第2話 あなたを想う夜

 閉じたカーテンから月明かりが漏れる優衣香の寝室に、俺は独りでいた。


 初めて入る優衣香の寝室。

 セミダブルベッドの上で俺は左脚を立て、左腕は頭の後ろに回している。

 これまで何度も夜に優衣香の家を訪れているが、ソファで寝落ちしてしたことはあってもベッドで寝るのは今日が初めてだ。


 今、優衣香は別室で仕事をしている。

 風呂から上がりリビングに入ってきた優衣香が言葉を続けようと口を開いた瞬間に、優衣香の仕事用のスマートフォンが鳴った。

 電話に出た優衣香はすぐに折り返すと言って電話を切って、俺に寝室で待っているよう言い、慌ただしく別室へと消えた。


 ――どうして寝室に入れてくれたんだろう。


 そんなことを考えながらスマートフォンを眺めて時刻を気にしていると、寝室に優衣香が現れた。


「ごめんね、時間まで寝よう」

「……うん」


 優衣香はガウンを脱ぎ、ベッドの脇にある椅子の背もたれにそのガウンを掛けた。そして俺の左側に腰を下ろす。腕を上げ、髪の毛をまとめ、首の右側に流している。

 俺はその姿を瞬きもせず見ていた。うなじ、背中、両腕が露わになった、なだらかな曲線を描く優衣香の後ろ姿を。

 優衣香は俺の隣へ滑り込んだ。


 俺はスタンドライトを消そうとする優衣香の右手を掴んだ。淡い光に照らされる優衣香の顔を覗き込み、囁く。


「優衣ちゃん、してもいいの?」


 俺に向き直った優衣香は、左手の指で俺の頬を撫ぜた。解かれた俺の右手は行き場をなくす。

 頬を撫ぜる指の動きに合わせて、睫毛が揺れる。

 その睫毛の奥の瞳が俺を見据えた時、優衣香は頬を撫ぜたその手を、耳の後ろへと伸ばした。


「敬ちゃん、何かあったんでしょう?」


 指は後頭部へ伸び、髪を撫でていた。

 優衣香は、葉書が届いた翌日に俺が来たことから不審に思ったという。薔薇の花束もそうだとも。そして、ソファで抱きしめた時にいつもは一回だけなのに今日は二回も言ったからおかしいと確信した、と。

 これまで確かに俺の女になって欲しいという意味を含んだ言葉を言うのは一回だけだった。腕の中の優衣香が『嫌ですよ』と返事をして、俺をすり抜けて逃げて笑うまでが毎回のお決まりのパターンだった。


「何があったのかは言えないでしょう?」

「……ごめん」


 優衣香が俺と付き合うのを嫌がるのは、俺が警察官だからだ。警察官であっても、所属を明らかに出来る警察官だったら、優衣香は俺と結婚してくれていたかも知れない。

 でも、家族にすら『音楽隊で楽器を拭く係』としか言えない今の俺の所属のままなら、それは無理だ。


「ねえ……何か性的欲求が昂るようなことがあったんでしょう?」

「えっ……」


 普段どんなことが起きても平静を装う俺でも、優衣香のその言葉にはさすがに焦ってしまった。なぜわかったのだろうか。優衣香は親指で俺の頬を撫ぜている。


「その欲求は私では解消することが出来ないのはわかってるはずなのに」

「うん……」

「でも、それでも私のところに来てくれて嬉しいよ」


 俺は目を瞑り、ため息をついた。俺が優衣香のことが好きな理由を改めて思い知らされる。こういうところが好きなのだ。でも、それ故に、優衣香は俺の支えになることを拒んでいる。


「優衣ちゃん、キスしていい?」

「嫌ですよ」


 いつも通り即答する優衣香と顔を見合わせて笑ったが、ベッドで向き合っているのに、俺の手は優衣香の身体の向こうのシーツに触れているのに、俺はキスどころか抱きしめることすら叶わないのか。そう思っていたが、優衣香は右腕を俺の首の下に滑り込ませた。


「腕枕してあげる」


 おいでと優衣香に誘われるまま、腕枕をされた。

 優衣香の顔の下に、俺の頭が収まる。俺の唇は優衣香の肌に触れている。優衣香の肌はこんなに柔らかくて滑らかだったのか。肌の香りは鼻腔をくすぐる。


 ――したい。


 優衣香の身体の向こうのシーツに触れていた手の指で、優衣香の背中をそっとなぞる。


「抱きしめてもいい?」


 いいよと言ってくれた優衣香の背中を強く抱きしめると、優衣香は小さく、んっと呻いた。この声を聴いても、艶のある薄い布越しに優衣香の肌身の柔らかさを感じても、俺は我慢しなくてはならないのか。


