十四話

 うっすらと目を開けると、辺りは依然真っ白なままだった。本当に目を開けているよなと確認してみる。……うん。ちゃんと開いている。目を開けても閉じても白い世界。でも最後に見た光の眩しさはもうない……夢を見ているわけじゃないし、これは、どうなっているのだろうか。山崩れの砂も、里の景色も、何も見当たらない。全部消えて白い空間だけになっている。……そうだ、父さんは? 一緒に光を見ていたのに、どこに行っちゃったんだ?


 僕はふらふらと歩いて、周囲を見渡した。白だけの景色だと、何だか距離がわかりづらい。その前に何の目印も見当たらないから、どこをどう歩いているのか、だんだんわからなくなってくる。一体ここは何なんだ――不安を覚えて踵を返した時だった。


 それはすぐに目に飛び込んできた。急に現れたように感じて、僕は一瞬驚いた。人が座っている……気付かなかっただけで、ずっといたのだろうか。


「……あの……」


 恐る恐る声をかけてみる。するとその人は顔を上げて僕を見た。なぜだか険しいその顔はまだ幼く、十二、三歳くらいの少女に見える。袖のない服にマントとフード……この格好、ラモンの服装によく似ている。まさか、山崩れの生き残りか?


 すると、その少女は僕に手招きしてきた。呼ばれなくても話を聞くつもりだった僕は、素直に彼女に近付いた。そこで初めて気付いた。あぐらをかいて普通に座っている少女だと思ったけど、近付いてみると、その体は宙に浮いていた。白い景色が邪魔をしてまったく気付かなかった。そのおかげで僕との視線の高さが近く、表情もよく見える。これ、どういう仕掛けなんだろう……。


「いい加減、気付け」


 口を開いた少女を僕は見つめた――あれ? この声って、里で聞こえてきた声と同じだ。彼女もあの場にいたのだろうか。まあ、それは聞くとして、気付けって、何のことだ?


「えっと、お譲ちゃんは――」


「お譲ちゃんじゃない。アナマリア。アナでいい」


 少し不機嫌そうな目を向けてくる。


「僕はエヴァリスト・ミトレだ。エヴァンでいいよ。それで……アナ、気付けって何のことかな。もしかして君は、里の山崩れを逃れた生き残りとかなの?」


「……はあ……」


 僕の質問にアナはあからさまな溜息を吐いた。何か、鼻に付くな……。


「あたしは生き残りじゃない。……まあ、気付けってほうが難しいか」


 だから、気付けって何のことなんだ。


「生き残りじゃないなら、君は誰なんだ? ここがどこなのかわかる?」


「わかるに決まってるでしょ。ここはあたしだけの場所なんだから」


「え? それは、つまり、どういうことなのかな……?」


 さっぱりわからない僕に、アナは苛立った口調で言った。


「そのままの意味。わかんないの? 大人でしょ?」


 見た目は可愛らしい少女のくせに、口は生意気だな、この娘。


「ご、ごめん。もう少し詳しく教えてくれると助かるんだけど……」


「そうね……ずーっと前に、あたしが埋められた場所って言えばわかる?」


「埋められた? じゃあやっぱり君は里の山崩れで――」


「違うって言ってるでしょ。ずーっと前って言ったの聞こえなかったの?」


「でも、山崩れも結構前に起きた――」


「それより、ずーっとずーっと前のことだから。あたし達が山に移り住んだ頃の話」


 僕はアナの言葉を一つずつ考えた。山崩れが起きる、ずーっとずーっと前、山に移り住んだ頃の話――確かラモンは、イレドラ族は王国との争いに疲れて山岳地帯に入り、暮らすようになったと言っていた気がする。王国と争っていた時代……つまり、何百年も昔の話ということになる……。


 はっとして僕はアナを凝視した。まさかこの娘も、ラモンと同じというんじゃ――僕は浮かんだ考えを疑いつつも聞いてみた。


「おかしなことを聞くけど、これは真面目な質問だから。アナ……君は、もう死んでたりする?」


 アナの睨むような目が僕を見た。


「当たり前じゃない。埋められたんだから」


 若干の気味の悪さと、ああやっぱりという納得感が僕の中に湧いた。こんなにはっきり見えるけど、この娘も幽霊なのだ。ラモンと同じように。じゃあ、あたしだけの場所というここは、もしかして――


