第8話 猫探し2

到着した開発第三区は、そこら中に重機や鉄骨が放置されている。周辺には住宅も無いため、辺りにはまるで人気が無い。退廃的な光景は、暗くなれば心霊スポットにもなりそうな雰囲気だ。これだけ隠れる場所が多い上に広いとなると、猫一匹を探すのはかなり骨が折れるのは間違いない。


「もうちょっと下調べをしてから来るべきだったな」


 草間は自分の装備を見て、後悔いっぱいに溜め息をついた。草間が持っているのは、二人分の動物用捕獲網と、アルミ製の檻のトラップ一つという、何とも心もとない装備のみ。事務所の倉庫には生体センサーもあったのだが、そういった高価な装備は厳重な施錠がしてあり、初見が鍵の管理をしていた。あの時は慌てて事務所を飛び出したので、持ち出す事のをすっかり忘れていたのだ。

 とはいえ、今から事務所に戻れば、またここに戻ってくる頃には日が暮れてしまう。とにかく、これで何とかしてみるしかない。


「とりあえず、ここに罠を仕掛けておいて、俺達は歩いて探し回ってみよう。頼めるかな?」


 網を差し出すと、阿久津は無言で頷いて受け取った。ただの猫探しだというのに、とても真剣な表情だ。初めての仕事に緊張しているのだろうか。

 草間は檻にキャットフードを入れ、足元に置く。奥まで入れば、猫の体重に反応して檻の扉が閉まる、なんとも原始的な仕掛けだ。


「二手に分かれよう。俺は向こう。阿久津さんはあっちを頼む。こんな猫だから、見つけたら知らせてくれ」


 猫の写真を渡し、草間は行こうとしたが、妙な重さを感じて立ち止まった。見れば、阿久津が草間の服の端を握っていた。それも結構な力で。これは離してくれそうに無い。


「……分かった。一緒に行こう」


 草間が折れると、阿久津はぱっと服を離してくれた。

 しかし、阿久津の表情は複雑だった。こちらに目線を合わせず、眉間に少しだけ皺を寄せているので、怒っているのかと思ったが、微妙に綻んだ口元を見ると、どうやらそうではないらしい。


(……良く分からん)


 こんな時、香坂がいればどんなに心強いだろう。今日ほど、香坂のありがたみを感じた日は初めてだった。

 こうしていても始まらない。とりあえず草間は歩き出した。その一歩後ろを、おずおずと阿久津がついてくる。

 ……気まずい。草間も阿久津も全くしゃべらないので、これ以上ないほどに重苦しい空気が、二人の間に満ちていた。

 だが、草間は阿久津との共通の話題が何一つ見つからない。いつもなら、初対面のクライアント相手でも巧みに話題を引き出すのに、何を話していいか分からないなんて、全く初めての体験だった。


(これは、辛いぞ……!)


 初めて体験する無言の重圧。背後から全身を包み込み、自分を押しつぶそうと圧迫する。それが錯覚と分かっていても、体は過敏に反応した。緊張から血液が逆流するような感覚に陥り、全身が痺れていく。脳内から頭痛が起こり始め、視界が八の字を描いて足をもつれさせる。もはや猫探しどころではなかった。

 そんな苦痛が無限に続くのではないかと錯覚し始めたその時、背後で金属質の音が高らかに鳴り、草間は意識を取り戻した。


 振り向いてみれば、先ほど仕掛けた檻のそばに、何か白いものが見えた。真っ白な毛並みと、でっぷりと太った体。間違い無い。ターゲットの猫だ。

 猫は檻を外から蹴飛ばし、中の餌を取り出していた。まるで、初めから罠だと分かっていたかのようだ。偶然か、それとも。


「逃がすか!」


 草間は網を構えて走り出した。草間は足に自信がある。流石に猫に追いつけるほどでは無いが、引き離されずに誘導ぐらいは出来るはずだ。


 猫はすぐにこちらに気付いた。すると、逃げ出すどころかこちらに向かって走り出してきた。意表を突かれ、草間はその場に居着いてしまう。猫は地面を蹴ると高々と舞い上がり、草間の顔目掛けて突進した。


