第3話 ルームミラーの目線

 十一月十日 午前三時六分


 優衣香ゆいかの部屋の玄関ドアが閉じる様を見ていた。

 鍵を締める音がして、チェーンロックが掛かる。


 ――あ、言い忘れたな……。


 優衣香に今後は電話してもいいか聞きたかったのに忘れてしまった。

 今は仕事に目処がついた時に葉書を送っている。優衣香の住所と名前を書いて俺の名前は書かないが、それは俺の結婚前に時に決めたことだった。


 十三年前、優衣香に結婚すると知らせた日、俺は泣きながら優衣香を好きだと言った。『優衣ちゃんと結婚したい、結婚したかった』と何度も何度も繰り返して、溢れる涙が頬を伝ってスーツを濡らしても、俺は無言の優衣香に縋った。


 優衣香は『新しい生命いのちに責任を持つのは当たり前だ』と俺をたしなめた。『たかちゃんはパパになるんだから』と、自分の存在が夫婦間に波風を立ててはならないと考えた優衣香は、俺の携帯電話から自分の連絡先を消去するよう要求した。


 その際に、何か用事があるなら家に葉書を送ってと言われたが、婚姻期間中に俺たちが会うことはなかった。だって産まれた子供が可愛かったから。

 だが俺の結婚は三年で終止符を打つ。誕生したその子供は俺と血の繋がりが無かったから。


 独身に戻ってる今も葉書を送っている。葉書が届いてから、早くて三日後、遅くて十日後に俺は優衣香のマンションへ行く。

 今はお互いのスマートフォンに連絡先は入っているが、お互いに電話やメッセージを送ることはない。だがこの十年で優衣香に電話をかけたことが一回だけあった。それは父が殉職した時だった。


 ――いいか。メールすればいいや。


 俺はマンションの廊下を歩き出した。おそらく今の俺は頬がだらしなく緩んでいると思う。だって、優衣香が初めて俺を求めてくれたから。ずっと願っていた未来になったのだから。もう葉書を書かなくていいのだから。


 俺はエレベーターホールに差しかかる前に、黒いキャップを目深に被った。


 ――仕事だ。迎えが来てる。切り替えないと。


 口角に力を入れて、緩んだ表情を仕事のもの・・・・・にする。

 エレベーターには乗らず、その手前にある非常階段を下りて行く。一階まで下り、外に繋がるドアを開けようとドアノブに手をかけた瞬間、人の声がした。その場に留まり、やり過ごす。

 やがてその声は聞こえなくなり、外へ出た。



 ◇



 午前三時十九分


 マンションを出て、早足で向かった場所に迎えの車は停まっていた。助手席の後ろの席に滑り込む。


 助手席に座る男は振り向いて『お疲れ様です』と言い、すぐに前を向いた。運転席に座る男はそれを見てから振り返り、『ちょっと遅かったですね』と言った。


「ああ、すまない」


 そう言いながらシートベルトを着け、顔を上げるとその男はまだ俺を見ていた。

 口元には笑みを浮べているが、視界に入る俺の全身をくまなく観察する目をしている。その男は、優衣香が嫌がるその目を綻ばせた。


「へえ……」


 優衣香と面識のあるこの男は、関係が長いことも知っている。助手席の男は何も知らない。


「なんだよ、早く行けよ」


 走り出した車は街に溶け込んだ。

 助手席の男から、目を通して欲しいものがありますと言われ、書類を受け取る。それを街の明かりに照らして、読む。

 文字数は少なく、一見すると関連性のない単語の羅列に見えるが、ある組み合わせをすると文章になる。それを記憶する。

 この書類は、署に行った際に回収され、その場で水を張ったバケツに沈める。

 文字の羅列を記憶した所で、俺は運転席の男に声をかけた。


「そういや相澤あいざわ、女はどうした? 上手くいってんの?」


 不機嫌そうに頬を膨らませている顔がルームミラーに写る。


「ダメだったか……ふふっ、そりゃそうだよな」


 警察官であることは証明出来ても、どこの所轄でどの部署か明らかにすることが出来ない男など、信用出来ないだろう。『音楽隊で楽器を拭く係だよ』と言われて、それが嘘だと気づく前に、すでに連絡が途絶えているのは誰しも通る道だ。でも優衣香は理解してくれている。


