第2話 欲しいもの

 十一月二十一日 午後九時二十分


 駅を出て歩き始めてから二十分以上経つだろうか。俺はただ黙々と歩いていた。道の両脇にある家の窓は暗く閉ざされていて、時折、外灯だけが夜道を照らしている。


 冷たい風が頬に触れ、思わず身震いしそうになった時、俺は路地を曲がり路駐してあるワンボックスカーに身を隠した。


 ――ここで、終わらせる。


 足音が近づいてくる。


 足音が通り過ぎる。


 俺を見失ったことに気づいて元の道に戻ろうとその足音の主が振り返った瞬間、俺は車の影から出て立ち塞がった。


「こんばんは、お嬢さん」


 立ち塞がる俺を見上げているのは野川里奈だ。逃げることも出来ず体が硬直している。


 官舎に戻ると言ってマンションを出た後、すぐに野川の尾行に気づいた。

 電車に乗り、官舎の最寄駅がある路線の乗換駅で俺が降りなかった時、野川は誰かに連絡していた。おそらく米田だろう。

 俺が官舎に戻ればお役御免だったのかも知れないが、俺は優衣香のマンションの最寄駅で降りた。そこでは連絡をしていなかったから、野川は俺の女のマンション最寄駅を事前に教えられていたのだろう。

 駅を出て、優衣香のマンションに向かうフリをしながらどこで野川を捕獲するか思案していた。同時に、相澤に連絡して公用車で迎えに来るように手配もした。


「相澤と加藤が迎えに来るよ」


 恐怖に身を竦ませる野川は、俺を見上げたまま何も言わなかった。口を開けるが声が出ないようだ。目には大粒の涙が溢れ出てきた。


「あのね、俺は、怒ってない。大丈夫だから。加藤がすぐ来るから」


 その言葉を聞いて唇を噛み締めたが、涙は止まらない。ハンカチを手渡すが、手も動かせられないようだ。仕方なく俺は野川の涙をハンカチで拭ってやった。


「お前はよくやってる。お前は勉強して、出世しろ。偉くなって、こんなことを若手にやらせるクズを片っ端から潰していけ。お前なら、出来る」



 ◇



 ヘッドライトが道を照らして、消えた。


 野川の涙が止まる頃、後ろに車が止まった。

 ドアを閉める音が二回。

 走る寄る足音は二人。


「お待たせしました」


 相澤のその声より早く加藤は野川を拘束していた。加藤は目礼をしただけで野川を車に連れて行く。そこで初めて野川が嗚咽を漏らした。しゃくりあげるその声は遠ざかり、ドアを閉める音が聞こえた。


「松永さん、この後……」

「帰る」


 今日は官舎に戻るつもりでいた。野川の尾行に気づいたから仕方なく優衣香のマンションの近くにいるだけで、優衣香に会う気は最初から無い。


「えっ……でも……」

「なに?」

「いや、せっかく近くまで来たのに……」

「時間遅いよ? 連絡してないし」


 そうですかと言った相澤だが、せっかくだから連絡してみればいいと言う。『そうだな』と答えると笑顔を見せた相澤へ野川のことを指示した。そして最後に付け加える。


「ねえ、裕くん。野川に優しくしちゃダメだよ。いい?」


 俺の言いたいことを汲み取った相澤は頷いた。



 ◇



 午後十時四十四分


 町沢署の最寄り駅のタクシー乗り場に着いた。

 タクシー乗り場は並ぶ列もなく、ロータリーにはタクシーは何台も止まっている。


 俺は先頭のタクシーに乗り込み、運転手に町沢署までと伝えると、運転手は意味ありげな目線をルームミラー越しに送ってきた。

 走り出したタクシーは五分も経たずに町沢署の裏手に到着し、タクシーを降りた俺は一階にいた当直員を見て、歩きながら手帳を見せて階段に向かった。


 階段下で俺は目を閉じて深呼吸をする。そして階段を二段飛ばしで一気に駆け上がった。



 ◇



 この時間も署に武村がいることは相澤から聞いている。

 優衣香のマンションの最寄駅を知っているのは相澤だけだったが、武村はあの日俺が女の匂いをさせていたことと、長い付き合いの女がいると話したことを米田に話したのだろう。だが、武村が話していようといまいと、野川に俺を尾行させて優衣香のマンションを突き止めようとするに違いない。


