十話
町中が混乱していた。冬の嵐は一向に去らず、暴風雨は人々を足留めし、作物を腐らせた。商店に並ぶ食材は次第に買い占められ、売れ残ったものはその値段を跳ね上げた。家畜を飼う者はそれでしのげたけど、夜になると動物達の悲鳴が上がった。食料が手に入らない者達が盗みに来るのだ。他にも空き巣やひったくりが頻繁に起こるようになっていた。町の治安はひどい方向へ変わりつつあった。これが僕の育ってきた町なんて、到底思えない。
町から離れたところでも異変は起こっているようだ。ちょくちょく出かけては外の様子を伝えてくれるマルセロによれば、ここから北東にある湖の水が一晩で枯れたらしい。数ヶ月前から水位が下がり、地元の住民が心配していたところだったという。そんな予兆があったとはいえ、一晩で枯れるっていうのはやっぱり異常だ。他にも、沿岸地域では広範囲で洪水が起きているらしい。この長引く嵐のせいだろう。そこからの避難者かはわからないけど、比較的被害の少ないこの町に、外から人々がよく訪れてきているそうだ。安全な住居や食料を求めているようだけど、食べるものがないのは町の人々も同じだ。この自然災害で、きっとどこも同じように苦しんでいるのだろう。
そんな状況での我が家の様子はと言えば、家計の余裕のなさで高騰する食料には手も足も出ず、朝食を抜いた一日二食でどうにか飢えずには済んでいた。その二食は母さんが日々節約の傍らで作っていた野菜などの保存食で、借金生活になった時のための食料だったらしいけど、思いがけない状況で家族の命は助けられている。母さんの先見の明には頭が下がる。
僕と父さんの仕事は、この嵐で出勤もできず、歴史研究所も閉鎖状態だった。各地で被害が続出している時に歴史の研究などしている場合じゃないということだろう。顔や言葉には出さないけど、父さんはさぞ残念に思っているに違いない。でも今は一家の主として、情報収集や食料の確保のために暴風雨でも積極的に外へ出ている。僕も微力ながら手伝っているけど、やっぱり食料はなかなか手に入らない。日々わびしくなっていく食卓に、誰も不満を見せないだけでもありがたく思えてくる。でも、母さんが作った保存食もいつかは尽きてしまう。それを想像すると大きな不安が僕を襲う。この状況は一体いつまで続くのだろうか。貧しくても平穏だった生活に早く戻りたい――その時を待ち望みながらも、僕は今日を乗り越えることで頭が一杯だった。
「ふう……帰ったぞ」
午後、朝から出かけていた父さんが大きな袋を持って帰ってきた。今日は嵐が小康状態で、雨が久しぶりにやみ、風もこれまでよりは幾分弱まっていた。おかげで遠くまで行けたのか、父さんの息は少しだけ弾んでいた。
「お帰りなさい」
「おお、ご苦労だったな。収穫はあったか?」
家族皆が父さんを出迎えに行く。僕とマルセロも、嵐のせいで壊れた裏口のひさしの修理を一時中断して玄関へ向かった。
「食料だ。格安で分けてくれた」
そう言って父さんは袋を開けて中を見せた。野菜、果物、瓶詰めピクルス……干した肉や魚まである!