 ――友達だから。俺の仕事を探るような、そんなことは一切しない……友達だから。


 別れ際の優衣香を思い出す。優衣香から求められたキスに、俺は夢中になった。強く抱きしめたせいで優衣香の背骨が鳴り、驚いて身体を離すと、俺が離れたことを恨めしそうに上目遣いで見ていた。そのまま押し倒してしまいたかったが、時間が迫っていた。我慢するしかなかった。

 次に来た時、続きをしてもいいか優衣香に問うと、頷いた。それが嬉しくて、また抱き寄せて頬にキスをした。


 十五歳の時に一生懸命書いたラブレターは、二十二年の時を経て、やっと夢が叶った。三十七にもなってこんなに浮かれるのもどうかと思うが、俺は嬉しい。


「松永さん、顔に出てますよ。いいですね」


 そう吐き捨てた相澤は、ルームミラー越しに目を細めている。恨めしそうなその顔に俺はニヤリと笑った。


 助手席の男は何の話をしているのかわかっただろうか。俺が女の匂いをさせていることは気づいたようだから、俺が女の所に居たとわかっただろう。


「お前ら腹は減ってねえの?」


 優衣香の家に行く前に食事を済ませていたが、この二人は何も食べていないかも知れない。午前五時から会議が始まる。そうなるとしばらく食事は出来ない。


「松永さんがどっか行ってる間・・・・・・・・に食いましたよ」


 また相澤が恨めしそうな目をルームミラー越しに寄越した。助手席の武村たけむら雅人まさとは空気を読んだのか、『お腹すいてます!』と元気に返事した。俺にはそれが微笑ましかった。


「じゃ、コンビニ寄って。おごるから」



 ◇



 コンビニの駐車場に停めた公用車に相澤を残し、助手席の武村と俺はコンビニに入った。スーツを着た気弱そうな武村とチャラい俺との組み合わせは異様だったのだろう。店員が目で追っている。


「お前は女いるの?」

「います!」


 元気に答える武村は、恋人とは高校生の頃から付き合っているという。俺の口元が緩む。


「早く結婚しちゃえよ、逃げちゃうぞ」


 普段、この武村は所属を明らかに出来る・・・・・・・・・・警察官だ。今回は事務処理能力を買われてメンバーに加わっている。この仕事をやっている間は、その恋人に会うのは難しいだろう。警察官の恋人となって六年だから、ある程度の覚悟も経験はあるだろうが、関係が終わってしまう心配は尽きない。


「ちゃんと連絡はしてる?」

「はい! してます!」

「そうか。お前も・・・頑張れよ」

「も、ですか?」


 ああ、余計なことを言ってしまった。だがいい。『そうだよ、俺もお前みたいに長い付き合いの女がいる』と答えた。笑う武村は目を輝かせた。


 会計を済ませて公用車に戻る。嬉しそうな武村を不審そうに見ている相澤に、ジャスミンティーを渡した。


「お前、今でもまだジャスミンティー好きなの?」

「そうですよ悪いですか」


 また頬を膨らませる相澤を、武村は不思議そうに見ていた。


 公用車はまた走り出す。

 この公用車と、優衣香の車は同じ車種で色も同じだ。以前乗せてもらった時に、公用車と同じは嫌だなと呟いたら、これは後期型だから七速なんだよと言っていた。エンジンが変わっただけで外装も内装も変わってないから同じだよと返したら笑っていた。


 ――次はいつ会えるかな。


 キャップを取り、ヘッドレストに頭をもたげながら考える。

 この仕事をしている限り、優衣香を幸せにすることは出来ないと思う。

 優衣香は朝行って夜帰ってくる普通の人・・・・と暮らすのが幸せに決まってる。優衣香が誰かと結婚すれば、俺はこんなに悩まなくて済むのに。優衣香を諦めることが出来るのに。


 ――警察官になりたかったけど、警察官になるんじゃなかった。


 思わず舌打ちしてしまい、助手席の武村が反応して振り向こうとしたが、相澤に制止されている。


 ――ごめんね。


 署まではあと少し。

 またしばらく優衣香と会えないと思うと気が重くなった。





 

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