 自分の中の庇護欲と嗜虐心が交錯する。


 だが、優衣香の肌の温もりに包まれていたら、眠りに落ちるまで時間は掛からなかった。



 ◇



 アラームの音で目を覚ました俺は、隣に優衣香がいないことに気付き飛び起きた。でも、優衣香が直近までここにいた形跡はある。シーツに微かな温もりが残っているから。


 寝室のドアを開けると、微かにコーヒーの薫りが漂っていた。リビングに入ると、キッチンに優衣香の姿があった。優衣香は近寄る俺に気づき、微笑む。俺は優衣香を後ろから抱きしめた。


「ずっと腕枕してくれてたの?」


 振り向いて俺を見上げる優衣香は、『してないよ』と言う。俺が寝た後すぐ起きて仕事していたと。俺は優衣香の耳元に唇を当て、警察官相手に嘘を吐くのは良くないですよと囁くと、優衣香はクスクス笑った。



 ◇



 洗面所に行くと、洗面台の脇の一輪挿しに薔薇が挿してあった。頬が緩む。残りの二本はどこにあるのだろうか。寝室には無かった。薔薇の意味は何だったかなと思い出しながら身支度を整える。


 今、俺が着ている部屋着は俺のものだ。この他にワイシャツと下着と靴下が優衣香の家に置いてある。優衣香が洗濯してくれるが、おそらく来る前にも洗濯しておいてくれているようだ。半年ぶりに来た今日でも、洗いたてのような清潔な香りがするから。


 リビングに戻ると優衣香はコーヒーを淹れてくれた。優衣香は俺の姿を見て、チャラいと笑っている。そして、髭がくすぐったかったとも言った。髭をここまで伸ばすのは稀だが、自分としては案外似合っていて気に入っている。でも優衣香が嫌がるのなら髭は出来るだけ控えようか。


 ――行きたくないな。


 腕時計を見ると、優衣香とあと僅かで離れなければならない時刻だった。優衣香の顔を見るが、別れを惜しむような素振りは一切見せない。今日も、これまでも。いつか優衣香のそんな姿を見たいと思うが、そういったことをする女性に良い記憶はない。


「そろそろ行く時間かな」

「そうだね」


 俺はリュックを背負い、玄関に向かった。靴を履き、振り返る。『またね』と笑顔で言う優衣香に『離れたくない』と言うと、優衣香は破顔し、手を顔にやって笑う。その笑顔に俺も笑い、『また連絡するよ』と言って玄関の鍵を開けようとすると、優衣香の少し上擦った声が聞こえた。


たかちゃん、キスして」


 後ろから降り注いだ思いがけない言葉に驚いて振り向くと、優衣香は俺の服を掴んでいた。本当にしてもいいのか、俺は優衣香の表情を観察した。

 優衣香は唇を引き結び、俺を見上げ、唇に視線を落とす。


 ――本当に、いいの?


 俺は優衣香の肩に両手を乗せ、目を閉じる優衣香に唇を合わせた。薄くて柔らかい唇だった。

 目を開けた優衣香の瞳は潤んでいる。俺の腰に添わせていた優衣香の指に力が入る。


 ――もっと、していいの?


 そんな目で見られたら、俺はもう止められない。

 右手で優衣香の頭を抱え、左腕で優衣香の腰を抱いた。優衣香を引き寄せて唇を歯を、舌でこじ開ける。優衣香の上顎を舌でなぞり舌を絡ませる。

 混ざり合う水音と苦しげな優衣香の吐息が響く。


 唇を離して優衣香の半開きの唇に視線を落とした。唇から溢れた唾液を舌で絡め取り、濡れる唇を舌でなぞり視線を合わせると、優衣香がまた唇を合わせてきた。

 優衣香が漏らす甘い吐息は劣情を煽る。


 ――優衣ちゃんなんで……なんで今なの……。


 抱きしめた優衣香の向こうに花瓶に挿した二本の薔薇がある。意味は――この世界にふたりだけ。


 ――このまま時が止まってくれればいいのに。





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る