第7章 有希の異変

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「自転車が無いとここまで来るの大変だね。駅降りてから結構歩いた気がする」


 そう言って一息つく有希に「そう言われてもなぁ。自転車だとクーラーボックスがカゴに入らないし、それにもし途中で転けて道具が壊れでもしたら大変だから」と優也は言葉を返す。


 2週間後に卒業式を控えた3月10の日曜日。

 釣りをする為、優也と有希の2人は多摩川へやって来ていた。


――ねぇ、優也って時々釣りをするんでしょ? 私にもやり方教えてよ! 魚釣ってみたいの。


 そんな事を言われたのはつい昨日、半日授業で学校へ出ていた際の事だ。


 優也の父親の趣味が釣りで、休日なんかにはそれに優也も付き合う事がある。


 この前はどこどこに行って、何々を釣った。

 そんな話を釣りから帰った後日、有希に話す事がありそれを覚えていたようだ。


 釣りとは無縁の生活を送っていたように思える有希の突然の誘いに少し驚く部分もあったが、同時に好奇心旺盛な有希らしいなとも思った。


 父のついでに過ぎないとは言え釣りは好きなので、それに興味を示されるのに悪い気はしない。

 だから快くそれを聞き入れた。


 その翌日、ちょうどお互いの都合が良い事が分かり、さっそく釣りへ出かける約束をする。


 それから当日の日曜日。

 少し早めの昼食を取り、川釣り用のタックルを父から借りた優也は有希を連れて、多摩川下流域のガス橋が掛かる辺りまで電車と徒歩で向かった。


 ◆


 しばらく足場の良い場所を探索し、ガス橋を川崎市側に少し下った川縁かわべりに陣取る。


 その後、初めて釣りに挑戦した時の事を思い出しながら、道具の扱い方やうまく釣るポイントなどを有希にレクチャーする。


 そして釣りを開始する準備が整ったところで、今聞いた事を参考に有希がたどたどしい手つきで竿を振って仕掛けを水面へ投げ入れた。


 すぐ手前でポチャッと音がする。


 仕掛けを少し先へ投げ込む『ちょい投げ釣り』だ。

 初級者向けの基本的な釣り方の1つと言える。


 しかし有希のような未経験者である場合、本当は港にでも行ってもっとやり易い方法でチャレンジするのがいい。

 例えば防波堤などの上から仕掛けを海面へ落とすサビキ釣りや、消波ブロックの隙間に潜んでいる魚を狙う穴釣りなどで。


 けれど何故か有希は多摩川に拘りがあるようで、そこで釣りがしたいと言い張った。


 今回のメインターゲットはシーバスだ。

 多摩川ではシーバス狙いの釣り人が多いと聞くし、シーバスは比較的シーズンを通して目にする事ができるからちょうど良い。


 しかしソコソコのサイズがあり、それを子供だけで釣り上げられるのかは正直不安なところ。

 もし掛かったとしても有希の力では引き上げられない可能性が高い。

 その場合は交替して、どうにか頑張ってみよう。


 そう優也は意気込んだ。


 それから幾らか時間が経過するも獲物が掛かる気配はなく、もしかしたらダメかもしれないなと優也は少し不安な気持ちになった。


 よく考えれば今回の釣りには悪条件が重なっている。

 

 まず冬を過ぎたばかりで水温が低い。

 それに大物狙いの上、アングラーは素人の小学生。

 また本気でシーバスを獲りにいくなら時間帯も昼間ではなく夜間がベター。


 せっかくならこんな泥臭い場所じゃなくて、釣り堀カフェのようなオシャレな釣りスポットにでも行った方が有希も楽しめたんじゃないか。

 だが実際に多摩川を提案したのは有希であるのだから、今更いろいろ言ったところで仕方がない。


 心の中でそんな風に考えていたところ、この状況に痺れを切らしたのか「ねぇ優也、いつになったら釣れるの?」と有希が尋ねてくる。


「うーん、もっと粘れば……もしかしたら釣れる可能性もある」


「えーなにそれ! 私、餌と針さえ投げ込めば、次から次へと釣れるもんだと思ってたのに」


「そんなの、めちゃくちゃ条件と運が良くなければ無理だよ。第一スキルもいるし」


「じゃあ、今日はあんまり釣れないの?」


「そんな気がする。なんと言うかまず季節が良くない。もっと暖かい方が釣り易いかな。一応もう3月だから春って事にはなるけれど、水温はまだまだ低いだろうから」


「ふぅん。寒いとダメなの? もしかして水が冷た過ぎて魚が死んじゃうとか?」


「寒いと魚の餌のプランクトンが他の温かい場所へ移動するから、それを魚達も追っかけて行ってしまうらしい」


「じゃあそのせいで、今はここに魚がいないって訳?」


「全くいない事はないだろうけど、夏とかに比べたら少ないだろうな。それに寒さで魚の活動が落ちててあんまり食べ物を必要としないから餌への喰いつきも悪いとか」


 そう説明したところ、有希はなんだか物悲しそうな顔をする。


「クーラーボックス一杯に魚を持って帰るつもりだったのに」


「それは無理だわ……」


「そんなぁ。と言うか何でこんな場所なの? 私、丸子橋の近く辺りが良かったのに」


 そうぼやきながら、川上の方をじっと有希が見つめる。


 2人の立っている位置から少し先に見えているガス橋を指差して優也が言う。


「仕方ないさ。あそこのガス橋より上流の川で釣りをするには遊漁券ゆうぎょけんってやつが必要になるから」


「ユウギョケン? 何それ?」


「まぁあれだよ、釣りをしてもいいですよって言う許可証みたいなもん。それを買ってこなきゃいけないんだ。遊園地だってチケット無いと遊べないじゃん? それと似たような感じ」


「そんなものがあるの……? それ無しで釣りをしたら怒られるみたいな?」


「怒られるどころか、最悪密漁で警察に持ってかれるっぽいぜ」


「えぇそうなの!? 釣りってどこでしてもいいのかと思ってた……」


「俺も父さんに教えて貰うまではそう思ってたよ。釣りの世界にもいろいろと決まり事があるんだ」


「ふぅん。それでここなら大丈夫なの?」


「今のところガス橋よりも下流は遊漁券無しで釣ってもオッケーって事になってるみたいだ」


「へぇそうなんだ!」


「まぁ、そもそも他の場所で釣りをしたいなら遊魚券を買えばいいだけの話だし、それに小学生なら遊魚券が不要の場合もあるらしいけど、俺はその辺あんまり詳しくないから、とりあえず無難にここにしといた」


「そっかぁ、なら仕方ないね」


 そう話していた時、有希の持つ釣竿の先端が微かに浮くのを優也は見た。

 そして張っていた道糸のラインがほんの少し緩む。


(――来た!)


