第6章 血肉

14




 時刻は午前1時。

 深夜帯にもなると幾らすぐ近くに幹線道路が敷かれているとは言え、人通りはごく僅かだ。

 今、街は静かな眠りの底にある。


 そんな闇夜に紛れ、有希は祖母の家の庭にそっと自転車を停めた。

 自転車から降りると、前カゴから白いトートバッグを取り出す。

 中の重みを確かめるようにゆっくりバッグを持ち上げ、長い持ち手を肩に掛ける。

 有希の動きに合わせてカサカサと乾いた音がバッグの中から響く。


 そしてジーンズのポケットからペン型のミニライトと家の鍵を引っ張り出すとライトの灯りを頼りに玄関口へ向かった。


 多年草の雑草をスニーカーの底で踏みながら庭を抜け玄関の前に到着する。

 左手に持った鍵で召し合わせ錠を開錠し、引き違い戸を開ける。

 どこか古臭いガラガラと言った音が鳴る。


 その奥には、見る者を誘い込むような深い闇が広がっているのが分かる。


 祖母と再会を果たして1週間。

 家族の目を盗んで、有希は連日のように祖母の家を訪れていた。


 塾やダンスの習い事がある日はそれらが終わり家族が寝静まるのを見計らって、それらがない日には友達と遊ぶと言う虚偽の口実のもと家を抜け出していた。


 祖母が幽霊となって今も生きている事や、祖母を成仏させる為にいつも食べ物を与えている事は周りの大人には知られない方がいい――そんな気がしていた。

 だからまだ誰にもこの事は言っていない。


 祖母の家の鍵は父が管理しているが、下駄箱近くの壁に設置されてあるキーフックにいつもそれを不用心に吊るしているので、持ち出すぐらい何て事はない。


 祖母に与える食べ物は近くのコンビニやスーパーで買ったり、家に買い溜められているお菓子類を持って行ったりして準備をする。


 初めてどら焼きを口にした時に驚くほど美味しそうにそれを祖母が食べていた事もあり、祖母にあげる食べ物はお菓子の類がベストなんだと有希は思い込んでいた。


 土間で靴を脱ぎ、冷たい床に足を着ける。

 ライトの光で廊下を奥まで照らし、視界を確保する。


 祖母の逝去に伴ってこの家の電気は、水道やガスなどと共に解約したと有希は父から聞いていたが、完全に電気の供給が止まるまでには猶予があるらしく、まだ家の中の電気を点けようと思えば点けられた。

 しかしそんな事をすれば無駄に近所の目を引いてしまう為、小さなライトの灯りだけで有希は我慢した。


 廊下を1歩1歩慎重に進む。

 聞こえて来るのは自分の足音と古びた床の軋む音だけ――。


 他にこの家に誰かがいるような気配なんて全く感じられない。

 だけれど、有希には分かっている。


 この廊下を進み左手の部屋に入れば、そこに祖母は立っているのだ。


 祖母が死んだ場所。


 蘇った場所。


 天国に繋がる場所。


 この世にたった1つだけの特別な空間――。


 居間の引き戸は開けられたままだ。

 慣れた動作でスッと有希はその中へ入る。

 ささくれた畳がチクチクと足の裏を刺激した。


 有希がライトを向けた先には、やはりいつもと同じように白装束を着た祖母が佇んでいた。


 生気を感じられない白い顔、乱れた長い黒髪に折れそうなほど痩せ細った体。


 だが有希の肩に下げられているトートバッグを見た途端、祖母の口角が鋭く吊り上がるのが分かった。


 嬉しいのだ。

 この瞬間を心待ちにしていろのだ。


 祖母の気持ちが有希にはよく分かる。

 だから優しく微笑む。


「おばあちゃん、今日も沢山食べ物持ってきたよ。でも袋ごと食べてしまうのはやめた方がいいと思うの。私が今から開けるからちよっと待っててね」


 そう言い畳の上に座り込む。

 そして自分の側にライトを置くとバッグを肩から外す。


 それを逆さまにして、中に詰め込んでいたお菓子をばら撒く。

 そうやって畳の上に積み重なったお菓子のうち1番上にあるものを手に取ると、有希はそれを開封した。


 ファミリーパックのソフトケーキのお菓子。

 9個入りでその1つ1つが個包装されている。

 その包装袋を丁寧に有希は剥いでゆく。


 その時だ――。


 突然有希の目の前に祖母の青白い手が伸びてきたかと思うと、有希が開けているのとは別のお菓子の袋を乱暴に掴み取った。


 ポテトチップスの大袋。

 それを両手で握りしめると、獲物を飲み込む蛇のように大きく口を開け、そのまま勢いよく齧りついた。


 その瞬間、室内に破裂音が鳴り響く。

 砕けたポテトチップスが空中へ飛び出し、畳の上に散乱する。


「うわっ! びっくりした。もう、そんなに急いで食べなくても大丈夫なのに」


 袋の中に顔を突っ込みバリバリとポテトチップスを噛み砕いた後、祖母は四つん這いになって畳の上を走り回りながら、辺りに飛び散ったポテトチップスのカケラを舌先を使い雑に口内へ収めてゆく。


 それはさながら飢えに苦しむ亡者のようだった。


(やっぱり、まだまだ足りないんだ……)


