第6話 美容師の弟
十一月十二日 午前九時五十三分
JR根岸線の石川町駅で、俺は改札口の向こうに
石川町駅は
野川はAラインのピンクの膝丈スカートに白のニットを着て、白いカーディガンを羽織っている。スカートのウエストには黒いリボンが付いていて、カバンとパンプスも黒だ。
パンプスにも頭にもリボンが付いている。
――俺がアレと合わせるの、か……。
野川は、すでに到着している俺を見つけ、小走りになった所で前から来た人とぶつかった。その人に何度も頭を下げて謝罪し、また小走りで改札を抜けてきた。
「おはようございますっ! 遅くなりましたっ!」
見た目にそぐわないデカい声の清楚系が頭を下げる相手は、青いスリーピースの細身スーツに茶色のベルトと革靴、水色のクレリックのワイシャツを着てる俺だ。
パーマの茶髪を後ろで結んでいる俺だ。
ほぼ直角にお辞儀をする清楚系を壁にもたれて腕組みしながら無表情で眺める俺だ。
――どうしてこのポンコツは目立つことをするのかな。
改札から出てきた人、改札に向かう人、全てがこちらを見ている。小動物のような清楚系と、胡散臭そうなサラリーマン風の俺の組み合わせが特異に映るのだろう。
――お気持ちはわかります。
「おはよう」
「髭を剃ったんですね! 最初わかりませんでした!」
「あの……行こうか」
「はいっ!」
俺は駅前で待ち合わせしたことを後悔した。今日は弟が勤める美容院で俺と野川の見た目を合わせるために来たが、美容院で待ち合わせすればよかったと心底後悔した。
◇
弟が勤める美容院は駅から徒歩三分。
歩き始めてから俺の左後ろにいる野川は、俺の歩幅について行こうと小走りになっていた。
「ああ、ごめんね、気が利かなくて」
「すみませんっ! 遅くてっ!」
少し息を弾ませてデカい声で話す野川に皆振り返る。俺は眉根を寄せて、あと少しだからと野川に言ったが、野川は俺の脇をすり抜けて先を歩いた。
元々背の低い野川の歩幅は狭いし、履き慣れない五センチのヒールで尚更狭くなっている。すぐに追いつく俺は、『歩調を合わせるから普通に歩けばいいよ』と伝えたが、無視して一生懸命小走りしている。
野川と所轄が同じ
弟の勤める美容院は、一階と二階にテナントがあるビルにあり、中央に踊り場のない階段がある。階段を上がれは左側に美容院がある。
ビルに着いた俺は、エントランスホールでキョロキョロ見回して目を輝かせている野川にため息が出たが、その階段を何の疑いもなく上がろうとする野川に話しかけた。
「あのさ、こういう階段って下からパンツ見えちゃうけど、そういうの気にしないの?」
目を見開いて俺を見上げる小動物は、口を開けたまま何と返事をすればいいのか悩んでいるようだ。
「いや、俺が見るとかじゃなくてさ」
少し疑いの目を向けながら『それはわかります』と言う野川に、俺はさらに眉根を寄せて後ろにあるエレベーターを指差した。
◇
エレベーターの中で、俺は野川の香りに気づいた。この甘い香りは優衣香と同じだ。二階に到着して野川に訊ねると、商品名を答えた。確かにそれは優衣香のシャンプーに書いてあった商品名と同じものだった。
「会議の時、松永さんからこの香りがしてビックリしたんですよ! これすっごくいい匂いしますよね! お気に入りなんです! 松永さんもですか? お揃いで嬉しいです!」
――びっくりするほどポンコツだな。
でもよかった。ポンコツ警察官で本当によかった。サロン専売品の女性向けヘアケア商品を独身男性警察官が使うと信じて疑わないポンコツ警察官で本当によかった。普通、女の部屋で使ったと思うのが自然だろうに。
だが、この小動物はインテリヤクザの
無表情でポンコツ野川を眺めながらそんなことを考えていると、ガラスの扉の向こうの人影がこちらを気にしている気配がした。
清楚系と胡散臭そうなスーツ着た男――そんな俺らを不審に思うのは当然だ。
「……兄ちゃんだ」
美容院から出てきて、俺が自分の兄だと確信が持てずにいた弟の声がした。
「おう」
「いらっしゃい」
弟に毎回髪型を変えてもらってその時の仕事に合うようにガラリと印象を変えるが、この弟も毎回違う髪型や髪色をしている。今日は不思議な髪色をしていた。
