第2話【三題噺 #63】「朝」「視線」「影」


 実家の印刷工房を出てから丸三日、イェルクは歩き通しだった。

 徒弟生活を終えて職人の第一歩を踏み出すためには、まず古巣から遠く離れなくてはいけない。

 しかるのちに、辿り着いた町の職人宿で働き口を探し、条件が良ければ親方と契約を結ぶ。


 だけど、そんなに急ぐ必要はないかな。と、イェルクは思っていた。

 せっかく故郷を離れて、広い世界に出たんだ。

 ちょっとの間、気ままに物見遊山の旅を続けたって、そうバチは当たるまい。


 遍歴中は職人宿に無料で泊まれるし、食事にもありつける。ついぞ親方になれずあぶれてしまった老いぼれ職人の中には、もはや仕事などせず、そうして各地を転々と渡り歩いている者もいるくらいだ。


 故郷のリューゲシュタットを北上して、まずはベルリンへ至り、そこから西回りでハンブルク、ブレーメン、ハノーファーを見物。南下してカッセルを経由し、秋までにフランクフルトへ行けばいいと、イェルクはのんびり構えていた。


 フランクフルトでは春と秋の二回、大規模な書籍見本市メッセが開かれる。書籍販売に関わる業者が各地から集まってくるのだ。

 印刷工房の親方は、そこで書籍商とうまく繋がり、印刷の大口契約を結ぼうと躍起になる。首尾よくいけば、今度は一冊分作り上げるための職人が必要になる。

 ラテン語とギリシア語の知識がある植字工は、いつでもその辺に転がっているわけじゃないから、まず職にありつけると見ていいだろう。


 ただし問題は。と、にれの木の根元で弁当を広げながら、イェルクは思った。

 朝からこっそりついて来る、どうにも怪しい人影だ。


「ティル。おおい、起きてるかい」


 広げた風呂敷の陰で、黒い革表紙の本を密かに開き、イェルクは呼びかけた。

 ドイツ語の聖書だ。自分一人で全ての印刷工程に挑戦し、見よう見まねで作り上げたものなので、出来はひどい。

 だが、仮にも聖書には違いないらしく、実家の印刷工房で暴れていた<ぐちゃぐちゃ悪魔>のティルを閉じ込める役に立ってくれた。


 裏表紙の内側には、蔵書票によく似た四角い紙片が貼られており、ティルは普段その中で暮らしている……はずなのだが。


「あれ? どこへ行っちゃったんだ?」


 羊皮紙はまっさらで、イェルクが描いてやった悪魔の絵も、アルファベートも、どこにも見当たらなかった。

 代わりにどこからともなく、しくしくと泣き声が聞こえてくる。


「ひでぇ、ひでぇよ。イェルクってば、おいらのこと、放りっぱなし。こんな寂しい場所に追いやって、あとは見向きもしねぇ。せっかく旅の道連れになったのに、これじゃ、誰とも口きけなくったって、元の工房で悪戯してた方がマシだ」


 どうやらすっかりヘソを曲げて、外から見えない場所に隠れてしまったらしい。


「ごめんごめん、ティル。そういえば君のこと、しばらく気にしてなかったね」


 細長い黒鉛に布を巻いた筆記具を取り出すと、イェルクは四角い羊皮紙の中に、リンゴの絵をさらさらと描いてやった。途端に、三角耳を垂らした毛のない猫のような悪魔が姿を現して、大きな口でパクリとひと呑みにする。


「あぐあぐ。あんまりうまくねえな」

「仕方ないだろ。僕は絵描きじゃないんだから」


 それでも満足そうにリンゴを咀嚼すると、ティルは長い舌で口の周りをぺろりとやりながら、ギョロつく目をようやくイェルクに向けた。


「よう相棒。何か用かい」

「どうも誰かが、後をつけてるらしいんだ。朝からずっと視線を感じるんだよ。ほら、あのトチの木の後ろ。ティル、何かわからないかい?」

「ふんふん。人間くせぇな」

「強盗も困るけど、教会の密告者だったら面倒だなあ」


 イェルクは溜息をつき、固くなり始めたパンとチーズを交互に齧った。


 もちろん、自分はれっきとしたキリスト教徒だという自負はある。ただ、悪魔を連れていることは事実なのだ。

 今や十字架の上におわす救い主がお生まれになる前までは、ティルたちは悪魔と呼ばれず、神様の一種だと思われていたこともあるらしい。

 けれども今は、これまたれっきとした悪魔であって、ローマ教皇を神の代理人と見做すカトリック派にとっても、人間は神の前で皆同じと考えるプロテスタント諸派にとっても、等しく人間の魂を堕落させる敵なのだった。