「すごい! よくこんなに分けてもらえたね」
興奮気味に妹が言った。
「同じ下級貴族の友人からの厚意だ。彼は私と違って、金に不自由はなさそうだ」
「これでもうしばらくは生き長らえそうだな」
「エステバン、ありがとう。さすが私の息子だわ」
「これだけあれば、また保存食にできそうね。助かるわ」
それぞれが笑顔で礼を言う中、僕は父さんに聞いた。
「町は? どんな感じだった? 食料の配給とかまだやってなかった?」
各地の苦しい状況を王国の中枢が把握していないわけはない。こういう時は各地の役人にただちに命令が出されていると思うのだけど。
「いや、そんな様子はなかったな。何もやっていないとは思えないから、もしかすると、被害の大きい地域から助けているのかもしれない」
「それにしたって、誰も派遣されてこないなんてあるかな。王都はこの食料が手に入らないっていう深刻さを本当にわかってるの?」
「わかっているはずだ。その証拠に、国王陛下が急遽、貴族会議を開かれるそうだ」
「貴族会議? 父さんも出るの?」
「会議に出られるのは上級貴族のみで、私のような下級貴族は、その決定事項に従うだけだ」
つまり、手下で使い走りみたいなことだろうか。同じ貴族と呼ばれても、随分な差だな。
「内容次第では、私も招集され、しばらくここに戻れなくなるかもしれないだろう。その時はエヴァン、お前が頼りだぞ」
父さんは僕の肩を強く叩いた。
「う、うん、わかってるよ……」
父さんがいなくなるかもしれないと思うと、ちょっと心細いな……いや、そんなこと言っている場合じゃないんだ。家族のために、僕が頑張らないと――
その時だった。ふら、と体が揺れた気がして、僕は身を硬くした。
「……地震だ」
妹が呟く。今や彼女は我が家の地震検知器と化している。どんなに小さな揺れでも、やっぱり慣れることはできないらしい。僕もそうだけど。この地震も、いつも通りのごく弱い揺れだった。すぐに治まるだろう――この場の全員がそう思っていたに違いない。でも揺れはなかなか治まらなかった。
「ちょっと、長くない……?」
妹の不安な表情が引きつる。確かに長い。しかも少しずつ揺れが強くなっているような――
そう思った瞬間、部屋全体がドンッと衝撃を受けるように激しく揺れた。
「きゃああ!」
母さんに抱き付いた妹は悲鳴を上げて身を縮こまらせる。かなり大きな地震だ。机や椅子は揺さぶられるように動き、棚にある物はことごとく床に落ちていく。立っていることもできず、皆しゃがむしかなかった。その上からは埃が舞い落ちてきて、家の壁や天井からはきしむ悲鳴が鳴り響いてくる。この揺れは、危ないんじゃないか……?
「家が崩れるかもしれない。外へ出るんだ!」
父さんの緊張した声に、僕を含めた皆は一斉に外へ逃げ出した。
寒風の吹く外へ出ると、家の外壁はすでに崩れ始めていた。石壁にはひびが入り、そこからぼろぼろと石の欠片がいくつも落ちてくる。
「皆、大丈夫? 怪我はない?」
婆ちゃんの声に皆はお互いの無事を確認する。だれも怪我はしていないようだ。
「……もう、揺れてない?」
母さんに抱き付いたまま、怯えきっている妹が誰ともなしに聞く。気付けば揺れは治まっていた。久々に大きな揺れだったな。家が潰れるかと思った……。
「治まったか……ひとまず安心――」
父さんがそう言いかけた瞬間、地面から突き上げるように再び地震が起こった。
「きゃあっ――」
「家から離れろ! 身を伏せて!」
父さんは皆の背中を押して家から遠ざかり、通りの真ん中まで逃げる。これは、直前の地震よりも激しく強い。移動しながら我が家に振り向くと、そこには崩れた壁と、傾きゆく家の姿があった。僕達家族の場所が、崩れてしまう――
「うわっ、地面が!」
驚いたマルセロを見ると、通りの先に今まではなかった段差ができていた。それは道を横切るように町中のほうまで続いている。そっちに目をやれば、至る所から土煙が上がっていて、屋根が傾いているものもあれば、建物そのものが見当たらなくなっていたりもする。見慣れた景色が、壊されていく……こんなの、まるで悪夢じゃないか……。