「その頭何色なの?」
「これはチンチラシルバーだよ」
「あ! 聞いたことがあります! 綺麗な色ですね!」
「……ああ、こちらは野川だよ」
「はじめまして! 野川です! よろしくお願いします!」
ほぼ直角にお辞儀する野川を、弟と顔を見合わせて苦笑いした。
◇
店内では女性美容師が待っていた。女性美容師には野川のカットとヘアアレンジの講習をお任せする。
俺は弟に案内されたシートに座り、鏡越しに弟と顔を見合わせるが、早くもお互いに挫けそうになっていた。
「俺、アレを初めて見た時の格好を見てさ、この胡散臭いサラリーマン風でいけると思ったんだけど、今日のアレ見たら完全に間違ってた」
「あー、方向性は合ってるけど……若干ズレてるね」
「どう見てもホストクラブの客引きと客、もしくは
弟は笑いを堪えて肩が揺れている。
「俺もコレはやり過ぎだったかもとは思う……でも、頭にもリボン付けてるの見て挫けたよ」
「……小柄で可愛い子だね」
「今後は普通のスーツにするから。よろしく」
小動物の野川を横目で見て、鏡越しに俺を見た弟のため息が聞こえた気がした。
◇
「午後は加藤さんが来る予定だよ」
ストレートパーマの薬液を手際よくかけている弟から声がかかった。加藤は相澤とペアを組んだから、ギャルから相澤に合わせた髪型にするのだろう。会議で見た加藤はパーマをかけたロングヘアで、グレーっぽい髪色だがハイライトとインナーカラーもしていた。
「ペアは相澤だから。相澤に合わせた髪型にしてあげて。ヘアアレンジもね」
「オッケー。加藤さんは器用だからヘアアレンジを教えてもいつも完璧なんだよね」
その言葉で弟と鏡越しに目が合い、そのまま野川へ視線を動かしたが、多分、二人とも同じことを考えただろう。だが、あえて口にすることもないなと目で会話をした。
◇
「今ストレートパーマやって、次はカラーで、最後にカットするよ」
「時間かかるよね?」
「そりゃ。時間になったらまた来るよ」
普段美容院のこの待ち時間は雑誌を読んでいるが、今日は野川を連れているから野川と美容師の会話を聞いてみようと思った。
事前に弟経由で警察官であることは伝えてあるから職業や仕事に関することに美容師は触れないが、話を聞いていると若干、危ない気がする。
野川は警察官になって六年だが、ポンコツ故に危機感がない。こんなのとペアを組むのは本気で嫌だが、仕方ない。相澤とペアを組んだ加藤の方が俺と見た目が合う。年齢もそうだが、何よりも彼女の能力があると俺はとても助かる。
「好きな人がいます」
若い女の子の声なら微笑ましいで済む言葉も、ここで聞くのはよろしくない言葉――。
その声の主である野川の姿を鏡越しに眺める。相澤のことを言っているのだろう。官舎で同室の仲のいい俺に聞かせたいのか。まあ、野川ならそのままで相澤はコロッといくだろうが、俺は反対だ。だってこのポンコツは信用出来ないから。
――
ピピッとタイマーが鳴って、弟がこちらにやってきた。肩に巻いたタオルで頭を巻き、奥にあるシャワー台へ向かう。
やっと野川から逃れられることに安堵のため息が出た。
「疲れちゃった?」
「いや、アレがもう嫌になった」
「ふふっ! もう?」
薬液を流している間、弟は優衣香が来店したことを話していた。
「ああ、家にシャンプーがいつもと違うのがあった。ここで買ったの?」
「そうそう。女の子の香りがするシャンプーね」
「ふふっ」
「
弟は優衣香のことを『優衣ねえ』と呼ぶ。歳の離れた弟を優衣香は弟のように可愛がった。弟は幼い時に上手く名前を言えなくて、『優衣香おねえちゃん』を略して『優衣ねえ』と呼んでいた。
「美容師さん。そのシャンプーのあまーい記憶がポンコツ野川に上書きされて、ぼくとても辛いんです」
「ふふっ! 最悪だ、そりゃ」
野川の席からは女性美容師と仲良く話す声が聞こえる。言葉の端々に相澤のことを言っているのだと思われる言葉が散らばっていた。
それを聞きながらため息をつくと、弟は後で炭酸ヘッドスパやってあげるよ、と言った。
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