 そう思いながら有希は取り出したばかりのケーキを目の前に並べる。

 カスタードクリームの甘い匂いが鼻をくすぐる。


 するとその匂いに気付いたのか、祖母が動きを止め顔をその方へ向ける。

 白装束を引きずらせながら、四つん這いのまま素早く近づいて来る。


 そして十分に近づいたところでまた体を止めると、両腕を伸ばしてそれぞれの手でケーキを握り締めた。

 握力が強すぎるのか、ケーキが歪に潰れ指と指の間からその生地が溢れ出している。


 だがそんな事に構わず、祖母はケーキをむさぼった。


 ケーキを次々と口の中に入れてはまた新し物へ手を伸ばし、あっという間に全てを平らげた。


 それが終わった後、祖母がジーと有希の目を見つめる。

 もっとくれ――そう言っているのが有希には分かった。


「大丈夫だよ、まだ半分残ってるからね」


 まだスナック菓子とチョコレート菓子、それもファミリーパックの物が2袋残っている。

 だが開封しようとそのうちの1つを手に掛けようとたところ、それを無理矢理祖母が奪い取った。


 それを呑み込もうと、祖母の顎が上下に開いた。

 10センチ……20センチ……それはもう信じられない程の可動域だ。


 しかし、そんな祖母の様子を有希は冷静な目で見つめる。


 祖母が幽霊と化している事は百も承知。

 現実にはあり得ないような事を祖母がしでかそうとも、この世の者ではない祖母にとってはそれが『当たり前』なのだ。

 だからその一挙一動に驚く必要はない。


 祖母の上顎と下顎の間に広がる漆黒の空間。

 そこにお菓子の袋が吸い込まれてゆく。

 口内に袋の側面が触れ、パリパリと音を立てる。


 お菓子の袋が口の中から消えたかと思うと、その次に喉元が異様に膨らんだ。


 その膨らみは上から下へと喉を下ってゆき、仕舞いには腹に辿り着く。

 最後の1袋に目を遣った祖母は、それも同様の方法で胃に収めた。


「あれ、もう全部食べちゃったの」


 祖母の食事は早い。

 もうこれ以上ここに留まっていても、する事がない。


「じゃあ今日は帰ろうかな……でもまたすぐに来るからね」


 そう言うと有希はお菓子の空袋をトートバッグに詰めライトを拾い上げ、帰り支度をする。

 

「よいしょ」


 そうやって有希がゆっくり立ち上がった直後だった。


 部屋の奥の方の隅で何かがカサ……カサ……と小さく動いた。

 反射的にライトの灯をその方へ向ける。

 すると楕円形で黒光りする虫のような物が、糸のように細いを足を何本も動かしながらそこを這っていた。


(ん……!?)


 有希はギョッとした。

 あのフォルムに色や動き、ゴキブリではないか。


 こんなに寒くても居るもんなんだ――。


 もしかしたら日中は暖かい所に潜んで越冬しているのかもしれない。

 しかしやはりこの気温の低さの寒さの為か、動きは鈍い。


 壊れかけのおもちゃのように発進と停止を小刻みに繰り返しており、それが却って気持ち悪い。


(うわ、見なかった事にして帰ろ……)


 そう思い有希が後ろを向こうとした時、祖母の目が怪しく光りゴキブリを睨みつけた。


 普段食べ物にしか興味を示さないはずの祖母が、そのゴキブリに何やら強い関心を寄せている。

 極めた嫌な予感が有希を襲う。


 まさか。いやそんな、あれはただの虫――。


 だが予感は的中した。

 驚くほどの機敏さをもって、祖母はそのゴキブリに飛び付いたのだ。

 獲物に飛び掛かる肉食動物よろしく体を前方に跳ね上がらせ、そのままの勢いでゴキブリに口を急接近させる。


 次の瞬間には、祖母の口の中にゴキブリが消えていた。

 その後粘り気のある嫌な咀嚼音が発せられ、有希の鼓膜を微かに震わせる。


 さすがの有希もこの事態には唖然とする。

 人に近い形をした者がゴキブリを食べる光景は、本能的な嫌悪感を刺激する。


 素早く食事を終えた祖母は再び有希の方へ向き直ると、いかにも満足したように「はぁー」と長い溜息を吐いた。

 冷たい室内の空気の中、その吐息が湯気となって口元から立ち昇る。


 死人のように青白い祖母の顔には、相変わらず口角だけが吊り上がった不自然な笑みが張り付いている。

 だがそこに有希は“祖母の感喜”を見た気がした――。




 15




 2月も残り僅かとなった平日の夜。

 いつものように有希は食料を持って祖母の家を訪れていた。


 以前はお菓子を中心に食べ物を揃えていたが、最近は趣向を変え他の物も持って行くようになった。

 

 別にお菓子に拘る必要はないのでは――不意にそう思い、1度家の冷蔵庫の中から夕飯のおかずの残りであったピーマンの肉詰めをラップに包み持参して祖母に与えてみたところ、普段と何ら変わりなく美味しそうに食べていた。


 それからというもの野菜、果物、穀物、生肉や加工肉など様々な種類の食べ物をこっそり家から持ち出したり、おにぎりや惣菜パンなどをコンビニで買って行ったりしては祖母の口へ運んだ。


 そのどれをも祖母は旺盛な食欲で瞬く間に消化していく。


 そしていつやらか、与える食料毎にそれを食した時の祖母の感情に変化がある事に気付いた。


 例えば食感の軽いスナック菓子1袋よりも、より食べ応えのあるソーセージ1本の方が食べ終えた後どこか満足気な顔をしているのだ。

 