我が家に視線を戻せば、さっき出てきたばかりの玄関は半分ほどの大きさに潰されていた。板を打ち付けた窓も、もうどこにあるか見えない。一階部分には人が入れる空間はなさそうだった。二階部分も壁が崩れて、柱をむき出しにして大きく傾いていた。また地震が起これば、今度こそ我が家は跡形もなく崩れるだろう。壊された景色のように、土煙を上げて……。
激しい揺れが治まって、僕は変わり果てた街並みを呆然と眺めていた。近所や通りの先では、同じように家から逃げ出した人々がどうすることもできずに立ち尽くしている姿があった。そのうち、助けを求める声や、子供の泣き声が聞こえ、遠くでは黒い煙が上がっていた。
「ああ……ひどすぎるわ……」
妹と抱き合いながら、母さんが震える声で言った。地面にへたり込んでいる皆は放心状態のようだった。こんな恐怖と絶望を突き付けられて、発すべき言葉なんか見つけられない。
「世界の、終わりのようだ……」
爺ちゃんがしみじみと言った。その言葉は、今なら決して大げさなんかじゃないと思える。各地での自然災害に異常現象……ここ数ヶ月で起きていることはあまりに極端だ。この世界に何かが起こっていると、誰もがどこかで感じているはずだ。僕だって、あいつにおかしなことを言われていなかったとしても、こんな状況に置かれれば爺ちゃんと同じ言葉が浮かんだに違いない。そう言えば、あいつはどこにいるんだろう。暴風雨でも家の前にいたくせに、こっちが心配した時に限って見当たらない。うるさいやつではあるけど、無事でいるかな――僕は周囲を見回して、何気なく遠くの空を見上げた。
「……あの、色って……」
風に流されるたくさんの雲。その切れ間に見えた空に僕は息を呑んだ。今はまだ太陽が照らす時間帯だ。当然そこには青空があるはずだ。でも見えたのは赤や緑の揺らめく光――以前、夜に自分の部屋から見た光と同じものだった。あの時ほどはっきりした輝きはないけど、雲の向こうには確かに異様な色の光が躍っていた。
「あの空、何でしょうね」
マルセロも気付いて言った。それに皆の視線が空へ向く。
「やだ……変な色」
「何なのあれは。空でも何か起きているの?」
「本当に、この世の終わりのようだな」
「私、まだ死にたくない!」
怯えた表情で、妹が感情的に叫んだ。そうか。世界が終われば、僕達は死ぬのか――そんな当たり前のことに今さらながら気付いた。
『だから君に救ってほしいんだ』
あいつの声が頭に響いた。今やラモンの言っていた言葉が予言のようにさえ思えてくる。この世界は、本当に滅びに向かっているのかもしれない。あいつの話を鵜呑みにすれば、確か失恋した酔っ払いのせいでこんなことになっているのだったか。そう考えるとやっぱり信じられないけど……でも、世界はこの数ヶ月間で明らかにおかしくなっているのだ。もしこのまま信じずに、世界が終わるようなことになったら、僕は死んでも後悔し続けることになるのか。家族や、町の人々、生きられた命を救えなかった自分を責めて……。
僕は傾き、崩れた我が家を見つめた。これは人間の力ではどうしようもないことだ。不可抗力ってやつだ。ここで僕ができることはほんのわずかしかない。家族を助けて、励ますくらいだ。それでも地震や嵐はまた襲ってくるだろう。建物が倒壊し、地面が割れることは防げない。この先、皆の命が危なくなることだってあり得る。それを僕は守り続けられるのだろうか……。
決断の時かもしれない――僕は目を瞑って、深く考えた。世界が終わるなんてあり得ない。あり得ないけど、もう信じざるを得ない状況だ。異常現象がどこまで激化するかはわからない。それに怯えて逃げ惑うくらいなら、一か八か、あいつの話を信じてすがってみるのもいいかもしれない。死んだ後に後悔を残さないためにも。
心が決まった僕は、ゆっくり家族に向き直った。
「ちょっと、聞いてほしいんだけどさ」