「有希、掛かったぞ!」


「え!? こ、これ回すんだよね!?」


 そう言いながら有希は慌てて左ハンドルのリールを回そうとする。


「あっちょっと待った! 多分まだ針が刺さり切ってない。まずは竿先を少し持ち上げて糸を張るんだ」


「こうかな……?」


 優也の指示通りに有希が手元を動かすと、やや緩んでいた道糸がピンと張り詰める。


 恐らく獲物はこっちに泳いで来ている。

 貴重なアタリだ。

 慎重にファイトへ移りたい。


「竿と糸が90度ぐらいになるようグリップを起こして、それからしっかりリールを巻く」


 慣れない中、有希は必死に左手を動かす。

 その途中「なんか回し辛いね、右利きだったら右手でリールを回す方がいいんじゃないの?」と言ってくる。


「うーん、それはあるかもしれないけど、俺は父さんにそうやるよう教わったからそれに合わせた」


「ふぅん。てか重いような……もしかして大物?」


「マジ?」


 それから有希は一匹の魚を釣り上げる。

 人生初めての釣果ちょうかに、はしゃぐ有希だったが。


「なんだこの小っこいの」


 釣り針を咥えたまま宙をブラブラしている魚を見ながら優也はそう呟いた。

 そこには体長10センチ少々の小魚が掛かっていた。


「これは何て言う魚?」


「さぁ、分からない。スマホとかがあればアプリで調べられるんだけどな」


「もしかして、これはあんまり当たりじゃない方?」


「そうなるかな。今日はシーバス狙いで少し大き目の釣り針をつけてるから、本当はこんな小魚そうは掛からないはずなんだけど」


「そうなんだ。それじゃあ、運が良いのか悪いのか分からないね。せっかく釣れたのに」


 その魚が食べられるのかどうかは不明だったが、それを有希が持ち帰りたいと希望した為とりあえず『締め』の作業に入る事にした。


 だがそれを側で見ていた有希からストップがかかる。


「殺しちゃうの? 私、生きたまま持って帰りたい」


「生きたまま……? でも釣ったらすぐに締めるのが基本だぜ。そうした方が鮮度が良くなるから」


 そう言葉を返す優也だったがその主張を有希が譲らないので、結局クーラーボックスの保冷剤を取り出してそこへ川の水を入れ、魚を生かしたまま持ち帰る事となった。


 それから途中で有希と竿の持ち手を交替し、優也も釣りに参加した。


「優也がやったら一気に釣れたりして」


「俺そんなに上手くないから……。なぁ、それにしても何でいきなり釣りをしようだなんて思ったんだ?」


「うーん……おばあちゃんに、魚を食べさせてあげたくなったの」


 有希が微笑む。


 おばあちゃん。

 その単語を聞いた優也の頭の中にバレンタインデーの時の記憶が蘇ってくる。


(確かあの時もそんな事言ってたっけ)


「そっか。そういや、バレンタインデーの時のチョコレートは結局おばあちゃんにあげた訳?」


「チョコレート? ……あぁ、あのガトーショコラの事ね! うん。おばあちゃん喜んでたよ!」


 嬉々として有希は語った。

 それに優也は少し嫌味を言いたい気分になった。


「ふーん。ま、美味しいプレゼントを貰えたら誰だって嬉しいわな」


「そうね、おばあちゃんったらニコニコしながら一口でペロって食べちゃったの」


「え? 一口で?」


「うん」


「えーと、あのガトーショコラってワンホールあったんだよな? それってつまりケーキを切り分ける前の丸い状態のままって事だよな?」


「そうだよ?」


「それを一口はおかしくね……?」


「別におかしくなんてないよ。おばあちゃんはそのぐらいへっちゃらなんだから」


 もしかしたら有希なりのジョークを言っているのだろうか?

 だが笑いのポイントがイマイチ分からなかった優也は黙り込んだ。


 ◆


 それからしばらく釣りを続けるも、あれ以降アタリは来なかった。


 すると川を覗き込んだ有希が「ねぇ川の底って何かいないの?」と聞いてきた。


「水生昆虫とかならいるかもな」


「へぇ昆虫。それなら網でも持って来てそれを獲るのも良さそうね」


「いやそんなの捕まえてどうするんだよ……」


「おばあちゃんにあげるのよ」


 優也は顔をしかめた。


「小魚ならともかく虫なんて貰っても食べないだろ……」


「そんな事ないもん。おばあちゃんはゴキブリやミルワームだって食べるんだから」


「は、はあ!?」


 信じられないような発言に思わず耳を疑った。

 しかしそれと同時にもしかして『昆虫食』の事かな? と解釈する。


 前にテレビのニュースで見た事があるのだ。

 昆虫食とやらが最近は流行りつつあると言うのを。


 そのニュースで昆虫食カフェなるものが特集されていたのは今も強く印象に残っている。

 昆虫をすり潰して作った粉末を生地に練り込んで焼き上げたクッキー、素焼きにしたミルワームに塩を振った料理なんかがそこのカフェでは提供されていたのだ。


 もしかしたら、そう言った類の物なのかもしれない。


「あ、あれか? 最近流行りの昆虫を使った料理とかの事? 俺もミルワームはテレビで見た事があるぜ。焼いたらカリカリしてて美味しいとか言ってた」


「そう言うのもあるみたいね。でも、おばあちゃんの場合そのまま食べちゃうから料理とはまた別かな」


「そのまま……?」


「生きたまま食べるのが一番好きなのよ、おばあちゃんは」


 それを聞いた優也は口を半開きにしたまま動けなくなった。


 さっきから有希の話、なんかおかしくないか――。


「生きたままって……そんな事ある?」


「私も初め見た時はびっくりしたけど、おばあちゃんにとってはそれが普通の食事なの。お口も凄く大きくて何だって一口で食べちゃうんだよ」


 何も返事をする事ができなかった。

 冗談みたいな事を言っているが、本人は至って真面目そうな顔だ。


 それからしばらく釣りに集中する。

 河原にちょこんと座り込み暇そうにしていた有希が「ホント魚ってそう簡単には釣れないんだね」と悲しそうに呟いた。


「釣れる時と釣れない時の落差が結構あるからな。釣果がゼロじゃないだけまだマシだよ」


「そうかもね」


 穏やかな川面を眺めながらアタリを待っている間、優也は先ほどの有希との会話を振り返った。


 口が大きくて何でも食べちゃうおばあちゃん。かぁ。

 不意に『赤ずきんちゃん』の話を思い出す。


 ある日赤ずきんちゃんは森の中に住むおばちゃんの元へ1人でお使いに向かう。

 しかし、そこではおばあちゃんに成り済ましたオオカミが待ち構えていた。

 それを知らない赤ずきんちゃんは呑気にオオカミへ話しかけ、それをきっかけにオオカミの大きな口で一呑みにされてしまう。


 最終的には偶然家を訪れた猟師にオオカミは退治され、オオカミのお腹の中に収まっていた赤ずきんちゃんとおばあちゃんは救い出されるのだが……。


 今思えば、なかなかショッキングな内容の童話だ。


 ◆


 夕方に近づいてきたところで体長20センチほどに迫る大物のハゼを優也が釣り上げ、その日はお開きとなった。


 フィッシングプライヤーを使ってハゼの口に刺さった針を外し、ハゼをクーラーボックスの中へ入れて泳がせてやる。


「最後に凄いの釣れたじゃん!」


「ああ。シーバスでは無かったけど、この大きさのハゼなら満足だよ」


「でもちょっと元気が無いように見えるね」


 クーラーボックスの中を覗き込みながら有希が言う。


「ハゼは年魚ねんぎょで、冬を迎えた後にほとんどが死んでしまうんだ。だからこのハゼももう寿命ギリギリなのかもしれない」


「そうなんだ。それじゃあ最後の力を振り絞って餌に喰いついたのかもしれないね」


「かもな。この時期に釣れるのは貴重だから誰かに自慢してやりたいぐらいだ」


「そんなに価値があるんだね、本当に私が貰ってもいいの?」


「まぁいいよ、どうせこの先幾らでも釣りの機会なんてあるだろし」


「やった! 今日はいろいろとありがとね」


「おう、また誘ってくれたらいつでも付き合うぜ。子供だけで釣るのも何だかんだで良い経験だしな」


「うん!」


 その後荷物をまとめ帰り支度を終えた2人は釣り場を後にする。


 ◆


「駅まで歩くのダルいな」


「ね。行きも時間かかったし」


「武蔵小杉駅まで結構あるからなぁ」


 河原を出る前にリュックの中から取り出したA4サイズのクリアファイルを見ながら優也がそう言った。


 スマホ等を持っておらずリアルタイムで情報を調べられない優也は、その対処策として、マップや電車の時刻表などを事前にネットから印刷しその用紙をクリアファイルに入れて持って来ていた。