 幽霊になった祖母にも食の好みがある――有希はそう確信した。


 その後実験的にいろいろな食べ物を食べさせる中で、特に肉類を好む事を発見した。


 それも新鮮であれば新鮮であるほどいいし、調理済みの物よりもその前の物の方が好ましい。

 それを踏まえれば現状、生肉がベストと言えた。


 好みに合った物を食べた時の祖母は決まって心底嬉しそうに『吐息』を漏らす。


 いつしか有希は、より祖母が満足する食べ物を探求する事に執心するようになっていた。


 もしかしたら生肉よりもずっと美味しい『何か』がまたこの世のどこかに眠っているのかもしれない。

 それを好きなだけ食べさせて、早く成仏させてあげたい。

 有希の最大の願い事だ。


 ◆


 最早愛用品にも近くなったペンライトを片手に、足元を照らしながら廊下を進む。

 肩に提げられたトートバッグの持ち手が肩に食い込む。


 重い。

 それはそうだ。


 今日はカボチャが1つとジャガイモが1袋、それにソーセージが2本入っているのだ。

 お菓子だけを入れていた以前とは違い、そんなに軽々とは扱えない。


 野菜類は、行きにある24時間営業のスーパーで購入した。

 その時にこんな夜遅くに子供が1人で店内をうろうろしていれば、不審に思われ最悪警察にでも通報されるのではと内心ヒヤヒヤしたが、店員達はダルそうに品出しやレジ打ち作業にあたるだけで客には無関心なのか、特に声を掛けられる事もなかった。


 ソーセージは自宅の冷蔵庫から抜き出した物だ。

 全部で6本のストックがあったうちの2本。

 そのぐらいであれば、無くなった事を両親に問い詰められたとしても夜食として食べた程度の言い訳で押し通せる。


 少し歩いたところで左に曲がる。

 この動きを体が覚えている。

 もう目をつぶっていても、同じ動作を何ら支障なくこなせるかもしれない。


 靴下越しに伝わる足の裏の感触が変化したところで有希は立ち止まった。

 初めの頃はスリッパを履いて廊下を歩いていたが、どうせすぐに居間に入るのだからと着脱が煩わしくなりそれをすぐに辞めた。


 下に向けられたライトの灯りが、祖母の裸足の足と白装束の裾を照らし出す。

 そのままゆっくりとライトを上げる。

 だがライトの細長い胴体が床と平行になっても、まだ祖母のお腹の少し上辺りまでしかその灯りは届いていない。


 そしてライトの持ち手を角度をつけて上げる事で、ようやく祖母の顔が暗闇に浮かび上がった。


「おばあちゃん、また大きくなったね」


 154センチある有希よりも、更に頭2つ分ほど祖母の身長は高かった。

 初めて会った時はこんな風ではなかった。

 それは確かだ。

 祖母に抱きついた際にほとんど目線が同じ高さであった事を有希は覚えていた。

 それが今や見上げない限り碌に目を合わす事もできない。


 短期間の間に祖母の体は急成長を遂げていた。


 身長が伸びただけではない。

 着物を押し上げるように大きく腹が膨らみ、手足には太い筋肉が纏わり付き、最早枯れ枝などではなく瑞々しい大木の幹のような風情だ。

 手足の先端では長く伸びた爪が周囲の光を反射して鋭く光っている。

 頭部を広く覆っていた長髪はまばらに抜け落ちその下の地肌が顔を覗かせている。


 肉肉しい――まさにそんな形容がぴったりだった。

 そんな祖母の様子に、有希は『生き生きとしている』と好印象を抱いていた。


 以前はすぐにでも消えて無くなりそうな死人然としていた祖母が、日増しに現実的な存在感を増してゆく。

 それが有希には喜ばしい。

 成仏に近づいていっているのに違いない。


「今日も食べ物持って来たよー」

 

 トートバッグを有希は肩から外す。


「本当はもっとお肉があればいいんだけどね……」


 小学生の有希にとって生肉を手に入れるハードルは思った以上に高い。


 まず高価でスーパーの値引品を買ったとしても、なかなかお財布に痛い。

 毎月2000円のお小遣いとそれを使い切れずに貯めたお金が幾らかあるものの、肉のような値の張る物を高頻度で買っていればあっという間にそれも無くなる。


 自宅の冷蔵庫から持ち出そうにも、肉は父と母の好物であるから不自然に減っていればすぐに気付かれる。

 お腹が空いたからおやつに食べたと言う言い訳も、肉のような贅沢品に限っては通用しない。

 そんな勿体無い事はするなと、怒られるのが目に見えている。


 が最近の有希の大きな悩みとなっていた。


 白いトートバッグを畳の上に下ろし、両手を使って中からカボチャを取り出す。

 