未だ放心状態の皆が僕に目を向けた。
「今から町を出て、西の山へ行きたいんだ。自分勝手なこと言って悪いんだけど……」
そう言うと、全員の表情がぽかんとしていた。そうだろうな。まったく意味がわからないだろうな。
「こんな時に突然、何を言い出すんだ?」
「そうよ。山なんかに行ってどうするっていうの?」
爺ちゃんと婆ちゃんが眉をひそめて聞いてくる。
「その、何ていうか、今行かないと、後悔するかもしれなくて……」
ラモンの話を説明したところで、皆鼻で笑うだろうし、どう言ったものか……。
「もしかして、例の研究主題か?」
父さんがやけに眼光鋭く僕を見て言った。
「例のって……?」
「前に言っていた、イレドラ族のことだ。違うのか?」
そう言えば、イレドラ族について質問した時に、僕がその研究をするものだと、父さんは勝手に思い込んでいたっけ……これは、理由に使えるかも。
「そ、そう! イレドラ族の研究なんだ。西の山に、その手掛かりがありそうな気がしてて……」
「今は研究なんてしている場合じゃないでしょう。こんな危険で厳しい状況で――」
「まあ待てイリーナ。わしはエヴァンの気持ちがわからなくもない。こんな時だからこそ、好きな研究をしたいんだよ。……だろう?」
爺ちゃんの視線に、僕はすかさずうなずき返した。
「周りを見てわからないの? 町はめちゃくちゃで、まともに歩けもしない。いつまた地震が起きるかもしれない中で山に行くだなんて、危険極まりないことよ。ほら、ルイサさんも言ってちょうだい」
「はあ、はい……」
婆ちゃんに促された母さんだけど、歯切れが悪い。
「何? ルイサさんはエヴァンを行かせたいの?」
「もちろん行かせたくはないですけど……引き止めても、この子に負担をかけるだけです」
「じゃああなたは、我が子が危険な場所へ行くのを黙って見送るっていうの?」
「この子は歴史の研究をしたがってます。最後くらい好きなことをしてもいいじゃないですか」
最後――この言葉に、場の空気が一瞬止まった。やっぱり皆、感じているんだ。この異常現象が自分達の時間を、命を、奪うかもしれないことを。
「最後だなんて……縁起でもないこと言わな――」
「母さん、エヴァンを行かせてやろう」
婆ちゃんをさえぎって父さんが言った。
「エステバン、父親でしょう? あなたまでそんなこと……」
「ここには私がいるんだ。心配することはない。食料もまだある」
言って父さんは手に持つ袋を持ち上げて見せる。
「いつ救援が訪れるかわからないし、この治安じゃ警察が機能しているのかもわからない。皆も、やっておきたいことがあるならやるべきだ。命を落としてからじゃ遅いぞ」
皆は黙り込む。誰も、何も言わないのは、この悪い状況が命に係わるとわかっているからだ。嵐や地震に加えて、そのせいで取り締まれなくなった犯罪者や切羽詰まった者も脅威になる。現状が好転しない限り、時間が経てば経つほど状況が悪化するのは明白だ。
「では、わしは部屋に残した研究成果を探すとするかな。崩れた壁と一緒に落ちてるかもしれん」
爺ちゃんはのそりと立ち上がり、我が家の崩れた壁の瓦礫に近付く。
「私は、まだ無事な保存食があるかもしれないから、少し掘ってみるわ」
「それなら俺も手伝います。二階部分が崩れるかもしれないんで、気を付けてください」
母さんとマルセロも、潰れた一階の脇に近付いて探索を始める。
「ルイサさん、また地震が起きたら危ないわ。あなたも、ほら、そこ割れたガラスが落ちてるから……」
がみがみ言いつつ、心配する婆ちゃんも結局は爺ちゃんの手伝いを始めた。
「……シルヴィナ、お前はやっておきたいことはないのか」
父さんに聞かれた妹は、目を伏せて悩む表情を見せていたが、おもむろに顔を上げて言った。
「私、ソラーノに会いに行く」
突然出た名前に、僕は目を丸くした。
「え? ソラーノって、あの……? 何で?」
「ん? 一体誰なんだ?」
首をかしげる父さんには構わず、妹は僕に言った。