「ねぇ、ちょっとお願いがあるんだけどいい?」


「うん? 何を?」


「帰りになんだけどね、おばあちゃん家に寄り道したいの。釣った魚を早く食べさせてあげたくて」


 多摩川を上るようにサイクリングロードを歩いていたところ、出し抜けに有希がそんな事を言ってくる。

 優也は困惑したような表情を浮かべる。


「え? おばあちゃん家って言ったって名古屋だろ? そんな今から気軽に行ける場所じゃないだろ」


「名古屋? そっちじゃないよ、川崎の方のおばあちゃん家」


 ますます意味が分からなくなった。


「川崎のおばあちゃん家ってもう誰も居ないんじゃないのか……? だって、そこで独り暮らしをしてたおばあちゃんはこの前亡くなったんだろ……?」


「ふふ、優也にだけ特別に教えてあげる。実はね、まだおばあちゃんあの家に居るんだ」


 何もない道で躓きそうになった。

 一旦立ち止まり「ちょっと待てよ有希、何を言っているんだ?」と真顔で聞く。


「私も初めは信じられない気持ちだったけど、おばあちゃんは幽霊になって今もあの家に住んでるのよ」


 突拍子もない話に優也は唖然とする。


 だが幽霊の存在を否定する訳ではないし、むしろ信じている。

 だから有希の言っている事が本当の可能性もある。


 いや――仮にそうだとしても、幽霊に生きた魚をあげると言うのはおかしいのではないか。


「な、なあ有希。まずは落ちこうぜ。さっきから言ってる事が無茶苦茶だぜ?」


「私は落ち着いてるよ? 優也の方こそ顔色は悪いし声も震えてるじゃない」


「いやだって、有希の口振りからしたら、釣った魚をそのおばあちゃんの幽霊にあげに行くみたいじゃん? ……もしかしてガトーショコラや虫をあげたって言うのも、その川崎のおばあちゃんの話?」


「うん、そうだけど」


 有希は平然と言ってのけた。


 大好きだった祖母を失ったショックで一時的に頭がおかしくなっているのかもしれない――。

 

 優也はそう思った。

 まだ祖母が生きていると思い込み、定期的にプレゼントを持って行っているのだ。

 そうじゃないと、とてもじゃないがこの状況を理解する事はできない。 


 とりあえず今は有希のやりたいようにやらせてあげよう、と優也は考えた。


 有希の心が傷ついているのなら今はそれに寄り添うべきだ。

 傷ついた心が治れば、いずれ目も覚めるに違いない。


「……それで、おばあちゃんの家はどの辺りにあるんだ?」


 そう有希に尋ねてみる。


「えーとね、世田谷から丸子橋を渡って、その先にある多摩沿線道路をしばらく左に進んだ辺り」


 それを聞いた優也はピンとくる。

 有希が多摩川、それも丸子橋の近くに拘りを見せていた理由がようやく分かった。

 釣りの帰りに祖母の家に立ち寄るのであれば、そこからすぐ近くで釣りをする方がいいに決まっている。


 優也はマップに目を通した。

 丸子橋の近くなら今の進路をずっと真っ直ぐ進めばやがて辿り着く。

 目的地の武蔵小杉駅を少し北東寄りに通り過ぎてしまうが、別にそこから駅へ引き返してもいい。


「じゃあここまで来たついでだし、おばちゃん家に寄って帰るか」


 ◆


 それから、たわいない話をしながらしばらく歩き続けたところで有希が足を止める。


「ここか?」


 道路に面して建つ古めかしい一軒家を見ながら隣の有希に聞く。


「そう、ここがおばあちゃん家」


 平屋建ての木造住宅。

 外壁の色褪せ具合や地上から少し見えている屋根瓦の傷み具合などから、それなりの築年数が経過している事が分かる。

 ちょっとした古い漫画やアニメなんかで登場しそうな、昔ながらの日本家屋と行った風情だ。


 都市圏にある住宅としては広い庭が付いていて、新築当時はそれなりに豪壮な佇まいであったのではないかと思わせる。


 関心高そうにその家を見ていたところ「じゃあ私行ってくるから、優也はしばらくここで待っててね」とクーラーボックスを持ったまま有希が1人で玄関の方へ向かって行った。

 そして鍵を開けると吸い込まれるように中へ姿を消す。


「はぁ……」


 なんともやるせない気分になった優也はため息をつきながら家の庭に座り込んだ。

 雑草の先がズボンの生地を通してチクチクと足に突き刺さる。


 しばらく待つが有希は出てこない。

 この家の中で一体有希は何をやっているのか、少し気掛かりに思った。

 

 それにしてもこの家はひっそりとしている。

 もう誰も居ないはずなのだから当たり前だが、後方を勢いよく車が走り抜けて行くのとは対照的だ。


 何となく周囲の音に気を払っていたところ、突然「ニャー」と猫の鳴き声のようなものが聞こえて来た。


「ん?」


 反射的にその声の方へ目を向けるも、ブロック塀に遮られ何も見えない。

 恐らく隣の家で猫を飼っていてそれが塀の向こうで鳴いているのだろうと推測する。


 それからまた前へ向き直り、有希の帰りを待っていた時――。


 廊下に沿うように何枚も並ぶガラス戸のうちの1枚の向こう側に、何の前触れもなく白い影が現れた。


 ガラス戸の向こうには白いレースのカーテンが掛けられており、それが視界を邪魔し白い影の正体を見抜く事はできないが、人の形をしているように思えた。


(は? 何だあれ……)


 咄嗟に優也は立ち上がった。


 見間違いか?

 いやでも明らかに立体感のある何かが動いている。


 そしてその白い人影らしきものがこちらに向かって立ちながら視線を送って来ているような気がした。


 一瞬、有希が家の中からこっちを見ているのか? と思ったがすぐにその考えを否定する。


 有希にしては身長が高すぎる。


 その影の天辺てっぺんひさしの付近にまで余裕で達している。

 庇が設置されている場所は、縦長いガラス戸のちょうど真上だ。

 そこに軽く頭が達するのであれば有希どころか大人の身長を基準に考えたとしても不自然だ。


 人ではないのでは――。


 そう悟った瞬間、言いようのない恐怖が優也の体を襲った。

 体が硬直し、その影から目を離せなくなる。

 気づけば冷や汗に体が濡れていた。


 有希の言う通り、本当にこの家には幽霊が住んでいるのか――。


 それからフラっと影が揺れたかと思えば、徐々に姿を消していった。

 その動きはまるで家の奥へスーと進んで行く様にも見えた。


 程なくして玄関の引戸をガラガラと開けながら有希が外へ出て来る。


 優也は一目散に有希の元へ飛んで行った。


「有希!」


「ごめん待たせちゃって。ちょっと言い辛いんだけど……」


 その手を引こうとしたが、不安そうな顔で有希が何かを言おうとしているので動きを止めた。


「どうした!」


 いつになくキツイ口調になっている事が自分でも分かった。


 すると困った様に有希が口を開いた。


「実は……クーラーボックスが壊れちゃって」


「は……?」


「クーラーボックスを開けた瞬間に、おばあちゃんが凄い勢いで飛びついて来たの。それでその衝撃でクーラーボックスが壊れちゃった。その破片を拾うのに少し時間が掛かったと言うか」