「はい」


 そう言ってカボチャを祖母へ差し出すと、祖母はその場で大きく口を開けた。

 人間の頭部をも飲み込めそうな程の大口だ。


 ここへ食べ物を入れろと言っているのだと有希は理解する。

 しかし……。


「おばあちゃん、背が高すぎて私じゃ手が届かないよ……」


 比較的高身長の父と比較してみても、祖母の身長は更に幾分か高いように思えた。

 2メートル近くに達しているのではないだろうか。

 とてもじゃないが、口にまで食べ物を持っていけない。


 困り顔で立ち尽くす有希に痺れを切らしたのか、祖母はカッと目を見開くと爪をフォークのようにしてカボチャへ突き刺す。

 そしてカボチャを力強く奪い取り口内へ運んだ。


 バキッ、バキッ、グチャ、グチャ……暗い室内に咀嚼音が鳴り響く。


 そんな事を気にする素ぶりも見せず、有希はその間におにぎりとソーセージを取り出す。

 おにぎりは包装袋で包まれる市販品で、ソーセージも同様にビニールで覆われている。


 それらを開封しようとする。

 すると祖母が手のひらを有希に差し向けて来た。


「まだダメだよ。今、開けるから」


 有希は開封作業を続けようとするも、それを眺める祖母から無言の圧力を感じた。


 そんなに待ちきれないのか……仕方ないなぁ。


 祖母が望むならそれもいいかと、袋を被ったままのおにぎりとソーセージ、それに残りの全ての物を手のひらの上に乗せてやった。

 それをたった一口で祖母は食べ切る。


 先程持って来たばかりの食料がたちまち無くなった。

 毎日のように繰り返される単純作業だ。


「おばあちゃん、どんどん食べるのが早くなっていくね」


 おばあちゃんと会話が出来たらもっと長くここに居られるんだけどな、と思いながら有希は帰る準備を始めた。


 その時だった。


 居間の窓越し、薄いレースのカーテンの奥に何かが白くひらめいているのが見えた。


(ん? なんだろう、アレ)


 有希は動きを止めてそれに目を凝らす。

 忙しなく上下に動く2枚の白い羽。

 蝶々……いや蛾だ。


 もしかして――フユシャク?


 有希はそう思い至った。

 昔、昆虫図鑑で見た事があるのだ。


 冬の虫の項に掲載されていた白い蛾『フユシャク』

 多くの虫が姿を消す冬季に活動する稀有な種。


 ライトの灯りに誘われたのか、居間の窓ガラスのすぐ近くをフユシャクが飛んでいた。


 蝶々は綺麗で好き。

 でも、蛾はそうでもない。

 太い胴体や目玉のような羽の模様が薄気味悪いから。

 だけれど遠くから見る分にはフユシャクは美しい。


 しばらくフユシャクの様子を有希が眺めていたところ、祖母もそれに気付いたのかゆっくりと窓際に近づいていった。


 それをきっかけに、有希の頭の中にが蘇ってきた。

 それと共に、ある閃きを感じる。


 気づけば体が勝手に動いていた。

 居間の窓を開けレースのカーテンを捲る。


 障害物を取り除かれた事で、フユシャクが勢いよく部屋の中へ飛び込んで来る。

 パタパタと室内を舞った後に、有希が手に持っているライトの方へ向かう。

 だがそこへ到着する前に、筋肉で角張った祖母の手がフユシャクの体を力強く掴み取った。


 そして――。


 グチャ。


 その後、祖母は満足そうに息を吐く。

 


 そんな祖母の様子を、何かを考え込むような真剣な面持ちで有希は眺めていた。




 16


 


