幕間 あなたのために
十一月十七日 午前十一時三分
人の少ない住宅街で見上げる空は透き通るように青くて、吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。頬に当たる風は冷たい。
――あの日もそうだったな。
結婚を反対した交際相手の母親を刺殺した上、家に火を付けた事件があった。
今日はそのご遺族の元を訪ね、お線香を上げさせて頂く。年に一度、命日の前に行くようにしているが、昨年はどうしても命日前に都合がつかず十二月になってからの訪問だった。
オートロックのエントランスを経てエレベーターで部屋へ行き、玄関のインターホンを押す。
解錠を待っている間、ふと松永さんのことを思い出して、小さくため息を吐いた。
このお住まいは被害者の一人娘で、容疑者の交際相手だった女性の住むマンションだから。
◇
「相澤さん、お久しぶりです。お元気そうですね」
約一年ぶりにお会いしたその女性は、以前より痩せたような気がする。頬が少しやつれて、手首の尺骨が以前より目立つ。礼服のワンピースの上に白いカーディガンを羽織っているが、ワンピースの中の体は泳いでいる。
お仏壇のある部屋に案内され、お線香を上げさせて頂く。遺影の写真を変えたようだ。夫に寄り添って優しく微笑んでいる写真に変わっていた。
俺にとっての年に一度のこの日は、事件と共に警察官になって一番怖かったことを思い出す日でもある。
傍らに正座する女性はいつも座布団を当てない。俺は仏壇の座布団から下りて頭を下げた。この後は本来であれば被害者のお話やご遺族様の近況をお話をするが、今日は違う話をしなければならない。
「笹倉さん。今日は個人的なお話があります」
◇
四年前、笹倉さんの実家が火事になったと、松永さんは母親から連絡が来たという。何せ松永さんの実家の隣の家だ。その後、笹倉さんのお母さんが殺されていた、容疑者もその場で死んでいた、その容疑者は笹倉さんの交際相手だったと状況がわかるにつれ、その都度母親からメッセージが入っていたそうだ。
五個目のメッセージは、『優衣ちゃんがうちに来て取り乱してる。今から来れないか』だったという。松永さんが母親から送られた全てのメッセージを読んだ日は、最後のメッセージを受信した三ヶ月後だった。
当時、松永さんは個人所有のスマートフォンを見るどころかニュースや新聞すら見ることが出来なかった。松永さんは情報を完全に遮断されていた。
松永さんは事件発生から約半年も経ってから、笹倉さんの身に起きたことを知った。
俺は事件前、松永さんの実家に招かれたことがあって、隣家の笹倉優衣香さんが松永さんの幼なじみで今でも好きな人、と教えられた。
松永さんは、中学生の時に撮った松永さんの三兄弟と笹倉さんの写真を見せてくれたが、そこには不貞腐れて弟を見ている坊主頭の松永さんがいて、セーラー服で笑顔の笹倉さんは、松永さんの歳の離れた弟を後ろから抱きしめて顔を寄せていた。
笹倉さんとは直接の面識はなかったが、実家の南面が笹倉家だという記憶だけは残していた。
火災発生後、臨場した消防隊員が部屋の中で自らの腹を刺している男を発見し、当時松永さんの実家のある所轄にいた俺は臨場した。
現場で松永さんの母親から声をかけられ、松永さんに連絡が取れないと言われたが、『誰であっても無理です』の一言で松永さんの母親は全てを察した。
事件後、笹倉さんの担当は俺になった。
多分、警察官になってからの松永さんが笹倉さんと会った回数は俺の方が多いと思う。
笹倉さんはいつまでも松永さんに連絡が取れない、来ない日々は続いたが、目の前でうちひしがれる笹倉さんに、『松永さんと同じ官舎です。同室です。あなたのことは松永さんから聞いています』と言いたくても言えなかった。今、あなたが一番頼りたいであろう男性は、『どこで何をしているかわかりません』なんて言えなかったから。
ある日、刑事課にいた俺は廊下が騒がしくなったことに気づいた。何人もの人の走る足音、怒号と唸り声、悲鳴、物が倒れる音。それが刑事課に向かってることは明らかだった。
廊下に出た俺は、警察官の制止を振り切り、廊下を走ってくる背の高い痩せた男と目が合った。
警察官としていろんな経験はしているが、その時の松永さんの目は今でも夢に見る。
◇
リビングに通された俺は部屋の全体を見た。昨年よりも物が減った気がする。
――引越しを念頭にしているのかな。
ソファに座るとテーブルの上の薔薇が目を入る。深紅の薔薇九本。そこから右に視線を移し、笹倉さんに話しかけた。
「私と笹倉さんの間の個人的なこととして、私は秘密を守ります。お聞きしたいことがあります」
カップに淹れたお茶を俺の前に置いた笹倉さんは、何の話なのかわからないといった顔で困惑したが、俺の目を見て頷いた。
「では単刀直入に申し上げます。笹倉さんと間宮さんはどういったご関係ですか」
笹倉さんは間宮さんの名が出た瞬間に後ろめたさを隠す目の動きをした。
――マジかよ。