 そう口にしながら歪に変形したクーラーボックスを、自身の背後から有希は取り出した。


 それを見た優也は絶句する。


 容器の前面には大きな穴が開き、蓋が取れかかっている。

 2つのステンレススチール製の留め具が、粉々になったプラスチック片と共に容器の底に集められていたが最早原型を留めていない。


 瞬間的に非常に強い力を加えられた事が分かる。


「なんだよこれ……」


「ごめんね、優也のなのに。また後でお父さんとお母さんにでも相談して新しいの――」


「有希! 今すぐ帰るぞッ……!」


 そう言うと有希の手を引き優也は駆け出した。


 ここはヤバい。

 早く去った方がいい。

 頭の中で警報が鳴っていた。


「クーラーボックスなんかどうどもいい! 俺が道で転けて壊した事にでもするから! それより早く駅に行こう」


「え、でも……」


「俺が待ってる間、何があった……!? 白い変な影が廊下に立ってたぞ!」


 住宅街を走り抜け大急ぎで駅へ向かいながら有希に尋ねる。


「あれが、おばあちゃんだよ……。いつもは同じ部屋にいるんだけど、何故か今日は廊下に出て行ったの」


 優也は悲鳴を上げそうになった。

 あんな異様なものを祖母と呼び顔を合わせていると言うのか。


 防寒着を着込んでいるはずなのに体が震え出す。


 丸子橋近辺まで来れば隣の世田谷まではあっという間だ。

 電車代節約の為に帰りは歩くのもアリかなと途中で思い立っていたが、もうそんな気分ではない。

 悠長に歩いていればたちまちあの白い影が背後に現れるような気がした。

 今すぐ人の多い所へ飛び込みたかった。


 ◆


 切符を買いホームのベンチに有希と並んで座る。

 各駅停車の電車が来るまでには、まだ5分ほどの時間がある。


 小さく震える優也の手を有希がそっと握ってくる。

 その膝には壊れたクーラーボックスが置かれている。


「怖がらなくても大丈夫だよ……。おばあちゃんはただお腹が空いているだけ。お腹が一杯になれば天国へ行けるから」


 詳しい事は分からないし、知りたいとも思わない。

 だが有希によれば、あの白い幽霊はとてもお腹を空かせているらしい。

 そしてそれを満たすまであの世へ行けないと。


 有希の思い込みなんかじゃ無い。

 確かにあの家には居る。

 恐ろしい何かが。


「なぁ有希……。もうあの家へ行くのは止めろよ」


 そう言うと有希の手にグッと力が入った。


「なんでそんな事言うの……?」


「あんなのと一緒に居たらヤバいだろ! 幽霊どころか怪物じゃねぇか!」


「怪物って何よ! 初めはずっと小さくて細かったけど最近はどんどん元気になってるの。それは成仏に近づいてる証。優也なら分かってくれると思って話したのに……もう知らない!」


「馬鹿言え! どこにクーラーボックスを破壊するような幽霊がいるんだよ! あんなのに近づいたらダメだ!」


 有希の膝の上を指差しながら声を張り上げた。

 ホームに立つ他の客が視線を寄越して来るのが分かる。


 有希は頬を膨らませて外方そっぽを向いてしまった。


 これが幽霊系の話ならもう相談できる相手は1人しかいない――。




19




 最近は少し生活習慣が乱れがち。

 まだ小さかった頃は夜遅くまで起きていると「早く寝なさい」と両親によく注意されたものだったが、6年生に上がってからはそれも減ってきた。

 もしかしたら、もう成長したのだからある程度の事は自分で管理しなさいと言うメッセージなのかもしれない。


 昨日はそれに甘えて夕夏は日付が変わる少し前までバラエティ番組を見ていた。

 そのせいか、朝からずっと瞼が重く感じる。

 でも給食の配膳で体を動かしそれから美味しいご飯で味覚を刺激したせいか、その後の昼休みにはそれも大夫マシになっていた。


 掃除が始まるまでにはまだ20分ぐらいの余裕がある。

 それまでの時間、教室の空き席に集まって仲の良い子達と談笑しながら過ごす。

 すると後ろから「綾瀬、ちょっといいか」と突然声を掛けられた。


「へぇ?」


 不意を突かれた夕夏はちょっと間の抜けた声になってしまう。


 振り向いた先には優也が1人でポツンと立っていた。


 いつもは元気に校庭でボール遊びに興じているはずの彼にしては珍しいな、と心の中に思った。


 しかしそれにしてもどこか表情が暗い。

 あんまり良くない話が私にあるようだと瞬時に夕夏は察する。


「川森くん、どうしたの?」


「ちょっとな。2人で話したいんだけどいいか?」


 そう言われた夕夏は、なになに? と興味深そうに視線を向けて来ている友達に一言断りを入れて優也の元へ向かった。


 難しい顔で教室から出て行った優也は、そのまま校舎の北館と南館を結ぶ同じ階にある渡り廊下まで向かう。

 それに夕夏も後ろからついて行く。


「どうしたの、そんなに改まって。何か大切な話?」


「有希の事で相談があってな」


「有希?」


 渡り廊下の壁の縁に両手を置いて中庭を見下ろしながら、ここまで呼び出した理由を優也が話し始めた。


「前のバレンタインデーの時にさ、チョコレートの入った紙袋を俺が有希から貰ったのを覚えてる?」


「うん、覚えてるよ。結局おばあちゃんにあげるとかで回収されちゃったんだよね」


「ああ。それでその時に『その話に出て来るおばあちゃんと最近有希が亡くしたおばあちゃんは関係ないのか』って綾瀬が聞いて来たじゃん?」


「そうだね」


「それがさぁ、どうやら関係があるっぽいんだ」


 夕夏は眉を顰めた。

 何か根拠があった訳ではないが確かにそんな風な疑問を感じて優也に尋ねた事は覚えている。


「関係があるって言うのは……?」


 すると、つい昨日の出来事を優也が語り出す。


 日曜日に有希と釣りに行った事。

 釣った魚をおばあちゃんに食べさせたいと有希が言い出した事。

 実際帰りにおばあちゃん家に寄ってそこで恐ろしい体験をした事。


 優也が話す内容に黙って耳を傾ける。


「――と言う訳なんだが、綾瀬はどう思う?」


「まぁ確かにその家に有希のおばあちゃんの幽霊か何かがいるのは間違いないね。誰もいないはずなのに窓際に白い影が立ってたんでしょ? その上、魚が消えてクーラーボックスは不自然に壊れていた」