「あの世……? 僕は、知らないうちに死んで、あの世に来ちゃったのか?」


「ちょっと、勘違いしないで。ここは死者の国じゃなくて、ぎりぎり現世だから」


 現世なら、僕はまだ死んでいない? でもぎりぎりってなんだ。


「こんな真っ白な場所が現世なんて、僕には到底思えないんだけど」


「あたしだけの場所って言ったの、もう忘れちゃったの? ったく……同じイレドラ族のくせに、何にも知らないんだね」


「いやいや、父親はそうかもしれないけど、会ったことないし、僕は王国で育ったんだ。イレドラ族のことなんてまったく知らないから」


 これにアナは目をしばたたかせた。


「それならそうだって言ってよね。全部知ってるかと思ってたじゃない」


 あぐらを崩して片膝を立てたアナは、そこに載せた手で頬杖を付いて僕を見据えた。


「じゃあ、あたしのことなんて知るわけないか。面倒だけど……一から話すか」


 僕は腕を組んでアナを見つめた。最初からそうしてもらいたかったものだ。


「ここはね、あたしの中の場所なの。何ていうか、精神世界? みたいな。だから現世にはない場所だけど、死者の国ってわけでもない」


「君の精神世界なら、何で僕がここにいるんだ? それに君は幽霊なんだろう? ここが現世じゃないなら、君は今どこにいるんだ」


「エヴァンの意識はあたしの中に無理矢理呼んだ。全然気付いてないみたいだから。そんなあたし達がいるのは、里で言うところの聖域の真下、地中の奥深くって感じかな」


 聖域――そう言えば、白い光を見る前に、彼女の声を聞いた。あれは地中からの声だったってことか?


「だけど、アナはどうしてそんなところに埋められたんだ? 誰かに殺されたのか?」


 聞くと、その表情は忌々しげに歪んだ。


「そう言ってもいいかも……」


「え……?」


 僕は息を呑んでアナを見た。まさか彼女は、大昔の殺人事件の被害者?


「あたしが生きてた頃、里で異変が起き始めてたの。それまでのあたし達は、細かい決まりはあったけど、それぞれが自由に自分の願いを叶える力を持ってたんだ。だけど、なぜかその力が衰える人がたくさん出てきて、誰も願いを叶えられなくなっちゃって……。そこで族長と大人達は、あたしに人柱になれって命令してきた」


「人柱……いけにえってこと?」


 アナは軽くうなずく。


「大人達はこう考えたんだろうね。力が衰えたのは、きっと山に住む神の機嫌を損ねたからで、そのためには人柱が必要だって。イレドラ族では昔から、女は男より神秘的な力を持ってるって言われてて、まだ穢れのない少女なら力も溢れて、神を満足させられると思ったんでしょ。ふんっ……自己満足な考えよね。あたしの気持ちも知らずにさ……」


「断らなかったのか?」


「そんなことできるわけないでしょ。族長の決めたことに逆らえば、皆から白い目で見られて一生除け者にされるんだから。あたしのお母さんとお父さんも、泣きながら命令を聞くしかなかった……」


 両親の泣く姿を思い出したのか、アナは真っ白な景色を遠い目で眺める。大昔の時代にも、今と変わらない理不尽なことがあったんだな。


「それであたしは、エヴァンが立ってたあの場所の下に、生きながら埋められたってわけ。あの時の苦しさって言ったら、もう……思い出したくなくても、体が覚えちゃってるくらいの地獄だった。死ぬまで何時間もかかってないんだろうけど、体感としては、とてつもなく長い時間で、それなら心臓を一突きにされて殺されたほうがましだって思えたくらい。……ああ、やっぱり今もむかついてくるわ、あのくそ族長め」


 両親を思い出していた眼差しは、一転して敵に襲いかかりそうな目付きで宙を睨んでいた。なるほど。生意気だったり、汚ない言葉遣いの原因の一つは、その時の大人達のせいで心がやさぐれてしまったからなのかもしれないな。まだ幼さのある少女だというのに、とんでもない役目をやらされたものだ。


「でも死んで苦しみが消えると、思ってたより悪くなかった。魂は地中につながれてたけど、里の様子を自由に眺めることができたんだ。それと、山に流れる力があたしにも流れてきて、元の力がより強くなったの。だけど、里の皆の力はまったく戻らなかった」


「いけにえ効果はなかったってことか」


「そういうこと。あたしは無駄死にさせられたの。あのくそ族長のせいでね」


 アナは口を歪めて、あざけるような笑みを浮かべる。少女の口からくそと聞くのは、やっぱり慣れないな……。


「里の中には、人柱になったあたしに毎日祈りを捧げに来てくれる人もいて、死んだあたしに感謝しながら、自分の願いを叶えたいって丁寧にお願いをするの。毎日だよ? そんな姿を見てたら何か、自然と情が移っちゃって。あたしも里を眺めるだけで暇だったから、その人の願いを叶えてあげたんだよね」


