッと夕夏は見た。
相変わらず冷めた目だなぁと心の中で思う。
まるで真冬の空と同化しているようだ。
でもそれに惹かれる女子もいる。
私はどうなんだろう……。
そんな事を考えていたら、ふと目線が重なった。
盗み見るように見つめていたせいか、急に気まずくなり思わず目が泳いでしまう。
何か言って取り繕おうとするも先に終夜が口を開いた。
「綾瀬のご先祖に陰陽師をしてた人がいるんだっけ」
「え? ああ、うん。もう何百年も昔だけど、江戸時代の初めぐらいに活躍した人がいるって聞いた事がある」
「綾瀬はその人について詳しい?」
そう聞かれた夕夏は奇妙な顔をした。
どうして、そんな事を――?
「ええと、詳しくはないけど……。それがどうかしたの?」
「例えばそのご先祖さまが絵巻物を製作してたみたいな話、聞いた事ないか?」
「絵巻物? それって社会の資料集とかに載ってる長い絵の巻物みたいなやつのこと?」
「そうだな。まぁ絵巻物は、定義的には物語をストーリー仕立ての絵と
夕夏はポカンとした。
何を言っているんだろう、椿くんは。
質問の意図をおいておくとして、そんなものをご先祖様が作っていたなどと言う話は聞いた事がない。
「ううん、少なくとも私はそんな話、聞いたことないな。あ、でもうちのお母さんなら何か知ってるかも」
出し抜けに母に言及する。
すると終夜の表情がどことなく固いものに変化した。
そして「いや、やっぱり何でもない」と一方的にその話を終わらせてくる。
どうしたのかと夕夏が反応に困っていると、終夜にしては珍しく気遣いをみせるようにしながら、あからさまに別の話題を切り出した。
「もしさ、川森の家にあんなやさしいのじゃなくて、もっと凄いのが棲みついてたらどうするつもりだったんだ?」
少し間を置いて夕夏が答える。
「その場合は……一応うちの神社の砂を持って行ってたから、最悪それでどうにかするつもりだった。それでも無理ならもう私では手の施しようがないから、その時はお母さんとか別の大人の人に頼ることになってたと思う」
「そうか。神社の砂って強いんだっけ」
「うん。神社は神様の住む場所だから、そこにある砂は全て神様の所有する物。その砂の1粒1粒に神様の力が宿ってる。それに対してきちんとうちの神主さんが祈祷を済ませた物を用意したからとても強い浄めの力があるの」
ちょっとだけ誇らしそうに夕夏はそう語った。
「大きな神社だと確か普通の人でも『清め砂』買えるんだっけ。1つあれば、いざと言うときに役立ちそうだな」
「そうだね。うちにもそれを求めてやって来る人が時々いるみたい。あとできれば買うじゃなくて授かるとか受けるとか言ってくれたら嬉しいかな」
痛いところを指摘された終夜が苦笑する。
「あぁ、そうだったな悪い」
「でも神様の力をお借りしなくても、ある程度はもう自分だけの力でどうにかできるって私は思ってるの」
それを聞いた終夜はしばらく黙り込み、その後「さっき川森のお姉さんの部屋で綾瀬が持ってた赤いやつ、もしかして中に櫛が入ってる?」と尋ねてきた。
「そうだよ! よく分かったね」
終夜の慧眼に感心しながら、夕夏はそれをポケットから取り出した。
「これね、幼稚園ぐらいの時からずっと使ってるの。櫛だけじゃなくてこの赤いうさぎのケースもお気に入り。赤は神聖な色である一方魔性の色でもあって2つの面から力を引き出してくれる。それにうさぎは月見神社がお祀りする神様のお遣いで、それを見てると心強い気分になれるの」
「なるほど。ちょっと見てみてもいいか……?」
そう言われ夕夏はちょっと戸惑ったが、純粋に興味をもってくれているのはそんなに悪い気もしないのでケースごと終夜に櫛を手渡した。
黒い手袋を両手から外した終夜が慎重にそれを受け取り手のひらの上に乗せる。
「中見ても?」
「うん」
そのままじっと眺めたあと2つ折りのケースを開け、中に仕舞われてある艶のある亜麻色のつげ櫛を引っ張り出す。
そして美しく湾曲した背と胴の部分を2本の指でつまんで、櫛全体を終夜が観察する。
興味深そうな眼差しをしていた。
「歯がすり減ってるし色も部分によって違う。新品の物とかと違って、なんと言うか味がある。月日の積み重なりを感じる」
そう詳しく櫛の状態を口で説明された夕夏は、途端に
これはいわば自分の体の一部のようなもの。
それをケースから出して細部までまじまじと見られるなんて、よく考えればとんでもない事ではないか。
何をやってるんだろう私――。
今更襲ってきた後悔に夕夏は終夜のコートの袖をギュッとつかんだ。
不安そうに潤む瞳にその意味を理解したのか、終夜は慌てたように櫛を元通りに仕舞って夕夏に返した。
それを受け取った夕夏は顔を俯かせながら両手で握りしめた。
それからしばらくしてポツリと呟く。
「うちの人ってね、みんな髪長いの」
夕夏の横顔を終夜が見つめる。
「長ければ長い分だけ、強い霊力が宿るから。お母さんもお姉ちゃんも親戚の人もみんなそう」
「じゃあ、お兄さんも?」
それを聞いた夕夏は少し顔をあげて、おかしそうに笑う。
「ううん、男の人は違うよ。第一お兄ちゃんにはこの世界に居られるだけの力はないから。でも、長く伸ばしてた人も中にはいたみたい。昔の写真とか絵で見たことがある」
気づけばそれなりの距離を歩いていた。
あと100メートルもすればお別れだ。