「あぁ本物の幽霊なんて見たのは初めてだったから、怖すぎて頭がおかしくなりそうだった」


 そう言いながら優也は顔を青くさせた。


「もうさ、どうしたらいいか分からなくて。それでこうなったら綾瀬に相談してみるしかないって思ったんだよ」


「そっかぁ、なるほどね」


 頼られる事に悪い気はしない。

 しかし今聞いた話にはいろいろと不可解な点があった。


「その幽霊は本当に食べ物を食べるの?」


「それは俺も直接見た訳ではないから何とも言えない。でも有希が言うにはもう何回も食べてるらしい」


「そうなんだ。でも正直何かを食べる幽霊って言うのは心当たりがないんだよね。だから私もちょっと困惑してると言うか」


「そうなの……?」


 この分野で綾瀬にも分からない事があるのか――そう言いたそうな顔で見つめてくる。


「うん。食べ物にも『霊気』が宿っててね、それを幽霊が吸い取るケースはあるよ。でも物理的な意味で食べちゃうのはちょっと聞いた事がないかも」


「そう言われてみりゃあ、ご飯を食べる幽霊の話とか聞かないもんな。幽霊の食事シーンとか映画や漫画の世界でも出てこないし」


「それと川森くんの見た幽霊って異様に大きかったんでしょ?」


「そうだな。廊下に立ってっぽいけど天井に頭がつきそうな勢いだった」


 夕夏はしばし考え込む。

 古めの日本家屋の場合天井までの高さはだいたい2メートルを少し超えるぐらいだったと記憶している。

 優也の目撃情報が正しければ、その幽霊の身長はそれに近い値と言う事になる。


「幽霊の原形が有希のおばあちゃんなら、そんなに背が高いのはおかしいよね。幽霊の形が変化わる事は確かにあるんだけど、その幽霊の身長が伸びてしまうような理由は何も思いつかないから」


「マジか。なぁ、あの幽霊いきなり俺のところに現れたりしないよな? それが心配で夜も眠れなくなりそうなんだよ」


「うーん……それは現時点では何とも言えないかな。私もまだ詳しい事情は分からないから」


 そう告げると優也はこれまでにない絶望的な表情を見せた。


「えっ嘘だろ!? 待ってくれ、クーラーボックスを破壊するようなヤバい奴だぜ? 万が一そんなのが来たらこの先どうやって生きていけばいいんだよ」


 頭を抱えたままうずくまった。

 パニックに陥りかけているようだ。


 その隣に座り込んだ夕夏は、優也の肩に手を置きながら語りかける。


「落ち着いて川森くん。まだそうだと決まった訳じゃないから。多分その幽霊は家から出られないんだと思う。そうじゃなきゃ今頃有希に取り憑いてないとおかしい。でも有希からはそんな気配感じられないの」


「本当か?」


「うん。別にその幽霊と目を合わせた訳じゃないんだよね……?」


 そう尋ねると優也は体を硬直させたまま動かなくなった。


「それは分からねぇ……カーテンが邪魔でよく見えなかったら。もしかして、目を合わせてたらマズい……?」


「悪意のある幽霊だったら、目を合わせた瞬間に"来る"場合もある。そう言うのは自分を認識してくれる――同調し易いターゲットを探して彷徨い歩いているものだから」


「どうしよう……こっちを見てた気もする。もしそうだったらどうすればいい!?」


「今のところ有希が何ともないんだから川森くんも大丈夫だと私は思う。でもこの際だから覚えておいて。何か変な物を見かけても絶対に目を合わせちゃダメ。それにもし話しかけられたとしても絶対に反応しちゃダメ。"気付いている事"を悟られるのは本当に良くないから」


 それからしばらくして顔をあげた優也は「心に念じておくよ……」と弱々しく呟いた。


 その後不安そうに「有希の事は心配だけど、俺の身もなんか危なそうな感じだな……」と言った。


「ごめんごめん、怖がらせる事言って。でも大丈夫、私がどうにかしてみせるから。まずは直接有希に話を聞いてみて、それからその家に行ってみる」


 体を震わせる優也を慰めつつ、彼と一緒に夕夏は教室へ戻った。


 ◆


 その日の放課後。

 仲のいい友達に「じゃあね」と言い残し教室を去って行こうとする有希を、夕夏は急いで捕まえた。


「待って有希! 今日は一緒に帰らない……? ちょっと聞きたい事があるの」


「え、でも帰りの方向別じゃない?」


 不思議そうに有希が言葉を返してくる。


「それは分かってる。途中まで私が有希の道について行くから大丈夫だよ」


 その後イマイチ腑に落ちなさそうな顔をしている有希と共に1階へ降り靴を履き替えると、エントランスを抜け校舎を後にした。


 校門に向かう途中に有希が尋ねる。


「聞きたい事って何? できれば私早く家に帰りたいんだけれど……」


「最近そんな風にすぐ家に帰ってるみたいだけれど、その後はどうしてるの? どっか出かけたりしてない?」


「な、なんで突然そんな事を聞いてくるの?」


 前置きをすっ飛ばして突っ込んだ質問をしてみたところ、あからさまに有希の目が泳ぎ始めた。


「あ、あれだよ、私は塾とダンススクールに通ってるから、学校が終わったらそれに行ってる」


「でも毎日じゃないよね? それがない日は?」


「えーと、友達のところに遊びに行ったりyo○tubeで動画を見たりとか……」


 そう言ったまま有希は口をつむいだ。

 ちょうど校門を出た2人はそのまま有希の帰り道の方向に進む。


「実はね、川森くんから聞いたの。死んだおばあちゃんの家に有希が1人で行ってるみたいだって」


 それを聞いた有希は目を見開いて夕夏を見つめる。

 そしてプンプンと怒り始めた。


「優也だけに教えてあげたのに、もう本当に口が軽いんだから!」


 それからプクッと口を膨らませ「どこまで聞いたの?」と尋ねてくる。


「全部だと思う……。おばあちゃんが幽霊になって今も家に居るんでしょ? それで、それを成仏させてあげようといろいろと食べさせてるって」


「はぁ……まったくもう優也ったら」


「今日も行く予定だったの?」


 それに有希は答えなかった。

 しかし「もしそうなら私もついて行っていい?」と聞いてみたところ途端に血相を変える。


「ど、どうして!? そんなの困るよ!」


 有希にとってそれは誰にも知られたくない秘密事のはず。

 ついて行きたいと願ったところで断られるのは目に見えていた。

 だから、予め準備していた台詞を言う。


「私もね、有希のおばあちゃんの為に何かお手伝いをしてあげたいの。成仏できずに苦しんでいる幽霊を放ってはおけないから。それに、そう言う話には詳しいからきっと役に立つよ!」


