第2話 謎の新人
事務所の中は何とも妙な事になっていた。昼食をお預けされて、膨れっ面でそっぽを向いている香坂と、そんな事はまるで意に介していない初見。そして部屋の隅っこで縮こまっている先程の女性と、どこにも草間の居場所は見当たらない。とりあえず、草間は入り口の近くで立っている事にした。
しかし、なかなか初見が喋りだそうとせず、このままではらちが明かない。とりあえず草間が話を切り出してみる。
「で、所長。話ってのはなんですか?」
「ああ、そうね。まず一つ、うちの事務所に新しく人が増えます」
「まさか、彼女ですか?」
「え? あの人、うちの依頼人じゃ無かったんですか?」
香坂が驚きの声を上げる。草間も香坂と全く同じ事を考えていたので、驚きを禁じえない。
「そ。名前は阿久津心。すごい人見知りでね、しばらくはあんなだと思うけど、仲良くしてあげてね」
「はあ。そうだったんですかー。えーっと、阿久津さん、ですよね」
香坂が、部屋の隅にいる阿久津に近付いていく。阿久津はびくっと肩を震わせると、怖がるように目を逸らした。香坂は自分が怖がられている事に気付くと、野良猫に接するようにしゃがみ込み、手を差し伸べた。
「ほらほら、怖くないですよー。私は香坂美鈴っていいます。仲良くしましょうねー。阿久津さんだから、あーちゃんかな? 私はこーちゃんでいいからねー」
香坂は無理に近付こうとしない。その場にしゃがみ込んだまま、真っ直ぐ阿久津を見て笑いかける。
すると、阿久津の目線に変化が現れ始めた。おどおどとした動きはするものの、徐々に香坂の方へ視線が向き始める。やがて完全に阿久津が香坂を見ると、香坂はもう一度阿久津にゆっくり近付いていく。
もう阿久津に嫌がる素振りは無かった。香坂は手が届く位置まで近づくと、柔らかに阿久津の頭を撫で始めた。
「よろしくねー。あーちゃん」
阿久津に警戒の色は見られない。成すがまま香坂に頭を撫でられて、嬉しそうに目を細めている。何だか本当に猫みたいだ。
「はあ、すごいね香坂。もうその子の心を開いちゃったか。私なんて、それはもう苦労したのに」
ものの見事に阿久津の警戒心を解いてしまった香坂を見て、初見が感嘆の声を漏らした。誰とでも仲良くなれる香坂だからこその芸当だろう。
「彼女、一体何者なんです?」
「そうね……境遇は草間と同じぐらい、いやもっと凄惨かな。だから、あまり深くは聞いたりしないであげて」
「それは……分かりました」
それだけで、草間は阿久津の心の傷を悟った。草間は昔のある出来事で、心に傷を負った。それよりもひどいというなら、考えられないくらい悲惨な目にあったのだろう。
「ほら、くーちゃんもあーちゃんにちゃんと挨拶してくださいよー」
「ああ、分かった」
草間は阿久津に近付こうとする。だが、阿久津は体を強張らせ、視線を逸らして草間を拒絶した。
「あーちゃん、大丈夫ですよー。くーちゃんはとっても優しい人ですからー」
香坂に説得されても、阿久津は香坂の声に耳を傾けようとしない。頑なに視線を外し続け、草間をひたすらに拒絶する。
しかし、草間は落胆や怒りを覚えたりはしなかった。初見の話から察するに、相当な心の傷を負っていてもおかしくは無い。むしろ、同情の念が草間の心から湧き出していた。
拒絶されるのは仕方ないが、とりあえず自己紹介だけはしておく事にする。
「俺は草間浩介。よろしくな、阿久津さん。今は無理する必要は無いから、徐々に慣れてもらえればそれでいい」
いつもクライアントと接するように笑顔を浮かべて挨拶するが、阿久津は目を合わせてはくれなかった。
少しだけ重苦しい空気が流れたが、パンッと手を叩いた音が鳴り、すぐに吹き飛んだ。
「さて、これで阿久津も今日からうちの事務所の従業員ね。早速だけど、二人にお願いがあるのよ。阿久津を連れて、この辺りを回ってきてくれないかな」
「はい、いいですよー。ね、あーちゃん」
香坂の問い掛けに、阿久津が小さく頷く。どうやら香坂がいれば、阿久津の扱いに困る事は無さそうだった。
「それじゃ早速行きましょうかー。まずはとにかくご飯ご飯! あーちゃんは何が好き? 三島市場の屋台は、美味しいものがたくさんありますよー」
香坂が阿久津の手を引いて、いそいそと立ち上がる。
草間もその後に続こうとすると、初見に呼び止められた。
「草間、私の部屋の植物の手入れはちゃんとしといてくれた?」
「ええ、しときましたよ。全部枯れずに元気です。全く、何で所長が帰ってくると、みんな枯れてしまうんだか」
「はは、本当になぜだろうね。分かった、ありがとう」
「それじゃ行って来ます。あ、あとクライアントの皆さんにちゃんと連絡を……」
「くーちゃん、早くー。もうお腹が減って倒れちゃいそうなんですからー」
「ああもう、今行く! ではお願いしますよ」
「はいよ、いってらっしゃい」
香坂に急かされ、草間は小さく初見に会釈すると、事務所の出口へ走っていった。後に残ったのは初見一人。とりあえずクライアントに連絡をつけようとしたのか、机の上にあるパソコンの電源を入れる。しかし、うんともすんとも言わない。
「ありゃ、壊れたかな」
起動しない理由が、ただ線が抜けている事に気付くのは、それから一時間後の事だった。
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