「ぐは!」


 全体重を乗せたねこぱんちが、華麗に草間の右頬に決まった。ご丁寧にしっかり爪まで出して。猫にしてはヘビー級の一撃をモロに食らい、草間はその場にもんどり打った。


「いっつつつ……。何なんだ、あの猫は!」


 右頬に赤い三本筋を描き、草間は立ち上がるなり吼えた。

 猫はまるでこちらを怖がっている様子が無い。むしろ、ふてぶてしい顔でこっちを睨み、尻尾をふりふり振っている様子は、草間達をからかっているようだ。

 その馬鹿にした仕草が、草間の怒りに火をつけた。


「くっくくく……絶対に捕まえてやるからな、このデブ猫!」


 高らかに宣言すると、草間は網をぎりっと握り直し、もう一度猫に向かって突進した。

 頭に血が登ったように見えて、まだ思考は生きていた。こちらを舐めて、また攻撃を仕掛けてくればこっちのものだ。もう居着くような真似はしない。今度こそ捕まえてみせる。


 しかしそんな考えはお見通しとでも言うように、猫はこちらに向かっては来なかった。踵を返し、どてどてと重たい足取りで逃げ出した。でっぷりとした体格のせいか、やはり普通の猫と比べると足は遅い。と言っても、草間が追いつけるほどではないので、どこかに追い詰める必要があった。


 草間はどこか良い場所はないかと、ここに来るまでの記憶を辿る。その時ふと思い出したのが、来る途中に見えた倉庫のような建物だった。確か、僅かに扉が開いていた気がする。しかも、猫の進行方向はちょうどそっちの方向だ。あそこに追い込んでしまえばチャンスはある。


「あ、あ、の……!」


 突然掛けられた声に驚いて振り向くと、阿久津がおどおどとした様子で、草間の後を付いて来ていた。

 猫の行動にいらっときていたのは認める。それでも、自分の中ではまだ冷静だと思っていた。けどそんなのは勘違いで、阿久津と二人で来ていた事さえ忘れていたのだ。


(何をやってるんだ、俺は。自分一人で突っ走って!)


 草間は落ち着くために大きく息を吸い、少しだけ止めて大きく吐き出した。あまり効果があるとも思えないが、それでも少しは頭が冷えた気がする。


「向こうの建物の中に猫を追い込むんだ。阿久津さんはあっちから回って、猫の退路を塞いでくれ。出来るか?」


 草間は左前方に僅かに見える建物を指して指示すると、阿久津は首をぶんぶんと何度も縦に振った。


「よし、絶対に捕まえるぞ!」


 阿久津が草間から離れて右へ移動する。なんとしても、猫に右に逃げられるのだけは避けたい。そこは阿久津がカバーしてくれるだろう……おそらく。

 草間自身はこのまま直進だ。後戻りされないように注意しながら、猫を追い立てていく。草間と猫の距離は一〇m弱。少々離れ過ぎているので、走るペースを上げてこれ以上離されないようにする。


 すると、猫が走りながらこっちを振り向いた。まるでこちらの動向を観察しているように。檻の罠にあっさりと気付いたことといい、この猫はきっと賢い。もしかしたら、倉庫へ追い込もうとしているのも気取られているかもしれない。

 不意に猫が立ち止まり、右へ直角に疾走した。


「させるか!」


 右へ逃げられた後に引き返されて脇を抜けられてはまずい。草間は猫の進路を塞ぐように、全速力で回り込もうとした。幸い、猫が進む先は高い壁がある。あの巨体では、壁の上に飛び乗る事は出来ないだろう。


 程なく、猫の進路は壁に阻まれた。これでこれ以上右には逃げられない。こちら側に逃げられる前に、草間も間に合った。これで猫は進むしかない。

 じりっとにじり寄ると、やはり猫は向こう側に逃げ出した。すかさず草間もそれを追う。もうすぐ倉庫前だ。あとはそこで阿久津が追い込んでくれれば、


(……大丈夫か?)