それまでお互い静かに歩き続ける。
だが、別れ道が近づいてきたところで何の脈絡もなく終夜がこんな事を言ってきた。
「綾瀬はすごいな」
「え?」
驚いた夕夏は終夜の方を振り向く。
「いつだって堂々としてる」
その後すぐに住宅街に面するT字路を左に曲がった終夜は「じゃあな」とだけ言葉を残して去って行った。
後ろから通行人や自転車が来るのに構わず立ち止まったまま、しばらく夕夏は段々と小さくなりゆく彼の後ろ姿を眺めていた。
6
「それでね、最後はアロマの香りも喜んでくれて全部無事に終わったの」
その日の夜、他の家族たちが寝静まるのを見計らって、夕夏は優也の家での出来事を包み隠さず母に話した。
これまでにも1人で除霊に挑むことはあったが、その裏では毎回母からの適切なアドバイスがあった。
初めから最後まで自分の判断だけで事を終えたのはこれが初めてだ。
だからこれは事後承諾に他ならない。
家に帰ってからは浮き足立つ気分だった。
「なに勝手な事をしてるの!」と怒られるかなと不安にも思った。
しかし思い切って打ち明けてみたところ、意外なほどの好感触を母からは得られた。
「それで“お給料”としてその1000円を貰った訳ね」
ダイニンテーブルの上に置かれた1枚の千円札を見ながら、夕夏の向かい側に座る母がそう言った。
「別にお給料なんて大袈裟なものじゃないよ。でも、それだけ喜んで貰えたってことなんだと思ったら嬉しい気もするかな」
「ふふ、決して大袈裟な事なんかじゃないのよ。霊能力者だって普通の人たちと同じ。結局は人の役に立つを事をして、その分だけお金を頂いてそれを元に生活を立てていくの。だから夕夏のしたことは立派な仕事に違いないのよ」
この世界の第一線で活躍する母からそう言われると『そうなんだ』と腑に落ちると共に誇らしい気持ちになった。
だがそれと同時に、どこか複雑な思いもする。
それは夕夏が『お金』に対して肯定的なイメージだけではなく、否定的なイメージも少なからず抱いているからだ――。
母やそれに付き従うお弟子さん達に連れられて、時々夕夏は実際の仕事の現場へ足を運ぶ事がある。
本来ならまだ分別もつかないような子供がそのような場所へ立ち入る事はできないが、綾瀬詩織の娘と言う特別な立場により勉強や修練という名のもと、異例としてそれが認められていた。
そう言う時の母は神社の宮司としてではなく1人の霊能力者としての顔を見せる。
除霊や霊視の手順、作法、相談者への接し方など夕夏はそこで多くの事を学んだが、その中でも時折目の前で行われる金銭のやり取りは妙に生々しく強い印象を持って心に残っていた。
畳や机越しにそっと差し出される、高く積まれた札束――。
◆
数多く存在する霊能力者達から匙を投げられ、最終的に詩織のところにまでたどり着くような人物の中には、稀にその辺の善良な市民とはかけ離れた素性を隠し持つ者がいる。
霊現象に悩まされる時、大抵は本人になにかしらの原因がある。
禁足地に足を踏み入れていたり、由緒のある建造物や樹木を無闇やたらに傷つけていたり。
それが詩織の顧客ともなれば更に根深い、表に出すのを躊躇われるであろう事情を抱えているケースが存在する。
詩織の元を訪れる実力者――つまり人々の上に立つような人間は、多かれ少なかれこれまでに周囲のライバルを蹴落としたり障害物を排除したりして今の地位を確立してきた過去がある。
その手段が残忍性のあるものであればあるほどその報いとして己に降りかかってくる災難の度合いは大きくなるし、その手段は最悪の場合非合法的なものとなる。
酷い霊障に悩まされる相談者の背景を探ってみたところ、過去に犯罪行為に手を染めそれが仇となりその犠牲者から強烈な呪いをかけられていたなどと言った事実が判明する事もある。
そんな業の深い人間は霊障の解決にあたり、霊能力者に相談したという実績が作られることを嫌がる。
もし第三者に相談の事実が知られ、そうなるに至った経緯などを追求されでもすれば、自身のこれまでの行いが明るみとなり身を滅ぼしかねないからだ。
代価の支払いにおいても、そのような場合それを大っぴらに銀行の口座を通して支払うなんて真似はしない。
顧客が脛に傷を持つ身であるほど、その決済手段は古典的なものとなる傾向にある。
もちろん正当な取り引きの決済方法が偶然現金の手渡しであっただけなどのケースがほとんどだが、時々隠すように差し出される現金の山からは言いようのない負のオーラが放たれる。
法治国家に住む限りそのような訳ありの帳簿にのらない現金を表舞台で素知らぬ顔をして使用する訳にはいかない。
会計処理を行わない裏金は法に抵触するのだ。
◆
そう言った現金は奈良の月見大社へ密かに輸送され、同社がいつかの未来の変局の為に備えてある埋蔵金の一部として眠らされるのだと夕夏は聞いたことがあった。
お金は有り難いものであると同時に危ういものでもある。
そして霊能力者と言う仕事も決して綺麗なものではない。
時には不条理と向き合う覚悟が必要となる。
それを理解した上でようやく自らの手でお金を稼ぐ。
もしかしたらそれが母の考える一人前になるための条件なのかもしれない――。
図らずもこの日プロとしての小さな第一歩を夕夏は踏み出した。
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