【KAC2023③】ぐちゃぐちゃ悪魔と文字使い

鐘古こよみ

ぐちゃぐちゃ悪魔と文字使い

 またやりやがったな、<ぐちゃぐちゃ悪魔>め!


 兄弟子の怒鳴り声を聞いてイェルクが駆けつけると、活字箱がやられていた。AアーCツェーに、DデーZツェットに。銀色の細い角棒の先についたアルファベートを確かめると、まるででたらめの場所に入れられている。


 活字は活版印刷に必要な文字の素だ。鉛と錫とアンチモンで作られた合金の活字を並べて一頁分の文章を組み、インクを馴染ませ紙を押し付け、印字する。

 ぶどう絞り機を見てワインではなく書物を生み出すことを考えたグーテンベルクは、本当の天才だとイェルクは思う。


 その書物を生み出す第一歩が活字拾いだった。手早く目的の文字を拾って文章を組めるよう、活字はアルファベート順に活字箱の決められた場所に入っていなければならない。それがたまに、こうしてぐちゃぐちゃにされていることがあるのだ。


 兄弟子は憤懣ふんまんやるかたないといった表情で、途中まで活字を並べた植字枠ステッキを押し付けてきた。

「おまえがやれ。時間がないんだ。あの悪魔の糞野郎をどうにかしろよ」

 でも僕は荷造りが、とイェルクは言いかけたが、兄弟子はさっさと行ってしまった。肩をすくめ、イェルクは天井の片隅を呆れ顔で見やる。


「どうしてこんなことをするんだ、ティル」

「だって、だって」


 梁にしがみついてガタゴト泣いているのは、お世辞にも美しいとは言えない魔物や妖怪のたぐいだった。禿げ頭の両脇に垂れた三角形の耳といい、やたら巨大なギョロ目といい、毛のない猫にも見えるが、貧相な体つきは人間と似ている。


「その本が出来上がったら、おまえ、行っちまうんだろう? イェルク」

「まあね。仕方がないよ。それが遍歴職人ってものさ」


 本当なら、もっと早くに出発しているはずだったのだ。折悪しく近隣諸邦で農民反乱が勃発し、時機を伺っているうちに冬になり、春先まで足止めを食う羽目になっている。早く生家とは違う印刷工房で修業を重ねて、一人前になりたいのに。


「おいらと遊んでお喋りしてくれるの、おまえだけなんだ。つまんねえよ」

「君のこと、見えない人は見えないし、見えても悲鳴を上げて逃げていく人が大半だものね。仲良くなりたいならまず、こういう悪戯するのやめたら」

「だって、だって」


 ガタゴトガタゴト。ティルが梁を揺らすたび、家の柱や壁がピシピシと鳴る。同じ部屋で作業中の他の職人たちが迷惑顔で、「なんとかしろ」と視線を送ってきた。


「なあ、やめろったら。そんなことするからガタゴト柱小僧ルンペルシュティルツヒェンなんて呼ばれちゃうんだぜ」

「<ぐちゃぐちゃ悪魔>だろ」

「ここの職人たちはそうだけど」


 何か気に入らないことがあると、ティルはすぐに活字をぐちゃぐちゃにする。それが印刷工房の職人たちにとって一番我慢ならないことだと知っているのだ。


「なあ、頼むよイェルク、おいらも連れて行っておくれ」

「どうかなあ。君は一応、家霊なんだろ? ここから離れるの難しいんじゃないか」

「じゃ、代わりの家をつくってくれよ」

「無理言うな。つくれたとして、どうやって持ち歩くのさ」


 手際よく活字を元の場所に戻したイェルクは、今度は原紙を見ながら植字枠ステッキに文字を拾っていく。

 内容はキリスト教のルター派について、カトリック教会との違いを熱く述べているものだ。ラテン語ではなくドイツ語で書いてあるのは、庶民に読ませる目的の書物だからだろう。ルター派はヨーロッパ各地で既に広く波及しており、この工房も例外ではない。

 ひとつ、信仰のみを義とする。ひとつ、聖書のみが正しい。ひとつ、全ての信仰者を祭司とする……。

 口の中で文章を読み上げていたイェルクの脳裏に、あることが閃いた。


 一頁分の植字を終え、組版を糸で縛り上げて印刷工に託すと、いったん自室に戻り、手に四角いものを携えて戻ってくる。

「なんだい、それ」

 首を傾げるティルに、誇らしげに黒い革表紙を掲げてみせる。


「ドイツ語の聖書だよ。植字と組付けとインク塗りとプレスを全部やってみろって、父さ……親方がつくらせてくれたんだ。持ち運びしやすいように八折判にしたんだけど、まあひどい出来さ。植字はところどころ間違ってるし、上下逆にしちゃったり」


