第2話 誰も知らない

 十二月十四日 午後二時三十二分


 あれから俺はマフラーを着けっぱなしだ。

 マンションに戻っても着けっぱなしだ。

 その姿を不思議に思っている捜査員に、『だって頭の下半分が短くて寒いから』と言っている。


 シャワーを浴びる間でさえ優衣香のマフラーと離れることが嫌で、あれからずっとコンバットシャワーだ。だから『手入れが楽になるよ』と言って毛量を半分にしやがった弟に今ではとっても感謝している。さとくんありがとう。お兄ちゃんとっても嬉しいよ。今度頭をいい子いい子してあげるね。


 ただ、『寝る時に着けたままだと毛玉が出来るし首が締まりますよ』と加藤に言われて、毛玉が出来るのは嫌だけど、首が締まることに関しては、何ならそういうプレイだと、優衣香はそういうプレイが好きなのだと思えばいいと思った。


 そうだ。優衣香が俺の上にいて、このカシミアのマフラーで首を締められるのなら俺は死んでもいいと思っている。あ、もちろん優衣ちゃん全裸でね、優衣ちゃんが妖艶な笑みを浮かべてね、ぼくの首を締めてね、『もっとぉ……』とか優衣ちゃんが甘い声で言ってね……ってヤバいなそれ、想像しただけでゴーゴーヘブンだ。

 でもな、その前に優衣ちゃんにあんなことやこんなことをしてぼくの知らない優衣ちゃんを見てからじゃなきゃ、二人でめくるめく愛の世界へゴーゴーしてからじゃなきゃ、ぼくヘブンに行けない。だからぼくの欲望が全部叶ったら、それから妖艶な笑みを浮かべる優衣ちゃんにそういうプレイされてもいいかな。それからならぼくはゴーゴーヘブンでもどこでもゴーゴ――


「――さん! 松永さん!」

「ん?」


 ――というか、ここどこ? あ、仮眠室か。


「寝てないですよね?」

「いや、寝たんじゃない……かな?」


 俺と相澤は、仮眠時間を無理矢理作って一時間だけ寝ようとした。正味五十分程の仮眠が取れるとフラフラになりながら仮眠室のドアを開けた瞬間から、俺は記憶がない。だが、今相澤に声をかけられて目が覚めたのだと思うから、寝ていたのだと思う。だってベッドに横になってるし。


「奇声を上げてましたよ」

「え、やだ。そんな不審者目撃情報みたいなこと言わないでよ」

「やっぱり休みを取った方がいいですよ。山野も来たし、人数は揃いましたから」

「大丈夫だって」


 結局、須藤さんは俺に二日の休みをくれようとしていたのに、加藤が優先だと言って俺の休みは却下された。まあそれは俺が望んだことだが、加藤は三十六時間で戻って来るんだから、残り十二時間は俺のものだと思うが、ダメだと却下された。


 ――なにさ! チンパンジーのくせに!


「裕くんだってキツいでしょ? 休み取ったら?」

「俺は大丈夫です……あの……ちょっと……」


 そう言った相澤は、ハンドサインを送ってきた。

 意味は『この場所』と『注意』だった。

 俺はベッドから起き上がり、相澤の前に立つ。

 相澤の肩を掴んで顔を近づけて、小声で『それ先に言えよ、バカ』と言い、相澤も小声で返してきた。


 相澤は仮眠室に入ってベッドの横まで来た記憶があるという。目覚めた時にベッドに顔を埋めていて、体は正座したままなことに気づいたと。

 ベッドに寝直そうと起き上がったところ、パイプベッドの下に膝が入っていたことに気づかず、そのまま勢いよく立ち上がったせいで膝をベッドにぶつけてしまったという。


 ――かわいそうな裕くん。


 その衝撃で、ベッドに括り付けてあったと思われるボイスレコーダーが落ちたことに相澤は気づいた。それを俺に伝えようと反対側のベッドで寝ている俺に近寄ると、俺は奇声を上げていたという。


「笹倉さんの名前を呼んでましたよ」

「あらやだ」


 女誑し葉梨が山野から聞き出した情報から、ボイスレコーダー五個は見つけてある。

 俺が見つけた三個のうち一個は山野に見せた。もうひとつは山野自身が出した。残り二個は加藤が見つけた。だが、今、ないはずの六個目が見つかった。


「葉梨は? 今ここにいる?」

「見てきます」


 ――面倒なことばっかり起きやがって。



 ◇◇◇



 午後二時四十分


 加藤奈緒は、捜査員用のマンションに戻る途中だった。近隣のドラッグストアへ買い物へ行き、マイバッグを肩に担いで、もうひとつのマイバッグは手に持っていた。

 どちらも重いようで、肩にも指にも食い込んでいた。

 そこに走り寄る葉梨将由がいた。


「加藤さん、持ちますよ!」


 その声に立ち止まり、振り向いた加藤は表情を変えずに『ありがとう』と言い、手に持っていたマイバッグを葉梨に渡すと、葉梨は『そちらも』と言い、肩に担いだマイバッグも受け取ろうとした。