 しばらく有希は考え込んだ。


「……分かった。でも他の人達に言っちゃダメだよ?」


「うん」


 今日はちょうど塾もダンスも休みだった為、学校が終わってからおばあちゃん家に行く予定だったと有希は白状した。


 それに同行する約束を取り付けた夕夏は来た道を急いで引き返し自宅へ向かった。



 川崎にある川丸堂と言う名の和菓子屋を待ち合わせの場所として指定された。


 しかしその店を知らなかった為、去年買って貰ったばかりのスマホで目的地までの経路を調べながらそこまで自転車で進んだ。


 今日は6校時目まで授業がある日で、到着した時には17時に迫っていた。


 3月に入り段々と気温も上昇してきたとは言え、日の沈み始めるこの時間帯にはまだまだ寒さが残る。

 店の敷地の端に自転車を停めた夕夏は、時々体をさすりながら有希が来るのを待った。


 買い物もせず店の敷地内に居座るのは良くないだろうけれど、少しの間だけ待ち合わせに使わせてもらおうと思った。


 自転車の近くにしゃがみ込み、スマホで漫画サイトを閲覧しながら時間を潰す。


 それから5分ほどしたところで「ごめん、待った?」と前方から声が聞こえた。


 ゆっくり顔を上げると、自転車から降りそれを押して小走りに近づいて来る有希の姿が見えた。


「ううん、私も少し前に到着しところだよ」


「そうなんだ、それなら良かった。と言うか夕夏ってスマホ持ってたんだ!」


「うん、1年ぐらい前に買って貰ったの」


「へ~いいなぁ。ネットとかも制限掛かってないの?」


 スマホの画面を軽く覗き込みながら有希がそう聞いてくる。


「まぁね、そう言うのがなくても大丈夫だろうって」


「ふ~ん、じゃあちょっと過激なレディコミなんかも読み放題じゃん」


 イタズラっぽい顔でからかってくる有希に思わず言葉を詰まらせた。


「あれ? なぁに夕夏も真面目そうな顔してそう言うの読んでるの? ねぇネットの閲覧履歴でも見せてみなさいよ~」


 夕夏は困ったような顔をする。

 お調子者なところは相変わらずだ。


「ね……もう行こ? 暗くなっちゃうよ」


「それもそうだね。私も18時までには帰りたいからさっさと行っちゃおうか!」


 その後有希の案内に従って件の家へ向かう。

 そしてそれからほどなくして到着した2人は自転車を庭に停めた。


 その時点で夕夏は感じ取っていた――この家の中に潜む人ならざる者の気配を。


 玄関へ向かおうと先頭を歩く有希の右肩には大きなトートバッグが提げられている。

 その中に幽霊に与える食べ物が入れられているのだろうと検討がついた。


 玄関口にまで辿り着いた有希は手早く鍵を開け引戸を横に引く。

 中に入る有希に夕夏も続き、土間で靴を脱ぎ廊下へ上がる。

 すると外にまで漂っ来ていたあの嫌な気配がより一層強くなるのを如実に感じた。


 緊張した面持ちで有希の後ろをついて行く。

 それから少し廊下を進んだところで左手側の部屋に有希が足を踏み入れた。


 その後「おばあちゃんだよ」と言いながら振り返ってくる。

 それにつられて部屋の中央に視線を向ける夕夏だったが……。


 それを目に留めるや否や、夕夏は腰を抜かしそうになった。


 天井に届く程の高い身長。

 筋肉と脂肪の鎧に包まれた大きな体。

 闇のように深い漆黒の目。

 手足の先に伸びる長い爪。

 鋭い歯が剥き出しの釣り上がった口。


 幽霊どころか悪霊と呼ぶも生ぬるい恐ろしい形をした何かが畳の上に佇んでいた。


「今からご飯あげるからね」


 唖然とする夕夏をよそに、有希は手慣れた様子でトートバッグを肩から外しその中から様々な食べ物を取り出す。

 ハム、人参、豆腐……取り出した物を1つ1つ畳の上に置いていく。


 そして全てを置き終えた瞬間、その幽霊はバッと身体を屈め、凄まじい勢いで食料を貪り始めた。


 信じられないような光景が夕夏の目の前で繰り広げられていた。


「ねぇ夕夏。せっかくだから聞きたいんだけれど、おばあちゃんの後ろにあるあの赤い光って何だか分かる?」


 こちらを振り向きながら有希がそう尋ねてきた。

 それをきっかけに幽霊の背後に赤い一筋の光がスッと立っている事に気付く。


 何だろう……?


 だが、それを観察しようとした時だった。


 突然視界が真っ赤に染まったかと思えば、四方八方から怨嗟や苦しみに呻くような低い声が聞こえて来た。

 それと同時にひどい頭痛が脳内を駆け巡る。


「ウッ……!」


 頭を押さえ夕夏はその場に崩れ落ちた。


「夕夏!? 大丈夫!?」


 動揺しながら有希が側に寄って来る。


 しばらく何も出来ずただじっと時間が過ぎるのを待つ。

 それからその症状が引き始めた頃に、恐る恐る夕夏は顔を上げた。

 すると、食事を終えて立ち上がった幽霊の大きな体に隠されその赤い光はほとんど見えなくなっていた。


「大丈夫……? 私のお母さんもね、前にあの光に当たっておかしくなった事があるの。本当に何なのかなあれは」


 少し怯えたように有希が言ってくる。

 夕夏は弱々しく首を横に振る。


「夕夏にも分からないの?」


「……うん、あんなの初めて見た。でも、とても良くないものだと言う事は分かる」


「初めて見た時、あの光は裁縫の糸ぐらい細かったの。でも気付いたら今の太さになってて……。放っておいても大丈夫なのかな?」


 どう考えても大丈夫な訳はない――。


 そう思うもその正体が不明なあまり、何も言葉を返す事が出来なかった。


 それにしてもこの部屋は瘴気が酷い。

 霊感の無さそうな有希は平然としているが、様々なものを嫌でも感じ取ってしまう夕夏はそうも言っていられない。


「有希、いつもならこの後は何をしてるの?」


「うーん、ご飯をあげたらそれで終わりかな」


 食べ物を与える事さえ出来れば、ひとまず有希の目的は達成となるようだ。

 それから程なくして言葉の通り有希は帰り支度を始め、2人は家を後にした。


 ちょっとした様子見ぐらいのつもりでここまで来た夕夏だったが、想定よりも酷い状況に心中穏やかではなかった。


 その帰り道、祖母が出現した時の様子や時間が経過するにつれての成長の様子など、有希の口から多くの情報を仕入れた。


 食べ物は新鮮であればあるほど良いらしい。


 そのために時々生きた虫を買ってきて与えていると言う話には正直ドン引きだったが、本人はその行動の異常性に気づいていないような素振りだった。


「明日もまた行くの?」


「うん、そのつもり。でも明日は塾があるから行くとしたら夜かな」


「そうなんだ。じゃあまた私もついて行くね」


 そう言ってその日は別れた。




20




 小学5年生の春頃より、終夜は近所のボクシングジムへ通い始めた。

 この学校に転校してきて2年目の事だ。


 それからと言うもの、元からそう多くはない趣味の1つにランニングが加わる。


 初めそれはボクシングに必要な基礎体力をつける為のロードワークの一環に過ぎなかった。

 しかし体力がある程度ついてくると、長い距離を走り続ける事に楽しさを覚えるようになる。


 ただひたすら無心に走っていれば次第に爽快な気分に包まれ、日々の生活の中で蓄積されたストレスを洗い流す事ができた。


 休日の空き時間や勉強の合間などにランニングウェアを着て外へ飛び出しては、住宅街を何周もする。

 そのように、当初ランニングコースは自宅周辺を周回する程度のものだったが、いつしか目新しい景色を求め少し離れた場所へも足を向けるようになった。


 その範囲は次第に拡大してゆき、今や多摩川を渡りその先の川崎市にまで及ぶ。


 中学受験へ集中する為、しばらくランニングを控えていた終夜だったが、無事それに合格した事により1ヶ月ほど前から再び走り始める。


 そんな折だ。

 ランニング中にクラスメイトの桐谷有希を見かけるようになったのは。


 多摩川の堤防に築かれているサイクリングロードを川崎市側に沿って走っていると、多摩沿線道路に面した一軒家にピンク色の自転車に乗って出入りする彼女の姿を時々目にするようになった。