「そんなにひどくしたら、おまえたちの神様は怒るんじゃないか」

「怒るかも。だからこれは、君にあげるよ」


 ティルは目に見えて怯え、ぶるぶると身を震わせた。

「何言ってんだ、やめてくれよ。おまえたちの神様、怖いんだよ。おいらたち昔からいたのに、みんなみんな、光の届かない隅っこに追いやられちゃったんだぜ」


 家の精に森の精、川の精、山の精。ドイツには様々な精霊が暮らしているが、聖職者に言わせるとそれらは全てが悪魔で、人を惑わすために存在しているのだそうだ。


「うん。薬草売りのお婆さんが言ってるの、聞いたことあるよ。君たちは昔、神様みたいなものだったけど、僕たちの神様が現れたから、悪魔になっちゃったんだって。あのお婆さんは君の姿が見えるのに怖がらない、珍しい人だったな」

「逆においらの方が怖かったよ、あの婆さんは」


 何か不信心な話をしているな、と職人頭に睨まれた。首をすくめ、イェルクは部屋の隅に行ってティルを手招く。恐る恐る影を伝いながら降りてきたティルは、明るい窓辺を避けてイェルクの背中に貼り付いた。


「ティル、教会ってわかるだろ。神様がお住まいになられる家だ。カトリックとルター派の大きな違いはね、教会をどう考えるかってところなんだ。カトリックで教会と言えば、十字架が屋根のてっぺんに載った、本物の建物のことだろ。でも、ルター派は違う。一人一人の心に中に教会があって、全員がその祭司だって考えるんだ。だからルター先生は、聖書をラテン語からドイツ語に訳したんだよ。誰もが自分で神の言葉を直接読めなければ、祭司になることはできないから」


「イェルク、どうしちまったんだ。おいら、ちっともわかんねえよ」


「まあ聞いてよ。つまり、一人一人が教会を持つためには、聖書が必要なんだ。ルター派にとって、神の家は聖書なんだよ。君は元々、神様だったんだろ? ちゃんとした聖書には住めないかもしれないが、この出来の悪い聖書の中にだったら、むしろ住めるかもしれない」


 ティルはイェルクの背中から肩越しに聖書を見た。

 しばらく考えてから、確かになあ、とつぶやく。


「間違いだらけの神様の家なんて、悪魔には持って来いだ」

「だろう? もしこの中に入れるのなら、君も一緒に旅に出られるかも」


 うん、と頷いたものの、ティルはまだ尻込みしている。


「だけど、怖いなあ。出て来られなくなったらどうしよう。イェルク、おまえの考えはわかったからさ、どうせなら、もっとおいらに合う家にしてくれないか」

「うーん、仕方ないなあ」


 帽子の間に指を入れて頭をかき、少し考えてから、イェルクはティルを背中にぶら下げたまま、再び自室に戻った。書き物机に座り、鵞ペンにたっぷりとインクを含ませて、書き損じの羊皮紙の切れ端にさらさらとペン先を走らせる。


 描かれたのは小さな悪魔だった。垂れ下がった三角耳と大きな目がティルにそっくりで、周囲にはアルファベートが散らばっている。

 獣脂蝋燭に火を灯し、溶けた蝋を自作聖書の裏表紙の内側に垂らすと、描き上げたばかりの悪魔の絵を急いで貼り付けた。標語モットーはないが、まるで蔵書票だ。


「これならどうかな」

「うん、これならいい。おいらそっくりだ」


 嬉しそうに言うなりティルは、すうっと絵の中に飛び込んだ。

 次の瞬間、紙の上で悪魔が瞬きをし、散らばるアルファベートを道化師のようにお手玉してみせ、にやりと笑う。


「ここ、いいな。気に入った」

「それは良かった。大人しくしていてね」


 イェルクは裏表紙を閉じて聖書を机の上に載せ、軽く伸びをした。

 これで仕事が捗るだろう。ティルにはああ言ったが、間違いだらけとはいえ、仮にも聖書だ。悪魔を封じるくらいの役には立ってくれるはず。

 もちろん、ずっと閉じ込めておくわけではない。仕事の間は邪魔をしないでほしいだけなのだ。それに、結果的にはティルの希望通り、一緒に遍歴の旅へ出ることができるのだし。

 こんこん、と聖書からノックの音がした。


「おーいイェルク。おまえ、もしかして騙したか?」

「ちょっとはそこで反省してなよ、<ぐちゃぐちゃ悪魔>さん」


 変わった道連れのお陰で、遍歴の旅はきっと、普通では終わらないだろう。



<了>





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