「どんな願いだったんだ?」


「畑の作物の病気を治してくれって願い。早く治さないと、生活に結構響くんだよね、植物の病気って」


 ラモンの奥さんも確か、家のカビ防止の願いをしたって言っていたよな。イレドラ族の人は、願いが叶う力を便利な道具みたいな感覚でとらえているのだろうか。僕だったらもっと慎重に、現実では手が届かないような願いを考えるけどな。皆、欲ってものがないのかな……。


「その次の日から、あたしに祈りを捧げる人がちょっとずつ増えてきて、同じようにお願いをしてくるから、ついでと思って叶えてあげてたの。そしたら、人柱のお力だとか言って、大勢があたしに感謝し始めて、そのうちあたしが埋められた場所を聖域とか呼び出して……急に態度が変わったことに、最初はふざけるなって思ったけど、皆があたしを頼って祈るのを見ると、無視して見捨てるのはかわいそうな気がしてきちゃって。それからあたしは、ずっと里の皆の願いを叶え続けてるんだ」


 自分をいけにえにしたことは恨んでいても、同族を見捨てられない優しさは持ち続けていたようだ。


「でも、僕は里に住んでないけど。それでも願いは叶えてくれるの?」


「どこに住んでようと、イレドラ族なら叶えるつもり。半分王国人の血が混ざってようとね」


 僕は驚いてアナを見つめた。


「……知ってるの? 僕のこと」


「エヴァン自身のことは知らないけど、その顔と、イレドラ族の血が混ざってることは知ってる」


「どうして? 僕は君とここで初めて会ったんだよ? 話したこともないのに」


「あたしも不思議なんだけど、体を失うと普通じゃわからないことがわかるんだ。一見王国人のエヴァンにイレドラ族の血が混ざってることは、直観的に感じてわかった」


 そう言えば、ラモンも似たようなことを言っていたな。幽霊になると人間にはない力が備わるのだろうか。


「じゃあ顔を知ってたっていうのは? 里に来たのは初めてなんだよ?」


「初めてじゃないから」


 あまりに強く言い切られて、僕は思わず自分の記憶を探ってしまった。


「……いや、初めてだよ。山登りした記憶は今回以外に絶対ないから」


 そう言うと、アナは再びあぐらをかいて座り直した。


「そう思うのも無理はないけど。……あたしがエヴァンの意識を呼び込んだ理由はね、時の環にはまっちゃったのを戻すためよ。わかる? 時の環」


「ときのわ……?」


 どういう言葉なのか、さっぱりだ。


「簡単に言うと、同じ時間を何度も何度も、永遠に繰り返しちゃうってこと。エヴァンは今そういう状況なの。気付かなかった?」


 同じ時間を、繰り返す? 意味がよくわからない。一体、いつ僕が同じ時間を繰り返したっていうのか。


「何かおかしなこと感じなかった? これ、前にも見たことあるなあ、とか」


 前にも見たこと――あ、妹と仲直りした時に、そんな感覚があったっけ。妹も同じように既視感があるって言って……。


「そう感じた時間を、僕は繰り返してるっていうの? そんなまさか……」


 僕が鼻で笑うと、アナは口を曲げてぎろっと睨んできた。


「迷惑をかけてる身で、よく笑えるもんね。じゃあ言ってあげようか? エヴァンが時の環にはまってから百回も、あたしは同じ願いを叶え続けてきたんだから」


「願いを叶えたって、誰の? 僕はまだ願いなんて何も――」


「はあ? 何言ってんのよ。「平穏に暮らしてた時まで戻りたい」って、しっかり言ってたでしょうが。とぼけないでよ」


 僕は考え込んだ。その言葉は言った覚えがある。でも、願いのつもりで言ったわけじゃないんだけど……。


「アナ、それは君の勘違いだよ。確かに僕はそう言ったけど、それは願いじゃない。父さんとの会話の中で――」


「それを言う前に、エヴァンが「望むことは」って言ったから、だからあたしは応えたんだよ? それなのに何? あたしがまるで馬鹿みたいに言ってさ!」


 睨まれながら僕は苦笑いを浮かべた。馬鹿ではないけど、少し早とちりではあるかな。


「会話をちゃんと聞いてれば、僕が願いを言ってないってわかったはずだ。だけどこっちも紛らわしいことを言ったみたいだから、これはお互いが悪かったということで、一応謝るよ」


 これで願いを言った言わないの話は済んだと思ったが、アナの目は変わらず僕を睨んでいた。


「一応? 自分は悪くないけど、まあ謝ってやるか、みたいな感じで気に入らない。悪いのはそっちだからね。あたしは望みは何? って聞いたでしょ。そう聞いたんだから、願いを聞かれてるってわかるはずだし。それを無視して話し続けてたそっちが悪いの。あたしはいつも通りに願いを叶えただけなんだから」


