七話

 午後、日の当たらなくなった研究室の机で、僕は父さんに言われて同じ歴史学者である遠方の友人宛てに勉強会への誘いの手紙を書いていた。定期的に行われている勉強会は、学者が自発的に開いているもので、同じ研究主題の者同士や、僕のような若手だけを集めたりして、各々知識を深める場を作っている。近々開かれる予定の父さんの勉強会には、僕ももちろん出席するつもりだ。


 綺麗な字を心がけて、最後の行を書こうとインクの瓶にペンを近付けた時だった。


「……?」


 体に感じたわずかな異変に、僕は思わず手を止めた。ふと見ると、足したばかりの黒いインクの表面がかすかに揺れている。そのうち、机の足や壁の柱などがぎしぎしと小さな音を立て始めた。


「……地震か?」


 手元から顔を上げた父さんも気付いたようで、きしむ研究室の天井をじっと見上げた。でも揺れはそれ以上大きくなることはなく、次第に弱まるとすぐに治まってくれた。


「最近、多いな」


「うん、そうだね……」


「ここいらで地震なんて、昔はまったくなかったんだがな……地面の下で何かが起きているのかもしれないな」


 そう言って父さんは再び仕事に戻った。


 父さんの言う通り、ここ最近になってから頻繁に揺れを感じるようになっていた。昼でも夜でも時間は関係なく、日に何度も揺れることもあった。でも幸い、今のような小さな地震ばかりなので、町に被害はなく、人々に怖がった様子もないんだけど、普段はほとんど起きない地震という現象に、少なからず不安は感じているはずだ。僕も顔には出さないけど、不気味に続くこの地震には正直不安を募らせている。でも僕の場合はもう一つ理由がある。あの男、ラモンの言葉だ。


『世界は、もうすぐ滅びる』


 そんなの、たわ言だってことはわかっている。こんなに平和な世界が終わるはずはないのだ。そう確信していても、こう何度も地震を体感していると、心にふと不安が差し込んで、繰り返し聞かされたあいつの言葉が頭によぎってしまうのだ。この頻発する地震は、世界が滅びる予兆なんじゃないかと……。でも僕はそんな考えをすぐに打ち消すようにしている。真面目に考えたら、あいつに踊らされることになる。イレドラ族? 願いを叶える力? そんなものは全部作り話に決まっている。いかれた男の言うことを鵜呑みにするほど、僕は馬鹿じゃないし、そんな余裕もないんだ。この地震も、きっと今だけのことだろう。いつの間にか治まって、不安も忘れ去られるんだ。あんな男の話と関係あるはずない。だから目の前のことに集中すればいい――僕は一息吐いてから、ゆっくりとインクにペンを浸した。


 仕事を終えた夕方、帰り支度をした僕は早足で研究所を出る。一歩外に出ると、夕暮れの群青色の空が目に飛び込み、それと共に氷の冷気を吹き付けられているような寒風が顔面にぶつかってくる。年の瀬が近付いて、肌に感じる寒さはますます強力になっている。


「待ってくれエヴァン」


 研究所を先に出た僕の後ろから、父さんが小走りに追ってきた。


「近頃、やけに早く家に帰りたがるじゃないか。寒いせいか?」


「あ、うん、まあね……」


 僕は正面を向いて、歩きながら答えた。


「若いお前でも、この寒さは辛いか。じゃあ急いで帰ってルイサの料理で温まるとしよう」


 横に並ぶと、父さんは僕の速い歩調に合わせて歩き出す。無理して合わせないで、ゆっくり帰ってくれてもいいんだけど……付き合わせているみたいで申し訳ないな。


 僕が家路を急ぐのは寒いからじゃない。もちろん早く家で温まりたいけど、それが理由じゃない。下水道を通って逃げ帰ってきたあの日から、僕はできるだけ外出しないようにしている。でも仕事に行くには家を出ないといけないわけで、出勤と帰宅の道程の間は誰の目にも、特に巡回している警察の目に付かないよう、こうして急いでいるのだ。


