第10話 新しい日常

「所長、石島さんの所に報告に行ってきます」

「ん、分かった。私が近々挨拶に行きますと伝えておいて」

「分かりました。二時間ぐらいで戻ると思いますので」

「わたしもいく!」


 草間が資料を持って出かけようとすると、阿久津が草間に駆け寄って、服の裾をぎゅっと握り締めた。

 猫探しから早二週間。もう抱きつく事はなくなったが、あれ以来、阿久津はずっと草間にべったりだった。どこに行くにも付いていき、草間のマンションにまで行きそうにまでなって、草間の必死の説得で何とか諦めさせた事もあった。


「ああ、一緒に行こう」


 草間も阿久津の扱いになれたものだ。なるだけ阿久津のしたいようにさせれば、基本的に何も問題は無い。


「それでは行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」


 入り口のドアが音を立てて閉まり、後には初見と香坂が残った。


「もうすっかり仲良しさんですねー。くーちゃんにあーちゃんを取られちゃいましたー」


 香坂はハムスターが頬にひまわりの種を詰めるが如く、頬をこれでもかというぐらいに膨らました。阿久津が草間に懐いてからと言うもの、阿久津は香坂よりも草間にご執心なようだ。ずっと頼られていた身からすれば、面白くないのも当然というものだろう。

 もっとも、香坂が仕草で露骨に出すのはポーズと決まっている。初見はそれを知っているので道化と受け取った。


「すねないすねない。まあ、あれね。最初から好きだった人より、嫌いから好きに変わった人の方が、落差が大きくて錯覚しやすいものよ。大丈夫、すぐに香坂のところに戻ってくるわ」

「……だといいんですけどねー」


 小さくため息を吐くと、香坂の表情がいつも通りの柔和なものに戻った。初見はそれを見届けると、自分の仕事を再開した。

 香坂も同じく自分の仕事に戻る。この時、初見はおろか香坂でさえ気付かなかった。香坂の眉間に、深い皺が刻まれていた事を。



 草間達が向かったのは、中心街にある喫茶店、ベデアだった。店主が大の星好きで、店名も夏の大三角のベガ、デネブ、アルタイルの頭文字から取ったらしい。店の中は天体写真が壁一面に飾ってあって、夜には中心のプラネタリウム装置で一面の星空が描き出される。そんな力の入れようから、すっかりこの町の名物になっていた。

 石島はまだ来ていないらしい。草間達は、店員に窓際の席に案内された。


「ご注文はお決まりですか?」

「コーヒーと……アンドロメダパフェを一つ」

「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」


 ウェイトレスに注文してきっかり一〇分後、コーヒーと何とも形容し難いパフェが運ばれてきた。

 このパフェはここの名物で、真っ黒な中に一本の白が走るソフトクリーム。その中に金色のパフが混ぜられて、ボリュームたっぷりに盛られている。何より目を引くのが、上に乗せられた飴細工。絹糸のように細い飴を幾重にも絡ませ、1㎜ほどの丸い色鮮やかなチョコが塗されている。芸術的とも言えるそれは、まるで小さな銀河だ。見る分にはいいが、黒いソフトクリームというだけで、草間は全く食欲が沸かないが。


 阿久津はそれを見るなり目を輝かせ、一心不乱にパフェに飛びついた。頬にべったりとクリームを付け、カップに入っているフレークを掻き出している。

 阿久津は甘い物に目が無い。以前、物欲しそうにたい焼きを見ていたのを買ってあげたところ、大喜びして食べだした。以来、良さそうなものがあると、つい買ってあげるようになってしまった。


(まあ、これだけ大喜びされるとな)


