第5話 一夜明けて
「あーちゃん!」
日が昇ったばかりの午前七時一二分。事務所のドアを乱暴に蹴飛ばし、怒涛の勢いで香坂が飛び込んできた。
「むぐ!」
寝ぼけ眼で水玉のパジャマのまま歯を磨いていた初見は、驚いた拍子に歯ブラシを思いっきり奥に突っ込んでしまい、あまりの痛さにうずくまってしまう。
「ッ痛……。香坂! ドアを蹴飛ばすな! びっくりするでしょうが!」
「そんな事どうだっていいです! はーさん、あーちゃんは! あーちゃんはどうしたんですか!」
香坂が初見に詰め寄り、両手で襟首を掴んで力任せに振り回す。小柄な香坂からは考えられない程の力だ。頭一つ半は初見の方が大きいが、それでも全く抵抗できずにいた。
「や、やめ……」
「こー、ちゃん?」
その声を聞いた瞬間、暴走したピストンのように動いていた香坂の体が、ぴたりと静止した。声のした方へ、香坂の首がゆっくりと回る。そして視界にはっきりと、阿久津の姿を捉えた。
「あーちゃん!」
初見を突き飛ばし、香坂が阿久津へ突進する。そして少しも遠慮せず、頭から阿久津に飛びついた。阿久津は香坂を受け止めたが、勢いに耐え切れず、ばたんと後ろに倒れ込んでしまった。
「い、いたいよ。こーちゃん」
「もう気分は悪くないですか? どっか悪いところはないですか?」
「う、うん。だいじょうぶ」
「良かったー! 本当に心配したんですよー!」
「く、くるしいよ」
感極まった香坂は、阿久津の首に腕を回して力の限り抱き締めた。顔は涙と鼻水に塗れて、押し付けている阿久津についてしまっていた。阿久津はというと、香坂の腕で首が完全に絞まってしまい、目を白黒させながら、香坂の腕を叩いている。
阿久津の顔色は、昨日とうって変わって健康そのものだった。肌には血の気が戻っているし、何より感じが変わった。昨日の吹けば飛びそうだった儚げな雰囲気が、今はだいぶ薄れている。
二人の上に影が被さった。そしてぽたりぽたりと、白い泡が落ちてくる。
「こおぉおさぁぁかぁぁ……」
地獄の底から響くような声に、香坂がびくっと肩をすくませて、ゆっくりと上を見上げる。そこには、口の端から歯磨き粉の泡を流し、パジャマのボタンが千切れて胸元が露になり、額に一目で分かる大きなたんこぶを作って、三日月の笑いを浮かべた初見の姿があった。
◇
『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!』
『うははははははははは!』
草間が事務所の前に着くと、中からひたすら謝り倒している香坂の声が聞こえてくる。いつも寝坊してくる香坂が草間より早く出社してくるのは、一年に一回あるかないかのとても珍しい事だ。
「おはようございます」
朝の挨拶をして事務所に入ると、とても奇天烈な光景が広がっていた。
一つは初見の格好。口の端には白い筋が一本、顎まで垂れている。さらに乱れたパジャマに額のたんこぶ。何か、よほどの事があったのは間違いない。
その足元に、土下座をしている香坂がいた。しかも、後頭部を初見に足蹴にされて、額を床にこすりつけられている。ぐりぐりと踏みつける初見を、申し訳程度に阿久津が止めようとしていた。
「何やってるんですか、朝っぱらから。そんな事すると、後で訴えられますよ」
「止めるな草間! 今日こそ、この自由人にきつい灸を……草間、家を出る前にちゃんと鏡は見たの?」
初見の激昂は、草間の姿と見た途端に吹き飛んでしまった。
草間の格好はそれはひどいものだった。髪はぼさぼさに乱れ、先からは水が滴っている。唇は真っ青を通り越して真っ白で、生きている人間とは到底思えない。さらに目は落ち窪み、いつもの涼しげな眼差しは見る影もない。
「ああ、すみません。うっかり寝坊して、身支度も程々に出てきてしまって」
しかし、草間はさも大した事はないと言うように、微笑を浮かべて軽い口調で詫びた。
その顔を見て、阿久津が眉間に皺を寄せて目を逸らす。まるで、怖いものを見たかのように。
初見は呆れた表情で草間を見つめていたが、小さく息を吐くと、手近にあったタオルを草間に投げつけた。草間はそれを右手で受け止める。
「とりあえず、髪だけはちゃんと拭きなさい。床に水滴が垂れるから。着替えてくるから、ちょっと待ってて」
そう言い残すと、初見は香坂の頭から足を離し、事務所の奥に引っ込んでしまった。その後を、阿久津も小走りで付いていく。
初見はここに住んでいる。狭い事務所だが、風呂にキッチンなど、生活に必要最低限の物は揃っている。面倒くさがりな初見らしい、合理的な事務所だった。
草間は、初見から受け取ったタオルで大雑把に髪を拭くと、まだ土下座したままの香坂に声をかける。
「ほら、もう顔を上げても大丈夫だぞ」
「……はー! 本当に怖かったですよー。あの迫力は悪魔も裸足で逃げ出しますねー。くーちゃんが来てくれて、本当に助かりました」
顔を上げた香坂の額には、くっきりとフローリングの溝の跡が赤くついていた。よほど強い力で踏まれたのだろう。並大抵の力の入れ方では、こうはならない。
草間の顔を面と見るなり、香坂の表情が途端に変わった。目元を歪め、草間の顔を両手で包み込む。香坂の体温が頬からほんのりと伝わり、草間の鼓動が少しだけ早さを増した。
「ひどい顔です……」
「少し、眠れなかっただけだ」
香坂の温もりを振り解き、草間は香坂から顔を背けた。そのままでいると、胸に溜まった全てを吐き出してしまいそうだったからだ。
二人の間に、少しだけ気まずい空気が流れ始めた。そこにタイミング良く、着替えた初見が阿久津を連れて戻ってきた。初見の格好は、いつものようにぴしっとビジネススーツを身にまとっている。今日の色は濃紺だ。
「さて、今日の仕事は一件だけね。御手洗さんから物件の除霊の依頼が来てるから、それを私が片付けるわ。香坂、阿久津。二人は私に同行して」
「え? 所長、俺はどうするんです?」
「草間は事務所の留守番と掃除。その顔でクライアントに会わせられるはずが無いでしょう?」
「……はい」
初見の言う通り、今の草間の格好は見苦しい事この上ない。そういった意味では当然の判断だった。渋々、草間は初見の命令を受けた。
「はーさん、私達も行くんですか?」
「阿久津に、仕事の現場を見せておきたいからね。香坂はそのお守り」
「あー、なるほどー」
納得がいったと、香坂は頷く。
「じゃあ出かけようか。草間、後はお願いね」
「はい。いってらっしゃいませ」
「じゃあね、くーちゃん。お土産買ってくるからねー」
ぞろぞろと三人が出かけた後、事務所は水を打ったように静かになった。すると、突然草間の膝が折れ、その場に倒れ込んでしまった。実はすでに疲労困憊で、立っているのもやっとの状況だったのだ。
「すこし、だけ。いちじ、かんね……」
草間は深いまどろみの中に落ちていく。細く安らかな吐息が、草間の安眠を如実に語っていた。
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