「実はあの問題の後、私に会いに来てくれたの。親はあんなことになっちゃったけど、私さえよければ、まだ恋人でいたいって」
「こっ、恋人? シルヴィナ、お前、恋人ができたのか!」
娘の発言に父さんは珍しく動揺を見せた。十七歳なんだから恋人くらいいるのは当たり前だと思わなかったのだろうか。
「私も最初は玉の輿狙いだったけど、ソラーノが学校に来なくなって、なぜだかすごく寂しくて、心がずっと寒くて……こんな感じ、初めてだったの。それで気付いて……」
「本気で惚れたってわけか」
妹は控え目にうなずく。
「今住んでる場所は聞いたの。何通か手紙のやり取りはしてたんだけど、向こうが無事なのかどうか心配で……一目だけでもいいから、もう一度会いたい」
切ない表情を浮かべる妹は本当に彼のことが心配なようだ。それほど心を奪われたのだろう。確かに、宝石店で会った彼はなかなかの好青年ぶりだった。容姿は地味だけど、その中身は男前だと言える。やっぱり人は最終的には、金なんかより人間性のほうが重要なのかもしれない。だけど――
「シルヴィナ、気持ちはわかるけど、会いに行くのは危険すぎる」
「そうだ。こ、恋人ができたとなぜ言わなかった」
「父さん、そういうことじゃないから。……地震と嵐で、道も通れるかわからないんだ。こんなんじゃ乗合馬車も出てないだろうし、一人で行くのも危ない」
「わかってるけど、すごく心配なんだもん。顔を見て安心したいの」
一刻も早く会いに行きたそうに妹は見つめてくる。放っておいたら勝手に行ってしまいそうな雰囲気だ。
「……じゃあ、僕が帰ってくるまで待ってくれないか? 何日かかるかわからないけど、その後、僕が一緒に付いてくから。それなら少しは安全になる」
これに妹は疑うような目を向けてくる。
「兄さんを待つのはいいけど、私より、山なんかに行く兄さんのほうが危険なんじゃない? ちゃんと戻ってこられるの?」
「大丈夫だよ。ささっと行って、ぱっと調べてくるだけのことだ。それですぐに戻ってくる……予定ではいるけど」
不安も心配もないと言ったらまったくの嘘だ。山崩れが起きた場所がどういうことになっているかわからないし、ラモンの言う里や聖域が本当に存在するのかも定かじゃない。心を決めておいて言うのも何だけど、意気は揚がっていない。足を踏み外して事故死する可能性だってあるのだ。だけど、この状況を打開できるのが僕だけだっていうなら、気が進まなくても行くしかないんだ。半信半疑でも向かわなくちゃいけないんだ――無理に笑顔を作って、僕は妹に笑いかけた。
「わかった……じゃあ信じて待ってるから、早めに戻ってきてよ。約束ね」
差し出された妹の手を、僕は力強く握り返した。
「ああ。約束する」
顔を見合わせると、妹は薄い笑みを浮かべた。
「じゃあ、その間は兄さんの代わりに、食料探しでもしよっかな」
そう言うと妹は、埋まった保存食を探す母さんとマルセロの元へ向かっていった。
「エヴァン」
父さんはおもむろに僕の肩に触れて呼んだ。その表情は硬い。
「……どうしたの? そんな顔して」
「私とも約束してほしい。必ず無事に、戻ってくることを」
「ちょっと調べに行くだけじゃないか。僕ってそんなに頼りない?」
「場所が場所だ。西の山と言ったら、人が近付けない山だと聞く。混迷した状況で、心残りをなくすためとは言え、山へ入るのは命懸けのことだ。やっぱり、お前一人で行かせるのは――」
「行くなって言われても、僕は行くって決めたから。行かなきゃいけないんだ。多分……」
父さんはしばらく黙って僕を見た後、小さな息を吐いてから言った。
「……これが最後じゃないと思いたい。だが万が一そうなった時のために、エヴァン……お前に隠していた事実を教える。実は、父さんと母さんは、お前の――」
「知ってるからいいよ。養子のことでしょう?」
「なっ……ええ?」
僕の言葉に父さんは驚愕して後ずさった。
「なぜ、それを知って……」
「爺ちゃんが教えて――あっ!」
