第7話 凍てつく心

 十一月十二日 午後十時四十五分


「お店ってこの時間でも営業してるんですか?」


 中華街のメインストリートから外れた道を歩く野川のがわ里奈りなは、美容院でセットしてもらった髪を触りながら俺を見上げている。


「あのさ。頭、グズグズだよ」


 野川はその言葉に驚いてカバンから鏡を取り出し、髪を直し始めた。


 ――なんで俺に鏡を持たせるんだよ。


 若干ムカつくが、野川のその姿は優衣香と重なる。

 十五年前、俺が持つ鏡を見ながら優衣香も髪を直していたから。



 ◇



 優衣香の髪型は昔から変わらないストレートのロングヘアで、肩下十五センチ位だ。たまにパーマをかけることもあるが、だいたいはストレートでいる。

 子供の頃から中学に入るまではずっとショートヘアだったが、優衣香のお父さんがある時、優衣香にこう言ったという。


『優衣ちゃんは女の子なんだから髪の毛は長い方がいいと思うよ。お父さんはそう思うよ』


 美容院に行き、耳が出るショートヘアにして帰宅した優衣香は動揺する父親からそう言われて、その後は髪を伸ばしている。

 そのショートヘアがロングヘアになる頃に優衣香の父親が亡くなったが、優衣香はお父さんの好きな長い髪で見送れたからよかったと言っていた。


 二十歳のある日、駅前で俺を見つけた優衣香に声をかけられたが、俺は目の前にいるショートヘアの女の子が優衣香だとはわからなかった。

 優衣香だと気づいて呆然とする俺を不思議そうに眺める優衣香は、『もしかしてたかちゃんも長い髪がいいの?』と訊いてきた。


 俺が優衣香に恋を覚えたのは、優衣香の髪が肩にかかる頃だった。子供の頃から知っているはずなのに、髪が長くなった優衣香が別人みたいで、髪が風に揺れる優衣香に恋をした。


 当時、既に警察官になっていた俺はなかなか実家に帰ることが出来ず、優衣香にも会えなかった。

 その日は久しぶりに実家に帰るから、優衣香と会えたらいいなとは考えていたが、子供の頃の優衣香そのままになってしまっていたことに少し、がっかりした。

 男の人は長い髪が好きなんだねと優衣香は笑っていた。


 警察官になってから優衣香に会うことは年に一度あるかないかくらいになっていたが、メールのやり取りはしていて、美容院に行ってきたよとメッセージが届くこともあった。


 二十二歳の時、久しぶりに会う優衣香と飲みに行ったが、待ち合わせ場所には髪を茶色に染めてパーマをかけた優衣香がいて、カールする長い髪を揺らせて駆け寄ってくる優衣香に、俺はまた恋をした。


 飲みに行った帰り道、優衣香に付き合って欲しいと言うと、驚いて振り向いた優衣香は、酔って肌が上気していて、その姿に俺は我慢が出来ず、腕を掴んで抱き寄せたが、優衣香は笑いながら『嫌ですよ』と言って俺の肩を押して離れた。

 その時に優衣香の髪が乱れて、それを指摘すると優衣香は直そうとしたが、鏡を見た方がいいと俺が言って鏡を持ってあげた。

 優衣香は髪の毛を直しながらも俺に視線をやり、ごめんねごめんねと言っていた。



 ◇



「まだなの?」


 髪から飛び出していたピンを外し、口に咥えて髪を直し、そのピンを指先で開いて髪に留める野川を器用だなと思ったが、俺に鏡を持たせておいて何も言わない野川の頭を引っ叩こうかと思っている。


 鏡を覗き込み、髪型を直す野川が『あと少しです』と言った時、野川の視線が右に動いた。


「あれっ? あの人、間宮さんじゃないですか?」


 野川が指差す方向を見ると、階段を下りたスーツの男がいる。


 道を挟んだ向こうのビルの階段に、確かに刑事課の間宮がいた。こちらからは階段の半分が手前にある自動販売機に隠れている。

 間宮は振り返り階上を見上げて、口を動かした。連れがいるのか。ああ、女だ。ベージュのハイヒールを履いた白い足が見えた。黒のタイトスカートを履いたその女は、あと一段という所で足を踏み外した。


