緩やかに壊れゆく世界の中で
夢空
第1話 序章
(ここは……どこ?)
目が覚めると、そこは何も見えない暗闇だった。全身は布のようなものでぐるぐる巻きにされているみたいで、身動き一つ取れない。
何でこんな事になっているのか思い出そうとしたけど、目覚める前の記憶が思い出せない。名前も何もかも。
ここから逃げ出そうと、体重移動で何とか体を転がしてみる。けど、すぐに何かに当たってしまった。左右とも壁がある。何か小さな箱のような物に押し込められているみたいだった。
「はあ、はあ、はっはっ……ガ……ハッ……ク……ァァ!」
しばらくすると突然息が苦しくなった。いくら空気を吸っても全然楽にならない。胸から全身へ言いようのない苦痛が巡り、頭の奥が痺れていくのが分かる。
(いや! 死にたくない、死にたくない!)
このままでは息が詰まって死んでしまう。死の恐怖で頭がいっぱいになり、私は生きようと必死にもがいた。でも、巻かれたものはミチミチと音を立てるだけで、少しも破れてくれない。
「……ァ……」
苦痛が絶頂に達した瞬間、私は自分が死んだ事を悟った。心臓の鼓動が消え、全身から力が抜けて、もう息をする事も、まばたきする事もできない。
(……あれ?)
けど私は気付いてしまった。死んでもまだ意識があるという事に。息が詰まる耐え難い苦痛は、より一層ひどくなって今も私を苦しめる。
死んでもなお続く無限地獄。絶望と苦痛の中にいても、私は誰かに助けを求める事しか出来ない。
誰か助けて助けてたすけてタスケテタス
◇
そこは雑居ビルの薄暗い一室。一人の男が、ディスプレイに向かって話しかけている。ディスプレイに映っているのは、四十代ほどの男性で、柔和な顔付きと白髪の混じった角刈りの頭をしていた。
「……と言われてもですね。御手洗さんも、あの人の事は良く知ってるでしょう」
『ううむ……それはそうなんですが。仕方ありません、分かりました。帰ってきたら、折り返し連絡していただけるようお願いします。当たるような真似をしてすみませんでした。草間君も苦労されてるのは分かっているのに』
「はは、もう慣れましたよ。では、詳しい話は所長が帰ってきてから改めて。それでは失礼します」
ディスプレイがプンッと音を立てて消える。にこやかだった顔は途端に崩れ、疲れたとも不機嫌とも取れる仏頂面に変わった。
草間浩介は痩身の優男だった。歳は二五。彫りが浅めの顔立ちと、切れ長の涼しげな目の、いかにも日本人的な顔で、無造作に伸ばした黒髪を、髪ゴムで一つにまとめていた。
「今ので本日の苦情十件目突破ですねー。ご苦労様ですー」
「電話番は香坂、お前の仕事だろう」
「いやいや、私は今忙しいんですよねー」
「朝からひたすらテレビに噛り付いてる奴が、何をいけしゃあしゃあと」
草間の位置から、書類の積み上がった机を挟んだ向こう側。大きな窓のそばで、日向ぼっこでまどろみながら、テレビを見ている女性がいた。
名前は香坂美鈴。身長はジェットコースターの身長制限に引っかかる程に小さいが、これでももう二一である。黒髪のおかっぱ頭と子供っぽい白のワンピース姿から、どことなく座敷童を彷彿とさせる。
草間は小さく息を吐いて立ち上がると、机を回り込んで香坂に近寄り、自分もテレビの画面に目を向ける。立体ホログラムが主流になりつつあるこの時代。こんな骨董品クラスの液晶テレビを使っているなんて、ここぐらいのものだろう。
色あせた画面には、衛星写真が映し出されていた。日本から約一〇〇〇㎞南の太平洋に、ぽっかりと黒い穴のようなものが見える。
「次元穴予報なんて見ても意味無いだろう」
「そんな事無いですよー。時々、はぐれが海から上がってきたって話も聞くじゃないですかー」
この黒い穴は次元穴と呼ばれるものだ。最初の一つは今から五十年前、二〇一一年十月六日に突如、サハラ砂漠の上空に現れた。上空約三〇〇〇mに位置し、そこから凶暴な地球外生命体、次元獣が時折降ってくる。その後も不定期に新たな次元穴が開き、現在は三つの次元穴が確認されている。次元穴がなぜ現れるのかは、未だ解明されていない。
次元穴は一定の軌跡を描いて、地球上を回っている。コースが変わる事は無く、国際次元穴対策委員会が常にマークし、現れる次元獣の駆除を行っている。日本はどの次元穴の軌跡上にも位置していないため、比較的安全な国に属していた。
