第3話 そよぐ風は恋を運ぶ
十二月九日 午後五時三十二分
笹倉優衣香は松永敬志の弟が勤める美容院にいた。
席に座る優衣香に、松永の弟は兄が続けて二回来たと言うと、優衣香は口元を緩めた。優衣香も弟に『私も二回続けて会ったよ』と言うと、彼は一瞬目を彷徨わせたが、何かに気づいたようで頷いた。
「この前はわざわざ来てくれてありがとうね。おばさんの所に御礼は送ったから、
毎年、松永敬志の母は優衣香の両親の命日前後に優衣香のマンションを訪問していて、今回の訪問は三男の
「兄ちゃんも行けたんだね」
「そうなの、夜遅くだったけどね」
◇
カラーの調合を終えた
優衣香の顔を鏡越しに眺めた理志は、口元を緩めて、『兄ちゃんは茶髪でパーマかけた優衣ねえがお気に入りだもんね』と言うと、優衣香は目を見開いた。知らなかったようで、『えっ』と言ったまま次の言葉が出て来る様子はない。
「えっ、知らないの? 兄ちゃんは言ってないの?」
「……聞いたことないよ」
「なら兄ちゃんから聞いてね。ふふふ」
「そうだったんだ……」
「今日の優衣ねえの予約はカラーとパーマだったから、てっきり兄ちゃん好みのヘアスタイルにするのかと思ってたよ。さっき色見本見せた時も迷わず茶系を選んでたから」
初めて聞かされた敬志の好みを知り、目を彷徨わせて考えていた優衣香だったが、思い出したことがあったようだ。
「ゆるふわカールで愛され女子、みたいなヘアスタイルかな?」
「そうそう」
「あー、確かにあの時、敬ちゃんは嬉しそうにしてた」
優衣香は
◇
「
ロッドを手際よく巻いている理志に優衣香が問いかけた。敬志のストレートパーマをかけた、黒髪の長めの髪型は何と言う名前なのかを理志に聞いたが、ツーブロックで刈り上げた今のヘアスタイルではないことはわかっている理志は、『特に名前はないよ』と答えた。
「そうなんだ。敬ちゃんにも聞いたの。でもわからないって言ってて」
「ん? なんかあった?」
「敬ちゃんに『そのおかっぱ頭は何て言う髪型なの?』と聞いたの」
「おかっぱ!!」
肩を揺らせて笑いを堪える
「ああ、そういう……そうか……んふっ」
「ん? なに?」
「今はもう兄ちゃんは髪型変えたよ。手入れが大変だからって言ってて……なんだ、そういう意味だったんだ……」
「ん? 髪の毛を短くしたの?」
「んふっ……いや、まあ、毛の量は半分になったのは確かだよ」
「んん?」
◇
十二月九日 午後九時三十三分
冬の夜道を一人で歩いているが、不意に吹いた冷たい風に思わず首を竦めた。俺も相澤も官舎に帰るどころが寄ることすら出来ず、相変わらずマフラーのない日々は続いている。ワイシャツを着ているからある程度は首の露出部分を隠せているが、いかんせん頭の下半分が寒い。
チェスターコートのポケットに入れていた手を出し、指先へ息を吹きかけ温めていると、視界の端にちらちらと煌めく光が映った。見上げた視線の先には、イルミネーションによって彩られた街路樹がある。冷えた体に温かな気持ちが広がるのを感じつつ、いつものバーに寄ろうと少し早歩きになった所で、バーテンダーの
その女性は望月とほぼ変わらない背丈だ。ヒールは七センチ程だから背丈は一メートル六十五センチといったところか。
――隠れた方がいい気がする。
俺は
店外に見送りなんて珍しいな、どういう関係なのかと二人を見ていると、女がお辞儀して、望月も同じようにして女が振り向いた。
――優衣香だ。
少し歩いて自販機の蛍光灯に照らされた優衣香はまた望月に振り返り、まだ見送っている望月にまたお辞儀した。
あと十メートルで優衣香は俺の前を通るが、望月が店に入らない限り声をかけられないし、優衣香に気づかれてもいけない。
あと八メートル。
まだ望月は優衣香の後ろ姿を見ている。
優衣香は望月の店に一人で来ていたのだろうか。
あと五メートル。
角を曲がって俺とは反対側に行った優衣香を見て、望月は店内に入った。
――優衣ちゃん! 待って!