「ありがとう。ちょっと買い過ぎたから重くて」


 そう言って、加藤はマイバッグを葉梨に渡し、二人は並んで歩き始めた。二人の間に会話はなく、ただ、黙々と歩いている。


 葉梨が口を開いたのは、加藤がマンションの入口のガラスドアを開けた時だった。


「山野のこと、聞きましたよね?」

「山野のどんなこと?」

「あの……えっと、須藤さんが言い出したことです」

「……ああ、あんたが結果を出したんだってね。松永さんが褒めてたよ。よかったね」

「いや、加藤さん!」

「なによ?」


 そこにエレベーターが到着し、山野が降りてきた。


「あっ! 葉梨さん! どこ行ってたんですか? お買い物だったんですか? 私、荷物持ちますよ」


 笑顔で駆け寄った山野は加藤を一瞥し、すぐに葉梨の顔を見上げたが、葉梨は険しい顔をして言った。山野は葉梨の顔を見て驚いている。


「山野、悪いんだけど、これ持って部屋に戻ってくれるかな。俺は加藤さんと話があるから」


 そんな二人の様子を見ていた加藤が山野に向かって言った。その言葉は冷たく、感情がなかった。


「すぐ終わるから、ごめんね」


 二人の表情に何かを察したのか、頭を下げただけで山野はエレベーターに乗った。ボタンは葉梨が押してやり、エレベーターの扉は閉じられた。


「加藤さん、外に出ましょう」

「ここでいいんじゃないの?」


 その言葉に眉根を寄せた葉梨は加藤の腕を引っ張って外に出た。

 歩き始めた二人はまた無言のままだったが、最初に口を開いたのは加藤だった。立ち止まって葉梨を見上げ、言いたいことを一気に言う加藤に、葉梨は呆気にとられた。


「松永さんがあんたのことを人誑しって言ってたよ。ふふっ、女誑しと言わないのは松永さんの配慮なのかもね。で、岡島だけどさ、アイツの口が軽いのは当然知ってるよね? 一年前にあんたさ、山野に初めて会って、その後何回かデートしたんだってね。告白したけど山野が断ったからあんたは連絡しなくなったんでしょ? で、この前あんた山野を抱きしめたんだってねえ。あんたは本当に凄いって私も思った。で、今さっきの山野の目。私、笑いそうになっちゃった。だって可愛い女の子がおめめキラキラさせてあんたを見てるんだもん。いいじゃない、可愛くて。山野を可愛がってやんなよ。山野が可愛いんでしょう? ねえ?」


 口元は笑みを浮かべているが、冷めた目で自分を見上げる加藤に、葉梨は何も言えなくなっていた。


「あんたさ、私に何か聞きたいことある?」

「……加藤さんは、それでいいんですか?」

「何が? あんたと山野が付き合うこと?」

「そうです」

「嫌だよ」

「んっ!?」


 想定外の返答に驚きの表情を浮かべる葉梨を見て、加藤は声に出して笑った。『可愛く言えなくてごめんね』と言い、下を向いて、吸った息を深く吐いてから、また葉梨を見上げた。


「葉梨がさ、この前山野を抱きしめたって話、私は岡島から聞いたんだよ。私は山野からは聞いてない。多分だけど、葉梨があの日に何を言ったか、何をしたか、全部誰かに喋ったんじゃない? もちろん岡島まで話が行くまでに、数人が聞いてるだろうけど」


 不機嫌な顔になった葉梨の顔を見上げながら、加藤は続ける。


「それでも、小さくて可愛い年下女がいいっていうなら、デカくて可愛げのない年上女は身を引くよ? どうする?」



 ◇◇◇



 午後二時五十四分


「ただいま戻りました」


 リビングの扉を開けた加藤と葉梨は、二人とも不機嫌な顔をしていた。加藤は狂犬ではないが、あまり見ないタイプの不機嫌な顔をしていて、俺も相澤も思わず後退りした。


「……おかえり」


 椅子に座っている山野の背後で、相澤はハンドサインを葉梨に送った。だが、それを見た葉梨が俺を見ないどころか目を彷徨わせていることを不審に思い、俺も山野の背後に回ると、相澤は首を傾げながら葉梨に送ったハンドサインを俺に見せた。


「バカ!」

「痛っ!!」

「葉梨、外」


 俺はそう言って、葉梨と外に出た。


 ――裕くん、そのサインは『マンションに戻れ』だよ。ちゃんと覚えてよ! もう!





 

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