 一抹の不安が頭をもたげた。草間はいつも不安そうにおどおどしている阿久津の姿しか知らない。背は高いが、とても運動能力が高そうにも見えない。そもそも回り込むのだから、草間や猫よりも足が早くなければならないのだ。あまりに不安要素がありすぎた。

 そんな事を考えていたら、もう倉庫は目の前だった。草間は頭を振って不安を払い落とし、腹の底から叫んだ。


「行ったぞ! 頼む!」


 すると、猫を挟んだ草間の対角線側。鉄骨の物陰から、阿久津が飛び出してきた。両手で網を持ち、これ以上行かせまいと立ち塞がる。僅かに体を斜めにして、猫が横に逃げようとしても対応できる工夫した立ち方だった。草間も少し右に寄り、猫を右へ逃がさないようにする。


 これで、阿久津を飛び越えない限り、猫の逃げ道は左手の倉庫しかない。しかし阿久津は身長が高い。頭の良い猫なら、飛び越えるのはリスクが高いと踏むだろう。

 果たして、猫は倉庫の中にするんと入り込んだ。草間はすぐに阿久津の手を掴んで中に連れ込み、入り口を締め切った。周りを見渡して、中の窓も全て閉まっている事を確認する。これで、猫は完全にこの中に閉じ込められた。


 中には、建築資材と思わしきものが運び込まれていた。どうやらここは、建築会社が作った、資材のプレハブ倉庫のようだ。ライトはついていないが、上部の窓から太陽の光が差し込んで、光量は十分と言えた。それでも資材の隙間には、猫の隠れる場所があちこちにありそうだ。


「手分けして……」


 そう言いかけると、阿久津の表情が怯えに変わった。さっき外で二手に分かれて探そうと言った時も、こんな表情に変わった。


(そういえば、事務所にいる時も、必ず香坂や所長にべったりだったな)


 そこまで考えてようやく草間は合点がいった。ようするに、阿久津は一人が嫌なのだ。それも常識を超えた範疇で。ここまで恐怖心に駆られるというのは、依存症と言っても良い。

 唯一の例外は、さっき猫の先に回りこませた事だが、あまりに必死だったので一時的に忘れられたのかもしれない。

 今この場には香坂も所長もいない。だから、仕方なく草間に頼っているのだ。ずっと避けてきた草間にさえ頼るという事は、それほどまで一人になるのが嫌らしい。


「いや、一緒に探そう」


 阿久津は小さく頷き、草間のシャツの裾をぎゅっと握った。まるで、母親にすがる子供のようだ。身長は草間より少し高いはずなのに、こうして見るとなぜか小さく見える錯覚に陥る。


 草間が先を歩き、阿久津が後を付いてくる形で、猫の捜索が開始された。ゆっくりと進み、障害物の間を覗いて、猫がいないかどうか見落とさないように注意する。

 全体の三分の一ほどを調べたその時、上からカタンという音がした。見上げると、草間のすぐ横に何かが落ちてきて、脳内を引っ掻き回すような硬質音が、倉庫中に反響した。

 見れば、それはペンキのたっぷり詰まったブリキ缶だった。赤の塗料がぶちまけられて床が真っ赤に染まり、跳ねた塗料は草間達の服を前衛的な柄に染め上げた。

 数瞬遅れて、草間の心臓が痛いほどに鼓動を打ち鳴らした。


(あ、危なかった……!)