右側の一人用ソファに座る笹倉さんは、しばらく思案して語り始めた。
最初、笹倉さんは署のエレベーターで先にいた間宮さんの顔を見て、どこかで会った気がして二度見したと。それを不審に思った間宮さんはエレベーターを下りた笹倉さんに声をかけたという。
詫びる笹倉さんは、間宮さんと話している間にどこで間宮さんを見たのか思い出した。それは署の近くにある企業に勤める友人が笹倉さんの車に置いていった社内報に、間宮さんが載っていたのだと。
社内報には町内会主催の防犯講話をその会社の講堂で行った時の記事があり、間宮さんは刑事課の須藤さんの代理で講話を行い、その社内報に顔写真が載っていたという。
そこで笹倉さんは、車にその社内報があるからご覧になりますかと間宮さんに言って、二人は一緒に駐車場へ行った。そこでの二人を俺は見ていたわけだ。
二回目に間宮さんに会ったのは、交通捜査課へ仕事で行った時。刑事課と交通捜査課は同じ階にあり、廊下で間宮さんが笹倉さんを見つけて、間宮さんから声をかけた。その時に連絡先を交換したと。これは俺が二人を見た日よりも前のことだった。
何度か間宮さんから誘いの電話があったが、笹倉さんは断っていた。だが、何度も連絡があり、断り切れなくなっていた。こんなことは松永さんに言えないし、悩んだ末に一度だけ飲みに行ったと。それが十二日だったという。
――不審な点はない。
「ありがとうございました。では次の質問です」
「はい」
「松永さんのことは好きですか?」
驚いた表情をした笹倉さんからなかなか答えが返って来なかった。手を握りしめて、テーブルの上にある薔薇を見ている。
「……好きです。えっと……この前……この……」
「笹倉さん、詳細は結構です。私はその日に松永さんを近くまで迎えに来ました。笹倉さんと何があったのかは、ある程度は察していますから」
その言葉に耳を赤くした笹倉さんは下を向いてしまった。
「……間宮さんとその後は?」
「連絡はありません。あの……交際の申し出がありましたがお断りしました」
「そうですか」
間宮さんとラブホへ行ったのか、それは間宮さんからは聞けばいい。笹倉さんに聞くことではない。
「笹倉さん、お話をありがとうございました。秘密は守りますから。ご安心を」
「あっ……いえ……私が悪いんです。すみませんでした」
◇
「あの……相澤さん」
「はい」
「お茶、冷めちゃいましたから新しく……」
「ああ、お構いなく」
手を付けていなかったティーカップを手に取ると、香りに一瞬戸惑った。その俺の姿を見ていた笹倉さんはジャスミンティーだと言った。
「相澤さんはジャスミンティーを好むと松永さんから聞いたことがありまして……」
「ああ、お心遣いをありがとうございます」
昔付き合ってた女性が好んだジャスミンティーを俺はずっと好きでいる。飲んでる間だけ、その女性を思い出すために飲んでいるだけだ。本当はジャスミンティーは好きではない。
「香りが好きなんです。たまに飲みます」
「そうなんですか」
「最近は炭酸水を飲んでます。松永さんはいつもお茶かミネラルウォーターを飲んでますよ。甘い物は好きですけど、甘い飲み物は好きではないようですね」
こちらを向いた笹倉さんは、少しだけ口元を緩ませた。
毎年お線香を上げに笹倉さんのマンションに伺っているが、笹倉さんは松永さんの話を一切しない。俺と松永さんが同じ官舎で同室なのも知っているし、仲がいいことも知っている。松永さんからも俺を信用していいと笹倉さんに伝えたと言われた。それでも笹倉さんは松永さんの話を一度もしたことがない。
訪問後に松永さんから笹倉さんのことを聞かれて、笹倉さんの状況や状態は見たまま聞いたままを話すが、松永さんのことは何も聞かれていないと話すと、松永さんは毎回不満そうな顔をする。
笹倉さんは、本当は松永さんの一番近くにいる俺にいろいろと聞きたいのだろう。だが、言えることと言えないことがある。聞かれたら言えることだけは答えるのに、何も聞いてこない。
「笹倉さん」
いつもの俺とは違い、まるで取調べのような訪問になり、不安そうな顔をする笹倉さんに申し訳なく思った。言う必要はないだろうが、少しでも元気になって欲しくて俺は松永さんのことを話し始めた。
「十一日の夜、松永さんは笹倉さんに電話しましたよね。その電話を切った後の松永さんなんですが――」
自分の知らない松永さんを知ることはないであろう笹倉さんは、不安と好奇心が綯い交ぜの目をしている。
「笹倉さんは電話を切る際に松永さんへ何と言ったか、覚えてますか? 松永さんは顔を赤くしていたんですよ。顔を手で抑えて、足をバタバタさせて何か言ってました。きっと、笹倉さんから言われたその言葉が嬉しかったのだと思います」
何を自分が言ったのか、思い出した笹倉さんはあの時の松永さんと同じ顔をした。
「笹倉さん、松永さんは元気にしていますよ」
笹倉さんはテーブルの上の薔薇を見て、頬を緩ませていた。
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