一方通行の幅員六メートルの道を渡り、キャメル色のコートを着る優衣香の後ろ姿を見ながら追いかけた。
優衣香は自分に迫り来る足音に気づいて振り向いて俺と目が合ったが、俺とは気づいていない。
「優衣ちゃん」
「ひいっ……」
「優衣ちゃん」
驚いて目を見開いている優衣香は、やっと俺だと気づいてくれた。
「敬ちゃん! びっくりした!」
「俺もだよ。ふふっ」
「えっと、仕事中……?」
「うん、そうだよ」
優衣香は何かを言いかけたが、やめた。仕事に関わることだから聞いてはいけないと思ったのだろう。そんなの優衣香に申し訳ないと思うが、俺を思いやってくれることが嬉しかった。
「あの店はよく来るの?」
「たまにね、いつも
「そうなんだ」
美容院と言われて、髪型が変わったことに初めて気づいた。パーマをかけたのか。風がそよぐといい香りが優衣香から漂う。ポンコツ野川に記憶を上書きされたシャンプーとは違う香りだ。
「敬ちゃんは短くしたんだね」
「ん? ああ、後ろで結んでるんだよ。長さは変わらないよ」
優衣香はなぜかクスクス笑っている。どうしたのかと問うても、理由を言わない。まあいいか。優衣香が笑っているから。
「今日、パーマをかけて、髪色も変えたんだよ」
髪色は暗くてよくわからないが、パーマは大きなカールだった。肩に乗る髪の毛が風に揺れていた。
風に揺れる優衣香の髪、俺はそれが好きだ。
「優衣ちゃん、可愛いね」
「んふっ」
「なに? どうしたの?」
笑いながら優衣香は『ありがとう』と言う。
そんな姿が俺には嬉しくて、ここで会えたのも嬉しくて、優衣香を抱き寄せた。だが、優衣香は腕を俺の胸にやり、抱き寄せても密着しないようにした。
「えっ……優衣ちゃん、だめ?」
「違う違う。 メイクがコートとかワイシャツに付いちゃうから……」
ああ、そうか。いつも俺は夜遅くに優衣香のマンションで会う。その時メイクはたいてい落としている優衣香を抱き寄せているから、服にメイクが付くことなど気にしたことはなかった。
「ああ、そうか。ごめんね、気遣ってくれて」
メイクが付かないように優衣香は顔を上げて、俺に身体を寄せてきた。
「優衣ちゃん、キスしてもいい?」
「口紅が付いちゃうよ?」
「ああ……でもいい、少しだけ」
後であのバーに行くから、そこで落とせばいいと思った。優衣香は『いいよ』と言って、俺の目から唇へと視線を落とした。
触れる触れないか、でも触れるくらいで優衣香にキスをした。唇を離すと、優衣香ははにかんでいた。
「優衣ちゃん、もう帰る? もう少しだけ時間あるかな?」
「うん、大丈夫だよ」
「あの店、俺も長いこと行ってるんだよ」
「えっ!! そうなの?」
聞けば、優衣香は以前勤めていた会社の同僚と週に一度、あの店に行きダーツをしていたという。その同僚からダーツを教わったのだが、初めはソフトダーツをしていた。あの店でハードダーツが出来ると知った同僚が優衣香と週に一度は行くようになったという。
「俺もあの店でダーツをするんだよ」
「そうなんだ!」
お互いに知らなかった共通点があることを知り、抱き寄せたまま笑い合った。
「あのね、バーテンダーに『今度、俺の彼女を連れて来る』って言ったんだよ」
「そうなの……んふっ……」
「なに?」
笑顔のまま、優衣香は目を伏せた。少ししてから、優衣香は『彼女』と言った。
「うん、彼女だよ。優衣ちゃんは俺の恋人」
「そうだね。私は敬ちゃんの恋人になったもんね」
恥ずかしそうにする優衣香が可愛くて、俺はもう一度唇を合わせた。
「優衣ちゃん、手を繋いでもいい?」
「うん」
優衣香の右手を取って、手を繋いだ。
優衣香の手は骨張っていて手のひらも大きくて指も長い。決して小さな手ではない。でも、俺にとっては優衣香の可愛い手だ。『初めて手を繋いだね』と言うと、優衣香は笑った。
「あの……敬ちゃん」
「なに?」
「大変長らくお待たせしました」
「……んっ?」
優衣香が何を言っているのかわからなかったが、『ラブレターの返事』として優衣香はこの前俺は好きだと言ってくれた。今日はその後の日だ。そういうことか。
「ふふっ、二十二年、待ってました、だね」
優衣香に俺は仕事中で、夕飯を食べるためにあのバーに行くから店内滞在時間は四十分程だと伝えた。笑顔で頷く優衣香の手に俺は力を込めると、優衣香も握り返してくれた。
バーの扉を俺は右手で開けた。左手は優衣香と手を繋いだままだ。
バーテンダーの
――もしかして……。
コイツ、客に手を出そうとするなんてバカなのかなと思ったが、その女が俺の女だと知って絶望しているかわいそうな望月にエレガントな微笑みを返した。
――未遂なら俺は気にしないよ。
「いらっしゃいませ」
「俺はロングアイランドアイスティーで。優衣ちゃんは?」
ハンドサインはもちろんノンアルコールだ。
今夜は優衣香と過ごせる楽しい時間のはずだったのに、コイツがドリンクや料理に何かを仕込まないか監視しなきゃならないようだ。
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