第15話 フォースブレイク

 事務所から出た後、草間はまっすぐ自分のマンションに帰っていた。今は手当たりしだいに荷物をまとめている。


 ここを出た後、どこかに居を構えるつもりはなかった。どこか当てもなくさまよって、適当に生活出来ればいい。だから持ち出す物は必要最低限で、後は売るなり捨てるなりするつもりだ。


 ピタリと草間の手が止まった。それは一枚の写真立て。阿久津が草間に心を許した時に撮った、全員の集合写真が入っていた。どこかぎこちなく笑う阿久津と、対して満面の笑みを浮かべる香坂。二人にしがみつかれてうろたえる自分に、そんな草間をさも面白そうに笑う初見。これを撮ってまだ二ヶ月も経っていないはずなのに、何だか遠い昔に思えてならなかった。


 草間は写真立てから写真を抜き出し、つまんで破り捨てようとした。しかし指先はぴくりとも動かない。どれだけ力を入れても、自分の手が言う事を聞いてくれなかった。草間は苛立って、写真を放り投げてしまう。


「くそ……」


 草間は今、強い未練を感じている。まだ初見や香坂、そして阿久津と何事もなかったかのように、いつも通りの時を過ごしたいと。しかし一方で、二人に対して抑えきれないほどの激情に駆られるのもまた事実。果たして、どちらが草間の本当の感情であるのか。あの日から、ずっと草間は二律背反に苦悩していた。


 その時、部屋にインターホンの音が響いた。気怠げに視線を移してマンションの入り口を映すモニターを見ると、草間は信じられないと目を見開いた。モニターには香坂らしき人物が映っている。


(まさか、ばれたのか?)


 香坂ならあり得る事だ。マンションを監視されていたか、それとも身の回りの物に発信機を付けられていたか。

 どちらにしても香坂に会うわけにはいかない。草間は居留守を貫き通す事にした。窓のカーテンを全て閉め、モニターに映る香坂の様子をじっと観察する。

 香坂はしばらくその場に佇んでいたが、数分で引き返し、外へ出てしまった。だが草間は香坂と長い付き合いだ。この諦めの良さはありえないと分かっていた。


 すぐに草間は、電波探知機を使って部屋中を確認した。どこにも反応はない。どうやら、自分の部屋に何か仕掛けられているわけではなさそうだった。

 次に、どうやってこの部屋から脱出しようか思案していると、コツコツと小さい音が聞こえたような気がして、草間は耳をそばだてた。……今度ははっきりと聞こえる。音の発信元はおそらく玄関。誰かがノックしているのだ。

 このマンションに来て、他の住人から訪問を受けた事はほんの数回。引き払う事も誰にも伝えていないので、住人が訪ねてきたとは考えられない。つまり、外にいるのはほぼ間違い無く香坂だ。このセキュリティが厳重なマンションのどこをどうやって掻い潜ってきたのか、草間には到底分からなかったが。


 草間は一息大きく吐いて覚悟を決めた。このままだと、最終的に玄関のドアを破られるか、窓を割って入ってくるだろう。そんな事をされたらたまったものではない。

 草間は玄関に近づき、鍵を外してゆっくりと開けた。果たして、そこにいたのはやはり香坂だった。元々低い身長の上、俯き加減で表情はまるで見えない。ただ、怒気とも哀憫とも取れない身の凍るような空気が、香坂の周囲を覆っていた。


「こう……」


 香坂に声をかけようとした瞬間、下腹部に激烈な痛みが走った。見れば、香坂の右ひざが草間のみぞおちにめり込んでいる。


「ぐ、う……」


 同時に凄まじい吐き気が襲い、草間の体勢は前のめりになる。


「が!」


 間髪入れず、今度は顎を衝撃が襲った。下げた頭に向かって、鋭いアッパーが飛んできたのだ。脳が激しくシェイクし、意識が飛びかける。

 気がつくと、草間は仰向けに倒れていた。胸の辺りに奇妙な圧迫感がある。見れば、香坂が草間の上に馬乗りになっていた。さらに右手を振りかざしている。このまま顔にめがけて滅多打ちをする気だ。