 餌付けしているつもりは無いが、つい買い与えてしまう。阿久津の笑顔は一転の曇りも無いぐらい無邪気で、眺めているだけで心が洗われるようだった。


「ごめんなさい。待たせたわね」


 声が聞こえてふと気が付くと、テーブルの向かい側に妙齢の女性が座っていた。今回のクライアント、石島優華だ。

 石島は栗色の紙をボブロングにし、ゆったりとした白のオーバーブラウスを着ていた。落ち着きのある雰囲気と相まって、そばにいるだけでほっとする。そんな女性だった。


 草間は席から立ち上がり、慇懃にお辞儀をする。


「これは気付かずすみません。私共も今着いたばかりですので。あと、うちの初見が石島様に、近々挨拶に伺いたいと」

「ふふ、相変わらず仰々しいわね。あ、私はアールグレイをお願いします」


 石島も注文を終え、草間は早速仕事の報告に入った。


「調査内容はこれで全てです。お目通しください」

「ありがとう」


 石島は草間から封筒を受け取り、中身を取り出す。そして運ばれてきた紅茶を飲みながら、一枚一枚丹念に目を通した。その目つきが、にわかに鋭さを増していく。

「……間違いないのね」

「はい。調査を依頼された会社は、巧みに偽装されたペーパーカンパニーでした」


 草間が受けた依頼は、とある会社に対する調査だった。表向きはいかにも精力的に活動しているように振舞っていたが、裏を取ってみるとそれは真っ赤な嘘で、ようするに詐欺集団だったと言うわけだ。

 石島はアパレルを商う会社の社長をしている。ひょんな事からその会社と商談する事になったのだが、石島の勘に引っかかるものがあったらしく、調査をしてみればこの結果という事だ。


