第1章

第1話 初めての花束

 その日、帰宅した笹倉ささくら優衣香ゆいかは郵便受から取り出した郵便物をエレベーターの中で確認していた。

 クレジットカードの明細にダイレクトメール、そして何も書かれていない葉書。

 その葉書を裏返し、『久しぶりだなあ』と呟く優衣香は、書かれた宛名の文字を見て頬を緩ませている。


 差出人の名もメッセージも無い、宛名だけが書かれたその葉書は、差出人が近日中に優衣香の家を訪れるという意味を持つ。


 優衣香がこの葉書を初めて受取ってから十年が経っていた。



 ◇◇◇



 十一月九日 午後九時五十二分


 玄関ドアを開けると、久しぶりに会う優衣香は俺の姿を見て一歩下がった。無理もない。今日の俺はチャラいから。


「いらっしゃい。音楽隊で楽器を拭く係・・・・・・・・・・の地方公務員さん」

「ふふ……久しぶりだね」

たかちゃん、チャラいねー」


 ――やっぱり言われたか。


 今日の俺は黒いデニムを腰で履き、白のオーバーサイズのプルオーバーを着て、リュックを背負っている。

 髪型はパーマをかけたミディアムヘア。髪色はダークブラウンだが、ところどころライトブラウンのハイライトが入っている。

 おそらく、玄関の照明に照らされて金髪に見えるだろう。ネックレス、指輪、ブレスレットを付け、髭も生やしていて自分でもチャラいと思っていたから、思わず笑ってしまった。