 月が変わり3月2日土曜日の事。

 その日は学校が休みで、朝からのんびりと有希はリビングルームで寛いでいた。

 夕方から習い事のダンスに行かなければならないが、それまでにはまだ時間の余裕がある。


 以前は学校が終わった後や休みの日などにはよく友達と遊んでいたが、最近はそれもめっきり減った。

 自分から遊びに誘わなくなったし、誰かに誘われても何かと理由をつけて断る事が多い。


 今は友達との遊びよりも、もっと大切な事があるのだから。


「お母さん、私暇だから図書館にでも行って来る」


 リビングの床に掃除機をかけている母にそう言う。

 父は休日出勤で不在だ。


 掃除機を動かす手を止めた母が「そうなの。お昼は?」と聞いてきた。


 ソファに座りながら有希は室内に掛けられた時計に目を遣る。

 時刻は9時58分。


「うーんお昼過ぎるかもしれないから、その時はマ○クでも寄って食べてくる」


「わかった。じゃあ気をつけて行くのよ。卒業式もあと少しなんだから事故をしないようにね」


「うん、分かってる」


 その後自分の部屋に戻り、有希は出かける準備を始める。

 図書館に行ってくると言うのは、もちろん方便だ。

 目的地は1つしかない。

 せっかくの休みなんだから時間を有効活用しなくてはならない。

 まずは食料品の買い出しだ――。


 防寒着を着て外出用のショルダーバッグとそれからいつもの白いトートバッグを手に持つ。

 そのまま玄関へ向かいキーフックから自分の家の鍵と自転車の鍵、そして祖母の家の鍵を外して上着のポケットの中に仕舞う。


 これまでの経験上、母が祖母の家の鍵に関心を向ける事はない。

 祖母の家に出向く時などにそれを持ち出すのは、長い間父の役目となっていたからだ。

 だからいつもの場所からそれが無くなっていたとしても、恐らくすぐには気付かない。

 父も仕事で当分帰って来ないだろうし、こっそり持ち出すには好都合だ。


 忘れ物がない事を確認し、「行ってきまーす」と家を出た。


 ◆


 まだ開店して間もないスーパーの店内に入った有希は真っ直ぐに食品売り場へ向かう。

 そして少しウロウロした後に目的の品を見つけ買い物カゴへ入れる。


 野菜ジュースが1パックに、サラダ油が1本。

 それぞれ1000グラムと1500グラム入りで、売られている中では最大サイズの物。


 客の少ないレジで速やかに会計を終えスーパーを出る。


 それから次にペットショップへ向かった。

 まだ小さかった頃にペットのハムスターを買って以来の馴染みの店だ。

 そのハムスターがまだ生きていた頃は、ひまわりの種やおがくず等の飼育用品を購入する目的で、死んだ後からも他のペット達を眺める目的で時々訪れていた。


 ガラス張りの正面が特徴の、ペットショップとしてはやや規模の大きいロードサイド店。

 規模に比例して、ペットやそれに関連するグッズの取り揃えは豊富だ。


 店の敷地内に入ると、有希は自転車を駐輪場に停めた。

 その駐輪場は有料だが、500円以上の商品を購入した上でそのレシートを提示すれば最大2時間まで無料で利用する事ができた。


 スーパーで買ったばかりの飲食物を前カゴに入れたまま、有希は店の中へ入る。


 しばらく歩き『小動物・爬虫類コーナー』に向かう。


 ハムスター、ハリネズミそれに蛇やトカゲなど、そこでは様々な種類の生き物がショーケースに入れられ販売されている。


 そしてそのコーナーのメインから少し外れた辺りに有希の目的の物があった。

 それは生き餌――だ。


 昔からハムスター用品を見に来た時などに、それを目にしていた記憶があった。

 いつもはそれが視界に入るたびに心の中で、ウゲッと叫んでいたものだったが……。


 そこに近づいて行った有希は、ミルワームの入った透明のプラスチック容器を1つ手に取る。


 中のふすまを含め重量は軽い。

 しかしその中では何十匹もの生きたミルワーム達が、その長く伸びた体を盛んに蠢かせているのが分かった。


 彼らは体の下に敷き詰められた、おがくずにも似た粉末に群がっている。

 小麦の外皮を用いて作られた飼料『ふすま』だ。

 生き餌としての役目を果たす前にミルワームが力尽きてしまわないよう、その餌としてミルワームと一緒に容器へ封じられているのだ。


 プライスカードにチラッと目線を向けた後に、とりあえず2パック買って行こうと有希は思った。


 そうすれば駐輪代が無料となる基準の合計500円以上の買い物金額を超える事ができる。


 買い物を終えるとミルワームのパックが入ったビニール袋を手に提げながら、有希は自分の自転車まで歩いて行った。

 そして自転車に乗り、祖母の家まで一直線に向かう。


 ◆


 祖母の家に到着し自転車を庭に停めたところ、どこからか「ニャー」と猫の鳴き声が聞こえてきた。


「ん?」


 辺りを見渡すと庭の奥の方から雑草をかき分けながら一匹の白猫が姿を現した。


 それを見た有希の顔が綻ぶ。


「シロアン! 久しぶりだね」


 お隣の上谷さんが飼っている猫、シロアンだ。

 体質のせいなのか少し黄色味のかかった体毛が和菓子の白餡に似ている事から、そう名付けられたと聞いている。


 時々こうやって祖母の家にまで遊びに来るのだ。


 生前、祖母は庭先に顔を出したシロアンの頭を撫でたり、おやつをあげたりしてよく可愛がっていたらしい。

 時には旅行で家を留守にする上谷さんに代わり、シロアンを預かる事もあったとか。


 祖母が亡くなった事をシロアンは理解できていないに違いない。



 だからまた遊んでもらうと、お隣の家を抜け出してこんな寒い中やって来たのかもしれない。


 足元に近付いてきたシロアンを有希は抱き抱える。


「シロアン……もうおばあちゃんには会えないんだよ」


 そう言ってしばらくシロアンの背中を撫でた後、「今日は寒いからもう家にお帰り」と地面に放してやった。


 それから有希は祖母の家に上がる。

 今日はまだ明るいからライトも必要ない。

 買ったばかりの荷物を持ちながら、いつもの如く居間に足を運ぶ。


 有希の来訪を待ち構えていたかのように、そこに祖母が佇んでいる。


 その目がギロっと動く。

 最近常に口角が上がったままだ。

 その上、口も半開き状態で鋭い前歯が唇の間から顔を覗かせている。


 ニタニタと笑う祖母に、有希はトートバッグの中から取り出した野菜ジュースを見せた。


 野菜ジュースを持って来るのは初めてだったが、それを食せる物だとめざとく認識した祖母は2本の爪で紙パックの側面を突き刺した。


 そして素早い動きで、大きく開かれた口の中へそれを放り込んだ。


 有希はその時の祖母の表情をしっかりと観察した。


 そこまで嬉しそうじゃない――そう思った。

 

 次にサラダ油を同様の方法で摂取させてみる。

 だがこれも反応がイマイチであるような気がした。


 ならば、これはどうだろうか?


 白い半透明のビニール袋の中からミルワームの入った容器を、今日のメインディッシュと言わんばかりに勿体ぶったような動作で取り出す。


 その瞬間、祖母の目つきが変わるのが見て取れた。

 しゃがみ込みながら2つの容器の蓋を開け、その中身をそっと畳の上にばら撒く。


 独特の臭いが広がると共に、狭い容器の中から解放されたミルワーム達が一斉に方々へ這い出す。

 その総数は100匹を上回るかもしれない。


 その一匹一匹に強い関心を向けた後、祖母は捕食に移る。

 腰を低くして指先で摘もうとするが、長く伸びた爪がそれを邪魔するようでなかなか上手く摘めない。

 その途中、2本の爪がハサミのようにミルワームの胴体を真っ二つに切断し、切断面からジワッと体液が流れ出す。


 ミルワームの体液による染みが幾つも畳の上に出来たところで、とうとう痺れを切らしたのか祖母は這うような体勢になると直接ミルワームに口をつけて食べ始めた。


 一匹一匹を器用に口で吸い取って行く。

 ある程度口内にそれが貯まったところで咀嚼する。

 何度もその動作を繰り返す。

 そしてものの数分ほどであんなに居たミルワームを全て食べ終えた。


 祖母から発せられる満足そうな吐息。


 やっぱり、そうなんだ――。

 有希の心の中にあった疑問が確信に変わった瞬間だった。


 前から考えていたのだ。

 祖母の満足する食の基準は果たしてどこにあるのか。

 何を食べればより満足するのか。


 だから調べてみた。

 もしかしたら栄養価の高い食べ物がいいのか?