 石島は広げた資料をとんとんとまとめ、封筒に入れ直した。


「素晴らしいわ。十分よ」

「ありがとうございます。ところで、差し支えなければお聞きしたいのですが、これからその会社とはどうされますか? もし良ければ、私共に……」

「あら、心配は無用よ。この私をだまそうとしたんですもの。逆にこっちが徹底的に搾り取ってやるわ」

「はは……すごい意気ですね」


 草間は思わず苦笑いをする。

 さっきのおっとりとした雰囲気はどこへやら。拳を掌に打ち鳴らし、逆襲に燃える勝気な女性の姿がそこにあった。


 石島は封筒をバックに入れると、優雅な仕草で席を立った。


「それじゃ、また何かあったらお願いね」

「はい。いつでもお待ちしております」


 と、草間は石島が自分の顔をまじまじと見ている事に気がついた。人差し指を唇に当て、何か考えているようだ。


「……草間君、貴方何か変わったわね。物腰はいつも通りなんだけど……そう、笑顔が変わった!」

「そう、ですか?」

「ええ。ずっと良い顔で笑うようになったわ。ひょっとして、新しく入ったその子の影響?」


 未だパフェにがっついている阿久津を指差し、からかう調子の石島だったが、草間は真剣な目をして、まっすぐ石島を見据えて答えた。


「はい。そうです」

「……あらあ、はっきり言ってくれるじゃない。残念。ちょっと狙ってたんだけどね」

「あ、そういう意味では!」

「またまた照れちゃってー……と、これから会議があるんだった。またね。お二人さん」


 勘違いを否定しようとする草間を置き去りに、石島は脱兎の如く店を出て行ってしまった。

 小さくため息をつく草間だったが、何か視線を感じた。見れば、阿久津が心配げに草間を見つめている。


「大丈夫だ。それを食べたら帰ろうか。あんまり遅いと所長が怒る」


 ふっと草間は笑って、無意識に阿久津の頭をなでる。大人に対してやる行動ではないが、阿久津は猫みたいに気持ち良さそうに目を細めた。



 草間達が事務所に帰ってきたのは、昼の三時を回った頃だった。仕事場に入ると、初見が一枚の資料を見つめて唸っていた。


「ただいま戻りました」

「お、お疲れ様。帰ってきてばかりで何なんだけど、草間と香坂はもう上がっていいよ」

「え、どうしてですか?」


 香坂が驚いた様子で聞き返した。仕事で遅くなる事はあっても、初見公認で早引き出来るなんて事は、今まで一度たりともあった事が無い。

 初見は立ち上がると、香坂に近づいて持っていた資料を手渡した。草間もそこに行き、香坂の後ろから資料を覗き見した。


「害獣の駆除、ですか?」


 資料は、正体不明の害獣駆除の依頼書だった。どうやら南にある保護林に出没したらしく、国から要請が来たらしい。


「そう。相当の大物らしくてね、被害が出る前に駆除しときたいらしいのよ。うちからは総出で当たるつもりだから、今日はしっかり体を休めてもらおうと思って」

「香坂、ちょっと貸してくれ」

「はい、どうぞー」


 香坂から資料を受け取り、もう一度しっかりと読み直す。害獣の正体は不明。目撃例は二件あり、共に体は白く、体長は優に三mを超える巨体と書いてある。


「なんでしょうねこれ。白い動物っていったら、ホッキョクグマぐらいしか思い付きませんが」

「あ、パンダかもしれませんよー。でもそれだったら大変ですねー。あそこは杉ばっかりだったはずですから、お腹を空かせて泣いているかもー」


 冗談交じりの推測だが、パンダの方がまだ可能性はあるかもしれない。可愛く見えるが、実際は気性の荒い動物で、人が襲われる事だってある。もしそうであれば、いつまでも野放しには出来ない。


「私もそれぐらいしか心当たりが無いけど、大方密輸された動物が逃げ出して野生化したんでしょう。そういう事で、明日はよろしくね。二人とも」

「はい。それじゃ行くか、香坂」

「はーい。あーちゃん、また明日ねー」

「うん。こーちゃん、バイバイ」


 初見と阿久津の見送りを受けて、草間と香坂は一緒に事務所を出た。まだ十五時過ぎというのもあって、日は依然高い。帰って寝るにはあまりに早すぎる。

 ふと、草間は香坂がいやに上機嫌な事に気付いた。いつもニコニコしている香坂だが、今日は全身から嬉しさが滲み出している感じだ。


「香坂、何か良い事でもあったか?」

「え? 特にありませんよー。んー、こうやって明るいうちに帰れるのはうれしい事ですけどねー」

「そうか」


 どう見ても上機嫌だが、どうやら香坂に自覚は無いらしい。


「ねね、くーちゃん。ちょっとくーちゃんの家に遊びに行ってもいいですか?」


 急に思わぬお願いをされて、草間はどぎまぎした。普段から掃除はしているので来られて困る事は無いが、自分以外は誰も出入りしないので、来られても何も出来ない。


「ん? うんまあ、別にいいんだが、来ても特にもてなせないぞ?」

「いいんですよ、そんな事ー。こっそり家捜しして、恥ずかしい物を探そうなんて、これっぽっちも……」

「やっぱ駄目だ」

「えー! 冗談ですよー!」

「嘘付け。目が本気だったぞ」

「ぶー!」


 口では不平を言うものの、やっぱり香坂は嬉しそうだった。最近の香坂は少し寂しげだったので心配していたのだが、どうやら草間の取り越し苦労だったようだ。いつも通りの香坂を見て、草間は引っかかっていた胸のつかえが取れたようだった。



 翌日、出社してきた草間の様子は、それはひどいものだった。全身から放たれるオーラはあまりに気だるげで、見ている方が疲れてくるようだ。


「おはよう、ございます」

「……あのね、草間。私は昨日休めって言わなかったっけ?」


 あの後、草間は香坂にあっちこっちへ引きずり回され、さらに無理やり自宅にも上がりこまれた。香坂を自宅に送り届け、ようやく落ち着いた頃には、時計の針は夜中の二時を指していた。

 草間をこんなにした当の本人はというと既に出勤していて、いつものように窓際でお気に入りの湯飲みに入った緑茶をすすっていた。疲れなどおくびにも出さない。


「くーちゃん。若いんですから、もっとしゃっきりしないとねー」

「一体誰の……はあ、いやいい」


 香坂にさんざん振り回されたのは確かだが。大の男の草間が女性の香坂についていけないようでは情けない。その辺りのバイタリティが香坂の強みであるのだが。

 阿久津は香坂のそばで一緒にお茶を飲んでいたが、草間の姿を見るとそわそわしだした。どうやら草間のそばに行きたいが、香坂を気遣っているようだ。香坂はすぐにそれを察したらしく、


「いいよ、あーちゃん」


 と、阿久津の背中を押して促した。阿久津は目を輝かせ、自分の定位置である草間の左後ろに付き、草間のシャツを少しだけ指先で摘んだ。


「さて、草間も来た事だしそろそろ行こうか。ちょっと倉庫に寄って装備を整えるから、手伝ってね」

「分かりました」

「はーい」


 草間と香坂は返事を返し、阿久津は小さく頷いた。それを確認すると、初見を先頭に四人は今日の仕事場へと出かけていった。

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