 そこが具体的に誰の家なのか、何の目的で訪れているのかは分からない。

 1クラスメイトのプライベート事情など碌に知らないし、大して興味もなかった。

 だから、ただ遠くから無関心に彼女の姿を眺めるだけだった。


 しかしとある日を境に状況が変わる。


 その日、夜遅くまで難しい単語の羅列された専門書を読んでいたせいか、頭が冴えて寝付けなかった。

 そこで体でも動かして頭をほぐそうと思った終夜はランニングへと出かけた。


 放射冷却で冷え切った深夜の気温をものともせず体力のままに走り続ける。

 気付けば丸子橋を渡っていた。


 闇夜の中、多摩川のせせらぎだけが周囲へ木霊こだまし、昼間や夕暮れ時とは異なる澄んだ世界が辺り一面に広がっているように感じられた。

 

 その空気を堪能しようとサイクリングロードを少しだけ下り一息ついていたところ、小さなライトの灯りと自転車を漕ぐ音が遠くから近づいて来るのが分かった。


 それは世田谷方面から真っ直ぐに丸子橋を渡った後、多摩沿線道路を南に進みとある一軒家の敷地内に消えて行った。


 街頭の明かりで薄暗く照らされたその姿をサイクリングロードから見ていた終夜はそれが有希なのではないかと思った。


 咄嗟にライト代わりに持ってきていたスマホの画面に目を向ける。


 時刻は午前0時40分。

 こんな夜更けに何をやっているのだろうかと不可解に思う。


 吸い込まれるように消えて行ったあの場所は、彼女がよく訪れている例の家のように思えた。


 この時になって初めて、その家と有希の行動に対し興味を覚えた。


 ランニングを一時中断すると、少しその家の方へ近づき遠くから様子を観察してみる。

 敷地内も家の中も真っ暗だ。


 それから10分ほどしたところで、玄関口から小さなライトを手に持った1人の少女が姿を現す。


 暗闇のせいでぼんやりとているが、その少女の風貌から桐谷有希に違いないと終夜は確信した。

 

 その後自転車に乗った彼女は何事も無かったかのように速やかにその場から去って行った。


 先ほどまで家の電気も点いていなかったのに、中で何をやっていたのだろう。

 そもそもあの家は何なのか。


 ほんの好奇心から、スマホの灯りで夜道を照らしつつ終夜はその家へ向かってみた。


 広い敷地内にポツンと建つ古風な日本家屋。

 夜の闇に黒く染まり陰気な雰囲気を放っている。


 それにしても人気ひとけがない。

 夜だから当たり前か。

 しかし明るい時間帯に見かけた時もそうだったような……。


 そんな事を思いながら、道路から庭へ足を踏み入れる。

 その瞬間、周囲の空気が一変するのを確かに感じた。

 とても重苦しく嫌な気配がその家を中心に広がっているのを知覚する。


(なんだここは――)


 硬直したまま動けなくなった。

 そのまま注意深く周辺に気を向けていると、家の中で何かが動く気配が伝わってきた。


 誰かいる……?

 しかし人にしては何かがおかしい。

 そう思った終夜はもう少し詳しくこの家について探ってみる事にした。


 それから玄関の方へ歩み寄る。

 玄関の右の壁辺りに表札が設置されている。

 それをライトで照らしたところ、『桐谷』の名が彫られていた。


 有希と同じ名字――もしかしたら親戚筋の家なのだろうか。

 親戚の家であれば定期的に訪れていたとしてもおかしくはない。


 その時不意に有希の祖母の件が頭に思い浮かんだ。


 中学受験を終え終夜が学校に戻って来た翌週の月曜日と火曜日。

 その2日間、祖母の葬儀により有希は学校を欠席していた。

 後に人伝に聞いたところ、その祖母は川崎で独り暮らしをしていたらしい。


 もしかしたらこの家か……?


 それにしてもこの家の中から漂ってくる気配は異様だ。


 大抵の人が認識できないだけで、この世には霊魂や霊界と言ったものが存在する。

 これまでほとんど誰にも打ち明けた事はなかったが、終夜もそのような存在や価値観を理解し認識できる1人だ。

 それなりの霊感も有している。


 ここが仮に有希の祖母の家であった場合、亡くなった彼女の霊が何らかの理由で出現し、その気配が家の中から漏れ出している可能性が十分に考えられる。


 だが、普通の幽霊にしてはどこか様子が変だ。

 

 ここで何が起きていようと無関係のはず。

 しかしその時の終夜は妙な胸騒ぎを覚えていた。




 それから間を開けず、平日の深夜3時頃に再び終夜はその家を訪れる。

 1度その家の中へ侵入し、そこに居る者の正体を見極めようと考えていた。


 家に到着した終夜はまず初めに各部屋の戸締りを確認する。

 しかしながらどこもしっかりと施錠がされていた。

 最悪ガラス戸を割って中から鍵を開けるのも1つの方法だが、それではよそ者の侵入が一目で分かってしまう。


 だから終夜は玄関の鍵を突破する事にした。

 そうなる可能性を想定しその為の準備もして来ていた。


 初めてここへ訪れた際、念のために鍵の形状を確認していたのだ。


 2枚の引き違い戸の中央部に設置されている召し合せ錠。

 そのシリンダー部に開けられた縦穴式の鍵穴。

 真上に刻印されたM○WAのロゴ。


 M○WAのディスクシリンダーに違いなかった――。


 鍵の両側がギザギザになっている事に特徴を持つ美○ロック社のディスクシリンダーは、1950年台から製造が開始され、製品の安価さや取付のし易さを要因に爆発的に全国へ普及する。


 最盛期には7000万戸もの家庭でこれが使用されていたとされる。


 しかし2000年代初頭に製造中止へと追いやられる。

 その大きな要因の1つは、1990年代後半より、ディスクシリンダーが抱えるセキュリティの脆弱性を狙ったピッキング被害が多発した事だ。


 それ以降その防犯性の低さに対して事ある毎に警鐘が鳴らされ、取り替え作業も進んでいたが、このタイプの鍵を使用している家庭は依然として多い。


 とくに築年数の古いものほどその傾向が強く、この家もそうであるものだと思われた。


 そのようなセキュリティを破れる程度の初歩的なピッキングスキルを終夜は持っている。


 それを学んだのはつい半年ほど前、祖父が渋谷に開いている探偵事務所で働くとある従業員を通じてだ。


 祖父、松川慎二の事を完璧主義を体現したような人間だと終夜は評する。


 警察と言う巨大な国家権力の上澄にまで上り詰め、富も名誉も手に入れた祖父が人生の最後に追い求めたものは子供の頃の夢だった。


 大きくなったら探偵になりたい!