 町で警察が誰かを捜し回っている話なんかは聞いていないし、そんな姿を見かけたこともない。実際、あの日に逃げた僕達に気付いて捜しているのかはわからない。もしかしたら、下水道につながる穴を見落として、存在そのものを知らないっていうことも考えられる。もしくは、マルセロが昔の仲間の力で僕達の証拠を消してくれたとか……さすがにそんなことまではできないか。とにかく、僕の外出には不安が満ちている。家にいたって警察が来る時は来るだろうけど、そんなことまで考えると気持ちが持たなくなってしまう。捜されているのかいないのか、わからない状態だけど、人目に付かないに越したことはない。家計のために、今度はまともな副業をしたいけど、ほとぼりが冷めるまでは大人しくする他ない。


「こっちです! 警察の方!」


 通り過ぎた道の奥から突然警察を呼ぶ声が聞こえて、僕は思わず体を跳ねさせた。


「またこの男が食い逃げしようとしたんです。とっちめてくださいよ」


「お前か。懲りないやつだな」


 店主と警察官の会話が聞こえてくる。何だ、食い逃げか……びっくりした――僕は胸を撫で下ろした。


「どうしたエヴァン、緊張したような顔をして」


 足が止まった僕をのぞき込んで父さんが聞いてきた。


「あ、ううん、今の声にちょっと驚いて……考えごとしてたから」


「悩みでもあるのか」


「そんなんじゃないって。ぼーっとしてただけだよ。さ、早く帰ろう」


 笑顔を作って話を終わらせて、僕は再び歩き出す。まだ心臓がどきどき鳴っている。警戒しすぎるのも逆に不自然か。もう少し力を抜かないとな……。


 帰宅して、外よりは暖かい居間へ行くと、食卓にはまだ夕食が並んでいなかったので、僕はかばんを置きにひとまず自室へ行こうと階段に向かった。するとその階段の隅に、妹が膝を抱えて座り込んでいる姿があった。珍しいな。いつもなら居間か自分の部屋にいることが多いんだけど、こんなところで何しているんだろう――疑問には思ったが、恋人と別れろと言って以来、妹は僕を無視し続けていた。聞いたところで答えてはくれないだろうと思い、狭い脇を通って階段を上がろうとした。


「待って、兄さん」


 思いがけず呼び止められて、僕は妹を見下ろした。その顔は普段あまり見ない弱々しいものだった。


「……何?」


 仲直りでもしたくなったのか?


「彼が……ソラーノが、学校に来なくなっちゃったの」


 それを聞いて、僕は呼び止められた理由を察した。


「何で来ないのか、知ったのか?」


 妹はこくりとうなずく――彼の両親がしていたことを、ついに知ったか。


「ソラーノが来なくなって、私心配で、先生達に聞いたんだけど、はっきり教えてくれなくて……周りじゃ変な噂が立ってるし、親がやばいことしてたとか、犯罪組織と付き合ってるとか……でも私はそんなの嘘だと思って、ソラーノをずっと待ってたんだけど、全然学校に来ないから、思い切って家に行ってみたの。そうしたら……」


 妹の表情が落胆に沈む。


「お店は閉まってて、誰もいなかった。近所の人に聞いたら、店の夫婦は警察に捕まったって言われて……その子供は、別の町の親戚に預けられたらしいって。そんなことも知らずに私は、ソラーノを待ち続けてた……」


 ふっと息を吐き、妹は自虐的に笑った。


「兄さんの言う通りだった。早く気付いて別れるべきだったのに……。兄さんも兄さんよ。どうしてもっと強く、はっきり言ってくれなかったのよ」


 恨めしい眼差しが僕を見つめてくる。


「強く言ったつもりだけど……」


「でもソラーノの親が犯罪をしてたなんて言わなかったじゃない。……だけど、兄さんは何でそれを知ってたの? あの時、学校じゃまだ何の噂も立ってなかったのに、どうやって知ったの?」