「今日もまったりしてましょうよー。はーさんが帰ってくるまで、お仕事請けれないんですからー」
「……まあな」
のほほんとした香坂の態度を見ていると、生真面目に仕事をしようとしている自分が馬鹿らしく思えてきてしまう。
この事務所の社員は三人。草間と香坂。そして所長の初見翔子だ。
この所長が曲者で、ふらっとどこかへ行ってしまうと、完全に音信不通になってしまう。また、自分の知らない事があると気に入らないらしく、いないうちに仕事を請け負おうものなら、拗ねて軽く一ヶ月は機嫌が治らないという、子供っぽい一面があった。
草間はふと思いつくと、自分がさっきまで座っていた場所に移動し、机に置かれているパソコンから線を引き抜いた。
「これで今日の仕事は終わりだ」
草間は得意げにそれを香坂に見せて、電話線を机の上に放り出す。香坂はそれを見て、目を丸くしながら拍手を送った。
「おー! さすがくーちゃん、話が分かりますねー。ちょっと早いですけどお昼ですし、外に出ませんか?」
「それもいいな。どこに行く?」
「んー、そうですねー。三島市場で適当に屋台で食べ歩き、なんてどうです?」
「お、いいじゃないか」
「やったー! それじゃ早く行きましょうよー。お昼時はすごい込むんですよー、あそこ」
とてとてと、香坂は自分の私物が入っているロッカーに近付いて、外に出る準備を始める。
「ちゃんとコートを着ていけよ。大分暖かくなったが、それでもまだ寒いぞ」
「分かってますよー」
草間もコート掛けから自分のコートを取って着る。
さりげなく財布の中身を確認してみると、四〇〇〇円弱と少々心許ない額しか入っていなかった。カードがあるから、普段はほとんど現金なんて持ち歩いていないが、あそこの屋台ではカードが使えない。途中で銀行から下ろしていこうかとも考えたが、自分一人だけならまあ十分だろう。
すでに香坂は準備を終えていて、待ちきれないといったように肩を揺らし、出口の前で草間を待っていた。
「ほらほら、くーちゃん。は・や・く!」
「分かってる。そんなに急かすな」
「それじゃ、めくるめく食の世界へ、レッツゴー!」
事務所のドアを、香坂が思いっきり開け放つ。春先特有の柔らかな日の光と、微かに土の香りをくすぐる空気が二人を包む。
「上機嫌じゃないか、二人とも。一体どこへ行くのかな?」
「へ?」
気がつけば、外には二人の人影があった。
一人は、睨みつけられれば切り裂かれそうな鋭い目が印象的な顔立ちに、ほんの少しだけ赤みがかった髪をポニーテールにまとめている。真っ赤なタイトスーツを身にまとい、二人の目の前で仁王立ちしていた。彼女こそ、この事務所の所長、初見翔子だ。
しかし、もう一人の方は草間達も知らない。初見の後ろに怯えるように隠れて、顔はさっぱり見えなかった。
「いや、そのちょっとお昼に出てこようかなとですねー」
「へえ。でも、ちょっとだけ我慢してもらおうか? 少しばかり話があるんでね」
「あ! そんな殺生な!」
初見に首根っこをつかまれ、香坂が事務所の中に引きずり込まれていく。手足を必死にじたばたと動かして抵抗しているが、小さな体ではまるで意味を成していない。
二人が事務所に入ったのを見て、草間も後に続こうと踵を返す。しかし、さっきまで初見の後ろに隠れていた人が、その場に取り残されている事に気付いて振り返った。
その人は女性だった。腰まで伸ばした真っ直ぐな黒髪に、猫背だがおそらく草間と同じぐらいの高身長。顔は前髪で半分は隠れてしまっていて、そこから僅かに見える目は草間に合わせようとせず、おどおどと視線があちこちに踊っていた。
草間はすぐさま営業スマイルに切り替え、なるべく優しい声で話しかけた。
「さ、寒いですから中へどうぞ」
しかし、女性は警戒心を解こうとしなかった。草間を見て、逆に怯えたように事務所の中へ逃げてしまった。
「……まあいいか」
多少ショックではあったものの、初対面の相手にいちいち気にしていてはしょうがない。気を取り直し、草間も事務所の中に戻っていった。
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