 もう少し右にずれていたら、缶は草間の脳天を直撃していただろう。打ち所が悪ければ、死んでもおかしくない重量だ。本当に運が良かった。

 戦慄で脳が麻痺し、一時的に思考が停止していた。だが、背後で何かが倒れる音を聞き、草間はハッと自分を取り戻す。

 振り向くと、阿久津が尻餅をついていた。目を白黒とさせ、まるで焦点が定まっていない。よほどびっくりしたのだろう。


「大丈夫か!? どこか怪我はしなかったか?」


 草間の問いにも、阿久津は反応を示さなかった。

 すぐに草間はしゃがみこみ、丹念に阿久津の状態を調べていった。まずは足。すっかりペンキに染まっているが、傷らしいものは見つからない。次に腕を取る。こっちは足ほどペンキが跳ねていない。幸い、腕にも怪我は無かった。次に体と手を伸ばしかけ、阿久津が女性だった事を思い出して、慌てて手を引いた。


「立てるか?」


 草間は先に立ち上がり、阿久津に手を差し出す。阿久津はぎこちなく首を振り、草間の手を取って立ち上がった。

 阿久津の様子に、どこも異常は見当たらないと分かると、草間はペンキ缶の落ちてきた棚の上を見上げた。草間達は、この棚に一切触っていない。なのに物が落ちてきたという事は、


「いた!」


 最上段にある他の缶の影。明らかに缶とは違う影と、金色に光る目が覗いていた。

 影がぱっと飛び出す。また棚がぐらぐらと揺れるが、何とか物は落ちてこなかった。


「行こう! もう少しで捕まえられるぞ!」

「う、うん」


 草間達は影を追いかけた。影は器用に棚から棚へ飛び移っていく。しかし、その先に棚は無い。後はこっちに戻ってくるか、一度棚の上から降りなければ逃げられない。こっちに戻ってくれば、飛び移る瞬間に、網で捕まえる事ができる。

 しかし、草間は猫の行く先を見て愕然とした。低い位置にある窓が、少しだけ開いている。あそこから逃げられたらおしまいだ。


「くそ、あと少しだってのに!」


 草間の足ではどうあがいても間に合わない。諦めかけて足を止めようとしたその時、一陣の風が吹いた。すさまじい速さで阿久津が草間の脇を駆け抜け、逃げる猫に追いすがっていく。その様を草間はあっけに取られていた。なぜかその時、阿久津の髪が緑にきらめいているように見えた。


 猫が先か。阿久津が先か。


 猫が棚の上から飛び降りた。あと一息で窓から出て行ってしまう。しかし、阿久津は諦めることなく、体を前方に投げ出した。地面の上を滑るように飛び、甲高い音と共に白煙が舞い上がった。壁際に置いてあった、石灰を入れた手押し車を豪快に弾き飛ばしたのだ。


「……は! 阿久津さん!」


 あまりの出来事に呆けていた草間は、ようやく我を取り戻し、阿久津の下に向かって走った。

 最初は煙で何も見えなかったが、徐々に勢いが収まってきた。白い粉の山に寝そべるように、阿久津が地面に突っ伏している。


「なんて無茶を……!」


 草間は阿久津を抱きかかえようとしたが、突然阿久津がむくっと起き上がった。そして両手をこっちに向かって突き出した。その手の中には、真っ白な毛並みをさらに白く染まった猫が握られていた。必死に逃げ出そうと、じたばた手の中でもがいている。


「本当に、捕まえたのか」


 阿久津はとても誇らしげに、力強く頷いた。やり遂げた。そんな充実感が、顔一面に溢れている。粉塗れになっているなんて、そんな事はおかまいなしに。

 褒めるべきだ。草間は直感的にそう思った。阿久津の頭に手を置き、心から微笑んだ。


「やったな。見事な初仕事だ」


 また怖がられるだろうか。そんな不安に駆られたが、阿久津の表情が見る見るうちに変わっていく。まさに満面喜色。これ以上ない喜びを湛えて、最後には草間にしがみついた。


「うわ、猫が!」


 阿久津の手から逃げ出す瞬間に、今度は草間がしかっと首根っこを捕まえ直した。

 阿久津はぎゅっと草間の体にしがみついている。その力はあまりに強くて、身動き一つ取れない。


(ど、どうすれば)


 草間はそのまま、阿久津が離してくれるのを待つ他無かった。

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