 草間はすぐさま、両腕で自らの顔面をガードした。苛烈な攻撃を今か今かと待ち構えていたが、それがやってくる事は無かった。代わりにぺし、ぺし、と力なく触れる感触が腕を通して伝わる。そして、草間の顔に温かいものが零れ落ちた。


「……う、ぇぇ……」


 聞こえる微かな泣き声。草間は両腕をどかして香坂を見た。香坂は泣いていた。必死に涙をこらえようと口をへの字に曲げ、それでも耐え切れず、目尻から小川のように涙を流して。


「香坂……」

「ほん、とに。ほんとに寂しかったんですよ! くーちゃんが帰ってくるのをずっと、ずっと待ってたんです! えぐ、なの、に、どっか行っちゃうな、んて、やだああぁぁぁ!」


 香坂が草間の首にしがみついた。顔をくしゃくしゃにして、涙と鼻水が草間に付こうとお構いなしに。息が苦しくなるぐらいに首が締まっていたが、草間は一切抵抗しなかった。


「……すまない」


 草間は、香坂になんて声をかけてやればいいか分からなかった。ただ、謝る事しか出来なくて。香坂の頭に軽く手を置くと、いっそう香坂の泣き声が激しくなった。

 その後は、まるで永遠のように時が長く感じられた。それは罪の意識によるものなのか。草間は身動ぎ一つせず、香坂が泣き止むのをひたすら待った。


 草間の体感時間では半日近く。実際は十分程度だったが、ようやく香坂の嗚咽が治まった。首に絡まった腕から力が抜け、だらりと草間の肩から滑り落ちる。しかし、香坂は顔を上げようとしなかった。


「……白状します。私、くーちゃんとあーちゃんが仲良くなるのが、面白くなかったんです。いつもべったりくっついてて、私は蚊帳の外みたいで。だからあの日、くーちゃんがあーちゃんを拒絶した時、ほんの少しだけ良い気味だと思った自分がいたんです」

「そんな、だがあの時、お前は阿久津のために……!」

「そう思ってしまった自分が許せなくて。くーちゃんに掴みかかって怒鳴ったあれは、そんな自分に対しての怒りでもあったんです。自分の弱さをくーちゃんにぶつけてしまった。どうです、理不尽でしょう? くーちゃん、こんな私は嫌いですか?」


 理不尽。その言葉を聞いて、香坂が自分の過去を知っている事に気付いた。おそらく初見が話してしまったんだろう。

 誰に対しても朗らかで、人を憎みそうにない香坂の暗い一面。それを知って、草間のトラウマが静かに首をもたげ始めた。


「……分からない。なぜ俺にそんな事を言うんだ?」


 香坂の頭が跳ねて、草間と視線が交差する。絡まる視線から一瞬、火花が散ったように見えた。


「分かりませんか? 誰でもそういった一面はあるはずなんです。それはくーちゃんにも」

「俺にそんなものはない!」

「じゃあくーちゃんを守るために戦って拒絶されたあーちゃんの気持ちが分かりますか!? 信じてた人に裏切られる瞬間。それがどれだけ理不尽だと!」

「あ……」

「理不尽に立ち向かう信念。それはとても強くて素晴らしい事です。例え、過去の悲惨な出来事が原因だとしても。自分の事を棚に上げてるのは分かってます。でもお願い、くーちゃん。あーちゃんは望んでやったわけじゃないし、はーさんも自分の罪を認めて、少しでも償おうとしてるんです! 理不尽を仲間に突きつける人にならないで!」


 香坂は瞳に涙を湛えながら、すがるような表情で草間を見上げた。草間は視線に耐えられず、思わず目をそらしてしまう。

 香坂のおかげでようやく気付けた。自分は間違っていたのだと。理不尽を憎むあまり、全く周りが見えていなかった。阿久津の事も自分を殺しかけたのだから当然だと、無条件で信じこんでしまっていた。でも今なら分かる。阿久津に罪なんて微塵もなく、悪いのは自分だ。