 俺が笑うと優衣香も笑う。

 この笑顔を好きになって二十三年が経つ。

 いつか俺だけの優衣香になって欲しくて、会うたびに想いを伝えているが叶うことはなかった。

 でも今日は、本気で想いを伝えようと思って、プレゼントを持ってきた。渡さないと。


「優衣ちゃん。ちょっと早いけど誕生日おめでとう」


 後ろ手で鍵を閉める俺を不思議そうに見ていた優衣香へ、俺は鍵を閉めた手とは反対の手に持つ物を差し出した。


「わっ! 薔薇だ!」


 両手で受け取った優衣香は深紅の薔薇の花束が二つあることに気づいた。それぞれを片手で持ち、交互に見ている。


「誕生日は十二日でしょ。だからだよ」


 薔薇は五本と七本の花束だ。

 十二本の薔薇の花束はいつか渡したいが、それは今ではない。


 俺は靴を脱ぎスリッパを履いて、振り向いて靴を揃えていると、優衣香の声が耳に流れ込んだ。


「おばさんがね、先週来てくれたよ」


 ――連絡はもらってる。優衣香は元気だと教えてくれたよ。


「ああ、そうなんだ」


 向き直った俺を見上げる優衣香は、少し眉根を寄せている。俺が素っ気ない態度でいることに不満なのだろう。

 実家が隣同士の、次男の俺と同い年の優衣香を母は娘のように可愛がっている。だから、息子の俺が母へ連絡しないことを咎めたいのだろう。


「手を洗ってから、行くね」

「うん」


 薔薇の花束を抱えてリビングに行く優衣香の後ろ姿を見ながら、俺は視界に入る物を全て記憶した。いつもしていることだ。前回来た時と何が変わったか、変わっていないか。

 もちろん優衣香に変化がないかも観察する。

 いつものことだ。これは一種の職業病だが、優衣香にとっては会わなかった間に起きたことを全て見透かされるよう気持ちになるのか、少し嫌そうな顔をする。



 ◇



 リビングに行くと、キッチンで花瓶に水を入れている優衣香と目が合った。


 優衣香は花瓶に合うよう薔薇の茎を切って生けている。

 パチンパチンと小気味よいハサミの音を聞きながら、ソファに腰を下ろした。リュックから取り出したペットボトルの緑茶を飲んでいると、優衣香の声が耳に流れ込んだ。


「男の気配はする?」

「相変わらずいないみたいね」


 俺は薄く笑って答えた。

 優衣香にはもう男の気配などしない。なら俺の想いを受け入れてくれてもいいのではと思うが、それは優衣香が決めることだ。

 俺は想いを伝えるだけ。だって弱みにつけ込んでるみたいだから。


 優衣香は薔薇九本を生けた花瓶をリビングテーブルに置いた。


 ――薔薇九本の意味って、確か……。


 俺は目の前に置かれた薔薇を眺めていると、優衣香が俺を見た。


「ありがとう」

「うん」

「こんなこと、初めてだね」


 俺は微笑む優衣香の腕を引っ張った。

 足元にある俺のリュックに足を取られた優衣香を抱きかかえ、左腕を腰に回して、右手を離し、右手の指を優衣香の首すじに添わせた。そして囁く。


「そろそろ観念してくれてもいいんじゃないの」


 いつもしていること。

 初めては十五年前だった。俺が結婚する二年前で、二十二歳の時だった。優衣香に恋人がいた時と俺の婚姻期間中を除いて、幾度となくしてきたこと。


「もう四年、でしょ。男いないの」


 俺は目を伏せても唇が見えない距離にいる優衣香の瞳を見た。


 ――今日は本気なんだよ。優衣ちゃんお願いだから……。


 優衣香は今日、俺の気持ちを受け入れてくれるかも知れない。薔薇九本の意味、そして今の優衣香の目だ。俺を真っすぐ見ている。

 俺は首すじに添わせていた右手に力を込めて優衣香を抱き寄せ、耳元で囁いた。


「優衣ちゃん……観念してよ……お願い」


 優衣香の体が一瞬震えた。やっぱりダメなのか――優衣香はいつもと同じ言葉を返すのか。


「嫌ですよ」


 やっぱりな。いつもの言葉が返ってきた。悲しいな、そう思っていると、優衣香の左腕は背中に回った。右手は俺の髪を優しく撫でている。


 二人の鼓動が重なる。


 俺は驚いてしまい、体が強張っていることに気づいた。優衣香の柔らかな感触、髪の毛から香る甘い香り。


 ――ダメだ。離れないと。


 俺は右手を解いて体をずらしたが、左腕は優衣香の腰を抱いたままテーブルの薔薇を見つめた。


 ――優衣ちゃん……何で……本当にいいの?


 俺は初めての経験に動揺してしまった。落ち着かないとと思っていると、俺の横顔を見上げる優衣香の声がした。


「今日は何時までいるの?」

「えっと……三時に出るよ」


 俺は優衣香に向かずに答えた。


 優衣香は返事をして俺の体からすり抜け、リビングを出て浴室へ向かった。



 ◇



 風呂から上がってリビングに戻った俺に、優衣香ゆいかは冷たいミネラルウォーターのペットボトルをくれた。俺から甘い香りがすると笑い、私も入ってくるねと言い残しリビングを出ていった。


 風呂でシャンプーしている時、優衣香を胸に抱いた時に漂った香りと同じだと気づいた。俺と優衣香が同じ香りを纏っているのかと思うと気恥ずかしくなってしまったが、甘い香りのシャンプーとコンディショナーは、髪がいつもより長いせいで香りが残っている。

 最近の俺の仕事・・には合わない香りだが、今日はいいか。


 ソファに座りテーブルの上の薔薇を見ていると、花屋で薔薇の花束をと店員に伝えた時の記憶が蘇って来た。

 花屋には似つかわしくないこんななりの俺に驚きつつも、笑顔で接客してくれた女性店員に言われた薔薇の意味だ。


 薔薇を十二本と言った俺に、恋人にプロポーズかと問う彼女に驚き、違うと伝えた。薔薇は本数によって意味が違うと教えてくれた彼女は、本数毎の意味を書いた紙を見せてくれたが、優衣香は十二日が誕生日だから十二本でいいだろうという考えは安直過ぎたようだった。


 彼女が見せてくれた紙に書いてある意味を見て俺は悩んだ。十二本は渡したいが、十二本ひとまとめの花束は今じゃないから。

 なら組み合わせをどうするか。九本と三本にするか、五本と七本か。でも、六本を二つでもいいと気づき、本気で悩んだ。


 結局、五本と七本で花束を作ってもらうことにしたが、その意図を汲んだ彼女は俺の顔を見て微笑んでいた。

 意味は『あなたに出会えて嬉しい』と『ひそかな愛』だ。片思いが実ることを願っていると思われたのだろう。それは間違ってはいない。


 優衣香に薔薇の花束を渡した時、その意味はわかっていなさそうだった。だが、目の前にある花瓶に生けた薔薇は九本だ。もし優衣香が意味をわかっていたのなら嬉しい。わかっていたから、初めて俺の背中に腕を回して、髪を撫でてくれたのかも知れない。

 俺が悩んだ九本と三本の意味は、『いつもあなたを想っています』と『愛しています』だから。


 ――やっぱり俺を受け入れてくれるという意味なのかな。


 しばらく薔薇を眺めていたが、残りの三本を思い出して部屋を見回していると、優衣香がリビングに入ってきた。


たかちゃん、髪の毛乾かしておいでよ。あと歯磨きもね」


 髪の毛を下ろし、艶のある薄紫色のロングワンピースに同じ色のガウンで身を包む優衣香の姿を見て、俺は息を呑んだ。





 

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