 そんな小さき頃の夢を叶えられなかったのが人生で唯一の汚点だと祖父は語った。


 推理漫画の草創期に子供時代を過ごした祖父は、その頃に流行っていた探偵漫画に心を奪われ探偵になる事に憧憬を抱いたようだ。


 だから定年後には渋谷に『松川探偵事務所』を開きその夢を叶えた。

 大企業の顧問職への誘いを断ってまでも、自分の人生を完璧なものに仕上げる事にこだわりを見せたのだ。


 しかし現実世界の探偵は、子供が思い描くようなヒーローではない。


 素行調査や浮気調査など地味な業務が多いうえ人のプライベートを嗅ぎ回り、場合によっては後ろ指を指され兼ねない職業だ。


 当然祖父もそれは理解しているのだろう。

 だからそう言った探偵業の表面にはタッチせず、その一切を自身の部下達に任せていた。


 そしてその部下一同をチーフとして取りまとめているのが水野みずの敏一としかずと言う30代半ばの男だ。


 長らく彼は探偵業を生業とし、以前は個人事務所を構えていたらしい。

 しかし探偵事務所を開くにあたりアドバイザーとして迎え入れたいとの意向を祖父から受け、それを契機に自身の事務所を畳み祖父の下で働くようになったようだ。


 あの祖父の人脈に連なるだけあり、水野は良い意味でも悪い意味でも曲者くせものだった。

 発覚しているだけで幾つもの前科を抱える危ない奴だ。


 だがそれを通じて学んだのか、社会を生き抜く為の様々な知恵やスキルを身に付けている。


 犯罪に手を染めた水野を悪とするのならば、犯罪を取り締まる立場にあった祖父は正義と言えるだろう。

 本来は水と油であるはずの2人が何をきっかけに親しくなったのかは不明だ。


 また水野は腕も立つ。


 以前に祖父と水野の3人で夕飯を食べに夜の繁華街を歩いていた時の事だ。

 偶然道をすれ違った20代ぐらいのグループに、肩がぶつかったと因縁をつけられ、祖父が胸ぐらを掴まれそうになる。

 その時スッと横から水野が出て来たかと思えば、次の瞬間には数人の若者が地面に伸びていた。

 素人の身のこなしでない事は子供の目にも明らかだった。


 時々事務所に立ち寄っては、そんな水野から多くの事を教わった。

 ボクシングを始めたのも水野の勧めがきっかけだ。


 ここを訪れる前日、その水野から終夜はピッキングツールを借りてきていた。

 ピッキングのスキルを教え込んだのも勿論彼だ。


 事務所の中で鍵のサンプル台を用いたピッキングの実演を見たり練習をしたりする事はあったが、実際にそれを外へ持ち出し使用するのはこれが初めてだ。

 少し緊張や不安を感じる。


 ピッキングツールを一般人が所持する事は現状違法だ。

 特殊開錠用具所持禁止法違反となる。

 今の状態を警察に知られれば当然ながら検挙される。


 警察の元大幹部が経営する探偵事務所の従業員がそれを平然と所持し、その使い方を孫に教えているなど、こんなお笑いぐさはないだろう。


 しかし例えそれが浮世離れした事であろうと、今のうちから多くの知識や技術を身につけておきたいと終夜は考えていた。

 それは今後の人生の為だ。


 5年前のあの事件をきっかけに多くの物を失った。

 今は祖父母の庇護下に置かせてもらっているが、それもいつ終わるか分らない。

 彼らももう高齢だ。

 何があってもおかしくはないし、いつまでも頼ってはいられない。

 いずれにせよこの先には天涯孤独が待ち受けている。


 1人で生き抜けるだけの力が欲しい。

 そう願うからこそ勉強にもスポーツにも全力で終夜は取り組んだ。

 暇な時には体力作りに励むし、祖父母宅の書庫に篭っては様々なジャンルの専門書に目を通す。


 そうやって少しずつ実力と自信を身につけていった。


 弟の悠の事をふと終夜は思い出す。

 生を受けたった4年で散った幼すぎる命。

 あの事件さえなければ今頃小学3年生だ。


 一体どんな子に成長していたのだろうか。

 少なくともこんな兄のような、無愛想で非社交的なつまらない人間にはなっていなかったはずだ。

 母親に似たのか悠はいつも明るくて元気一杯の子供だったのだから。


 サッカーでもキャッチボールでもいい。

 一度全力で遊んでみたかった。

 もう2度と叶わぬ夢だ。


 ピッキングに必要な道具は主に2つ。

 テンションとピックだ。


 まずツールケースの中からピンセット状のダブルテンションを取り出した終夜は、それを鍵穴の中にゆっくりと挿入した。


 テンション自体にシリンダーの中のロック部品を外す機能はない。

 だが内筒ないとうを回転方向に回す為にこれが不可欠となる。


 テンションがしっかり固定されたのを確認し、次にきりのように先の尖ったピックを取り出し、内部の部品を壊さないよう慎重に鍵穴へ入れた。


 錠のシリンダーは内筒と外筒の二重構造となっている。

 外筒の中に収められた内筒を回転させると錠が開く。


 しかし内筒の内側にはタンブラーと言われる円盤上の障害物が外へ飛び出る形で何枚も組み込まれている。

 それが外筒の溝に引っかかる事により内筒が回転しないような仕組みとなっている。


 ところがそこへ鍵を差し込むと、鍵山の形状に合わせてタンブラーが動き内筒の内側へ引っ込む。

 すると回転を邪魔する障害物を失い、内筒がクルッと回りロックが解除されるのだ。


 要するにディスクシリンダーのピッキングとは、タンブラーを正しい位置へ動かしてやる作業だと言える。

 

 手前から奥へ上下に並んでいるタンブラーを1枚1枚ピックの先端で押していく。


 タンブラーの位置が合っていく毎に、先ほど差し込んだテンションの働きにより内筒が少しずつ回転を始める。

 それを目安に手元の動きの正誤や作業の進捗具合などが確認できる。


 だがそれからしばらく時間が経過するも内筒の動きにあまり変化はなかった。

 手元を照らすハンディライトを咥えた口が段々と痛くなってくるのを終夜は感じた。


 そこで少しやり方を変えてみる事にした。

 使っていたピックをケースの中へ仕舞い、また別の形状のピックを取り出す。

 それは少し先端が丸くなっている。


 それを鍵穴へ入れ、その先端で内部を素早く前後に引っ掻く。

 それを何度も繰り返す。


 レーキングと呼ばれるテクニックだ。

 1つ1つのタンブラーを動かす必要がなくピッキングよりも難易度は低い。


 その作業を数分ほど続けたところ、ついに内筒が回転した。

 ここまで来れば後は早い。


(※実際のピッキングでは更に作業が必要です。その具体的な手法は防犯の為に業界関係者以外には出回らないようになっているようで描写はありません)



 鍵を突破できた安堵感とこの場へ立ち入ってしまった緊張感を感じつつ終夜は廊下を進んだ。


 足を1歩1歩進めるたび、瘴気が強くなっていく。


 そして戸の開けられた部屋を左手に見た時、1度足を止め大きく息を吐いた。

 この部屋に違いない。

 この向こうに何かがいる。


 心を決めた終夜は部屋へ踏み込んだ――。



 その帰り道、終夜の顔は青ざめていた。

 その上体が強張っているのを自分でも理解できた。


 あの家には棲みついているものはあまりにも異質だ。

 普通の幽霊などではない。

 化け物と表現するべきだ。


 それ以上に気掛かりなのは化け物の背後に出現している赤い光の筋である。

 何か不可解な気配を感じ探ってみたところあの光が屹立していた。 


 異形の化け物に、その背後に出現する赤い光。


 その正体に1つだけ終夜は心当たりがあった。

 しかしそう判断するには情報が不足している。


 それからと言うもの、ランニングや散歩に出たついでにその家へ立ち寄ってはその様子を外から観察していた。

 ピッキングによる侵入がバレた形跡は無くひとまず安心した。


 そんなある日とうとう家から出ていこうとする有希を捕まえた終夜は、あの家に住んでいた住人に関する情報を強引に聞き出す。


 そして確信した。

 やはり予感は正しい。


 もうこの件は俺と無関係では済まされない――。

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