 ――そんなことやらせんなよ、クソが。


 四階を過ぎた時に臨場服を着た交通捜査課員が降りてくるのが目に入った。『どけ』と睨みながら階段を上る俺を見て、交通捜査課員が怯んだ。


 五階に着いた。

 照明が最小限に絞られた廊下の先に刑事課の室内灯が漏れ出している。

 歩きながら両腕を上げ背筋を伸ばし、首を回し、肩を回す。

 刑事課のドアを前にして小さく息を吐く。そしてノックもせずに俺は扉を開けた。


 突然の俺の入室に刑事課員は皆驚いていたが、その中でも一番驚いた顔でこちらを見た奴がいた。

 俺はそいつの机まで行くと、足元にあったゴミ箱を蹴飛ばした。ガンッと大きな音を立てたゴミ箱はキャビネットに当たってまた大きな音を立てている。中身がそいつの足元に散らばるが、そいつは俺から目を離せなくなっていた。


「こんばんは、坊や」


 驚きと恐怖の目で俺を見つめる武村の頭越しに刑事課長の須藤さんから『敬志! 何やってんだよ!!』と声がかかった。

 その声に反応した武村は視線をそちらに動かしたが、すでに俺は武村の胸ぐらを掴んでいた。椅子から引き摺り下ろし、そのままドアに向かう。


 須藤さんの声はしない。

 武村が座っていた椅子のキャスターが空転する音だけが聞こえた。


 武村を廊下に放り投げ、『坊やに話があるんで邪魔しないで下さいね』と言って俺は扉を閉めた。



 ◇



「あ? 歩けねえの? 歩けんだろ? ほら、歩けっつってんだろ」


 胸ぐらを掴まれた武村は俺に引き摺られている。

 階段の踊り場の隅に武村を放り投げ、その前に俺は座った。


「武村さん、お疲れ様です」


 初めて武村に会ったのは優衣香のマンション付近に迎えに来た車の中だった。一緒にコンビニへ行き、会議でいくつが会話をしただけ。

 あの時の俺は髭を生やして茶髪パーマのチャラい姿だったが、今は濃紺の細身のスリーピースに髪は黒で長めのストレートだ。

 髪をかき上げながら武村を見ると、体が震えていて顔を上げられずにいる。


「怖い? ぼく、真面目なサラリーマンって感じだと思うけど?」


 武村の顎を掴み、上を向かせる。

 目を合わせ、口元を緩ませて、俺は武村に優しく語りかけた。


「秘密は魂と一緒なの。だから売り渡してはいけないの。わかった?」


 武村は何か言おうとするが、声が出なかった。何の話をしているのかすら、おそらく武村はわかっていないだろう。武村の喉仏が大きく上下した。


「それだけ。じゃ、お仕事頑張ってね」


 立ち上がり、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出して刑事課長の須藤さんに電話をかけた。


「武村は階段にいますから」


 電話を切り、階段を降りた。

 踊り場の窓は上下にあり、真ん中は鏡だ。

 俺は武村にもう一言伝えようとして、俺の姿を壁にもたれたまま目で追っていた武村に鏡越しに声をかけた。


「彼女と早く結婚しなよ。お前は、幸せになれ」


 武村の返事は聞こえないが、頷いたような気がした。



 ◇



 十一月二十二日 午前二時二分


 深夜の官舎で一人きりになると、途端に外の世界との隔絶を強く感じた。とっとと寝よう、そう思いながら布団に潜り込んだものの、なかなか眠りにつくことができなかった。理由はわかっている。


 ――優衣香と間宮。


 さっき、刑事課には間宮がいた。

 間宮を呼び出して話を聞けば問題は解決するのに、俺は出来なかった。俺は逃げたんだ。


 ――真実を知るのが怖い。


 真実を知って、それが悪い結果だったらどうするのか。状況としては優衣香に新しい恋人が出来た時のようなものだ。それは何回も経験してる。でもこんなことを考えたことは今までなかった。俺はどうしたいんだろうか。


 ――自分の気持ちがわからない。


 そんなの優衣香のことが好きか嫌いか、すぐに答えは出る。優衣香が好きだ。優衣香を嫌いになるなんて考えたこともない。でも、優衣香は俺以外の男に身体を触られて笑顔だった。優衣香はあの後に間宮と関係を持ったのかも知れない。なら、俺を裏切った優衣香を嫌いになったということなのか。


 そんな堂々巡りをずっと繰り返していたら、アラームが鳴った。午前六時だ。

 結局一睡もせずにいたのか。大きくため息をつくと、俺はベッドから抜け出して浴室に向かった。

 脱衣所に入って服を脱ぎ捨てて浴室に入る。頭上から降り注ぐ熱いシャワーを全身で受け止めながら、ふと思った。


 ――友達のままでいればいいのではないか。


 俺は優衣香の体が欲しいのではない。

 俺にだけ向けられた笑顔が欲しいんだ。

 二十二年前のラブレターに込めた想いは今でも変わらない。


 ――優衣ちゃんの笑顔が大好きです。


 ただ、それだけなんだ。





 

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