 

 密告者は、カトリックの異端審問官やプロテスタント諸派当局の命令を受けて、街の暮らしに溶け込みながら、悪魔と契約した人間を探しているという。

 神を捨て悪魔崇拝に走ったと判断された人間は、男女問わず魔女と呼ばれ、拷問の末に斬首や火炙りで処刑される運命にあるのだ。

 いくら聖書に封じてあると主張しても、ティルと親しく口をきいているところを見咎められたら、ややこしいことになるだろう。


「どうにかならないかな」

「どうにかしてぇのか」

「強盗か、密告者か、それだけでも確認を……」

「じゃ、トチの木に頼むよう、楡の木に頼んでくれって、インキに頼んでやるよ」


 言うなりティルは、ピュイピュイッと軽快に口笛を吹いた。

 すると聖書のページが勝手にめくれ、印刷された文字の一つが、ぐにゃりと歪んで紙から離れた。Zツェットだ。

 そいつがイェルクの頭上で楡の木の幹にくっつくと、楡の木がざわりと揺れて、木の葉が一枚落ちてきた。

 風に攫われ、木の葉は草むらの上を飛んで、後方のトチの木へと向かう。

 それがトチの木の幹にぺたりとくっついた、次の瞬間。


「わわ!」

 焦ったような声を上げて、一人の男が木陰から飛び出した。


「あ、あいつは!」

 思わずイェルクも立ち上がる。故郷で散々、見知った顔だったのだ。


「ペーターじゃないか!」

「よ、よお。イェルク」


 気まずそうに手を挙げたのは、印刷工房の職人だった。

 プロテスタント派の依頼をよく受けていた実家ではなく、カトリック派の御用達として操業していた、別の印刷工房の刷り工だ。

 親しかったわけではないが、別段、仲が悪かった覚えもない。一体、なんの用だろう。まさか彼が密告者だったのだろうか。


「変な木だよ。急に根っこを動かしてさ。植物ってそんなもんだったかねえ」

 脚衣の尻の部分を手で払い、ぶつくさ言いながらこちらへ来る様子に、イェルクは必死で笑いを嚙み殺しながら尋ねた。


「こんなところまで追っかけてきて、今さら餞別ってわけでもないだろ。一体僕にどんな厄介事をさせる気だい?」

「おいおい、そう警戒するなよ。こっそりつけてきたことは謝るさ。でも、確かめたかったんだ。お前が本当に、悪魔の野郎をこき使っているのかどうか」

「悪魔をこき使ってる?」

「違うのかい。だって有名だぜ。金熊印刷工房のイェルクは、遍歴の旅に出立かたがた、工房に取り憑いていた<ぐちゃぐちゃ悪魔>を騙して捕まえて脅しつけて、道々下男代わりに使うために従えてるってさ」

「ひどい噂だ。とんでもないよ!」

「じゃ、やっぱり、実はお前が悪魔のしもべなのかい?」

「それも違う! 頼むからそんなこと、他の人の前で言わないでくれよ」

「けど、それじゃ、噂は全部嘘ってことになるじゃないか」


 がっくり肩を落とすペーターの様子に、イェルクは何か事情があると感じ取って、口調を優しくした。


「さあ、まずは話してみてよ。僕が悪魔の主人かしもべか、そんなことは置いといてさ。もし悪魔がいたら、君はどうするつもりだった?」

「これさ。とんでもないことをしでかしたんだ」


 そう言って荷物からペーターが取り出したのは、インキで真っ黒に汚れた紙だった。ただの紙じゃない。手書きの文字が書いてある。

 すぐにその正体がわかって、イェルクは息を呑んだ。

 原稿だ!