 そう思い、あらゆる栄養が詰まった野菜ジュースを与えてみた。

 だが違うような気がした。


 ならカロリーの高さが重要なのか?

 しかしカロリーの塊であるサラダ油を与えてみても、思ったような反応は得られない。


 そんな中ミルワームは――ビンゴだった。


 それから考えられる事。

 祖母が特に生肉を好むのは、それが食の生前の姿に近い形をしていて新鮮味があるからなのかもそれない。


 であれば、もっと新鮮な物が他にある。

 だ。

 それを最も祖母は望んでいるに違いない。


 有希は祖母を見上げる。

 目線の合った祖母が至福の笑みを浮かべているように思えた。


「おばあちゃん……そうだったんだね。またいろいろ持って来るね」

 

 そう約束を交わした後、居間を後にしようとする。

 だがその時、祖母の背後で何やら赤い光が放たれている事に有希は気付いた。

 

 なんだろう――?


 その背後を覗き込む。


 すると畳から天井にかけて1本の『赤い光の線』がスッと立っていた。


 有希は首を傾げる。

 直線状に伸びる細い光の筋――まるで可視化されたレーザー光線のようだ。

 それをしばらく見つめるも、それが一体何であるのか、何故そんなものが現れたのか、何を光源にそんな物が光っているのか何一つ理解できなかった。


 もしかしたら、これも祖母に関係する何かなのだろうか……。


 まぁいいや。

 私が気にしたところでどうしようもないだろうし。


 そう思いそれに背中を向け、有希は部屋から去って行った。


 廊下を歩いていると、外から可愛らしい猫の鳴き声が聞こえて来た。

 もしかしたらまだシロアンがその辺をうろついているのかもしれない――。


 ◆



 自転車のスタンドを足で上げハンドルを手で押しながら道に出ようとしたところ、不意に前方に誰かの気配を感じた。


 俯き加減だった顔を上げその方へ目線を向けた有希は目を見開いた。

 ただ通行人が理由も無くこっちを見ているものと思っていたのに、そこに居たのは見覚えのある男の子。


(……終夜くん?)