「くーちゃん、戻りましょう。はーさんとあーちゃんの所へ」

「……許してもらえる訳がない」

「やってみなきゃ分かりません! 大丈夫。どうしても許してもらえなかったら、私も一緒に出ていきますから。くーちゃんを一人になんてさせません!」

「香坂……」


 香坂の言葉はどこまでも真っ直ぐで、草間の奥底にかかっている黒い霧を、吹き飛ばしてくれるようだった。不思議と、自信さえ沸き上がってくるようだ。

 そして草間は決意する。自分の闇に向かい合う事に。


「分かった。もう一度阿久津と会って、許してくれるまで謝り倒そう」

「本当ですか!?」

「ああ。そしてまたいつも通りになろう。そのためなら、どれだけ時間がかかっても諦めない」

「やっ……たー!」


 香坂は喜びのあまり、また草間にしかっと抱きついた。

その時だった。部屋の窓から眩いばかりの閃光が走った。さらに爆音が断続的に響き渡り、尋常ではない事態を告げている。


「きゃ! な、なんですか!?」

「これは、まさか!」


 二人は草間の部屋に駈け込むと、窓から外の様子を伺った。

 あれだけ暗く立ち込めていた雲がみるみる消えていく。まるで何かに吸い込まれているかのように。さっきの閃光は、雲の切れ間から覗いた太陽の光だった。

 雲の消えていく方向。そこからゆっくりと何かが現れていく。草間はそれを知っていた。脳裏にこびり付いて離れなかったあの光景。それが今、また目の前に現れている。


「空に浮かぶ黒い穴……。くーちゃん、まさかあれは……!」

「……次元穴だ」


 世界中が恐れていた、四度目の次元穴の出現、フォースブレイク。それが今、この町で起きようとしていた。



「ついに来たわね……」


 初見達もまた、フォースブレイクの瞬間を事務所から目の当たりにしていた。

 次元穴が開いてしばらく経つと、そこから最悪の敵、リッパーが這い出てくる。巨大な白い体に鋭利な両手の鎌。その姿はまるでカマキリのようで、一国の軍隊をも壊滅に追い込む戦闘力を持っている。


 次元穴の出現位置は町から大分離れているようだが、羽を持つリッパーの機動力では意味が無い。一飛びで侵入され、一時間もあれば町は廃墟と化すだろう。それに次元獣が現れてパニックと化した状態では、避難など間に合うわけがない。事実、外からは車のクラクションと人々の怒号が徐々に大きく聞こえてきている。


「はつみ……」


 阿久津が泣きそうな顔で初見の袖を引っ張った。

 リッパーを撃退する方法は一つだけ存在する。無限の力を持つ阿久津の力ならばあるいは。

 初見は阿久津の手を両手で握って目を見つめた。


「阿久津。この町を守るために力を貸して」

「で、でも……」


 阿久津は戸惑い、逃げるように初見から視線を外した。

 研究所にいた頃から、阿久津は力を使う事を嫌がっていた。さらに今は草間の件もある。より力に対する嫌悪感は強まっているはずだ。

 しかし、だからといって引き下がるわけにはいかない。


「このままでは町の人達は全員殺されてしまうの。香坂や草間だって死んでしまう!」


 二人の名前を出すと、阿久津ははっと目を見開いた。両手を握り締め、全身をブルブルと震わせている。戦っているのだ。次元獣と自分の力に対する恐怖に。

 しばらくすると、阿久津は初見に向き直り、こくんと小さく頷いた。しかし、完全に克服できたわけではないようで、顔は緊張で強張り、血の気が失せて西洋人形のようだった。

 少しでもそれが和らぐようにと、初見は阿久津の頭を優しく抱きしめた。


「ありがとう、阿久津」


 阿久津が初見の服を掴んでくる。伝わってくる震えを止めようと、初見はより一層阿久津の抱きしめる力を強めた。すると僅かながら、阿久津の震えが和らいだ気がした。

 初見は抱きしめるのを止めると、阿久津の手を引いた。


「行きましょう。絶対に皆を助けるの」

「うん」


 そうして二人は事務所を出て行った。

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