 

「依頼主の原稿を、うっかりインキで汚しちまったんだ。工房は今、前の仕事を仕上げたところで、新しい刷り工が来るのを待っているんだよ。到着次第、こっちの原稿に取り掛かる予定だ。それを台無しにしちまった。おまえならわかるだろ? これがどんなに恐ろしいことか」


 もちろん、イェルクにはペーターの気持ちが痛いほどわかった。依頼主は自分の原稿を粗末に扱われたことを怒り、印刷の仕事をそっくり取り上げるかもしれない。そういう場合、下手をすると数ヶ月分の売り上げを一気になくすことになり、親方は自腹で職人たちの給金を支払うはめになる。当然ながらペーターの失敗を咎め、その補填を要求してくるだろう。ペーターは支払いを終えるまで無給で働かされるに違いない。


「おまえが悪魔に命令できるなら、このインキをどうにか取り除いてもらえないかって、そう思ったんだよ」

「うーん。ちょっと貸してごらん。聞いてみるよ」


 言ってから、しまったと思って、イェルクはペーターを見つめた。


「何が起こっても僕を密告しないって、誓うならね」

「誓う、誓う」


 ペーターは口から魂が出そうなほど頭を振っている。

 これなら大丈夫だろう。イェルクは彼から少し離れて背を向け、こっそり自作の聖書を開いた。


「今の話、聞いてただろ。君にこれ、なんとかできる?」

「インキの汚れか。おいら、ずっと印刷工房にいただろ。んで、こんなところに閉じ込められているせいで、どうもインキと相性が良くなっちまったんだよな。おいらが頼めば、なんとかなると思うぜ。でも、報酬はいただくぜ」

「どんなものだい?」

「なあに。余分なインキを取り除いた後、そっくりそのまま、おいらの好きにさせてくれたらいいのさ」

「元の汚れに戻すのは、駄目だよ」

「誰がそんな骨折り損をするもんかい」


 ティルを信頼して、任せることにした。

 羊皮紙の中の悪魔は、先ほどと同じように、ピュイピュイッと口笛を鳴らす。

 すると突然、原稿の上で真っ黒なインキ汚れが蠢いて、シーツのようにふわりと空中へ浮き上がった。


「ひゃっ、ひえええ!!」

 ペーターは度肝を抜かれて、尻もちをついている。


 植字工の習いだ。読めるようになった原稿につい視線を落として、イェルクは愕然とした。


「これ、悪魔崇拝を弾劾する辻説教のパンフレットじゃないか!」

「あ、ああ、そうさ。最近じゃパンフレットの刷りがいい稼ぎなんだ……」


 辻説教とは、説教師と呼ばれる人たちが各地を巡り歩き、街角に立って自らの宗教的信条を大衆に教え伝えることを言う。人気のある説教師がやって来ると、町を挙げての大歓迎になり、聴衆者が押し寄せて大変なことになる。


 その辻説教に、最近では活版印刷が活用されているのだ。特に絵入りのものは、文字の読めない人々にもわかりやすいと評判だった。


「隣人に次のような疑いがある場合は報告せよ。悪魔と話し、その力を行使すると噂のある者。悪魔の僕であると噂のある者。悪魔を厭わない態度の者……」


 原稿を口の中で読み上げて、イェルクは脂汗をかいた。


「まずいよティル。僕これ、全部当てはまってるよ」

「まずいのか?」

「捕まったら拷問されて、処刑だよ」

「そりゃ困るな。イェルクがいなくなったら、おいら、つまんねえもん。じゃ、こうしておくか」


 ティルは回収したインキ汚れを羊皮紙の中に取り込み、小さく畳もうと四苦八苦している様子だったが、そのうち一部をちぎり取ると、手に乗せて息を吹きかけた。

 リボンのようにひらひらと、細くたなびくインキが原稿の中に舞い戻る。


「う、うまくいったのか?」


 ペーターが立ち上がり、恐る恐る聞いてきた。

 インキの落ち着き先を見届けて、イェルクはにっこりと笑う。


「うん、うまくいった。これからは気をつけろよ。さ、早く戻った方がいい」


 何度も何度も礼を言い、大切に原稿をしまいこんで、ペーターは戻っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、イェルクはティルが原稿の最後に付け加えた一文を思い出す。


『……悪魔とその崇拝者は滅ぼさねばならない。

 ただし、印刷工のイェルクと<ぐちゃぐちゃ悪魔>は別である。』


「変に思われないかなあ」

「もう充分、変に思われてんだろ?」


 広げた荷物を再び背負い、黒い革表紙の聖書を片手に、イェルクは歩き始めた。



<了>


注・リューゲシュタットは架空の都市名です。

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ぐちゃぐちゃ悪魔と文字使い 鐘古こよみ @kanekoyomi

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