「でも、姿もないのに声だけ聞こえたら、空耳だと思うだろう?」


「声は聞こえてたんでしょ? だったら無視したほうが悪いよ。それを認めて。じゃないとこれ以上話はできない」


 ぷいっと顔をそむけたアナは口をつぐんでしまった。話をしないと、僕はこの白い空間でただ立ち尽くすことしかできない。僕まで意地になってもいいことはなさそうだ。ここは折れるしかないな……。


「わかったよ……声を無視した僕が悪かった。アナはやるべきことをやっただけだ」


 すると、ちらと視線を向けたアナは、落ち度を認めた僕を見やると、口元に笑みを浮かべた。


「そうだよ。あたしが願いを聞き間違えるなんて、あり得ないから。ちゃんと反省してね」


 勝ち誇ったようにアナは言った。この娘、やさぐれたからじゃなく、元からこんな性格だったから、いけにえに選ばれたんじゃないのだろうか。


「……それで、僕はその、時の環にはまって、百回も同じことをして、アナは僕とすでに顔見知りってわけなのか?」


「エヴァンみたいに、時間をさかのぼる願いをする人が時々いるんだけど、そのほとんどは時の環行きだね。まれに願い通りに行動を変える人もいたけど、本当にまれ。ほぼ全員エヴァンと同じ状況になってる」


「それを助けるために、アナは僕をここに呼んだのか。でも、どうして助けてくれるんだ? 放っておいてもよさそうだけど」


「じゃあ何? エヴァンは何も進まない人生でもいいって言うの?」


 そんな人生はもちろん嫌だけど――


「本人は同じ時間を繰り返してる意識がないわけだから、別に放っておいても問題はないんじゃないかと思っただけで……」


「そっち側はね。だけどこっちが迷惑なのよ。願いを叶えてあげたと思ったら、また同じ人が同じ願いを言いに来る。叶えると、また同じ人が現れる……それを百回も繰り返してみなよ。いい加減、腹が立ってくるから」


 百回も繰り返させるから腹が立つんじゃないのだろうか。


「二、三回目くらいでやめさせればいいじゃないか。そうすればアナの苦労も減ると思うけど」


「そういう願いをする人は、エヴァンみたいに鈍感な人ばっかりじゃないの。何十回と繰り返して、急に行動が変わる人も現にいたし。時の環から自力で抜け出す可能性があるなら、あたしはそれを待つだけだから。でも限界は百回って決めてるの。それ以上待つといらいらが抑えられないから」


 短気なのか辛抱強いのか、よくわからない娘だ。


「疑問なんだけど、今ここで僕に時の環の話をしたところで、また時間が戻ったら、全部忘れちゃうんじゃないのか?」


「まあそうだね」


「じゃあ僕は時の環にはまったままってこと? それなら、ここで僕の願いを聞いてくれないかな。そうすれば――」


「体のない意識だけの状態じゃ、願いなんて聞けないから」


「え? どうして」


 アナは面倒そうな目を僕に向けた。


「王国人とは違って、あたし達イレドラ族が願いを叶えられるのは、その体に特別な力が備わってるからなの。その力と、あたしの力が合わさって願いは叶うってわけ。力の宿る肉体がなきゃ話にならない」


「それじゃあ、僕の本当の願いは一生叶えることなんて――」


「焦らないでよ。エヴァンを呼んだのは時の環から戻すためだって言ったでしょ」


 アナは宙に浮いたあぐらの姿勢から、ゆっくり足を伸ばして白い空間に立つと、じっと僕を見上げてきた。


「ここで願いは聞けないから、エヴァンにはもう一度時の環に戻ってもらう。でも今回は記憶だけ戻さない。だから里に来るまでのことも、あたしと話したことも、全部覚えた状態で同じ時間を過ごしてもらうから」


「そんなことができるの? すごいな」


「すごいでしょ? でもこれは特別だから。二度目はないって思ってよ。すごく面倒くさいんだから。……いい? 時の環に戻すよ」


 アナは軽く上げた両手を僕にかざした。


「あ、待って。えっと、気付かなかったとはいえ、迷惑かけてたみたいで……悪かったよ。それと、助けてくれて、本当にありがとう」


「お礼は時の環から抜け出せた後に言って。……もう絶対戻ってこないでよね」


 僕を見上げる顔に、やっと少女らしい微笑みを見つけると、視界は音もなく、一気に白く覆われた。でも何の恐怖もない。僕は、アナの力にゆったりと身をゆだねた。

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