 不思議そうに聞いてくる妹に、僕は内心たじろいだ。犯罪現場に通っていた当事者なんだから、知っているのは当然なんだけど――


「ああ、えっと、それは……噂があったんだよ。職場とか、その近くの商店なんかじゃ、すでに怪しいって話があったんだ」


「へえ、そうだったんだ。知らなかった」


 妹は素直に信じてくれたようだ。危ない危ない……。


「もっと早く兄さんの言う通りにしてればよかった。ソラーノに別れも言えただろうし……。本当、無視なんかしてごめんなさい」


 立ち上がった妹は、しおらしく謝った。


「気にしなくていいよ。こっちもはっきり言わなかったことだし」


「それもそうだね。半分は兄さんのせいかもね」


 いたずらっぽく笑って言う妹に、僕も笑った。いつもの調子が戻ってきたようだ。


 でもその直後、妹の表情はなぜか真顔に戻った。そして瞬きをしながら僕を見る。


「……どうした?」


「ん、何か、前にもこんなことがあった気がして……」


「そうだっけ? シルヴィナとはそんなに仲悪くなった記憶はないけど」


「私もそうだけど……最近、こんな感覚がよくあるの。既視感っていうの? 何なんだろうね……まあいいか」


 気を取り直した妹は、再び笑顔を浮かべると僕を見た。


「じゃあ、仲直りね」


 妹は両手を広げると、気持ちを表すように僕を強く抱擁する。


「これでまた野菜料理に飽きた時に食べてもらえる。その時はよろしくね」


 にこりと微笑むと、妹はそのまま自室へ戻っていった。ずっと無視し続けていたのに、仲直りした途端、それまでのことがなかったかのようなこの態度……都合がいいというか、能天気というか。でも、後腐れを残さないのが妹の性格であり、いいところだ。まあ、将来にかかっていた暗雲が取り除けたということでよしとするか。


 二階の自室に入って、僕は机にかばんを置いて外套を脱ぎ、ベッドに座って一休みしようと思った。でもその時、何気なく見た窓の外の様子に僕は目を見張った。


「何だ、あれ……」


 窓に近付いて目を凝らす。近所の家々の屋根越しに見えた空が異様な色を放っている。日が暮れた暗い空、一見普通の夜空のようだけど、民家の間から見える地平線に近い辺りだけ、ぼんやりと輝いていた。赤や白、それだけなら夕暮れの名残とも思えるけど、緑となると、およそ空では見かけない色だ。その三色は色を薄くしたり濃くしたり、まるで夜空をたゆたうかのようにうごめいている。こんな表現はおかしいかもしれないけど、でも現に光は風に吹かれるように、ゆらゆらと動いているのだ。何だか、巨大な生き物が夜空を泳いでいるようだ……。


「不気味だな……」


 あんな色の空、初めて見る。連日の地震といい、知らないところでこの世界に何かが起こっているのか?


『君が信じられなくても、この世界が滅びることは変わらない――』


 いつか聞いたラモンの言葉がふとよみがえった。異様な空を見ると、本当に世界が滅びてもおかしくないような気がしてくる……いや、そんなのあり得ないんだけど、もしも、万が一にも、あいつの言うことが本当だとしたら……僕が、世界を救う? もっとあり得ない話だ。やっぱりあいつはおかしいんだ。まともに考えちゃいけない。


 色とりどりに輝く夜空は初めて見たこともあって美しくはある。だけど、長く眺めれば眺めるほど、やっぱり不気味で、言いようのない不安感を覚えさせる。世界が終わるわけない。まして僕がそれを救えるわけも――


『では君の家の家系図を調べてみてくれ――』


 そう言えば、そんなことを言われたな。今の今まで忘れていたけど……。この際、はっきりさせておくか。僕にイレドラ族の血が流れていないと証明できれば、あいつもぐうの音が出なくなって付きまとわなくなるかもしれない。僕もこうしてあり得ない話に時間と思考を取られることがなくなるってものだ。よし、夕食後にでも聞いてみよう。聞くなら爺ちゃん辺りがいいかな――そんなことを考えながら、僕は自分の部屋を出た。

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