これは言っちゃいけないことだった。
「じゃなくて、どこだったかな。偶然知ったんだよ。偶然」
「父さんが話したのか」
「ち、違うって。僕が偶然知っただけなんだって」
「まさか、危険な山へ行くのは、それで思い詰めているからとか――」
「何でそうなるんだよ。僕は養子についてはもう何とも思ってないし、考えすぎだよ」
「本当か? 私とルイサに対して、わだかまりがあるんじゃないのか?」
険しい表情で父さんは詰め寄ってくる――本当に何とも思っていないのに。話していても長引きそうだな……。
「そんなのないって。感謝しかしてないよ。じゃあもう行くから。早く行かないと……」
踵を返して離れようとすると、後ろから父さんに腕を引かれた。
「……何? 話はもう――」
「待ちなさい。山までは遠い。これを持っていけ」
そう言うと持っていた袋の中から干し肉の束を取り出し、僕によこした。
「こんなにたくさん……ありがたいけど、多すぎるよ。皆の分が――」
「これは行きと帰りの分だ。多すぎることはない。私達のことは気にするな。存分に調べたいことを調べてくればいい。私はここで、お前の帰る場所を守っている」
「父さん……」
わだかまりなんてあるわけがない。血はつながってなかろうと、僕は父さんと母さんの息子だと、この先もはっきり言えるんだ。
「……エヴァン、本当に、何とも思っていないのか? それは本心なのか?」
思わず溜息が出た。これが父さんなりの気遣いなのはわかっているけど、さすがにしつこい。さっさと行くとしよう。
「干し肉、ありがたく貰ってくよ。じゃあ行ってきます」
「あっ、エヴァン……くれぐれも気を付けるんだぞ! 無理はするなよ!」
見送る父さんに手を振って、僕は瓦礫と地割れの町を出て西の方角へ進んだ。
ラモンの話から、とりあえず西の山岳地帯を目指せばいいのはわかっているけど、僕はその場所を漠然としか把握しておらず、そこまで一直線にいけるのか、それとも複雑な道を通っていくのか、さっぱりわからなかった。地図でも見て確認すべきだったけど、今となってはその地図を探すのも一苦労だろう。
辺りは野原が広がり、そのところどころの地面は隆起して赤い土を見せている。人気もなければ道しるべもない。遠い空には黒い雲が固まり、嵐の再来を予告している。荒れ果てた中を道もわからず歩き進むのはやっぱり心もとない。山まで案内できる者がいればよかったんだけど――
「ようやくか」
不意の声に振り返れば、そこには久しぶりに見るラモンの姿があった。
「無事だったのか……!」
僕は思わず駆け寄った。服は薄汚れているけど、本人に疲労の色はなく、以前と変わっていないようだった。
「一体どこにいたんだよ。地震と嵐でめちゃくちゃになって、かなり大変だったんじゃないか?」
そう聞くと、ラモンは睨むような目付きで僕を見据えた。
「大変なのはこの世界だ。あと九日……それまでに聖域で願いを言わなければ、すべてが滅び、終わってしまう」
「九日? それだけあれば山には着けるんだろう?」
「私は君の元に着くまで六日はかかっている。九日以内に着けるかは君次第だ」
山までの距離がわからないから、どう感じればいいのかわからないけど、急いだほうがいいことだけはわかる。
「わかったよ。それまでには必ず着いてみせる。だからあなたに道案内を頼みたいんだけど」
「元よりそのつもりだ」
引き締まった表情でラモンは言った。
「じゃあ、行くぞ」
マントをひるがえし、ラモンは歩き出す。道なき道となった状況でも、その足取りは見えない道をたどるようにすみやかに歩んでいく。ラモンの話を信じていいのか、まだ確証はないけど、西の山へ行けば、すべてが明らかになるはずだ。イレドラ族の存在、世界の終わり、そして、僕のこの選択が正しいものなのかも――前を行くラモンの背中を追って、僕は歩き始めた。
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