 家を出てすぐの幅の狭い歩道に、終夜がポツンと1人で立っていた。


 すぐ側を高速で通り過ぎて行く車に気を払う事もなく、黒いダウンコートのポケットに両手を突っ込みながら、ただじっとこちらを見ている。


「えっと終夜くん……どうしてここに?」


 戸惑いを覚えつつ有希はそう聞いてみる。

 まさかこんな場所でクラスメイトに遭遇するとは思っていなかった。


「散歩してたら偶然ここを通りかかった、とでも言っておくよ」


「散歩? こんな遠くまで?」


「まあな。ところで、少し前に桐谷のおばあさん亡くなったんだっけ。もしかしてここがその家?」


 『桐谷』と書かれた表札を遠くに見ながら、終夜がそう尋ねてきた。


 有希は眉を顰める。


 以前葬儀へ参列する為に何日か学校を休んでいるのだから、それをきっかけに祖母の死を彼が知っていたとしても不思議ではない。


 しかし、だからと言って気軽にその事に触れられるのは気持ちの良い物ではない。

 それに祖母の家に出入りしている所をあまり知り合いには見られたくない。

 秘密の行いをしているのだから、それはそうだ。


 ついつい刺々しい口調で答えてしまう。


「だったら? そんな事終夜くんには関係ないじゃん」


「かもな」


 有希は無愛想に「じゃあね」と言うと、その場から逃げるように自転車を押したまま外へ出た。


 だがその時、音もなくスッと終夜が近づいて来た。


「桐谷、1つだけ聞いてもいいか?」


 有希の進路を塞ぎながら、真剣な目でそう尋ねてくる。


「何をよ……」


「おばあさんの死因をだよ」


 有希は絶句する思いだった。

 一体何て事を聞いてくるんだろう。

 そんなデリケートな話題に無遠慮に触れないで欲しい。

 思わず強い反発心を覚える。


「なにそれ……。終夜くん? 悪いけど遊び半分でそんな事を聞くもんじゃないと思うよ。デリカシーに欠けるんじゃないかな、私にとっては辛い出来事だったんだよ」


「それは分かってる。でも聞きたいんだ」


「だからそんな事を――」


「いいから!」


 有希の言葉を遮って終夜が声を荒げる。

 周囲の騒音にも負けじと、怒鳴り声が道路に響き渡った。


 ここまで感情を露わにした終夜を見るのは初めてだ。

 有無を言わさない気迫に有希の体が固まる。


 それからしばらく無言の時が流れる。

 その異様な空気に耐えられず、有希は「窒息死……」とだけ言った。


 しかしそれで終夜は納得しなかった――。

 何の思惑があるのかは分からないが、その死因を更に深くまで追及してきた。


 その強引さに半ば顔を引き攣らせつつ、結局は根負けする形で祖母の死について知っている事を有希は語った。


 とは言っても全ては芳恵から聞いた事の受け売りだ。

 それを多少かいつまんで嫌悪感を滲ませながら終夜に説明する。


 一通りの話を聞き終えた終夜はコクっと頷き、「分かった。こんな事聞いて悪かったな」と謝罪の言葉を口にした。


 しかしそれには見向きもせず、有希はその場を去った。


 結局あれが何だったのかは分からない。

 ただむしゃくしゃとした感情だけが心に残った。




17




 翌日の朝、朝食にバタートーストを齧っていたところ、「今日おばあちゃん家行くけど、有希も一緒に来るか?」なんて事を何の脈絡もなく父が言ってきた。


 それを聞いた有希は食べかけのトーストを手から落としそうになる。

 突然の祖母の話に動揺が隠せなかった。


「ど、どうしていきなり?」


「どうしてって、そろそろ不用物とかを纏めてかないといけないからな。もう必要な処理も大体終わったし」


 その時、有希は気づいた。

 自分が知らないだけで、父や母、親戚の人達なんかは、祖母の霊が出現した以降も遺品類の確認などの為に幾度かあの家を訪れているはずだ。


 その間、祖母はどうしていたのだろうか――。


 嫌な予感がした。

 もしかしたら全ての事を両親は知っているんじゃないか。


 こっそり家から食料を持ち出している事や、それを幽霊に与えている事も皆お見通しでそれを咎めようと一緒に祖母の家に向かおうとしているのではないか。

 そんな疑念が頭をよぎる。


 だが有希の不安を打ち消すように、「おばあちゃんの家にはいろいろと思い出の品も眠っているでしょ。だから一緒に行ってそれを見たら有希も喜ぶかなって思ったのよ」と優しく母が言った。


 本当だろうか……?

 それだけの事ならまだ構わないが。


 その後「嫌なら無理はしなくてもいい」と言われたものの、どちらにせよ祖母の事が気がかりになった為、有希は両親について行く事にした。


 準備ができ次第出発すると告げられたので、両親が朝食を取っている間に有希は手早く出掛ける準備をした。


 それからしばらくして、自宅を出て父の運転する車に乗り込み祖母の家へ向かう。

 

 道の途中、有希は不安になった。


 幽霊である祖母の姿は、もしかしたら他の人には見えないのかもしれない。

 しかし最近の祖母は妙に生々しく、霊体どころか実体を前にしたかのような強い存在感をひしひしと感じる。


 最早『見えない』で済まされる段階をとっくに過ぎているような気がする。

 あれほど強烈な存在感を放つ祖母を前にして、その姿に全く気付かないなんて事あり得るのだろうか?


 万が一ありのままの祖母の姿を目にした時、父と母は一体どんな反応を――。


 日曜と言うこともあり、朝の時間帯でもやや道は混雑していた。

 10分ほどかけて祖母の家に到着する。


 祖母の家の外周りは住宅の裏面だけを塀で囲んだ形のセミオープン外構だ。

 正面側に障害物は無く、道路側からそのまま車を庭に乗り入れる事ができる。

 目的地に到着した父は家の敷地内に車体を侵入させた後、巧みにハンドルを切りながら庭の空きスペースに、車を後ろ向きで停止させた。


 車を降りた父と母が折り畳まれた段ボール箱を何枚も脇に抱えながら玄関へ向かう。

 不用品を1箇所に集めておく為の物だ。

 ある程度家の中が片付いたところで、1度にまとめて処分するらしい。


 有希もその後に続く。

 父が玄関の鍵を開けるのを有希は硬い表情で見つめた。


 ガチャと鍵が開く金属音が鳴りその後父が戸を横に開ける。

 家族3人で土間へ足を踏み入れた。


 それから靴を脱いで廊下の床板に上がった後、玄関のすぐ近くにある大広間へ行き荷物を置く。


 大広間の中に立った有希は向かって右側に目を遣る。

 そこには笹柄の描かれた白い4枚の襖が並んで建てられている。

 それを開ければ、隣の居間に通じるのだ。


「なんかさ油臭くない? 前はこんな事なかったよね?」

 

 不意にそんな事を母が言った。

 

「確かにおかしな匂いがするな。色んな匂いが混ざり合った感じというか」


 有希はドキッとする。

 自分が持ち込んだ食料品による匂いに思えてならなかった。


「ま、それは置いておこう。後で換気でもすればいいさ。えーと……確か居間の方は荷物は少なかったと思うけど、一応この機会に確認しておくか」


 さっそく作業に取り掛かろうとした父がそう言いながら、居間に繋がる襖の方へ歩み寄った。

 心の中で有希は悲鳴を上げる。

 襖の引手を引く父の手の動きが、まるでスローモーション映像のように見えた。


 襖の向こうには祖母が立っているのだ――。


 そして十分に襖が開いたところで、父がその向こうへ体を入れる。

 それに母も続いた。


 有希はもう気が狂いそうだった。


 居間の方から2人の話し声が聞こえてくる。


「テレビとテレビ台、それにテレビチューナー、後は卓袱台ぐらいか。さっぱりしてるな、小物類もほとんどないし」


「テレビ台の引き出しの中もあんまり物は入ってなさそうね」


「やっぱり問題は台所や寝室だな」


「お義母かあさん、食器集めが趣味だったんだよね。今日持って来た段ボールだけで足りるかな?」


「以前からもう使えなさそうなのが食器棚の中に大量に入ってたからなぁ……どうだか。とりあえずこの部屋は後回しで大丈夫だろう」


 あっと言う間に居間の中から両親が出て来る。

 その様子は至って平然としている。

 安堵と共に有希は疑問を覚えた。


(見えてないのかな?)