 間宮は女を抱き止めた。

 女の長い髪が間宮の腕にかかる。

 間宮は女の腕を掴み、右手で腰を支えた。

 女は間宮の右腕を掴む。

 俯くその女の顔を覗き込むように間宮は腰を屈め、笑顔をその女に向けた。

 顔を上げて間宮と笑い合う女は――


 ――優衣香だ。


 十一月の寒空の下、頬を撫ぜる冷気よりも、俺の身体は熱を失っていった。


「間宮さん、デートですかね? ふふっ、見ちゃったー、私見ちゃったー」


 野川の声に我に返った俺は、自分に驚いた。目の前で何が起きようとも常に平静でいられると思っていたし、これまでそうだったのに、目の前に優衣香が他の男と一緒にいるのを見ただけで、我を忘れてしまった自分に驚いた。


「松永さんは刑事課の間宮さんを知ってますよね?」

「ああ、知ってるよ。俺の一つ下」

「そうなんですか」

「まあ、間宮は独身だし、女と一緒でも問題ないでしょ」

「そうですけど……あっ!」

「ん?」


 歩き始めた二人の後ろ姿を見ている俺とは違うものを、野川は見ていた。


「線路の高架橋の向こうって、ラブホテルですよね?」


 野川の指差す方向を見ると、高架橋の向こうは確かにラブホテルだった。煌煌としたラブホテルのネオンサインが、二人に見えていないはずはない程に目立っていた。


「ふふ……見ちゃったー。加藤さんに報告しよ――」


 俺は、加藤の名前を出した野川の後ろの髪を掴んだ。

 髪が引っ張られ顔を上げた野川に顔を近付け、野川の目を見る。俺の前髪が野川の前髪に触れる距離で。


「野川、よく聞け。秘密は魂と同じだ。売り渡すな……わかったか?」


 小さな声で『わかりました』と言う野川は、目つきも声も豹変した俺に驚きと恐怖が綯い交ぜになった目をしている。

 だが、これは大事なことだ。知り得た秘密は漏らさない。何があっても、だ。


 野川から離れた俺は、間宮と優衣香の後ろ姿を見ていた。野川は二人と、二人を見る俺を交互に見ている。

 このままこの歩道で横断歩道を渡って、少し坂を登って左に行けば石川町駅だ。だが直進したら、ホテル街だ。


 二人の歩む先を見ていたい。だけど、見たくない。

 昨日の夜、優衣香は会いたいと言ってくれた。俺のことを初めて好きだと、大好きだと言ってくれた。だから信じてもいいはずだ。

 間宮と一緒にいる理由は知らないが、それだけはしないはずだ。だって次会った時はこの前の続きをすると約束したから。優衣香は俺の女になったから。


 どうしてだよ。何でだよ。何でこんなことになってるんだよ。何で優衣香が間宮と一緒にいるんだよ。何で間宮が俺の優衣香に触ってんだよ……何でだよ。


「あの……松永さん……」

「あ?」

「いや……」


 間宮と優衣香に背を向けて、俺たちは歩き出した。

 野川は忠告を守り、一度も振り返ることはしない。

 俺にはそれが恨めしかった。


「お店ってまだやってるんですかね」

「ああ」


 時計を見ると午後十時五十二分だった。

 文字盤に街灯の灯りが届いてカレンダーの数字が目に入る。


 12


 ――優衣香の誕生日だ。


 誕生日に間宮と一緒にいる優衣香。

 優衣香の部屋で一緒にいる時の優衣香しか知らない俺。


 俺の知らない優衣香が、そこにいた。





 ― 第1章・了 ―





 

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