 その後もあれこれと意見を交わしている2人をよそに、有希は居間の中へ入ってみた。


「……え?」


 室内のどこにも祖母の姿が見当たらない。

 代わりにあの赤い光だけが部屋の中央に灯っている。

 それからキョロキョロと辺りを見渡すもやはり結果は同じだ。

 

 両親はともかく私にも見えないのはおかしい。

 もしかしたら、他の人の気配を感じたら一時的に姿を消せるんだろうか?


 そう不可解に思いつつも部屋を出ようとした時、何故か有希は無性に天井が気になった。


 そして上を向いたところ――そこに居た。


 手足を大きく広げ天井に張り付くようにして、侵入者の視界から祖母は姿を隠していたのだ。


 これには流石の有希もびっくりした。


 天井に伏せている為その表情は分からない。

 けれど今もあの笑みを浮かべているような気がした。


 ひとまず今は両親にさえ見つからなければそれでいいのだと、そっと居間を後にする。


 ◆


 4時間ほど連続で作業を続けたところで、その日はもう終わりとなった。


 台所の調理用品や食器類、箪笥の中の衣服類、本棚の本など荷物は相当の量だ。

 持って来た段ボールはあっという間に一杯になり、残りはその日以降何回かに分けて片付けるらしい。


 父に聞いた限り最終的にこの家は取り壊され更地となるようだ。

 それを有希は寂しく思った。


 物品の整理中に昔の写真アルバムを発見したりなど、それなりに楽しい出来事もあった。

 父や叔父の子供の頃の写真なんかは新鮮で、母と一緒にそれを微笑ましく眺めた。


 もう昼時を回っていた為、有希の希望で帰りはラーメン屋に立ち寄る事となった。

 大広間でしばし休憩を取る間、スマホを使って父が川崎市内のラーメン屋を調べる。


「あら、雪?」

 

 その時、母が不意にそう言った。

 父の隣からスマホの画面を覗き込んでいた有希は顔を上げ、母の目線の先を見た。

 開けられた襖を通して居間の窓の方を母は眺めている。


 レースのカーテンに遮られていてやや視界がぼやけているものの、確かにそこでは白い雪のような物がチラホラと舞っていた。


「うわぁ、ホントだ。もう3月なのに珍しいね」


「もしかしたら今年の終雪かもしれないな。この辺は毎年3月上旬ぐらいだった気がするから」


 同じく顔を上げた父がそう言った。


 スッと母が立ち上がる。

 思わぬ降雪を目に焼き付けようと思ったのかもしれない。

 そのまま居間に入り窓の方へ近づいて行く。

 有希もそれに興味を引かれ立ち上がると母の後に続いた。


 だがその直後、前を歩く母から「ぎゃああああああああああ」と凄まじい悲鳴が上がった。

 そして頭を抱えながらフラフラとした後、その場にうずくまった。


「お母さん!」


「絵美! どうした!?」


 父と共に大慌てで母の元へ駆け寄る。

 頭全体を両腕で覆ったまま下を俯いて母は動かない。


 母の肩を揺らしながら「なにがあったんだ!?」と父が聞く。


「頭……頭が……」


「頭がどうした?」


 しばらく母は黙り込んでいたが、その後ようやく口を開く。


「突然誰かの声が聞こえて来たの……凄い沢山の人の声が。それから頭の中が掻き回されるような変な感覚……眩暈の凄い酷いやつみたいなのが急に来て、気付いたら叫んでた」


 そう言う母の両目からはポロポロと涙が溢れていた。


「どう言う事だ……」


 全く状況が飲み込めないようで、父が呆然としたように呟く。


 その一方で、血の気が引いて体が冷たくなるような感覚を有希は感じていた。


 後ろから見ていたのだ。

 悲鳴が上がる直前、母の体があの赤い光の線を通過するのを――。


 震える手で有希はそれを指差す。


「あれ……あれにさっきお母さんの体が当たったの! それからお母さん、おかしくなった!」


 それを聞いた父が母の肩を抱つつ有希の指先を見た。


「あれって……何だよ」


「お父さん見えないの、ここに赤い光の線みたいなのがあるの!」


 しばらく父は目を細めながら有希の主張する場所を見つめていたが「そんなもの俺には見えない」とポツリ呟いた。


 母にも父にもこれが見えていないのか――。


「色の見え方には個人差があるからな。もしかしたら有希の目にだけ捉えられる色をした何かがそこにあるのかもしれない」


 そう言って手を宙に彷徨わせながら、父がその方へ近づいて行った。

 そして赤い光の線にその手が触れようとした時、反射的に有希は父の腕へ飛び付いた。


「だめ!」


 あれに触れてはいけない。

 あれには人を狂わす何かがあるのだ。


 有希の勘がそう告げていた。


「ねぇ、もう出よう」


 幾分か落ち着きを取り戻したようで母がそう言った。


「もう大丈夫なのか?」


「うん……さっきのがなんだったのかは良く分からないけど、とりあえずは」


 両親と共に畳から立ち上がった有希は居間を出た。

 その途中無意識に祖母は何をしているのだろうと天井に目を向けたが、そこに祖母の姿は無かった。


 ◆


 荷物を持ちながら土間で靴を履き外へ出る。

 母は先に1人で車へ向かい、父は玄関の戸を横にスライドさせて閉めようとしていた。


 その少し後ろに立つ有希は何気なく家の奥の方へ目を向ける。

 その時、巨大な白い何かが蜘蛛にも似た動きで猛スピードで廊下の天井を這って来るのを、戸が閉まるまでの一瞬の間に見た。


 え? 


 ガチャっと鍵の閉まる音が鳴る。


「どうした有希?」


「ううん、何でも――」


 そう答え、有希は父と共に車へ向かった。

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